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【RP】音楽に関わる雑感 〜視点変化と継往開来〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

※2024.08.04 「統合的認知/感覚的融合認知」の末尾に追記
※10.26「パラダイムシフトが起きつつある「自然」と「創造」の概念」の後半にリンクを追加

いつもは角野隼斗氏のコンサート鑑賞やそれにまつわる自分の思考や考察を書いているのですが、今回はまとまりもなく角野氏の演奏やその他音楽に関わる思い浮かんだ雑感を書き連ねていきます。
※継往開来=先人の事業を受け継ぎ、発展させながら未来を切り開くこと

新型●●●にかかる等…諸々あり、、、書き始めてからとても時間がかかってしまいました。
途中で新たなトピック&ニュースが出現し、関連する内容を後から追加しているため、文章の繋がりに違和感が生じている箇所があるかもしれません。
また、今回は個別の話題をバラバラ書いているので(でも少しずつ繋がっている)いつもとは違い最初から目次を設定しています。
ちなみに、タイトルの写真はマティス展のもので、芸術・文学雑誌「ヴェルヴ」の表紙がまとめて展示されていたコーナーです。



統合的認知/感覚的融合認知

きっかけは、角野氏がイタリアPalermo Classicaで演奏された「ラヴェル:ボレロ」の一部がInstagramリールで公開されたことから始まります。

#角野隼斗 氏 #PalermoClassica でのボレロ、照明効果もありジュルジュ・ドンのボレロが視えた。ギエム版は美しいバレエですが、ドン版はある種舞踏的。ナチュラルに力が抜けた状態から型が崩れるほど情熱的に変化する音楽という存在そのもの。角野氏の動きや姿と重なる。→

→シルヴィ・ギエム版、ジョルジュ・ドン版も含めてベジャールのボレロの比較動画を並べているサイト。愛と哀しみのボレロ」の時代の者としてはドン版以外のベジャールのボレロを受け入れるのは難しいのですよ。バレエファンではないから尚更のこと。

(その後のスレッドからフォロワーさんとのやり取りの一部)
私が今回初めて感じたのは力の抜け具合、しなやかさが音楽の波みたいなものと意識外で同調する様な所です。

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 8/21

この時感じた感覚を何と言えば良いのかわからなかったのですが、シルヴィ・ギエム版のバレエから感じずにジョルジュ・ドン版からは音楽と一つになった質感があり、それが角野氏のピアノを弾く姿からも感じられたのです。
音楽と一つになったような感覚、音楽と身体が一つになったイメージが見えるというか。。。
ここで問題にしているのはあくまでも視覚であり、視覚から音楽を感じるような私自身の感覚です。
角野氏はその身体で音楽を奏でているのですから動きと音楽は同調・同期して当然なのですが、そういう「動き」「音」という知覚とは少し違うのです。
自分でも説明がつかなかったのですが、そうだ!と思い高校の頃に好きだった、同様に音楽とダンスが一体化したようなフレッド・アステアのダンス動画をたくさん観てしまいました。
ちなみに、私のガーシュウィンとの出会いはもともとアステア経由(二人は1歳違いで15,6歳の時からの友人関係、互いに別分野でミュージカルを志した)で、ガーシュウィンの親友でもあり、ピアニストとしても俳優としてもガーシュウィンが音楽を手がけた映画に出演しているオスカー・レヴァントこそがガーシュウィン作品の魅力を最も表現できる(ガーシュウィン本人よりも)ピアニストだと何十年も思っていました。
そこに突如出現したのが角野氏で、まあ…その驚きたるや!!!笑

ところで、冒頭に書いた様にこのnoteは途中で何度も中断しながら書き続けており、先日新たに来年のコンサートツアー情報が舞い込んできました。
選曲で「パリのアメリカ人(交響詩の表記)」が入っていたことを受け、高校の時に一度だけ観た映画「巴里のアメリカ人(映画の表記)」に関しても少し調べてみました。
全曲ガーシュウィンで彩られ「I got rythm」も「in F 第3楽章」も入っていますし、ピアノはレヴァント!
特に「in F 第3楽章」は売れないピアニスト役のアダム(=レヴァント)が成功する夢想として描かれているのですが、角野氏のアメリカデビューの様子を書いて下さった投稿を拝見し、その映像(レヴァンとが指揮をしたりピアノ演奏をするシーン)がフラッシュバックしました。

「I got rythm」も入っている映画「巴里のアメリカ人」では、売れないピアニスト・作曲家のアダム(オスカー・レヴァント本人)が成功する夢として描かれたのが「in F 第3楽章」なので、これ自体がピアニスト兼作曲家としての成功に直結するイメージ

私も高校の時に観ただけですっかり忘れていたのですが、ツアーの選曲に「パリのアメリカ人(交響詩の表記)」が入って、あああ!!!と気づきました。

YouTubeの映画レンタルにもありましたので、ぜひぜひ。全曲ガーシュウィンですし「I got rythm」はジーン・ケリーが子供たちと一緒に踊るので、以前の調布国際音楽祭での中学生さん達とのアンコールも今になってなるほど!と思いました。

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用 9/24

そしてサントラをSpotifyで検索してみたら…なんと使用されなかったアウトテイクが収録されたアルバム「An American In Paris (Original Motion Picture Soundtrack) [Deluxe Edition]」を発見!
「 medley:My Cousin In Milwaukee / A Foggy Day / The Half-Of-It Dearie Blues / But Not For Me (Outtake)」の繋ぎ方や、「But Not For Me (Outtake)」では「ラプソディ〜」が混ざっていたり‥と、そのままかてぃんライブ味を感じるほどです。

●オスカー・レヴァントおまけ情報
関連して更にレヴァントの音源をSpotifyで検索したところ、クラシック系の録音を集めたアルバムが2018年にリリースされていました。(→タワレコのレヴュー
まだチラッとしか聴いていないのですが…気になる音源をいくつか。

ショパン:エチュードOp.10-12(革命)
若年時のモノラル音源。どれだけ早く音が上下に移動しても不安定さがなく音粒が均一で美しい。こちらは若さ迸る魅力ですが後年のステレオ録音もあります。
ショパン:マズルカ Op.17-4
感情過多にならない右手(表現性としては2022年ツアーのアップライトでのマズルカOp.63-3に通じる朴訥とした質感)に対し、左手の自然な躍動感が魅力。当然弱音も美しい。
ショパン:マズルカ Op. 24-4
テンポの揺らぎが少々極端に感じられるものの、身体感覚としての違和感はない。曲全体の優美さ(ショパンらしさ?)はないものの東洋的哀愁も感じられ弱音も和音もその音自体が美しい。
ドビュッシー:ミンストレル
ゆらぎのあるテンポ感が絶妙、和音のなかで響かせる音もコントロールされていて弱音も美しい(ブランクも効果的)。

以前プロコフィエフの音源を深堀りしてFriedrich Wührerにたどり着いたことがありましたが、上記タワレコのレヴューに「その多くが世界初CD化」とあるように、原盤権が切れた為なのか昔の忘れ去られていた音源が近年発売されることが多く、それを気軽に聴けるのがサブスク時代の恩恵です!
テンポや強弱の変化が少々極端すぎる曲もありますが、現代のクラシックピアニストには無いグルーヴと新鮮で美しい音の魅力に溢れています。
レヴァントに興味を持った高校時代にこれらのクラシック演奏に出会えていたら、もしかしたらクラシックをもっと好きになっていたかも…とも。

