【RP】角野隼斗氏による「ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 へ調」〜読響創立60周年記念 秋田特別演奏会〜
(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)
すでに4/1 東京でのファンクラブ限定リサイタルも終了していますが、遅筆のため、3/26「読響創立60周年記念 秋田特別演奏会」@あきた芸術劇場ミルハス 大ホールでのコンサートに関して投稿させて頂きます。
主に角野隼斗氏がソリストとして参加された「ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 へ調」が中心です。
当日は雨のなか、一人ずつ傘袋に入れて客席まで持ち込むスタイルだった為、入場に時間がかかり建物外で長蛇の列、開演10分前位にようやく会場に入れました。
着いて一番驚いたのはシニア・しかも男性が多いこと!
東京での角野氏ご出演のコンサートはミドルエイジの女性が多いですが、客層が全然違いました。
お隣のシニアの男性の方、咳対策のため開演直前に3回も飴を召し上がっていらして‥読響コンサートに対する秋田のクラシックファンの皆様の期待の大きさ、みたいなものを感じました。
<角野隼斗氏が今回演奏されたガーシュウィン:ピアノ協奏曲 へ調について>
コンサートを拝見した直後の私のTweetは下記です。
上記、帰宅時の夜行バスでの投稿だったので25年以上と書いてしまったのですが、過去のnote「角野隼斗氏のガーシュウィン「ピアノ協奏曲 へ調」について〜」をみたら…約30年でした。(歳がバレますが‥苦笑)
以前のnoteは「角野隼斗 全国ツアー2022 “Chopin, Gershwin and…”」を配信で観た感想で、この時すでに「角野隼斗氏が生まれる前から角野隼斗氏のガーシュウィンを探していた」とは書いています。
ただ、意味としては「自分が好きなクラシックとジャズのバランス(中間)」というものであって、今回の演奏で感じたとこととは全く違います。
一つ前のnote「神奈川フィルフューチャーコンサート〜」で、ガーシュウィンの楽譜の書き方がもしかして現代の感覚とは違っていたのでは?という疑問を覚え、ある種、そういう類の「ガーシュイン再発見!」につながりそうな位に「世界におけるガーシュウィンの評価は 角野隼斗氏の演奏で絶対に変わる!」と。
他の方のご感想を読ませて頂いた中には「オケを引っ張っている」というものも見かけたのですが、結果的にはそうであっても、そういう強いリーダーシップのような感覚とは違っていました。
けれど、オーケストラにおける「ピアノの音(音楽性)」の影響力が圧倒的に大きいのです。
それらを角野氏の演奏で感じたことで、ガーシュウィンがもともとその様に作曲したのでは?という疑問が生まれた訳で…だからガーシュウィンの評価も変わるのでは?ということなのです。
私が長年聴き続けてきたオスカー・レヴァント盤「ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 へ調(以下 in F)」 では、どれほどレヴァントのピアノが際立っていても、曲全体のバランスからするとピアノ協奏曲としてのピアノの音楽的要素が少ない様に感じていました。
原因は主にトランペットや吹奏楽器によるものです(個人的な好みの問題ですみません)。
ですから、昨年角野氏がトランペットのソロ部分を鍵盤ハーモニカの演奏に変えられた際、「これで全体のバランスが丁度良くなった!(=自分の好みになった)」と大喜びしたものです。
ピアノ協奏曲ならソロ的な所以外でも、もう少しオーケストラの中でピアノが感じられる曲(カプースチンの「ヴァイオリンとピアノと弦楽のための協奏曲」での「掛け合い」みたいな部分)が好みなのに…と。
なのですが、、、、実はもともと「in F」の中にピアノは十分にあった!という事を今回の演奏で初めて感じました。
しかも、それを一度感じた後にレヴァントの演奏を聴いたら、そこからも確かに感じることができたのです。
自分が聴けていなかった「in F」の扉が開かれた気がしました。
30年間以上聴き続けてきたのに…まさかこんな印象が変わるとは、、、
角野氏の演奏からはわずかなフレーズであっても、ピアノの質感がオーケストラに与える影響がとても大きく感じられます。
それが余りにも曲としての必然性に溢れていた為、もしかしてガーシュウィンはピアノがメインの箇所だけではなく、オケのバッキングのような所でもちょっとしたワンフレーズでも、そのピアノの音楽的質感が曲の中心的存在として表現され得るということに疑いがなかった、確信していたのでは?と。
