【RP】私観:二項対立を超えたポストトゥルースへ

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)


本編

これまで自分が複数のnoteに渡って書いていたものを整理するために私観としてまとめ始めたのですが、書き終える前にどんどん状況が変わり、それに追われてどんどんと書き足して…と、内容が変化しています(このnoteではよくあることですが)。
特に後半は、角野隼斗氏への批判を記載しており、ご不快に感じられる内容が多いかと思われます。
ご了承の方のみお読みください。


<私観:ポストトゥルースへの解釈>

私が解釈するポストトゥルースは、下記のような一般的な解釈とは少し(大きく?)違っています。

世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。直訳すると「脱・真実」。英国・オックスフォード英語辞典が「2016 Word Of The Year(2016年を象徴する言葉)」として選んでいる。
(中略)
事実誤認や裏付けのない情報を基にしたフェイクニュースの方が多くの人の感情を揺るがし、投票行動を大きく左右したという指摘が出たことなどにより、英国メディアでの「ポスト・トゥルース」の使用頻度は前年の約20倍に増えたという。
(中略)
ポスト・トゥルース時代では、これまで以上にメディアリテラシー(情報の真偽を見抜く力)が強く求められるという意見があるが、一方では、事実か虚偽かは重要ではない、虚偽であっても自分に好都合の情報ならそれで良い、などといった風潮が拡大しているという指摘もある。

知恵蔵 「ポスト・トゥルース」の解説

大抵、上記のようなマイナス的意味付けになるのですが、私は少し違い、「真実かどうかより個人の感情が優先される」というただ一点のみを重視しています。

ダムタイプは システムである 活動開始以来、特定のディレクターを置かず、様々なメンバーが参加し、フラットな関係での共同制作を行い、その活動の領域を拡張してきた。 ダムタイプは、さらに拡張する ダムタイプは、観察する 自然を テクノロジーを 社会を 人間を post-truthの時代を 「真実の向こう側」を 「時代の穴」を post-truth 「Truth」自体を疑うこと 今まで信じてきたシステムが崩壊しようとしている分断された混沌しかない世界で、今まで事実だ と思われていたものが不確かに感じられ、人々は自分たちが信じたいものを「真実」と思い込む。 「真実」は、もはやかつての「真実」ではない 「未来」は、もはやかつての「未来」ではない 「希望」は、もはやかつての「希望」ではない 「幸せ」は、もはやかつての「幸せ」ではない インターネット上の言説空間=post-truthをどう受け止め、霧のように重さの無くなった言葉に包 囲されている情報環境の中で「当たり前」を純粋な視線で見つめ直し、「今をどう理解し、生き、 そして死んでいくのか?」 問い続けなければならない。

美術手帖2020.3.12
「第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展、日本館出品作家はダムタイプに。」よりあ

上記、「変位しつつあるクリエイティビティの射程 〜」で引用したDUMBTYPEのステイトメントにあるように、「今まで事実だ と思われていたものが不確かに感じられ」という部分こそが重要で、個人の感情と真実とされるものの信憑性が同列になったというだけのことです。
このポストトゥルースにはもう一つ「ナラティブ」というキーワードがあります。
その事象がナラティブ的な伝達・アプローチによって、受容者は事象の事実よりも自分に直接関係性があるもののの様に感情を動かされることになるのです。