少々脱線したのですが、話をアステアに戻します。
改めて動画を観てみるとアステアのダンスは本当に音楽そのもので、タップのリズムはそのままパーカッションとして成立するほど音楽的魅力に溢れています。
これは角野氏のボレロの演奏に感じた感覚とは逆パターンではありますが、視覚と聴覚が重なった感覚、身体と音楽とが一体化した感覚としては同じような印象です。

上記は「ロバータ」のソロダンスシーンを位置指定したものです。
当然ダンスとしても素晴らしいのですが、タップの音が打楽器として魅力的すぎる〜!!!
三連符とかシンコペーションとか、ジャズっぽい間合いやスウィング感、ステップの強弱も含めて音として聴くだけでも良い位。

アステアは歌も上手く音楽への造形が深いとされていますが、実はこの動画のトップ戻ると自身で弾くピアノシーンが使われています。
これだけリズミカルにスイングするピアノを弾けるからこそ、あのダンスなのだ!と思わずにはいられません(これ以外にもピアノを披露している映画があるのできっと得意としていたのでしょう)。
同時期のミュージカルスターであるジーン・ケリーとの違いは、やはりこの音楽性ではないでしょうか。
ダンスや歌の中に感じられる感情表現・演劇性ではたぶんケリーに軍配が上がると思うのですが、それこそが私がケリーを余り好きでは無い理由でもあり、純粋な音楽性よりも演劇要素が多い今のミュージカルスタイルが好みではない理由でもあるのです。
相互フォロワーさんに意外と言われてしまいましたが、私が最も好きな映画はミュージカル映画の「オズの魔法使(ジュディー・ガーランド主演)」だったりしますから!笑
(能も純粋な音楽性が歌舞伎よりも多い所に魅力を感じており、能楽師を能役者と言い換える専門家もいますがその解釈には賛同できません)

今のミュージカルは演劇表現に寄せているように感じられ、特に和訳版は英語の抑揚を日本語に直した時点で音楽と合っていません。
無理やり原曲に日本語を合わせようとする曲を聴くと音楽が犠牲になっている様に感じられていたたまれなくなるのです。
異なる表現性を無理にまとめない、各々ベストな形で様式が分離している方がどちらも自然な表現に感じられます。
能にはシテと地謡とが別々にシテ役の心情を謡うこともありますし、当然ながら語りや舞で表現することもありますので、一曲の中で様式はさまざまに分かれています。が、そのことでイメージ的な分離はありません。

上記のことは一ヶ月近く前に書いていたことなのですが、最近「巴里のアメリカ人」で興味深い制作エピソードを見つけました。
実は「雨に唄えば」ですら最後まで視聴できず…ケリーの映画で最後まで観たのはこれ1つだけだったのですが、その謎が解けたのです。
しかも、演劇寄りのミュージカル音楽が好きではない理由と一致していました!

レヴァントはガーシュウィンの音楽にも強いこだわりがあり、例えば、ゲタリが中心となってケリーらと3人で歌う「By Strauss」は、ゲタリの正統派の美声を際立たせると同時に、3人が友人同士になったことが、台詞はなくともしっかりと伝わってくる楽しい一曲。だが、テンポを変えたり意に沿わないアレンジをすることをレヴァントが嫌がり、時には怒りをあらわにして難航したという。

名画プレイバック「『巴里のアメリカ人』

アステアのミュージカル動画を見て(現時点では一ヶ月近く前のこと)、演技と音楽もしくは音楽とダンスなど、これら別々の表現を一つの調和した表現として受容する感覚、逆に一つにまとめられている表現からも二つの要素として違和感を覚える感覚は何だろう…という疑問が湧き上がってきました。

スタクラフェスにご出演のサラ・オレインさんのプロフィールに「共感覚」とあったことがきっかけで、「視覚と運動感覚の関連も共感覚に近い何かなのかも…」と検索したところ、シリーズ統合的認知「共感覚」の解説ページがヒット。
「共感覚を持つ人も持たない人も同じ仕組みの脳を持っていて、そのちょっとした働きかた等の違いで共感覚が生じたり、生じなかったりすると考えるのが妥当である」という文章に興味をもち、シリーズの他のレビューもチェックしてみると……5巻は「美感:感と知の統合」がテーマになっているではないですか!!!
私が設定した鑑賞マトリックスでは、上下軸が「感」で左右軸が「知」としていたので、まさにド・ストライク!
また、「解釈とイノセントな表現性が統合に至る兆し〜」では、両界曼荼羅(胎蔵界曼荼羅と金剛曼荼羅)のような異なる要素を一つの世界観としてまとめることに「統合」を用いていましたから、「シリーズ統合的認知」なんて…これはもう私のためシリーズではないか?!!!と思ったほど。笑
ということで、まずは第1巻「注意」の冒頭説明しか読んでいないのですが、期待していた内容がたくさん書かれていました!
今回の内容に直結していると思われるのは、視覚や聴覚などの多感覚統合による理解過程を「感覚融合認知」と呼ぶらしい事。
それが何であるかはまだサワリしか読んでいないませんが、いずれにしても脳には「多感覚統合による理解過程がありそれを感覚融合認知と呼ぶ」ということがわかっただけで大きな発見です。
そう、私が前述していた感覚はきっとこの類だからです。

また、以前から他の方とは違うと思われるこだわりについても一つの解を得たような気がしました。
それは「行動」の定義がパラダイムシフトを起こしたと書かれていた所で、人間が実際に行動を起こしていなくとも脳の内部活動を含めて「行動」が定義されている、という所にあります。
私はライブで観客が行う手拍子や一緒に歌う行為が好きではありません。
ミュージシャンが奏でる音楽と同等のリズム感でクラップやコーラスが会場を満たすのであればOKなのですが、そうでなければ(特にリズム・タイム感に問題がある場合が多い)ただ邪魔にしか感じず鑑賞自体が妨げられてしまうのです。
そのアーティストと同じ行為を一緒に行っているという同期的一体感よりも、音楽的質感と合っていないことの方がマイナスの影響を及ぼすのです(要因は長くなるので小文字に)。

<コンサートやライブ会場での手拍子やコーラスが邪魔に感じられる要因>
「注意(1巻)」の冒頭には、対象をマスキングする効果がについて書かれていました。
ノイズ キャンセリングは雑音を対象に物理的にマスキングしてますが(物理的に周波数で相殺していますが)、感覚でも似たようなことが起きている様です。
3つ紹介されていたマスキング効果のうち「メタコントラストマスキング」がコンサートでの体験に近そうでした。
対象が◆なら、それを囲むような線の太い◇を描くと内部の◆が認識されなくなる…という様な実験結果です。
音楽と環境ノイズのような全く異質なものならば、時にはノイズをマスキングし意識しなくなる事があります(これが通常の「注意」のメカニズム)。
また、マスキングできなかったとしても「雑音」として音楽と区別をすることで音楽を聴き取ることはできます。
ノイズと音楽との間に何かしら調和が見出せれば、高木正勝氏のMarginaliaのような作品に昇華することもできる訳です。
自分にとって最悪なのは、近しい音楽性で異質なもの、しかもそのノイズに強度がある(音量がある、音の刺激としてインパクトがある)場合で、そうなると対象音楽の受容・鑑賞自体が阻害されるのです。
秋田での読響とコンサートのソリストアンコール、お隣の方がご自身のノリで出すズレたリズムのカサカサで全くピアノが聴き取れなくなってしまったことがまさにコレ!
音楽とは無関係な雑音だと楽しめる事もあるので、ノイズや異なる音要素を全て拒否している訳でもなく…今まではその原因が不明だったのですがスッキリしました。
いや〜〜、シリーズの1巻から読んで本当に良かった!!!