もちろんそう感じられる角野氏の演奏だったということなのですが……
わずか数音に過ぎないピアノの音であっても、それがオーケストラ全体に広がり聴衆に音楽として伝わる力を信じられる人だけが、「in F」の本来の音楽性を表現できるのではないかと思ってしまう程でした。
角野氏の演奏からは、一滴のインクが大海を染めるような豊かな表現力とともに、そのピアノの音(音楽)を信じるピアニストとしての強い信念と確信が感じられました。
これって、Penthouse「Live in This Way」そのものじゃん〜〜!!!!!笑
もしかすると、この日の演奏にもその影響があったかもしれないと思うほどです。
(英語はわからないので、Spotifyでコピペできる歌詞が公開された後に翻訳ソフトで確認しました)
で、レヴァントの場合でいうと、バッキング的な表現のところはオケに対して明らかに一歩引いているのですよね。
ボリュームの問題ではなくて、表現性そのものが全く違う。
ソロのところは物凄く目立つので、その部分との対比で全体のバランスに違和感を覚えたと考えられるのですが、今はもう曲中に渡るピアノの存在性に気づいてしまったので、レヴァント盤からもそれらを感じることができるのです。
Tweetした「世界におけるガーシュウィンの評価は 角野隼斗 氏の演奏で絶対に変わる!」というのは、角野氏の演奏を聴くと「in F」という曲に抱いていた音楽性そのものが新たに更新される!ということなのです。私の感覚が変わったように。
もう少し曲の中に入っていくと‥「ラプソディ・イン・ブルー」はメロディやフレーズ自体がPOPでZazzyなので、「ジャズや大衆音楽的な曲がクラシックの編成で演奏されている」という感じ、映画音楽のように聴けてしまうのですが、「in F」は同一音の連打や不協和音等など当時の前衛的な現代音楽を目指すかのような志向も感じられ、王道クラシック的な美しいメロディやJazzyな質感表現と相まって私の中では、ド・ストライクなのです。
(以前何かのnoteに書いたかもしれませんが、もろモダンジャズ!みたいなものよりも現代音楽っぽさを感じるプログレっぽいというかコンテンポラリーっぽい感じのジャズの方が好きなので)
ピアノは相当なテクニックが必要でしょうし、質感表現としてもジャズとクラシックの表現が対比しながらも自然に繋がる様な調整力も必要とされます。
そのバランスはオーケストラ内のトランペットやヴァイオリン等のオケ内のソリストにも求められて…そもそも相当に難易度が高い曲なのではないでしょうか。
(他のクラシックの曲の難易度が低いということではなく、難易度の方向性が他のクラシック曲とは違うという意味でのさらなる難しさ)
また、以前の 「in F」のnoteに書いたように王道的なクラシックとしての音楽性が優位になれば純粋にクラシックっぽくなりますし、ジャズ的・大衆音楽的に寄り過ぎると古き良き時代の映画音楽・ポピュラーミュージック路線に傾いてしまいます。
もともとが質感バランスによって曲の印象が変わる「振れ幅」が大きい曲なのが「in F」なのではないか、と。
前回のnoteに「3つの前奏曲より第1曲」の現代奏者の録音が余りにも単純過ぎる事の驚きを書いていますが、いつぞやの「かてぃんラボ」で「in F」のコード進行に対し「単純過ぎる」「恥ずかしい」と氏がおっしゃっていた事を思い出しました。
もしかしたらガーシュウィンは、ジャズの様にソリストの即興的アレンジをのせる余白を残すために、あえて楽譜上では単純と感じられる表記にしていたのかも…と勝手に想像してしまいました。
(楽譜も見てもいませんし、楽譜を見たとしても理解できませんけど…)
去年の角野氏の演奏は、「in F」の魅力を多くの方に知って頂くために曲全体の印象に関わる編曲的アプローチで演奏されましたが、今回は先の余白を最大限活かした質感表現で「in F」の魅力的を余す事なく表現されたと感じています。
角野氏の場合、その質感表現には細かいアレンジ(装飾音やタイミングを微妙にずらしたり和音の響きを弾き方で変えるようなことも含めて)も当然含まれているだろうと思われますが、もしかしたらガーシュウィンはそういう事を想定して楽譜には基本的な事しか書いていなかったのかも…と。
曲細部への質感的アプローチが際立っていて、それが「一滴のインクが大海を染めた!」と思う所以です。
