【短編小説】 花を食む 【百合】
…ねえ、あなたは知ってるかしら?
“輪廻の箱庭”には、それはそれは美しい女の子が住んでいるっていううわさ…。
その女の子は、いろんなお花の花びらだけを食べて生きているらしいわ。女の子からは、身体中、至るところからお花の香りが漂っていて、まるで、「生きているお花」みたいなんですって。だから、その女の子のことを“生花の君”って呼ぶらしいわよ…。
***
私立花束学園。
通う生徒は、「花束の徒」と呼ばれ、皆から憧れと尊敬のまなざしを向けられる。広大な敷地は、豊かな緑に囲まれており、少し先にある街の喧騒とは全く異なる穏やかな静けさが漂う、世界から隔離された女の園である。ここで、「花束の徒」たちはお淑やかに秘めやかに、そして大切に守られながら、青春の日々を過ごすのだ。
そんな花束学園で過ごし始めて丸三年。今年の春、晴れて高等部へと進んだわたしは、校内の地理をすっかり熟知している…わけもなく。このとてつもなく広い学園は、極度の方向音痴にとっては迷宮に等しい。いつもならば、「うふふ、暖さんたら、そちらではなくてよ」と微笑む友人に手を引いてもらって、目的地に行くところだが、うっかり一人になってしまった。完全に迷った。
先生も、先生だ。なぜ急に生き物観察なんてやろうと言い出したのか。たしかに、豊かな緑に守られたこの校内にはそりゃ豊かな生物たちがいるだろうけれど。そして、探索に夢中になって、一人になってしまうわたしも、わたしだ…。
そのうち、わたしがいないことに気付いて、誰かがこの広い敷地を探し回ってくれるはずだ。本当に骨の折れる作業になるだろう。……ごめんなさい。
森の中を進んでいたはずのわたしは、気付けばちょっと開けた場所へ出ていた。初めて見る場所だった。普段、友人から「暖さん、あなたはほんの少し人よりも方向音痴のようですわね。あまり、無闇矢鱈と校内を歩き回らない方がよろしいかと思いますわ」と言われているわたしは、必要最低限の移動しかしないものだから、他の生徒より知らない場所が多いのだ。
そして、その真ん中に、ドーム型の温室らしき大きな建物がぽつんと寂しげに建っていた。白い骨組みに透明のビニールが張られ、遠くから一面緑色の内部が見えている。恐る恐る近付いて行くと、中が多種多様な植物たちで溢れているのがハッキリと分かった。入り口と思しきところにドアのようなものはなく、ドームの正面中央に長方形の穴が開いているばかりで、誰でも自由に入れるようだった。
これまた恐る恐る温室の中へと入ったわたしは、その内部に驚かされた。
たしかにそこは溢れんばかりの緑で満たされてはいたが、それに隠されるように、人間が暮らしているようなスペースがあったのだ。しかもかなり豪華なもので、およそ温室の中とは思えないほどの重厚さがそこにはあった。そのスペースは、天井から吊るされた繊細なレースカーテンで覆われ、床は大理石になっていて、自然溢れる温室の中で明らかに異質だったが、妙な美しさがあった。真ん中には猫脚のやわらかそうなソファーが鎮座し、その前には硝子の丸テーブルが置かれ、その他、さまざまな「部屋」に欠かせないものたちが綺麗に並べられている。
皆、一目で高級なつくりであることが分かる品々ばかりで埋められているこのスペースは、「生活」という言葉とはかけ離れているように感じられるが、その実、しっかりと「人が暮らしている」という雰囲気が漂っていた。