ストーリーとは、主人公が何をして、どうなったか、一連の出来事を順序立ててプロット(脚本)として伝えるものです。一方でナラティブは、同じく一連の出来事ではありますが、それらを通じて何らかの意味や価値観、体験を伝えるものを指します。
(中略)
「特定の視点 (point of view) や価値観 (set of values)を反映し推進するような状況や一連の出来事の提示や理解の仕方」(筆者訳)。
(中略)
つまりナラティブは、誰かの視点での主張や価値観を示す表現である点が、ストーリーと異なる特徴です。
その「誰か」がメッセージを届けたい相手と近い人物像であれば、ナラティブは物語を通じて、世界観などの深い意味を持たせることもできます。
(中略)
Z世代は「共感」によって行動する「共感経済」の実践者です。友人の言葉を借りると、共感する対象のオーセンティシティ、つまり「本物」であることに特に価値を置いているため、注目されているのだといいます。
(中略)
政治に意見を持ち、グリーンウォッシング(見せかけの環境配慮)といった企業のネガティブな行動にも敏感に反応します。「共感」で行動するからこそ、表層的なものには共感しないし、共感の対象が偽物だったときに厳しい批判をするのです。

Forbes「Z世代は「本物」にこだわる 若い消費者に刺さるナラティブとは」

こちらの記述においては「共感」を「本物」と置き換えており、前述とは逆に「ナラティブ」をプラス面で捉えています。
ただ、この場合の「本物」は事象としての真偽ではないため、「実感」と置き換えた方が誤解が少ないでしょう。
また、「客観的な事実より共感を優先する」ことは、必ずしも「真実を見ない」という扱いではなく、「共感で行動するからこそ、表層的なものには共感しない」という、「信用」の背景に事象そのものではない理由を別途設定していることがわかります。
ですから、私のポストトゥルースへの認識は「真実かどうかより個人の共感が優先される」というただ一点のみを重視しているのです。良い方にも悪い方にも働くとい両面を平等に扱いたいが為に。

また、記事では「近い人物」と書いてありますが、SNSを介した場合には実際に会ったことがある友人とは限らなくなります。
ここで、「能「山姥」より ~」の追記で引用した「小田亮著「レヴィ=ストロース入門」を部分的に再掲します。

レヴィ=ストロース自身、1968年に放送されたミッシェル・トレゲによるインタヴューで(中略)若者のサブカルチャーを例にして述べている。
(中略)
コミュニケーションの新しい諸方式が、こんな言い方をしていいのなら、「野生の」状態で生まれてきたり、発展してきたりしていることだといえましょう。
(中略)
今日の若者が、自分自身の文化であり、その両親の文化とくらべてまったく異質のものを自分たちのために作り上げることができるとすれば、彼らにそれができるのはマス・コミュニケーションのおかげによるところが非常に大きいのです。
(中略)
今度はもはや垂直な断絶ではなくて、世代間の、あるいは社会の中の機能集団の間の水平な断絶によって未来の社会において再びあらわれるに違いないということは、考えられないことではありません。
(中略)※以降、このレヴィ=ストロースの言葉を解釈した小田氏の本文
ここで述べられていることはマス・コミュニケーションによって均質化されグローバル化された文明と、それにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、そのただなかに出現する多能性の可能性に賭けるという、深いペシミズムのなかから生まれた楽観的確信の表明であることがわかるだろう。
(中略)
その文化が、グローバル化された資本主義市場におけるエキゾチックな商品として、すなわち空疎な抽象としてあがめられるだけにならないためには、その差異化が、正真な社会のレヴィル、すなわち<顔>のみえる関係においてなされる必要があるということなのである。

小田亮著「レヴィ=ストロース入門」 p39~41

ここで書かれた若者のサブカルチャーとは、文化の内容を示しているのではなく、メインカルチャーから外れた主流ではない文化、ガレージ文化のような個々の若者の小さいコミュニティだと考えられます。
親世代や社会の主流とは断絶的である一方で(縦の断裂)、横では小さなコミュニティとして顔が見える関係性が成立している訳です。
それが、水平面でグローバル化された(≒均一化された)文明の中に出現する「多様性への可能性」だと語っている訳です。
「<顔>のみえる関係においてなされる必要がある」という部分は、モダニズム=マスコミュニケーションでは成立しなかった関係性が、ITの発達=SNS等によるインタラクティブコミュニケーションによって擬似的ではあっても成立しているということです。
その広がりは、過去のマスコニュニケーションと同等かそれ以上の規模で共有・拡散されていきますが、個人の間による連鎖としての共感という意味では過去の影響力とは異なります。
ポストトゥルース時代のリスクを無視している訳ではありませんが、上記の言葉を借りるならば「ペシミズムのなかから生まれた楽観的確信」を見出しています。