しかも、その質感表現へのアプローチが最も強く感じられた部分が、たぶん高音をホンキートンクにしていただろうと思われたことで、実は演奏そのものではないという。。。
下記は翌日調律時の様子を投稿して下さったTweetへ私が行った引用RTです。
「細部に神が宿る」質感表現は、は「ミクロアップ(造語)」であり「内側からの飛躍」「キメラ的拡張(ピアニストの表現とする境界が拡張している)」と考えられるものですが、一方で調律という演奏よりさらに広い視点から音楽を表現する手法を取り入れていて、それは「マクロダウン(造語)」で「俯瞰からの視点」が備わっているのです。
しかも角野氏の場合、この曲単体の解釈だけではなくより大きな歴史的視点として、作曲家としてのガーシュウィンや時代性までが含まれているようにも感じるのです。
現代のようにクラシックとジャズの垣根が低くなった時代だからこそ、二つのジャンルが混在した曲が、用法的な新規性だけでなく楽曲そのものの魅力としてとして自然にナチュラルに理解され得ると思われるからです。
もう、、、ガーシュウィンも絶対天国で喜んで感謝しているはず!!!笑
このクラシック(しかも現代音楽に向かっている前衛性と王道的な美しいクラシック)とジャズの豊かな質感が不思議に馴染んでいる状態は、まさに中道的だと思われます。
その調和を一度受容してしまうと、これまで楽章ごとに感じていた質感やイメージの違いというものが余り意味をなさないというか、そもそもほとんど感じなくなってしまうという不思議!
故意に(前衛的な意図として楽章の区分けを余り行わないものとして)そういう作曲をガーシュウィンが行ったのか、私が角野氏の演奏でそう感じてしまっているのだけなのかはわかりません(たぶん私が勝手に感じているだけでしょう 笑)。
ただ、聴けばきくほど曲の境がわからなくなるなんて。。。
ここでちょっと話題が変わりますが、コンサートの前には長年夢だった藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を拝見することができました。
脱線するので小文字にしますが、実は少し関連があります。
そもそも藤田は日本画の技法を油画に応用することでフランスで成功したということもあり、クラシックにジャズを盛り込んだガーシュウィンに似たスタンスで制作を行なったとも考えられます。
コンサート前に作品を観ている時にはそれらの共通項をイメージしていたのですが、実際にコンサートを経たら「肝心な所で大きく違っている!」と。
この壁画の表現だと、日本とフランスは二項対立になってしまうけれど、「in F」は二項対立にはならないのです。
藤田は二項の間で揺れ、戦中は玉砕を美化する戦争画を自ら描き軍へ献呈、戦後は日本を捨てフランス人として生きる道を選びました。
でも、この日演奏された「in F」は、そういう二項対立からは解き放たれていました。
それぞれの様式的個性は生き生きと感じられながらも、全体が美しく調和しているのです。
私個人の勝手な思い込みですが、それらの表現を可能にしているのは、やはり構造主義とポストモダニズムとを経た現代だからではないかと。
ガーシュウィンがそれを想定して作曲したかはわかりませんが、時代によって作品の意味や解釈が更新されることで受け継がれていく事こそが「古典」だと思われるので、私としてはどちらでも良い気がしています。
ただ、ガーシュウィン自体がアフリカ系アメリカ人ではなかった上に東欧系ユダヤ人の移民で、アカデミックな体系的音楽教育を受けていません。
ガーシュウィンにとっては、ジャズもクラシックもどちらもある種の部外者的なスタンスになっているはずです。
音楽として「クラシックもジャズもどっちもかっけー!」みたいな、まさに角野氏に通じる感覚だったのではないか…と。笑
そして、好きだからこそ文化や音楽の成り立ちを理解しようと努めているその姿勢が(ガーシュウィンの映画「アメリカ交響楽」を観て思っただけです)お二方に共通する様に感じられました。
また、先日のツアーを経て角野氏の演奏の表現性がさらに一歩先に進まれたように感じられました。
私が角野氏のピアノの一番のファンである部分は、絶対的な抽象性が保たれていることです(変に情緒的・感情的になり過ぎる表現は苦手)。
過去のnoteにも書いていますが、2021年のショパンコンクールでは解釈すら無に帰すような抽象的表現だったのに対して、2022年にはイノセントな(無作為的な)表現を生かしながら解釈を取り戻されたと感じ、ついに2023年には今まで自分が概念として捉えていたものを超えた何か!という感じがしています。
この「何か」は今後探究していきたい!