「…だあれ?」
突然、無音の温室に響いたかわいらしい声にわたしは振り返る。
そこに立っていたのは目の醒めるような美しい少女だった。大きな瞳に、その周りを囲む長い睫毛、スーッと通った鼻筋、キュッと結んだかわいらしい桃色の唇…。長い髪はまるで花嫁のベールのように滑らかに身体に沿って流れており、肌は陶器のように白く、血が通っていないのかと思われるほどで、繊細なレースが縁取られた純白のワンピースから伸びた手足はスラリと細く長く、精巧な人形のような、そんな神秘的な美しさを持っていた。
わたしは、彼女の余りの美しさに思わず見惚れてしまっていた。
なかなか返事をしないわたしを見かねて、彼女はもう一度同じ質問をしてきた。
「…貴女、だあれ?」
「あっ、あの、わたしは、朝日暖っていいます!ごめんなさい。勝手に入って…。道に迷っちゃったの。…あ、あなたは?」
「まあ、道に?…ふふ、ははは…!貴女、道に迷ってここにたまたま辿り着いたって言うの?そんなの、初めてだわ!…ふふ、貴女って可笑しいひとね」
「えっ、そうかな?」
「ええ、ええ!可笑しいわ、貴女。私、そういうひと、好きよ。…ハル、ね。覚えたわ。私は、アザミ。椎名薊よ。きっと、またここへ来て頂戴ね。……貴女が来たいと願えばいつでも辿り着けるはずよ……」
そう言ったかと思うと、アザミと名乗る少女は、何故かわたしにふわりと抱きついて来た。突然の抱擁に驚き、固まるわたしをよそに、アザミは楽しそうで、おずおずと抱きしめ返したわたしの腕にすっぽり収まるくらいには細くて、あと少し力を込めただけで壊れてしまいそうだった。そして、気付けば、辺りは不思議な甘ったるい香りに包まれていて、それが温室に咲き誇る花たちの香りなのか、今、わたしの腕に収まっているこの美しい少女が纏う香りなのか、わたしには分からなかった。
***
「もう!暖さんったら、今までどこにいらしたの?突然いなくなって、皆さんであちこち探し回ったんですのよ!」
「えへへ…夢中になっちゃって…」
茂みを抜けると、目の前に友達がいて、またわたしは人から抱き締められた。どこまでも純真で親切な友人は、目に涙を浮かべていた。
さっきの夢のような抱擁のあと、アザミが言った通りの道を歩くと不思議とみんながわたしを探していたところに辿り着いたのだった。人に道を教えられても、普段はすぐ迷うわたしが、きちんと正しい道を進めたのは自分自身驚いた。とぼとぼと歩いている間も、あの甘ったるい香りに包まれているような気がして、意識はふわふわとしていて、雲の上を歩いているような気分だった。
わたしが、余りにもボーッとしていたためか、「暖さん、今日はもう離れちゃ駄目よ」と、友人の中の一人に手をしっかりと握られてしまった。手を引かれたまま、教室へと連れて行かれ、何事もなかったかのように残りの授業を受けたが、ずっとアザミのことばかり考えていた。アザミのことを考えると、胸の奥がじわじわと熱くなり、やがて身体全体へと広がるのだった。アザミを抱きしめた感触と香りとあの美しい笑顔だけが頭の中を支配していた。もう一度会いたい、もう一度触れたい、あの一瞬でわたしを支配したあのひとに……。
アザミは、「貴女が来たいと願えばまた来れる」と言っていたが、本当だろうか?そもそもあの場所は、なんなのだろうか?アザミは、どうしてあそこに?アザミは何者?疑問が次から次へと湧いて来る。みんなは、何か知ってるのだろうか?