以前、高木氏のライブに観客として紛れていたハナレグミ氏と森山直太朗氏が演奏中にカウンターを小さく叩いて音楽に乗ってらっしゃった事があったのですが(響くような大きな音ではなくついノリで叩いてしまったような遠慮がちな音)、それはそれは見事なセッションになっていました。
音も小さいので一般の方がが膝を叩いているのかと思ったのですけど、あまりにもカッコ良すぎて微かな音の出所を探してしまった程(その時は遠目でどなたかはわからず後に紹介があってわかった)。
まあ、一聴でプロとアマの違いはわかるという事です。

一方で、一般の方が手拍子やコーラスに楽しく参加されている場合はどうなのかというと…たぶんご自身が発する音(音楽とは質感的にズレがある)がマスキングされ、ご自身の運動感覚と奏でられている音楽とが破綻なく同調し一体感を得られている状態だと思われます。
どちらの鑑賞や感覚がが正しいとかではなく、注意をむける対象や視点によって騙し絵の様に感じ方が変わるだけ(ゲシュタルト心理学の概念で後の項にも関連)で、同じ環境で同じ音楽を聴いても全く違う印象になるということです。

で、私はどうも行動そのものよりも脳内での行動感覚の方が強く働いていると思われるフシがあります。
「感覚的融合認知」として、体を動かしていない音楽から得る運動感覚と耳から受容するリアルな聴覚とが脳内で同期しているというか、、、
もちろん普通の方でも似た様なことは起きているはずですが、自分が行動している運動性以上に、脳内のイメージの方が強いだろうところがミソ。

たとえば漫画を黙読する場合、脳内で音声を勝手に生成しているため自分が音読するとその違いに幻滅することがあります。
黙読時に感じる声の質感は視覚と聴覚が融合した架空のイメージでありながらも実感を伴っていて、実際の「声」は存在しないにも関わらず「声の質感」が記憶として刷り込まれます。
その状態でアニメでの声を聴くと違和感を覚える場合があったり、逆に絵から得た声の質感にも関わらず多くの人が共感する場合もあります。
絵しか見ていないのに聴覚のイメージが共通ってどういうこと?って疑問に思いますよね。笑
今はまだわかりませんが、「感覚的融合認知」にそれらの謎が潜んでいる様な気がします。

また、この本には、認知は「環境」「記憶」「行動」で成立しているとも書かれていました(読んだのは冒頭だけなのでその関係性が何を示そうとしているのかはまだわかりません)。
たぶん、自ら行動していないのに行動意識として感じることは記憶に依拠するのでしょう。
実は私が能を面白く感じられるようになったのは、予習として初めて黙読する「詞章(謡を文学的文字として扱う場合の呼称)」からも謡を聴いているような質感を得られるようになってからです(前述の漫画を黙読する感覚に近い)。
たぶん、自分の中の記憶を投影するような運動感覚が脳内で生成されていると思われます。
楽器の演奏ができる方がその音楽を深く理解できるのは当然のことですね。

で、冒頭のマティスになる訳ですが…
マティスの絵(特に切紙絵)は、絵を観て音楽がイメージとして浮かぶのではなく、音楽を聴いてダンスをしているような「能動的・運動的質感」を鑑賞者が得られる作品です。
マティスの趣味がヴァイオリン演奏だった事と無関係ではないと思われ、ピアノを演奏できるからこそのアステアのダンスと同じく、音楽を実際に演奏できる人しか表現できない「融合認知」による作品と言えるかもしれません。
ただし、演奏者としての認知・行為と鑑賞者の認知・鑑賞は全く別のもので、鑑賞者は黙読でイメージが想起される程度の経験と記憶があれば十分(ワークショップや体験型アートイベントの意味は技術の習熟にあるのではなく経験にあるのはその為)なのに対し、表現者は異なります。
表現者と鑑賞者は運動行為と感覚受容という大きな違いがあるため区別が必要です(それは後述)。

では、冒頭に書いたボレロで感じた角野氏は?ってことに戻るのですが…(あくまでも私の勝手な私観ですが…)
角野氏の演奏からは躍動感や生々しい運動感覚が得られるため、視覚的な意味での身体的な質感が私の脳の中で呼び起こされ、実際の音楽的質感と融合したのではないでしょうか。
Penthouseの浪岡真太郎氏が作られる曲や歌からも音楽と歌詞の運動的感覚を強く感じますが、浪岡氏に限らず若い方の音楽では自然に運動性が表現されています。
たぶん…子どもの頃から音楽にノッて自由に踊ったり歌ったりする行為が自然に行われていて、音楽とダンス(運動感覚)の融合した感性・感覚が体馴染んでいるのでしょう。
世代が古いと大勢と合わせたお遊戯やダンスなどの同期性が優位で音楽性が阻害されているような運動経験が多く、そらが記憶されている可能性が考えられます。

また、今まで私がクラシックピアノの演奏で「恣意的・作為的」と評していた事も、この関連で考えたら別の意味合いだった可能性すらあります。
運動的な感覚と音楽的な質感が遊離している→頭の中だけ・音楽の視点だけで音楽を考えた演奏→奏者の恣意的表現 と思い込んでいたのかもしれないのです。
奏でられる「音楽・音」の世界だけで解釈(思考)された音楽は、身体感覚(運動性)との遊離・違和感が生じるため、自分勝手という意味の恣意的というよりも、その音楽が持つ運動感覚に沿っていない、ということの方が正確な気がします。

そして…この項を書いて結構な時間が経ってから、これらに関わる2つの角野氏の動画が公開されました。
一つ目はバレエダンサー二山治雄氏とのHarper's BAZAARによるDiorタイアップの動画。

そもそもPalermo Classicaでのボレロはこの時の編曲がもとなので、二山氏とのコラボレーションを契機に私が感覚的融合として感じられる音楽表現に至ったと考えられます。
なので、すごく期待して動画を拝見したのですが…
残念ながら上記の動画にはお二人のコラボレーションは捉えられていませんでした。
批判的で申し訳ないのですが…これは動画の撮影者・編集者の表現であり写っている人々はその素材。しかもバラバラに分かれているし、、、
こういうの、時代的にもう古いと思うのですけどね。。。

一方、この後に投稿されたエヴァ・ゲヴォルギヤン氏と角野氏のInstagramのリール、お二方とも音楽とダンスの身体的表現が融合した2台ピアノの表現性で、これは本当に素晴らしかった!!