<コンサートの感想>
●モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲
超有名な曲なので、私ですら聴いたことがありましたが、生演奏は初めてでした。
指揮は松本宗利音マエストロ、お若いのですがお名前自体が著名な指揮者シューリヒトから名付けられたそうで、なるべくして成ったという方!
たぶん指揮としては正統派だと思われるのですが、全体的に品がよくシュッとしていてスマートな曲調に。
タイトなテンポ感で変に盛り上げようする感じがなく音色も鮮やかですごく素敵(自分好み!)でした。
●ガーシュイン:ピアノ協奏曲 ヘ調
いや〜〜〜、もう感想にならないのですけど。。。
冒頭のティンパニーから始まる感じは「フィガロ〜」で聴いたようにやはりタイトで、昨年のちょっとタメみたいなものがあるノリとは違いました。
歯切れの良いビート感を生かし重くなり過ぎずに曲が進んでいきます。
そしてピアノのソロの入りのところ…
うううう〜〜もう、それだけで込み上げるものが。。。
冒頭の繊細なピアノの音。
切なさと無情観と美しさとが全て感じられながら、神々しいまでに絶対的な美。。。泣
(他の方も私同様にこの音が去年の角野氏の音全然違うと感じられているご感想がありました)
ちなみに、ホンキートンクの音だと思われる高音は最初のソロ部分で急に音が上に音が飛ぶところです。
(これを聴いて思ったのは、今年のソロスツアーのアップライトでのホンキートンクは昨年の「in F」で図らずも弦が切れそうになり狂っていた事から来たアイデアだったのでは?と)
肝心のトランペットのソロは、変な(すみません)情緒性がなく、かといってクラシック音楽的な柔弱に思える風でもなく、骨太なしっかりとした存在感がありました。
ストリングスは「弦を移動させて演奏する」とういう楽器発音時の必然性による適度なスウィング感がとても心地よく感じられます。
ピアノはとても繊細な表現で(小さい音という意味ではなく意識が細部にまで行き渡っているという意味)、わずかなフレーズからもフワッと様々な質感が現れてくるのです。
可愛らしさ・気高さ・強さ・はかなさ・はやる気持ち・ワクワク……
でも、感情表現というのではなく、私がその音を表現するために「言葉」を代用しているに過ぎない「絶対的な抽象的美」の上に成立している質感です。
いうなれば、逆三角から不安を、円から安心を、四角から安定を勝手に感じるようなものです。
もちろん、ピアノソロの演奏もすごく素晴らしいとしか言いようが無かったのですが、オーケストラとその音楽を受け渡しする部分がもう、言葉にできない感じで…
ピアノで奏でられたわずかな音数による質感が音楽全体に広がっていくのが感じられるのです。
描かれた1本の細い線のに様々な質感が感じられそれが絵全体に大きな影響を与えている、みたいなものです。
特に第1楽章は様々な音楽要素が移りゆく感じなので尚更。
その度ごとに、胸が熱くなり感激で涙腺が緩みました。
(感情表現として受け取っていないので、感情移入するのとは違う感覚)。
第1楽章後半の盛り上がりの所、オーケストラのボリュームが最大限になっても本当にピアノが良く聴こえて来て…良席に心から感謝!!!