「ねえ、ドームの形をした温室があるのを知ってる?」
放課後、行方不明になっていたわたしの周りは、心配する友人に包囲されていたので何の気無しに尋ねてみた。すると、みんな顔を見合わせて、視線を通わせたかと思うと、一様に笑い出して、口々に言った。
「暖さん、知らないの?」
「ふふ、まさか知らない人がいるなんてねえ?皆さん?」
「わたくし、そのことなら前に暖さんに話しましたわよ!もう!聞いてなかったんですのね?」
「あれは、“輪廻の箱庭”と言いますのよ。花束の徒で知らない方はいません。有名なウワサがありますから」
「…噂?」
「そう!あの温室には、それはそれはもう綺麗でお姫さまみたいな女の子が住んでいるっていうウワサですわ。と言っても、実際にお姫さまを見たりした方はいらっしゃらないようですわね」
「なんか、分かるわ!あの温室の前は、何度か通ったことあるけれど、少し神秘的な感じがして、近寄り難いもの。みんな、そうなんじゃないかしら」
「でも、見てみたいわよね、“生花の君”!きっと素敵よ」
「“生花の君”…?」
「そのお姫さまのことですわ。みんな、なんでかそう呼んでますわねえ…そういえば、なんででしょう?わたくし、理由は聞いたことありませんわ」
「どちらにしろ、名前まで素敵ですわ!生花だなんて!」
どうやら、あの温室は有名なようだった。それに、みんなが言う、“生花の君”は、アザミのことだろう。あれは夢でなかった。またアザミに会えるということに、胸が高鳴った。
「“輪廻の箱庭”には、どうやって行くの?行き方、分かる?」
「あら、暖さん、興味が湧いて来たようですわね。そういえば、暖さんが見つかったところ、“輪廻の箱庭”に近くありませんでした?ほら、時計塔のところですわ。暖さん、流石に時計塔は分かりますわよね?時計塔の脇にある、アーチを潜って、奥へ進むとありますわよ」
学園の中央に聳え立つ時計塔は、花束のシンボルで、みんなそこを起点に道を覚えるほどだ。流石のわたしも、時計塔は知っている。というか、あの時計塔が無かったらこの学園で暮らしていけないくらいだ。その脇には、たしかに、園芸部が管理している季節の花で彩った「お花のアーチ」がある。迷っていたから分からなかったが、そんなに入り組んでるわけではないということか。ということは、このわたしでも、また一人で行けるかな。
「さ、皆さん、温室の話はこれくらいにして、寮へ戻りましょう。また、暖さんが迷子になったら大変だもの」
わたしが、黙り込んで考えていると、友人の中の一人が手をぱちんと叩いて言った。
「まあ!…ふふふ…そうですわね、帰りましょう。さあ、暖さん、手を」
友人に言われるがまま、手を握って教室を出た。寮へは、このわたしも流石に迷わないのにな、と一瞬思ったが、友人と手を繋ぐのは嫌いじゃなかったから、そのまま歩いた。揃って寮へ帰る間も、かわいい花たちは、おしゃべりに夢中だった。
***
寮へ帰ってからも、依然としてわたしの頭の中はアザミのことばかりで、課題なんて手に付かなかった。今日の昼間、初めて出会って、それから何時間かしか経っていないのに、恋人と永遠に会えていないような気分だ。恋人なんて、生まれてこの方いたことないから分からないけれど、「恋しい」とはこういう感情を言うんじゃないかと思った。
そんな風に考えているうちに、もうみんな寝てしまって、いつもは花たちの囀るような声がそこかしこから聞こえる寮が静まり返っている。
抜け出すなら、今しかないと思った。寮から抜け出すなんて、したことないけれど、アザミに一秒でも早く会いたかった。朝まで待ってるなんて、考えられなかった。
そう決めると、わたしは寝間着のまま、ルームメイトや他の寮生を起こさないように静かに部屋を飛び出して、温室を目指して歩いた。昼間歩くのとは違って、暗く、しんとしている校内が少し怖い。迷わないように、慎重にひたすら教えられた通りの道をまっすぐ歩いた。抜け出したのがバレて怒られるかもしれないことなんて、全然怖くなかった。あともう少し、あと少しでアザミに会える、それに夢中だった。