このポルカは、ジュルジュ・ドンのボレロが音楽に合わせて膝が上下する運動感覚とほぼ同じ!(ギエムや二山氏のバレエには感じられない)
人間がリズミックな音楽を聴いた時に自然に体が動いてしまう感覚と同質で、能の先生に教えて頂きここに何度も書いた「角速度が等しい楕円運動=ノリ」に準じていると思われます。
ピアニストの体の揺らぎとリズミカルな演奏との関係性は、演奏が運動行為である以上ダンス本来の法則性に準じていると思われます。
「融合的認知」として考えると必ずしも演奏者の動きは必要無いように思われるかもしれませんが、それは鑑賞者・受容者の場合。
前述した「区別が必要」というのはこの部分で、奏者がそのリズム(=運動)を自ら作り出す以上は認知ではなく実際の運動=行動である必要があります。
ただし、その表現性の源になる感性は音楽としての規範や解釈・音の記憶だけでなく、脳内で生成される運動感覚と融合した認知から影響を受けていて、その感性は統合的・融合的と言えるだろう、ということです。
似た様な事を以前は「解釈とイノセントな表現性」という言葉で書いており、「解釈=認知的記憶に依るもの、近世以降の思考性」「イノセント=思考を経ない運動的記憶に依るもの、原始的な身体性」として、その二つが同時に表現として成立している状態に「統合」を用いたのです。
この動画で感じられるものは、その二つが統合・融合された「音楽が内包するダンスそのものの質感」と言えるのではないでしょうか。

昨晩/29の日付ギリギリに投稿したと思ったら…ニアミス?で、今朝また新たにゲヴォルギヤン氏との2台ピアノのリールが投稿されていました。
ゲヴォルギヤン氏が「La Campanella in groovy style?」と書かれていましたが、後半にかけて角野氏がジャズテイストのバッキングに変えられてまさにグルーヴィー。
ですが、ゲヴォルギヤン氏のクラシカルな質感を阻害することなく、えもいわれぬ新鮮な調和が空間に広がっていきます。


<2024.08.04追記>
角野氏が2024.7月末 & 8月1日にInstagramストーリーズにUPされた 「TEMPO RUBATO (STOLEN TIME)」について。
相変わらず自分で書いておきながら気づくのが遅いのですが…どうやらここに以前書いていた事に関連するので、追記しておきます。
角野氏のストーリーズは消えてしまったので、該当作品はこちら。

FFさんXで紹介して下さった解説と角野氏が2回目のストーリーズで好評された曲目がわかると、まさに「統合的認知/感覚的融合認知」に関わる興味深い作品であることがわかります。

解説の内容から考えると、TEMPO RUBATOとはテンポの揺れ(音楽用語の「ルバート」とは「テンポ ルバートの略)のことなのにも関わらず、揺れのない機械演奏に対し逆説的な命名が行われています。
「TEMPO RUBATO」「STOLEN TIME」も日本語訳にすると「盗まれた時間」になりますが、主語が逆の扱いになる意味合いとして、盗まれたテンポ、時間を盗む、という事です。
そう考えると、「STOLEN TIME」は打鍵から減衰するピアノの発音システム自体を盗んでいるとも考えられる訳ですが、演奏時間としては同等のものが提示されており、 どちらも逆説的な意味が重なっているタイトルと考えられます。

演奏曲が「The Entertainer」である事が2回目のストーリーズで「わかると、作品としてさらに深みのある面白さが加わります。
私たちがよく知っている曲は、 74年編曲版の方で冒頭から結構ルバートかかるっているものです。
私たちが持つこのとしてのイメージは、そのルバートのにあると言っても過言ではないでしょう。

ところが、上記Wikipediaによると オリジナルはラグタイム=ダンス曲としてテンポが均一に演奏されている事から、編曲されたことで=時間を経たことで、ダンス曲から聴く音楽になったと捉えられるのです。
その意味がわかると、時間経過によって失われた身体性にも焦点が当たってくるため、解説冒頭に書かれたコンセプトがこの作品から強く見出されてきます。
「私たちがテクノロジーと呼ぶものから、身体がまったくなくなることはない」
そもそも人の演奏と機械演奏とがとどう違うのかどこに共通点があるのか。
音のある場合とない場合との感覚的イメージの差はどこにあるのか。
私にはこのキータッチの音がタップダンスに聴こえたので、感覚的イメージとしてはほぼオリジナル曲とは一致していました。
(聴こえない演奏曲はテンポが変わらないので当然オリジナルでしょう)
なぜ、私がこのnoteに追記したかと言えば、ピアノの名手でもあるアステアのタップダンスは、この作品と同じ質感を私に与えたという事に他ならないからです。
現在の人間においては「私たちがテクノロジーと呼ぶものから、身体がまったくなくなることはない」という作品の通り!なのですが…
今後はどうなるかはわからないという意味で下記のポストもリンクしておきます。



パラダイムシフトが起きつつある「自然」と「創造」の概念

「あるがままの自然」と「人が作り出す創造物」は、一つの軸の両端にあるものだと思っています。
何も手を加えない雑多なままの状態と、人間が個人としての表現を具現化した人工物。
あるいは、人間が足を踏み入れない地球上の自然と人間が開発してきた文明。
さらには、ランダムに聴こえてくる街中や自然の雑音と、神からギフトを授けられた天才による創造的音楽などなど。。。
これらの思索のきっかけは、「能「山姥」より 〜」の追記で能からレヴィ=ストロースの事を思い出したことからで、以降その思想を引用したり日本文化や芸能から解釈したり、さらには最近のテクノロジーの展開などからも関連性を読み取ったり…と、度々言及してきました。

それらを書き始めた当時、「自然」をカオスや混沌そのままに全体で捉える表現性はファインアートのコンセプトに限られる印象を持っていました。
が、この一年半で表現そのものとして感じられたり、一般的に目にする機会が増えた様な気がします。
これは産業革命以降続いていたものから大きくシフトするものでありながら、それらを志向している方々からは過去の(西洋の)芸術運動が行ってきた「破壊→創造」のような強行さは感じられません。
どちらかといえば「こちらの方が普通でしょ?自然でしょ?」というナチュラルさを感じます。
パンデミックや気候変動による大きな自然災害など、人間の制御力には限界があることを目の当たりにしました。
文明の発展による自然界の克服は誰もが思い込みだったとと感じる時代になりました。
コントロール不要である事を認めた上でゆるやかな制御≒調和を志す、それが今の時代性のように感じられます。

NHKで放映された『スイッチインタビュー 特別編「坂本龍一×福岡伸一」EP1』は2017年に行われたもので、論理としては上記の流れにあるものの
語られていた自然(フィシス)に対しては大きな矛盾が感じられます。
以下、この放映を見た直後の私のXのポストです。

中間領域、内観から主観的に認識する行為、構造性…私が20年近く考え続けてきたことが端的に説明されていた神番組でも、それすらもロゴスであり過去の話。「async」の次の山「12」には非言語なフィシスが成立する可能性・予兆を見出せますし、現実世界でもAIによってそれが顕れ始めているのが今。

<番組のなかで特に興味をもった部分の要約>
対談は「async」を発表した直後で、そのコンセプトはS(サウンド)N(ノイズ)/M(ニュージック)の比率が五分五分という意味。
坂本(番組内では敬称略)自身が外で採取した街の喧騒や自然音は、秩序立っていない、ズレている。
それらをコンピューターに取り込んで織り交ぜ、ピアノもあえて普通の弾き方からはズラして演奏している。だからアシンク=非同期と名付けた。