以下は「”Cateen かてぃん”チャンネル 「Practice Bartok (Test)」」からの引用です。

現在においてはそのサブカルチャー的表現が、完成度の高いマス・メディアの表現を凌駕するムーブメントと成り得る所が、過去に無い文化的様相だと言えます。
(中略)
かつてカウンターカルチャーから発生したロックがメインカルチャーに移行した時期とは違い、他者を介する必要性が少なくなりました。
マス・メディア同様(時にはそれ以上の)の影響力を持ちながら、かつて失われていた個人性を有したその表現性が維持されるのです。
また、個人間の小規模コミュニケーションとして用いられていたSNSも、同じシステムのままで影響力の強いインフルエンサーという存在を生み出しています。
(中略)
良し悪しは別にして、SNSやネット上の評価を個人の価値や存在意義として捉える感覚との関係性を読み取れる為です。
つまり、発信者本人と媒体上の存在性を同一視し易い状況が下地となって、前述の「個人=芸術作品」というインスタレーション的受容を可能にしていると考えられるのです。
(中略)
が、それらのリスクを一方的に避ければ、メインカルチャー以上の影響力を持ちつつサブカルチャー的な新しい表現や個人性のあるコミュニケーションを現代に成立させることは難しいともいえます。

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レヴィ=ストロースの思想については「能「山姥」より 〜」で記載しているので一部省きますが、「(それぞれの)真なる歴史」の基準に「真正の水準」というものを置き、「小規模」「顔が見える関係」を定義しています。
目に見えない超越的な本質ではなく、目前に見えている小さい規模の「顔が感じられる関係」こそに「真正」としての価値があるという事です。
形而上に対して現実として存在する形而下世界の細部を重視する姿勢と言えるのではないでしょうか。
そして、その小さい世界から自然のような大きな世界を正しく理解しようとすれば、二つの非連続的な関係性をつなぐ何かが必要になり、メタ認知や高度な数学のような次元の違う対象をつなぐ関係を設定することになります。

”Cateen かてぃん”チャンネル 「Practice Bartok (Test)」(有料会員コンテンツ)の意味を問う試み 

つまり、ポストトゥルース時代では、ネットを介した疑似的なものであっても「顔が見える関係性」が成立する可能性がある、ということです。
だからこそ、マスメディアからの言説では得られない、親しい友人同様の「共感」が生まれ・連鎖していくのです。
ちなみに、「ポストゥルース」という言葉はこれまでも時々目にはしていたものの、ネット検索で出てくる様なマイナス面でしか認識しておらず、DUMBTYPE展のステイトメントを見た時「もしかしてレヴィ=ストロース語っていたことに通じる?!」とホットワードになりました。
ですが、そもそもでいうと…やはり能です。
能では「主観的だからこそ普遍的である」といわれているため、私にとっての「主観」とは「事実を軽視する」「裏付けのない情報より共感を優先」というマイナス面を持っていなかったのです。(後述)

<坂本龍一氏にみる戦後の抵抗>

坂本龍一氏のご逝去にあたり、様々なインタビューや記事情報を目にしましたが、センセーショナルな見出しということもあり、朝日新聞の「「音楽の力」は一番嫌いな言葉 坂本龍一さんが抱くトラウマ」(有料記事)の言葉を気にされていらっしゃる方が多かった様に思います。
前回のnoteでYMO再生「TECHNODON」を事例にしたように、坂本氏がおっしゃっていることの多くは二項対立におけるバランスを保つため、逆側の言葉をカウンターとして用いています。
ここで語られていた「音楽の力」は、音楽以外のメッセージが込められた俗的な意味でのそれあり、音楽そのものが持っている純粋な力を指してはいません。
記事詳細をみれば両方仰っているのですが、新聞というメディアへの警戒心の顕れか、よりインパクトの強い言葉が選択されています。