「……アザミ?いる?」
入り口の前で中へ声を掛けた。返事はなかった。わたしは、後で謝ればいいと思って、中へとずんずん入って行った。
中では、猫脚ソファーに横たわって、アザミがすうすうと寝息を立てていた。アザミの寝顔は、やはり美しかった。花々に囲まれ、眠る姿は絵画のようだった。毛布がずり落ち、陶器のような肌が露わになっていたので、毛布を掛け直そうと手を伸ばした時、アザミは「うぅーん…」と一声唸り、身体をこれでもかと伸ばしたかと思うとゆっくりと身体を起こし、固まるわたしに気付いた。
「……ハル?」
「あっ、ごめんなさい!また勝手に入って。」
「どうしたの?」
「どうしても、アザミに会いたくなったの。それで…」
「…ふふ、まさか、それで抜け出して来たの?寝間着のままで?」
「…うん、朝まで待てなくて。ごめんなさい…わたし…」
「いいわ、かわいいかわいいハルちゃん。嬉しいわ。この通り、私はひとりぽっちだから、さみしかったのよ……」
そう言うと、ソファーに座ったままアザミは両手をわたしの前に広げた。わたしは、蝶が花に吸い寄せられるように両手の中へとフラフラと身を預けた。すると、アザミはわたしをギュッと抱き締めて、耳元でたった一言「好きよ」と囁いた。その囁きはアザミがわたしをもう完璧に支配するのに充分過ぎる威力を持っていた。その時、わたしはアザミのものになった。出会ったばかりだなんてことは関係なかった。その一瞬でわたしとアザミは出会うべくして出会ったんだとまで思った。また不思議な甘い香りがわたしたちを包んでいた。
しばらく、わたしは身を預けていたが、アザミがふいに手を離したことで、夢のような抱擁はまた終わりを告げた。アザミは、座り込んでアザミを見つめるわたしの顔を覗き込んで、にっこりと笑い、「せっかく来てくれたんだから、お話しましょう。ほら、こっちに座って頂戴。でも少しだけよ?朝になってしまったら、ハルがいないと大騒ぎになるでしょう?」と、ぽんぽんとソファーを叩いて、自分の横にわたしを誘った。 わたしは、誘われるままアザミの横へと腰を下ろし、躊躇いがちにアザミの手を握った。アザミは、驚くこともなく、わたしの手を拒むこともなかった。それが、わたしをまた喜ばせた。
「…アザミは、ここに住んでるの?」
「ふふ、そうよ。…ここから、出られないの」
「どうして?…“生花の君”だから?アザミは囚われのお姫さまなの?」
「まあ、知ってたの?それに、囚われのオヒメサマ、だなんて!でもあながち間違いじゃないかもしれないわね、ふふふ…」
アザミは、そう笑いながら、わたしたちを座るソファーを囲うように咲き誇る花へおもむろに手を伸ばしたかと思うと、花弁をびりっと一枚、毟り取った。
「…アザミ?どうしたの?」
せっかく綺麗に咲いている花を毟るというアザミの奇行に呆然としているわたしを見て、アザミはさらに口を歪めて笑った。そして、わたしを見つめながら、毟り取った花弁をゆっくり口へと放り込んで、咀嚼した。
「アザミ!そんなの食べちゃダメだよ、汚いよ」
わたしが、余りにも必死になって訴えるので、アザミはそれを見て可笑しくてたまらないといったようにケタケタと無邪気に笑った。
「ハハハハ…!ふ、ふふ……はあーぁ!可笑しい!ほんっとうにかわいいわ、ハル!大好きよ、大好き。…これはね、というより、この温室に咲いている花は全て、食べられる花なのよ」
「…え?食べられる…花?」
「そう。私は、ここに閉じ込められて、花だけを与えられて生きているの」
「お花…だけ?」
アザミの言っていることがよく分からなかった。人間が花だけを食べて生きていける訳がない。しかも、閉じ込められている?どうして?