第2楽章の冒頭のトランペット、十分に音量はありつつも飛び出過ぎない感じはたぶん抽象度が保たれているからで、決して質感表現を抑制している訳ではありませんでした。
以前小曽根氏が代演された時の読響での演奏(テレビでの鑑賞)はクラシック寄りの柔らかく繊細な表現だった記憶があったので、実はとても意外でした。
一方、去年のツアーファイナルでのトランペットは、この後の鍵盤ハーモニカとの差が出ない様に凄くバランスに注意されていた記憶があります。
ヴァイオリンのソロも昨年は大道芸のヴァイオリンの様なニュアンスとクラシックの間の質感に感じられたのですが、やはりその時に比べるとそのメロディを美しく響かせる事に尽きるような抽象度が高い印象です。
そしてそして、トランペットソロ(昨年は鍵盤ハーモニカだった部分)からピアノが入る所が。。。。
もう…鳥肌が立って完全に涙腺崩壊。
このソロが始まるピアノのフレーズ(不協和音を連続するところ)には、あらゆるものを超えたような「音楽の力」に満ちていたからです。
音楽としてここでガラリと変わるということではなく、これまでの哀愁を引き受けた上で慈愛に満ちた生気が内から湧き上がってくるような感じとでもいえば良いのでしょうか。
しかもイノセントなピアノの音そのものとして。
ここで優しく湧き上がってくる「気」の志向性のようなものは、ナチュラルにその後のオーケストラに引き継がれ、全体の音楽を大きく動かしていきました。
いくら角野氏が無音の中でも音楽を続けられるといえ鍵盤ハーモニカの後にこの「ソロの入り」を演奏することは不可能だと思われますし、そもそもトランペットを受けて成立するピアノなのです。
この難しい「受け渡し」に対し正攻法で向き合われ、かつてない完成度でその音楽を表出されたのだと感じます。
第2楽章ではその後にトランペットソロ→ピアノソロの構成がもう一つありますが、そちらはトランペットからピアノソロに音楽性が引き継がれる感じだった気がします。(あまり記憶がなくなっている、、、)
芯の強さを受け継ぎながらも孤独さを湛え柔らかく優しいピアノが繋いでいく感じでした。
あと、どのあたりなのか記憶にないのですが、ヴァイオリンのピチカードの部分でがマンドリンの様に横に構えて演奏され「おお!」となったり(去年、こんなシーンってありました???)、ピアノはハープの様な音色になったり(ホンキートンクの音の付近?)、オーケストラとともに音楽の移ろいのままに様々な色彩が感じられました。
第3楽章の出だしの部分、松本マエストロの指揮にる疾走感が冒頭箇所を洗練させている印象。
もしかしたら(音楽表現として考えたら)もう少し土臭さがあっても良いのかもしれませんが、私はこういう現代音楽的な表現の方が好きなのです。
角野氏のピアノも「前ノリ」で合わせられている感じで、昨年に比べると圧倒的なドライブ感!
去年より早かった印象なのですが、実際にテンポが早かったのか疾走感ある演奏でそう感じたのかは定かではありません。
縦ノリのビートで突き進んでいくと、曲調がラグタイムっぽく?なる所はスウィング感もあって、本当に楽しい。
カデンツァはJazzyでちょっとだけ「ラプソディ〜」っぽさがありつつも、去年ほどあからさまではありません。
今回の「in F」は、「カデンツァだから角野氏の見せ所」というような特別性が全く感じられないものでした。
今まで何回か配信で聴いていた「ラプソディ〜」では、「これこそが角野隼斗のカデンツァ!」みたいな印象を受けていたのですが、そういうものではなく全てが一つの音楽として昇華していた、と。
本当に素晴らしい体験ができて感動という言葉しか見つかりません!!!!