ノイズと名付けられる前の「夜空の星みたいなノイズだけの空間」において、人間の脳は点を結んで図象・秩序として検出し星座に(形に)する。
それがシグナル(補足 チャーチル・モリスの記号分類で、直接反応をひき起す信号のこと、表象を呼び起こす記号はシンボル)の抽出だが、そういう事は忘れてシグナルが本当のものだと思ってしまう。
星座を取り出すのはロジック(=ロゴスの作用)で、その言葉による「分ける力」「分節の力」は、本来ノイズだらけの世界からシグナルとして切り取られていく。
※注:星座は表象を呼び起こすものなので本来の記号としてはシンボルに該当するはずですが、ここでは意味の無いものに人間が科学的(あるいは宗教的・文化的)に意味付けを行う比喩として用いていると思われる

音楽の場合には自然状態である「音」という素材を使って構築物を作り、ノイズは排除していく。
地と図(補足 ゲシュタルト心理学の概念 前述しているように視点にって意味が転換する騙し絵もこれを応用したもの)で言えば図の方が意味のあるもの。排除されるのは地でありノイズである。

ロゴスの力によって切り取られ過ぎると本来の自然が非常に変形する、人工的になってしまう。
物理学のフィジックスあるいは生理学のフィジオロジーの最初の「physis=自然・ありのまま」が、本来の自然という意味。
自然というものは混沌としてノイズからできているというビジョンが、プラトンやソクラテスがイデアみたいなものを言いだして…(補足 その後のキリスト教概念がさらに強固なロジックを構築した)ロゴスの強力さにある種辟易する、どれほど星座に囲まれているかということが意識もできないほど。

シグナルとして取り出されていない本来のフィシスとしての場所に下りていくためには(ここで「下りる」が使われていることに「マクロダウン」という言葉を造語した者としてはちょっと嬉し味を感じる)、客観的な観察者であることをやめてフィシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないとならない。自分もノイズだと認識しないといけない。
(補足 私がミクロアップとして内側から外を仰視する原始的自然観を標榜していることとほぼ同じ)
自分が自然の外にいて観察しているかのような認識の枠組み自体が間違い。
音楽はもともとは自然の中にあったものを図のように取り出してきた。
加工して音階まで人工的に考えて人工に人工を重ねたもの。
フィシス側の自然物としてのモノが発している音を取り出してあげたいという気持ちが強い(補足 だから「async」を作ったという意)。

スイッチインタビュー 特別編「坂本龍一×福岡伸一」EP1

論理としては良くぞ言ってくれました!と感じるのですが、外で採取した街の喧騒や自然音を取り込んで織り交ぜたという「async」の「S・M」のアイデア自体が外からの思考であり、自然を俯瞰する視点でしかないという矛盾。
なぜなら、偶然的なノイズ音は作曲と同じく思考的判断を経て音楽作品の中に用いられているからです。

ちなみに、似た内容のことは「美術手帖のロングインタビューでも語られています。

さらにEP-2では下記のことを語っています。

作曲家は神の視点という誤解を持ちやすくて、僕もそういうところがありました。
それが間違いだという事に気が付いたのは、あるすばらしい演奏家が僕の目の前で今作った曲を弾くと、その小宇宙を作ったはずの僕が想定していた宇宙とは違うすばらしいものになった。

スイッチインタビュー 特別編「坂本龍一×福岡伸一」EP2

坂本氏は「async」時点でもまだ、たぶん「神の視点=俯瞰する視点」から完全に自由になれていないのです。
高木正勝氏のMarginaliaは、外の音を収集して自曲に取り込むのではなくその場で自作の音楽と外の音とを織り交ぜて作品としています。
ピアノの音はズラして演奏するのではなく、自然の音の中でズレたり合ったりしながらその時々で揺らいでいます。
しかも、それを非同期として認識するのではなく、ゆるやかな同期・調和として自然と呼応する作品として紡がれているのです。
「12」にはMarginaliaに近しい質感を感じますので、もしかしたら最晩年にはその自己矛盾に気づかれたのかもしれません。
が、それでもまだ現代という時代性には追いついていません。

落合陽一氏は今から次の時代を「デジタルネイチャー(計算機自然)」と標榜していますが、生成AIの時代においてはデジタル内で擬似的に自然が成立する可能性があります。
デジタルは本来、0と1という分離・切り取りで成立するものですが、テクノロジーの進歩によってそのシステムや概念は透明化され(言語の記号性が人間の思考時に透明化されているのに近い?)、カオスや混沌・成長や発展などの動的な自然性までもデジタル界で生成できる可能性を見出せます。
だからなのかはわかりませんが…Marginaliaで自然との融合を志向されていた高木氏が今年数十年ぶりにプログラミングでの音楽制作を再開されたとのことです。

坂本氏は「async」にノイズを混在させ非同期性を明確化しましたが、その行為は地と図の比率が半々という固定された関係性の提示であり、ロジックからの開放・フィシスへの回帰にはなり得ないのです。
本来の自然は混沌とした存在でしかなく、どこに視点を置くかによって見え方が変わってくるもの、その「変わる」というメタ認知こそが自然をそのまま認識することに他ならないからです。
視点の置き方によって地と図が入れ替わるルビンの壺のようなバランス性や、ズレや雑音も全体としての調和・融合を感じさせる作品・表現性こそが、上記の対談内容に即した表現作品のはずなのですが。。。

一方、フィシス的なランダム性と調和を実現した表現作品は、私たちの目の前に確実に現れてきています。
今年の「落合陽一×日本フィル《帰納する音楽会》では、昨年の《遍在する音楽会》ホール版ミュージサーカス(本来のミュージサーカスとは違うとnoteに記載)から繋がれただろう藤倉大氏の新作初演《Open Leaves》がありました。
今回は琉球の揚作田節との組み合わせで演奏されたのですが、どうやら他の曲(たぶん音階が同じ琉球の曲?)とも合うように作られていると解釈できるご本人のポスト。
この融合・調和が本当に素晴らしかった!!!

落合氏は「デジタルネイチャー」と言いつつもデジタル内だけに拘っているわけでもなさそうで(つまり現実世界の表現性を放棄している訳ではなく)、デジタル=0と1という分離行為に対して自然的な世界観をデジタル内に持ち込む・置き換えている作業のように見受けられるのです。
ちなみに、スティーヴ・ライヒのスピーカーにマイクの振り子を用いてハウリングで音楽を作る「Pendulum music」からは、ノイズと音楽、偶然と必然性との間に存在する音の心地よさは言葉で説明するのが難しいほどでした。

●《Open Leaves》のprogramme note追加リンク

他の曲もふくめて元ページopen score works:では楽譜もフリーでダウンロードできます。

これらには偶然性(≒雑多なノイズを含む)に任せる創作姿勢がみられますが、坂本氏が語った「偶然」は偶然出会ったノイズでありつつも、最終的には自身の手で制御する事を放棄できていません。
俯瞰という視点は全体を客観的に眺める行為だと思われがちですが、周囲のノイズを排除しその一つの世界をレンズで覗くようなものです。
衛星写真で地球を眺めるようなもの、宇宙全体は視野の外にあるのです。
一方、仰視の視点は内側からあらゆる世界を見つめることができます。
地球に最も近い月も太陽系の衛星も何億光年先の銀河も全て、実際に見えなくてもその果てに思いを巡らすことすら可能と言えるでしょう。
特に私が重視しているのは、キリスト教的な天動説が地球上の概念をそのまま宇宙に当てはめているのに対し、原始の人々はそこに聖なる力や地球上との異なる法則性、二つの構造間に「飛躍」を感じているところで、それこそが芸術の源だと思われるからです。