「私は、綺麗なお花を食べて生きる綺麗なお人形。私の家に産まれて選ばれた女は、ちいちゃい頃から花だけ与えられて、ここで大事に仕舞われて、死ぬの。当然、身体は弱いし、寿命は短いわ。本当にまるで生きている花よね。花みたいに、パッと咲いてぽとりと儚く散るのよ、私。…そうして、死んだのが確認されたらどこかへ連れて行かれて血を抜かれて薬にされるの。いえ、血だけじゃないわ、私の全てが砕かれてまるごと薬にされる」
「…そ、そんなのって…」
「私はそれでいいの。どうだっていいわ。ひとはいずれ死ぬのだし。それ以上に退屈なのが問題。届けられる本はすぐ読み終わってしまうし、誰も私を知らないし、私も誰も知らない。退屈でひとりぽっちのまま、死ぬのは嫌!」
「…アザミ…」
「だからね、ハル?私に世界を教えて!私のことを知って!私に貴女を教えて!…私、貴女がいい」
そう言うと、アザミはジッ…とわたしを見つめた。顔が溶けてしまうんじゃないかと思うくらい、その視線は熱っぽかった。大きな瞳に、わたしだけが映っていた。ひんやりと冷たかったアザミの手がほんのり温かくなったような気がした。
「アザミ、わたしも…!わたしも、アザミにはわたしだけを知って欲しい…!この世界中でたった一人、わたしだけを見つめて…!わたしも、アザミだけを見つめるって約束する!」
「ハル、ありがとう。私のハル、かわいいハル…」
わたしたち二人は、それからどちらからともなく、抱き寄せ合った。それは誓いだった。これからは、お互いがお互いの為に生きるという誓い。そして顔を見合わせ、そっとキスをした。フワッと幸せな甘い香りが、わたしたちを包んだ。
ふと気が付くと、温室の天井から、朝日の光がわたしたちを照らしていた。「ほら、もう朝よ。みんなが心配しちゃう、帰った方がいいわ」とアザミに急かされて、わたしは現実に引き戻された。夜抜け出したことがバレてはまずいのだ。抜け出したことがバレるのが怖いというより、「どこへ行ってたの」と聞かれるのが怖い。アザミは、わたしだけの秘密のお姫さまなのだ。みんなには、知られたくない。
「…また来るね、アザミ」
「ええ、また来てね、待ってるわ」
わたしは、手を振るアザミから離れて、一人とぼとぼと寮への道を歩いた。急がなきゃいけないのに、足が鉛のように重く、上手く動かなかった。いつか授業で習った「後ろ髪を引かれる」という言葉を思い出していた。
***
アザミと誓いを立ててから、早数ヶ月。
わたしは、来る日も来る日も温室へと足を運んだ。
時折どこかへ行ってしまうわたしを怪しんだ過保護な友人たちに問い詰められて、仕方なく「気分転換に温室に行っている」と告げてしまったこともあったが、「あら、あの温室?よっぽど気に入りましたのね。あそこなら近いし迷ってるんじゃないなら、安心しましたわ」と友人たちは案外アッサリ引き下がった。
わたしは、アザミが喜びそうなものを、実家から送って貰ったり、取り寄せたりして温室へ持って行った。ある時は、薔薇の花弁が浮かんだお紅茶、またある時は、昔、家族旅行で行ったパリの写真アルバム…。アザミは何を持って行っても子供みたいにはしゃいで喜んでくれた。他愛もない話もたくさんした。アザミは、「ハルのこと、知れて嬉しいわ」と楽しそうに話を聞いてくれる。好きな本を交換したりもした。アザミの読む本は、どれも難しいものばかりだった。アリストテレスだの尾崎紅葉だの、古今東西ありとあらゆるものを手当たり次第に読んでいるようで、アザミは、わたしなんかよりもずっと世界について知っているように感じられた。