ここで坂本氏のインタビューと評論を3つ埋め込み、所々引用します。
二つめの美術手帖のインタビューは途中から有料ですが、上記等のマスコミ各社への言葉遣いよりもナチュラルにご自身を語られた内容で、二週間以内に解約すれば無料となりますのでおすすめです。

「美術手帖 6年後の編集後記〜」のサブタイトルは[『async』と『12』から「坂本龍一」を考える]となっていますが、私がこれまで坂本氏に関してnoteに書いている内容もほぼこの『async』と『12』に関してものです。
美術・芸術の視点から考える場合は、どうしてもこの2点に関心が集中してしまうのですよね。。。
長年の音楽ファンの方からすれば、わずかな痕跡をたどっているに過ぎず申し訳ありませんが、このままの狭い視点で進めさせて頂きます。
(ちなみに、美術手帖の両記事から「モノ派」との強い関連性が記載されていたので、やはり「変位しつつあるクリエイティビティ〜」の追記で記載したDUMPTYPE 展には「ハプリング」があったのだろう…と)

先に3万字インタビューは拝読していましたが、その後美術手帖の二つの記事を読んだ直後の私のTweetは下記です。

#坂本龍一 氏は最後まで二項対立の中で抵抗された方だと思っていますが、残念ながらそれは越えられなかった。でも模索されていたし若い方へ望みは託されていたかと。
(以下、上記の2、3目の記事をリンク)

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 4/9

坂本氏の「抵抗」は戦争に起因し、音楽がプロパガンダに用いられていたことへの危機感から発生したと思われますが、学生運動の終わりに思春期を迎えられていること等、「抗うこと」が社会活動として今よりも身近だった時代を経ていることとは無関係ではないと思われます。
なぜそれほどまで強く「抗う」必要があったのか、逆に言えば強い「音楽の力」を認めていらっしゃったからだとも解釈ができる訳です。
「美術手帖(以下BT)インタビュー」では、「敵対したり、批判的だということは、実際には近しい証拠でもある」とご自身で語られています。

では、坂本氏が認識されていメッセージを持たない「音楽の力」とは何かといえば、それは「同期力」です。

「変位しつつある〜」で梅本氏が引用された坂本氏の言葉を再度引用します。

「世の中の音楽の99%は同期しているし、人を同期させる力を持っている。
同期するのは人間も含めた自然の本能だと思うのですが、今回はあえてそこに逆らう非同期的な音楽を作りたいと思いました。」

アルバム「async」について、坂本龍一氏の発言より((GQ JAPAN - 2017年5月11日 "坂本龍一、新作『async』を語る──「いちばんわがままに作った」")

梅本佑利・山根明季子 編曲- 坂本龍一「andata」(2017)(ヴァイオリン、ピアノとパイプオルガンのための編曲版, 2023

同期というのは作用だけを示す言葉で内容や方向性は含まれません。
音楽は感情や印象・イメージなど様々な方向性に同期として作用し、それが結果として聴衆における「共感」になる訳です。
つまり、同期=同調>共感
そして、その同期力は実は意味やイメージが介在しない状態や抽象度が高い方がたぶん強いのです。
具体的なもの(具体的なイメージなり言語的メッセージなど)が介在しない抽象的イメージや音楽における身体的な感覚は「本能」と語られていた通りに理由なく同期します。
坂本氏ご自身も複数のインタビューでバッハに癒されるとおっしゃっていますし、「解釈とイノセントな表現性〜」に、久石氏の「久石譲の新作、ミニマル・ミュージックの癒し…〜」いう記事の紹介や、私の実体験としてスティーヴ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」についても記載しています。