この時点での坂本氏の視点は、太陽系外から太陽の衛星もその更に衛星や宇宙の塵までも眺める様なものと言えるかもしれません。

ただし…音楽としての「async」はとて魅力的です。
パラダイムシフトが起きる前夜、その時代性においてはむしろこの矛盾性にこそ魅力があり、芸術的意味があるとも考えられます。
また、亡くなられた直後の放映されたWOWWOW「坂本龍一 Trio Tour 2012」が本当に本当に素晴らしくて…ただただ感動してしまいました。
こんなに自然に坂本氏が音楽に身を任せている姿は全く想像していなかったのです。
トリオから醸し出されるその場でしか成立し得ない音楽は、他者の演奏・偶然性に自然に身を任せていらっしゃって、他の坂本氏の演奏とは全く違っていました。
トリオの中からの視点、たぶん…フィシスに下り立ちプレイヤーとして音楽を楽しまれている姿なのだろうと思われます。
チェロの方とは古くからのお付き合いで、その厚い信頼感が偶然性(ヴァイオリニストの方はオーディションによって初共演された方なので想定外のことも多々起きたと思われる)やその場の音楽をとりまく様々な事象をナチュラルに受け入れるベースになったのかもしれません。
自然にその音楽に身を任せるかの様でありながら、自らがその音楽を放出する表現性には心から感動しました。
放送直後にアルバム「THREE」をチェックしたのですが全く別物。
さらに検索するとライブDVD・Blu-rayに辿り着いたので、観たばかりにも関わらず購入しました。笑
Switchインタビューでは、自分がどこにいるかもわからないまま山を登っているとおっしゃっていましたが、最晩年に「Trio Tour」をご自身でご覧になったら、もしかしたら「async」よりもフィシスの場に近いと思われたかもしれません。
このことは、芸術表現が芸術理論として整合的である必要がない事を示しています。
論理と表現は一致するとは限らないし、一致する必要もないのです。
そう言い切れてしまう所が芸術であり、学問と区別される所です。

角野氏が参加されたYouTube公開の座談会「AIと創造性」では、モデレーターの羽田正氏が「創造性はそれほど 歴史の長い概念ではない」「特別なことでもない」また、「人間が時間をかけてやっていたものが一瞬でできれば、価値は相対的になくなるので創造性に対する考え方も変わっていく」とも語られていました。
AIで短時間に大量の作品生成が可能になり、神に代わる唯一性=シグネチャーとしての創造性を尊ぶ価値観が変化しつつあるいうことです。
ただし、AIや人の作品が類似としてカテゴライズされても、僅かな差異に創造的価値や魅力を見出す人間の感性は無くならないでしょう。
一方、人間が作ったものもAIが作ったものも同列になるということは、制作過程や文化的コンテクストが作品や表現から切り離されることと同義となり得るため、出自に依存していた経済的価値に混乱をきたす可能性もあります。
今後社会システム・法律をどのように整備すべきかは難しい問題です。

 

"For the future"

8/26,27に行われたスタンドクラシックフェスティバルの2日目のテーマが"For the future"で、配信を観終わった直後につぶやいたのか下記です。

今日の #スタクラフェス 伝統的スタイルで表現することも、表現者の個性を生かして表現することも、ジャンルを自在に渡りゆく表現も、それぞれが「今」を感じる瑞々しい表現で「時代に繋ぐ、時代を繋ぐ」という事を感じます。で、唐突にフレッド・アステアとマイケル・ジャクソンを思い出しました。→

→逆からの視点ですが…1970年70歳でオスカープレゼンターを務めたアステアがサプライズでダンスを披露。冒頭、当時新しい音楽のファンクを自身のスタイルで超絶カッコ良く踊る姿からはアステアへのリスペクトで知られるマイケルが透けて見える。からの正当なタップダンス。

上記のポーズ、左手に帽子を持っていたらマイケルそのまま!って感じです。
踊ると靴下が見えることでステップを印象付ける短めの丈のパンツはアステア独自のもので「アステア・レングス」と言われたそう。
マイケルはそこから更に足が目につくように丈も短く白のソックスにして自分のスタイルを作ったのだろうか…とも想像できます。
ただ、リスペクトは感じられてもマイケルとアステアのダンスは異なりますし、私が注目したいのは引用しているだろう個別のモチーフではありません。
他のダンサーではほとんど感じられないマイケルとアステアに共通する「音楽とダンスが一つになった感覚」、前述している「感覚的融合認知」が刺激される表現です。
音楽とダンスを同時に追求したエンタテイナーでしか表現できないもの、様式や形式ではない部分で時代を超えた繋がりが感じられたのです。
それがスタクラフェスの「時代に繋ぐ、時代を繋ぐ」というテーマに結びつきました。

ただ、"For the future"に関しては、e+に関係がある若手の音楽家紹介になっているところもあり…
まあ、キャッチフレーズとしての域を超えていなかった感は多少ありました。
特に「ラプソディ〜」が2日に渡り何度も演奏されたことは、クラシック音楽の未来が100年前で止まっているような気さえします。
そういうプログラムの中では、広義の芸術概念が更新された時期(世界情勢とともに芸術概念の解釈が変化した頃)のエポックメーキング的作品だと思われる「ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲」を髙木竜馬氏が演奏されたことが素晴らしかった!
クラシック音楽に未来を託す思想性が感じられ、とても義深くもあり、左手だけの素晴らしい演奏を堪能させていただきました。

そして当然ながら、STAND UP ! NEW WAVE ~Produced by 亀田誠治 角野隼斗×挾間美帆 Play with the BIG BANDによる「ラヴェル:ピアノ協奏曲」。
挾間美帆氏の編曲はクラシックの正当な系譜である現代音楽とジャズが混然一体となったもの。
シンフォニックジャズというと映画音楽や大衆音楽路線に行きがちですが、明らかにそれらを一線を画し、現代性を持ちながらも難解さはありません。
この様な音楽を編み出すことができるのは挾間氏だけだと思われ、本当に素晴らしい編曲!!
ただし鑑賞としての感想は…
ソリストを中心とした(普段ビッグバンドでの演奏をされない・楽譜を用いた演奏が少ない)ジャズプレイヤー中心のためか、アンサンブルには残念に感じる箇所もありました。

ラヴェル:ピアノ協奏曲のジャズアレンジ、原曲へのリスペクトが溢れた新しい可能性を感じました
ピアノは本当に素晴らしかったですが初演&ビッグバンドが固定メンバーではないこともあり…アンサンブルがまとまったら世界が変わりそう。熱烈再演希望! #挾間美帆 #角野隼斗 #スタクラフェス