アザミが笑ってくれるたびに、幸せだった。わたしの最優先は何よりもアザミのことで、四六時中アザミのことを考えてばかりいた。アザミの美しさは、日を重ねる毎に際立っていくように感じ、そのたびに惚れ直した。そして、その美しく完璧なアザミを独り占めしたい、誰にも渡さない、その気持ちがより強くなっていた。実際、アザミを訪ねている間、他の人間と出会したことはなかった。アザミはまったくの孤独と言ってよかった。世界中、どこを探してもこのお姫さまを知っている人はわたしだけのように思えた。アザミは、やっぱりわたしだけのお姫さまなのだ。
「アザミ、来たよ」
「あら、ハルちゃん、待ってたわ!」
温室へ顔を出すと、アザミはソファーに寝そべって文庫本を読んでいたが、わたしの声に気付いて起き上がった。
「何を読んでたの?」
「『ハムレット』よ。好きなの。オフィーリアの死に様って、きっと私の死に様に似てると思うから」
「オフィーリア…?」
「ええ、でも、正しくは、物語の中のオフィーリアではないかしら」
「どういうこと?」
「絵の中の、オフィーリアよ。ミレーの『オフィーリア』。見たこと、ある?」
「うん、見たことあるわ」
「川に落ちたオフィーリアは、散らばる花に囲まれているでしょう?それに…周りの緑はこの温室みたいじゃない?…ね?似てるでしょう?この温室には川はないけれど…私、死ぬ時はきっとああいう風に地面に横たわっているところを発見されるんだわ」
アザミがそんなこと言うものだから、脳内に、絵の中のオフィーリアがアザミに入れ変わっている画が浮かんだ。
「でも、私、オフィーリアみたいに死にたくないわ。いつだったか、ハルちゃんとはじめてのキスをした時…話したけれど、いくら死に様が綺麗だからってひとりぽっちで死ぬのは嫌」
「アザミ…、大丈夫だよ。わたしがいるよ」
そう言って、アザミの手を握ると、アザミの手はゾッとするほど冷たくて、思わず手を離した。温室は、じんわり暖かいのに、こんなに冷えるものだろうか?と驚いた。
「…私の手、冷たいでしょう?ごめんなさいね、驚かせて」
「う、ううん、びっくりしただけ。大丈夫よ、そんなことより、寒いの?毛布、掛けようか?」
「いいえ、いいの。……最近、ずっとこうなのよ。身体がすごく冷たいの。ハルちゃんをこれでもかって抱きしめたいのに、手がかじかんで震えて力が入らないの。それに、手だけじゃなくて…足も…」
確かに、ここ数日、アザミがソファーから動いているのを見ていなかった。温室に来れるのは朝か夜、あとはお昼休みくらいだから、たまたまかと思っていた。
アザミは、震える手で、自分の肩をさすっていた。よく見ると、前から細かった腕がより細くなっていて、肌の色も青白くなっているように見えた。毎日、会いに来ているのに、アザミと話すのに夢中でアザミの変化に気付かなかった自分が情けなかった。
「……私という花はもうすぐ枯れるのね」
「アザミ…!」
「…死ぬのは怖くなかったのに、ハルちゃんと出会って…本当に愛する人と出会って…ひとりぽっちじゃなくなって、死ぬのが…怖くなっちゃったわ。…一目惚れだったのよ、ハルちゃん。私…貴女が初めてここへ来た時、運命だと思った。だってこんなにかわいい子が迷い込んでくるだなんて。私、今までここで貴女が来るのを待ってたんだって思ったわ」
「…わたしも、運命だと思ってるよ、アザミと出会ったこと」
アザミは、わたしの言葉を聞くと、大きな瞳から真珠のような涙をぽとりと流すと嬉しそうに微笑み、頷いた。そして、すぐ側にあった見たこともない花の花弁を二枚、千切って震える手で握り締めた。
「…ハルちゃん、私、もし、貴女がいないところで死んでしまったらと思うと耐えられないの。最後のその時まで、貴女といたい」