長年ずっと聴きたかった「in F」が聴けたことに、心からの感謝。
本当にありがとうございました。
そして嬉しかったことは、演奏終了後に「ブラボー!」と叫ばれたお声が秋田にお住まいだと思われる男性の方だったこと。
いよいよコロナ禍が明けたという感慨とともに、地元のクラシックファンの方も喜ばれていたのが感じられ胸熱でした。
※所々の音楽の印象を書いていますが、曲を覚えている訳ではないので、トランペットのソロやヴァイオリンのソロ、他曲調の変化を書いている部分は順序が前後している可能性があります。
※調律の様子をTweetして下さったお写真の方が4/1のファンクラブ会員限定リサイタルの舞台に出てこられたので私のTweetは間違いなのですが、調律師の方の活躍の場が多く生まれて欲しいと思っていること、ピアノの楽器としての可能性が調律を含めた先にまだまだ広がっていると思っていること、表現者と裏方という関係ではなく対等であって欲しい(パンフにクレジットされて当然な位)という希望をこめて、そのまま記載しています。
●アンコール ガーシュイン(編 角野隼斗):I got rhythm
ここまで完璧な鑑賞体験だったのですが…なんと、アンコールではまさかの事態が!!!
お隣の女性の方、膝を叩いてリズムを取られていたのですが全く演奏のリズムに合っていないのです。泣
ダウンジャケットを着られていたので膝打ちの度に常に「カサカサ」と。。。
私はリズムには本当に弱いので…頭がクラクラしてきてしまって。。。。
どんどんノってこられて音は大きくなるし「さすがに言った方が良いのかも‥」とか「そちら側の耳を塞ごうか…」とか色々と考えてしまい、「I got rhythm」は全然聴けませんでした。
演奏時間は結構長かったはずですし、「in F」のモチーフが込められていたというのに…。
とはいうものの、終演後にすごーく楽しそうに拍手をされていたので何もせずに良かったなあ…と思うのと同時に、私にとっては鑑賞が完璧ではないところ意味があるのかも、と思い直しました。
そもそも芸術の一回性にこだわるタチなので、もし欠点がない完璧な鑑賞だったら「この時の鑑賞をシュリンクしたい!」「もう自分の in F はこれだけで良い」みたいな気持ちになってしまうのです。
でも、「不足」があれば次ににまた観たいと思えますものね。
日光東照宮の陽明門の逆さ柱の様に私には意味があるものでした。
と思って帰宅して今後のin Fの日程を調べてみたら…酒田のコンサート、火曜で行けないと思っていた開催日が土曜日だったのです!!!
あのカサカサは、酒田公演の為のプロローグだ〜〜〜!!!笑
昨年予定されていた「in F」の公演は、今回の読響と酒田で指揮をされる太田弦マエストロとの演奏でしたから、この二公演が角野氏にとってのリベンジということになるのかもしれません。
●ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界から」
第1楽章、冒頭のティンパニーのリズムから、よどみがなく爽やかでスマートな印象。
第2楽章も優しく美しいメロディが魅力的に響いてきますが、やはり情緒に流されず、抽象度が高い印象です。
自宅から毎日必ず野外放送で「家路」を聴いている者としては、ここを情緒的に演奏されてしまうと一気に日常に引き戻されてしまうので助かりました。
第3楽章も、ともすれば悲壮感を感じる様な盛り上がりだったりしますが、とてもすっきりしています。
昨年聴いたマリン・オルソップマエストラ指揮によるNOSPRの演奏は、テンポ自体はもう少しゆったりしていたとは思われるものの、前ノリ系で洗練させていてそのバランスが超絶!という感じでした。
NOSPRの音は哀愁を感じるというか、少し民族性を感じるような印象だったと思われますが、重くならないところがさすがオルソップマエストラ!と思った気がします。
読響としての特徴は私にはよくわかりませんが、すっきりしていても十分重厚さが感じられ、音楽が持つ質感をとても丁寧に深く表現されている印象でした。
私はクラシック音楽の鑑賞経験がほとんどありませんが、松本マエストロの指揮は、なんというか…2021年のショパンコンクールでの角野氏の演奏に近い印象なのです。
個人的な解釈よりも、その作品が持つ音楽性や質感を丁寧に最大限表現する、という意思のようなものがあるというか。。。
丁寧に音楽を掘り下げられる姿勢を貫かれれば、やがては滲み出る個性が重ねられると思われます。
将来どの様な音楽を奏でられるのか、松本マエストロの今後も楽しみです。
<おまけ>
長野の時もそうでしたが、この秋田も城跡近くに文化施設が集中しています。
今回も久保田城跡の千秋公園がありました。
ここは城跡をそのままいかした公園としては日本で初めての例になるとのこと、下から上る坂道&階段は敵からの守りを強固にする為クランクになっている本来のつくりもそのままに、城跡巡りを堪能できる楽しい一時間半でした。
お城の場所には必ず神社があるので長野でもお参りさせて頂きましたが、今回伺った八幡秋田神社と彌高神社のうち彌高神社にはなんと神様がいらっしゃった様なのです!!!