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用 8/28

小曽根真氏のNo Name Horsesや、エリック・ミヤシロ氏のブルーノートでのビッグバンドは、アンサンブルが強固でありながら自由です。
所々ソロとして演奏される聴き所は見事ですが、ビッグバンドとして全体がブレずにスウィングしているのです。
また、直後にリリースされた挾間氏のアルバム「BEYOND ORBITS」も曲自体はどれもが超絶難しいと思われるのに、m_unitのアンサンブルは見事でした。
この「ラヴェル:ピアノ協奏曲」こそはガーシュウィンから100年を経た現代のシンフォニックジャズ!と言い切れる作品と思われるので、クラシックとジャズのその中間的バランスが完成されていないと(〜「ピアノ協奏曲 へ調」について〜に「in F」の中間的バランスへのこだわりを記載)、曲の魅力が発揮されていないと感じてしまうのです。。。
やはり、m_unitのようにクラシックがバックボーンにあるプレイヤーは違う…と思わずにはいられませんでした。
(だからこそ、後からクラシックに挑まれ、クラシックのフィールドでも勝負される小曽根氏は本当にすごい!!)
なので、この曲に関しては少し消化不良気味。
いつかm_unitや東京JAZZ〜(ソリスト角野)による演奏で聴く機会があれば…と期待してしまいます。

さて、ここからは私が考える"For the future"について。
クラシック音楽は日本文化ほどにはプリミティブなエッセンスは感じられませんが、それでも創成期には未分化な表現もあったはずで…何か現代の音楽家が発見していない質感が隠れているような気配がするのですよね。。。
日本文化や能に感じられる原始的な質感と構造性はすでに現代アートで用いられていますが、そのような継往開来の可能性がクラシックにもあるような…何かモゾモゾとした予兆が感じられます。

それらは論理的に追い求めても机上の空論にしかならず、その表現性が出現した後に新しいものだと評価・認識されるもの、表現として具現化された後に気づくものなのです。
その可能性を個人的に感じているのが、角野隼斗氏と松井秀太郎氏のお二人。
あとは挾間氏も現代の作曲家としてその位置に近いと思われるのですが、視点には少し違いがあります。
前述までのことは結構前に書いていたのでまたもやシンクロニシティに驚いたのですが…
9/27に公開されたインタビュー(9/28に相互フォロワーさんがポストしてくださった)によると、挾間氏はエッシャーのような騙し絵がお好きとのこと。
ゲシュタルト心理学的な視点の転換(中心転換・構造転換)は、確かに氏の音楽性から感じられるのです。
挾間氏のシンフォニックジャズはクラシックとジャズが固定された半々の状態にあるのではなく、ルビンの壺やエッシャーの階段のように曲の部分や聴くタイミング・自分の心情(=視点)で、ジャズとクラシックという図と地が時々で置き換わる揺らぎを持っています。
というか、その揺らぎを見込んで作曲・編曲されている作品だ!と気づきました。
以前からこの絶妙なバランスはどこからきているのだろうと思っていたので、まさか、ゲシュタルト心理学だったとは。。。笑
このインタビューを読んで膝を打ちました(氏のサインはまさに騙し絵的な転換を前提にしている)。
ある意味では「統合的認知」の賜物ともいえますが(ゲシュタルト心理学が知覚や認知の全体性や構造に重点を置くもの)、メタ認知ではあるもののご本人からは俯瞰的視点という意識すらも感じられず…まさにギフテッドというか天才型!

ただ、私が漠然と望んでいる新たな表現性は仰視的(私的に言うとミクロアップ的)視点によるものなので、どうしても優れたプレイヤーである必要があるのです。
坂本氏のSwitchEP2で引用した「演奏者がつくりだす別の宇宙の存在に衝撃を受けた」という事にも通じていますが、優れたプレイヤーでなければ成立不可能な芸術領域と、その領域からしか創り出せない表現作品はあるからです。
角野氏の多様な鍵盤楽器の使い方は作曲家が曲全体から使用楽器を選択するものとは異なり、奏者としての経験から呼び起こされる音色や技法などによるブリコラージュ的な思考プロセスを感じます。
結果として、通常の作曲家とは異なる表現性に至るのです。
ただし、数学や工学を専門として学ばれていたころからは、同時に音楽すら超えた広い俯瞰性も存在しているだろうと思われます。
日本文化の構造性はある種メタ認知をも含んでいるため独特の質感を生み出しているところがありますので、つまりまあ…
私が仄かに望んでいる未来の表現とは、演者であった世阿弥が創り出した様なものなのです。
猿楽(=能)は、観阿弥(=世阿弥の親)世代からすでに芸能様式として成立しており、芸術レベルで大成させたのが世阿弥ですから。


一回性に宿る時間的減衰と無常の美

実は2023年8月まで、YouTube「ショパン: ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(マリン・オルソップ指揮/NOSPR)」はプレミア公開の時に1回、CDが発売された時に1回、その後にそれぞれ1回ずつ計4回しか聴いていませんでした。
その理由は、私が鑑賞した神奈川公演とは異なる質感を感じていたからです。
神奈川公には、あるがままに任せる無為性をメタ的に制御する指向性があり、それがサンクチュアリやプライベートな閉鎖空間を共有する安心感や大切なものを慈しむ感覚として奇跡的な質感を醸し出していました(「表現の発生プロセス〜」に詳細)。
録音音源を聴く度に「私が感動したショパン:ピアノ協奏曲 第1番はこれではない!」感が湧き出てしまい、どうにも満足できません。
ところが、8月に久しぶりにYouTubeで観てみたところ、なんとなんと、、、
純粋に美しく素敵に聴こえてきたのです。
自分感動した演奏の具体的な記憶が消えてしまった…と、正直ショックでした。

私は芸術の一回性について以前からこだわっており、鑑賞マトリックスでは回を重ねる毎に「新鮮度」「刺激的受容」が下がる設定にしているのはその為です。
また、「〜「Practice Bartok (Test)」で非公開になる前提のラボ動画を再視聴するか問うてみたり、「〜千と千尋の神隠し (Piano)」では一回目の感動を記憶に焼き付けるため反芻する様に思い出すことで初回の鑑賞体験を上書きしない努力もしてみたり…まあ、試行錯誤を繰り返しています。
けれど、奏でられた音楽は時間芸術である以上消えゆくものです。
その音楽を記憶として完全に残しておくことはできず、必ず減衰・変化します。
ただし、消えゆく儚さこそが美であり無常だからこその美が存在するとも思われ、さらには存在しないからこその美も感じることができるのです。
これは鎌倉時末期に発生した感性ですが、それらの感性(様式ではない)を「サビ」と命名してしまう事が、前項で「日本文化の構造性はメタ認知を含む」と書いた理由です。

(徒然草)
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

(徒然草 現代語訳)
春の桜の)花は真っ盛りなのを、(秋の)月はかげりなく輝いているものだけを見るものだろうか。(いや、そうではない。)
雨に向かって(見えない)月を恋しく思い、簾を垂らした部屋に閉じこもって春の過ぎゆくのを知らないでいるのも、やはりしみじみと感じられて趣が深い。
(きっと今にも)咲きそうな梢や、散ってしおれている庭などこそが見所が多い。