「わたしもよ、アザミ」
「……ハルちゃん、この花弁をあげる」
そう言うと、アザミはわたしに花弁を一枚、手渡した。
「…これ、なに?」
「これね、毒があって、食べると死んでしまうのよ。この温室で唯一、食べてはいけない花」
「どうして、そんなもの…」
「ハルちゃんと出会うずっと前…退屈で退屈で仕方なくて、どうせすぐ死ぬのだから、自分で好きな時に死ねるように用意しといたの」
「………」
「ハルちゃん、私、ワガママね。死にたくないのに、一方で死ぬなら今かもしれないと思ってしまうの」
「…アザミ…」
「今…今なら、幸せなまま、ひとりぽっちじゃなく死ねる。だからね、貴女が見ている今、これを食べると決めたわ。ハルちゃん、愛してるわ!ほんとうよ、ほんとうのほんと。…お願い、ハルちゃん、見ていて頂戴!私が、枯れるのを、その目で!」
「嫌よ、わたしが耐えられない!あなたがいない世界なんて!」
「…ああ、私は、ほんとうに残酷でワガママよ!許して、ハルちゃん、私だけのハルちゃん。私は貴女とのキスだけしか知らないわ、貴女も私とのキスだけ知っていて欲しいと願ってしまうなんて!…ハル、きっとあの世で会いましょうね、待ってるわ」
そう言うと、アザミはあっという間に花弁を口へと放り込んだ。そして呆気に取られているわたしを尻目にごくんとそれを飲み込んだ。
たちまち、アザミはソファーから力無く崩れ落ちた。
…アザミはずるい、そしてこの上なく残酷だ。
あなたがたった一言、「私と死んで」と言えば、わたしは一緒に花弁を食べたのに!
…あなたは、信じ切っているのね、わたしがあなたを追ってもう一枚の、花弁を食べると。
…あなたは、最後に試したのね、わたしが本当にあなたを愛しているのか。
アザミの冷え切った手を握って、温室の天井を仰ぎ見た。朝日がお姫さまのいなくなった温室の緑を、花を、きらきらと照らしていた。
「…アザミ、あなたは、わたしだけのアザミよ、待っててね」
わたしは、横たわったアザミにゆっくりと最後のキスをして、赤い血のような花弁を口へと放り込んだ。
***
…はい、では、失礼して座らせて頂きますわ…。急なことだったもので、わたくし、ホントに目の前が真っ暗になるようですのよ…。今にも倒れそうですわ…警察の皆さまもお疲れ様でございます…ええ、わたくし、朝日暖さんと同室だった……ええ、ええ、そうですわ、間違いありません。…ええ、はい、暖さんとは中等部から同室でして、暖さんはとても可愛らしい方でしたから、わたくしも同い年ですけれど、妹のように思っておりましたわ。皆さん、かわいらしくて真面目な暖さんのことが大好きだったと……え?まさか!そんな、トラブルだなんて、有り得ませんわ。ですから、わたくしたち、驚いてるんですわ、あの暖さんが自殺だなんて……。はい?あの温室ですか?…そうですわね、暖さんは…確か…今年の春頃から、あの温室へ通っていたように思いますわ。なんでも、花が気に入って落ち着くから、と…。ええ、皆さんはあまりあそこへは近付きませんわね。なんとなくですけれど、近寄り難い気がして…。とにかく、暖さんは、朝や夜や休み時間…時間が出来ればそこへ行っていたので…ええ、はい…でも、夜あそこへ行っても門限までには帰って来ているのに、昨日はわたくしが寝るまで戻って来なかったですし、今日は朝起きてもベッドにいなかったもので…暖さんは日頃から方向音痴でしたから、心配で…見に行ったら……すみません、涙が………失礼いたしましたわ………一人で、ぽつんと花に囲まれて倒れている暖さんが………。ええ、ええ、そうですわ。
まるであの『オフィーリア』のように………。