通常、神様は常駐されていないので鈴や柏手でのような音で呼ぶのですが、一般人の呼びかけが届く確率は少々低め。。。笑
祈祷では祝詞の前に「ぅおおおーーーーー」と大声を出され神様を呼びますが、これだと高確率で神様がいらっしゃる様です。
ですが…時々運良く神社に神様がいらっしゃる時があるのです。
霊感もない私にそれがどうしてわかるかといえば、神社には「神様探知機」が沢山付いているから!
神様探知機とは幣(ぬさ)・幣帛(へいはく)のこと、しめ縄についている白いピラピラです。
あれで見えない神様を探知するのです。
神社には一番外側にある結界=鳥居をはじめ、手水舎や社殿・御神木など入子状になった結界の縁にそれぞれ下げられていて、そこを神様が通ると揺れることになっています。
スパイ映画の防犯レーザーみたいなもので、神様が通られると風がないのに一部だけ揺れます。
私が参拝した時、風もなく鳥居の4つの幣のうち中央の2つだけがしばらく揺れていました。
もちろん注連縄も揺れませんし、手水舎の幣も静かなままです。
(中央は神様が通られる道なので、本来は石畳も中央だけが格が高い長細い敷石で、人はその長い敷石は避けて歩く方が良い位)
神様がいらっしゃる神社で角野氏が素晴らしい「in F」を演奏されることをお祈りできましたから、これはもう絶対素晴らしいコンサートになる!と意気揚々と会場に向かいました。
が、読響60周年記念のコンサートに膝下ビチョビチョで行くというとんでもない状態。。。
開演直前になってからの入場、しかも中央のお席でしたから席にたどり着くまでには多くの方の前を通らなければならず…本当にご迷惑をおかけしてしまいました。すみません。
<追記>
4/1に「生誕100周年柚木沙耶郎展」@日本民芸館の最終日に駆け込んだのですが、本当に素晴らしかった!!!
100歳というご年齢にも関わらず、ナチュラルに今のデザインに通じる創作活動をされているというだけでなく、「民藝(雑誌)」841号の冒頭インタビューに本当に驚きました。
戦前に生まれた方なのに二項対立に全く囚われていない!!!
インタビューのタイトルは「本気で信じること」。
新刊なのでさすがに引用は憚られ簡単に要約。
「第三者が元気付けてくれる状態、ワクワクすることで創造できる」
「いいなと思う気持ちに古いも新しいもない」
そして今興味があることへの質問に、なんと「軍艦のプラモデルを作りたい」と。
学徒出陣として兵役していながらも、戦時中の辛いこととは別問題として、また現代では誤解を受けそうなことも厭わずに、軍艦の素晴らしさをご自身が愛でていることを堂々と語らえています。
そして、「人間当たり前のことをできていれば明るくなる」と。
やはり一人一人がそれぞれの主観とともにやりたこと・当たり前のことをすることが未来を切り開くのだと感じられます。
※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略