ロンティア古典教室 徒然草『花は盛りに』(1)現代語訳

私が聴いた「ショパン: 〜協奏曲〜」は、新たな扉を開く若き輝きとフラジャイルな青さがその時にだけ存在する玉響(たまゆら)の美でした。
先日行われたブルガリアでのコンサートは事前に相互フォロワーさんからアプリでテレビ放映が観られる事を伺っていたのですが(アーカイヴでその後しらばらく観られた模様)、もう少し消えゆく名残りを感じていたかったのであえて拝聴しませんでした。
以前「素晴らしい鑑賞は一生の宝物のような奇跡的結晶」とも書いていますが、この「名残惜しさ」を自分の中で感慨として残しておきたかったのです。
音楽としての具体的な記憶が消え去って尚(だからこそ)、特別なすばらしい鑑賞だったという感慨はより強く私の中に残ります。

ただ、これらの感傷はその一方で新たな希望にもなっているのです。
能では元服前の少年か還暦を超えた老人しか舞ってはならない「鷺」という稀曲があります(リンク先の「神」は西洋概念ではなく日本的意味)。
作品解釈もない無垢な存在としての「少年の表現=時分の花」と、老成し生への執着を超えた「至芸の純粋性」をもってしか表現できない芸術領域があるということです。
少年と老人の芸はもちろん全く違うものですが、その純粋性と神聖さを等しいものとして解釈する所にこの曲の意味があります。

坂本氏が最後に配信されたコンサート「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」も、老成した諦念からの純粋性・神聖さが宿る素晴らしいものでしたが、無に帰る様な孤高さが際立ちました(ワビ的)。
その姿勢はSwitchインタビューでの坂本氏とも一致しますので、氏のアイデンティティの一つだと思われます(だからこそ「Trio Tour」が特異に思えるのですが…)。
角野氏の場合は、SNS上のライブ演奏であっても反応がなければモチベーションが下がるというほど聴衆に開かれていて、その音楽は無条件に聴く者に広がります。
いつの日か、神(西洋概念)のような俯瞰した視点ではなく、個人の指向性や解釈を超えて、無からただ拡大する宇宙のように広がるサンクチュアリのような音楽が、老成した角野氏から生み出されるのではないでしょうか。
その時に生や表現への執着を手放すには、今こそ日々新たな解釈・表現性に挑まれる必要があるともいえます。
秋田での「ガーシュウィン:in F」は本当に素晴らしく、たしかに次の演奏を聴くことには多少の躊躇はあったものの、これからも変化・成長しつづけるだろう角野氏の表現性には希望しか感じませんでした。
私が「ショパン:〜協奏曲〜」の変化を「in F」の様にリアルタイムで楽しめる状況になったと考えれば、美しい記憶が失せてしまう事もそう悪いことではありません。
まあ、私がこの世からいなくなった後を前提にしたお話ですが、これも「サビ」ということで。。。


投稿直前に急遽行った書き足し

ようやく投稿できる…という段階になったので、NHKプラスで公開期限ギリギリに「テリー・ライリー×久石譲」EP1」を拝見したら…またもやシンクロニシティ?!と驚いて、続けて「〜EP2」も拝見しました。

EP1はライリー氏に久石氏が質問する回。
ミニマルミュージックの初期作品といわれる「In C」初演時にはキーボードでスティーヴ・ライヒ氏が参加したのだとか。
しかも、最初からミニマル・ミュージックがあった訳でもなく、ご自身もそれを意図的に志していた訳でもなく、即興演奏の中でその音楽が形作られていたようなお話でした。
つまり、それまでに無い想像的な新しい音楽を志し創造したのではなく、ラヴェル等も用いていた過去にある音楽要素(パターンの繰り返し的なもの)とプレイヤーの即興的演奏から次世代を切り開く新たなムーブメントが自然発生的に生まれたと読み取れます。
私がどうしてもプレイヤーの必要があるとした事、その表現性が出現した後に新しいものだと評価・認識されるもの、と書いたのはまさにそれ!

下記の部分、ミニマルミュージックが自然発生的に生まれたというお話からは、私が今感じている芸術や音楽が変化する予兆とすごく一致する感覚でした。
たぶん、社会的に大きな出来事があった時、これまでの概念が大きく揺らぎパラダイムシフトが起きるのです。
ミニマルミュージックの場合は、ベトナム戦争にを契機に文化・芸術・音楽が政治に大きな影響力を発揮していた時代でもあり、航空機での移動も活発になり世界が狭くグローバル化が始まった頃。
今は、全世界的なパンデミックと気候変動による大規模な自然災害が著しい激動の時代です。

<EP1 番組の番組のなかで特に興味をもった部分の要約_1>
ミニマルミュージックってこの伝説的な4人が作ったっていうふうに今なっていますけど実は自然発生的に細かい音を繰り返すという発想は、アメリカだけではなくヨーロッパでも起こっていた。
誰かが作ってみんながそっちに行ったんではなくてなんとなく自然発生的にいろんな優秀な作曲家の人たちがなぜかそこに行き着いた。
音楽がが変わる可能性があるといった風潮があったように思います。

スイッチインタビュー「テリー・ライリー×久石譲」EP1

また、ライリー氏はどうやら音楽を視覚的に捉えられていらっしゃる模様。
スピリチュアルな道、サイケデリックな道とおっしゃっているので私の感じている「感覚的融合認知」とは異なり、共感覚に近いかその中間程度だと思われるのですが、いずれにしても聴覚と視覚が融合してた状態で音楽の質感を捉えらえていらっしゃると明言されています。

<EP1 番組の番組のなかで特に興味をもった部分の要約_2>
私はサイケデリックな音楽に興味がありました。
視覚を音楽で表現しているのです。
-中略-
(日本で書かれた楽譜を見せた際のナレーション)
そこには五線譜の音符も飛び回る自由なイマジネーションがあふれている。
メロディーに添えられたカラフルな絵はテリーの楽曲イメージだけではなく演奏者への指示も込められている。
図で表現した曲もあるんです。

スイッチインタビュー「テリー・ライリー×久石譲」EP1

下記の場合は、独学であるザッパ氏の作曲はきっとフィシス内からのブリコラージュタイプだろうと推測される訳です。
また、奏者としての視点でこそ即興(曲作り)も同様で、だからこそライリー氏はシンパシーを感じられているのだと思われます。
危険がお好き、アクシデントをよりハイレベルのインスピレーションでリカバリーしてしまうのは角野氏によく似ていらっしゃる気がします。笑

<EP2 番組のなかで特に興味をもった部分の要約>
フランク・サッパは独学なんです。
ザッパは音楽学校に行かずに楽譜から音楽を学んだのです。
彼のオーケストラ曲にははっとする新鮮さがあります。
(中略)
私はキーボードを弾くとメロディもリズムもあらゆる変化を思いつくんです。
演奏していると次の展開がやってくるのが聴こえるんです。
でも座って書いていると楽譜にした時点で即興感覚を失ってしまうんです。
私は演奏をするときに「危うさ」が必要なのです。
危機感を持つことがわくわく感になりやる気を出させてくれるのです。
(中略)
そのせいで間違えたり想定外のことをしてしまっても、よりハイレベルのインスピレーションで演奏をしていけますから。

スイッチインタビュー「テリー・ライリー×久石譲2

ライシー氏のお話は、全体的にレヴィ=ストロースの思想に近く感じられるのですが、ヒッピーやサイケデリック文化に近い方であれば、むしろ通るべき道だったのかもしれません。

まあ、だからどう…という事はないのですが、自分だけが感じていると思っていた事や他者とは違うこだわりに対して、似た捉え方をされている方がいらっしゃる事はとても嬉しかったということです。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略