美術手帖の記事を読む以前に書いた私の坂本氏への位置付けは「対象へのカウンター/アイロニーで、ニュートラルに至るバランスを取っている」というものでしたが、「BT 6年後〜」の松井茂氏も坂本氏に対して何度も「抵抗」という言葉を使われていました。
「BTインタビュー」では、武満徹氏のコンサートで武満批判のビラを作って配ったとまでご自身で語られています。
S(サウンド)やN(ノイズ)の間にM(ミュージック)の設定からも、同次元上の視点を前提とされ両端のパワーバランスを取られているのが見受けられます。
ですがその一方で、同次元上の問題を超越する方法論もお考えになっていたことがうかがえます。

「BT6年後〜」では、「『async』について「ひとつの時間ではなく、複数の時間が同時に進行しているような音楽はできないか」と構造的な意識もみられますし、「『12』からは、音やノイズのなかに「音楽」を聴き出す」こと、NとSの中間地点ではないミュージックを超越的な方法論で構想されています。
しかも、古代に何らかの可能性があることも、お気づきのようです。
「3万字インタビュー」では「死ぬ前にこれだけは読みたい」として柳田國男(近代的視点としての民俗学)と折口信夫(古代のままの視点による民俗学)、ギリシア悲劇(キリスト教影響前のドラマツルギー)を挙げてらっしゃっいますし、「BTインタビュー」では「詩性」の重要性についても触れられ、ベルナルド・ベルトルッチ氏について「政治的な題材を扱っていても、本当にやりたいことは「詩」なんですね。」とか「言葉をあつかうときですら、言葉で言い表せない部分が大事」とか。。。
(※レヴィ=ストロースの言説では、古代文章の発生は「論理」ではなく「詩」であった)
「BTインタビュー」ではアメリカに比べて(日本人としては)「人と違うことをやってやろう、みたいな価値観は全然ない」とシグネチャー(≒神をモデルにした唯一無二のオリジナリティ)に価値を置かないことまでも書かれています。
4/7に坂本氏ご出演時のアーカイヴが放送されたJ-wave「Otoajit」でも、「日本語の自然の姿は浄瑠璃なんですよ、謡とか」と語られていて、上方中心に発展した芸能というところまでクリアに認識されていらっしゃいました。
けれど、「クリティシズムを通ってない和様への接近は、いまでも危険」ともおっしゃられるなど、「和様→軍国化へ進むナショナリズム」への抵抗の大きさが読み取れます。

「BT 6年後〜」の松井氏の結びを引用します。

20世紀前半にはモダニズムとして主題になった「アンフォルム」があって、言わばそれを否定的にとらえる現在、デジタルメディアの時代における「アンフォルム」が問われていると思います。そうした命題に取り組むことは、これからの作家にとって大きな挑戦となるはずです。人類は情報への関心に傾いていますが、情報も本来的には「もの」との関係性です。ここでいう「もの」とはもはや事物ではなく、仮想空間も含めた「自然」のなかで考えられるべきでしょう。李さんは、「AIが人間的限界を宿命とするに対し、当の人間は、自然の属性によって、絶えず未知の生命である」と書いています。なんだかこのあたりに、21世紀のもの派があって、坂本さんもこれに近い考えをもって活動している気がします。大きなことを言うと、人類が「もの」への関心を失うとき、アートもまた終わるのだと思います。

美術手帖』坂本龍一特集、6年後の編集後記──『async』と『12』から「坂本龍一」を考える

この松井氏の言葉からは、レヴィ=ストロースの世界観に通じることをすでに現実問題として受容されていることが見受けられます。
情報ですら「もの」として「自然」として扱うということはITコミュニケーションの情報の中で顔が見える人間の存在を見出すこととほぼ同義で、自然性をITの中でロジカルに捉えている落合陽一氏に通じるものです。
トーマス・アデス氏のようにロジックを持たずに感覚的にそれらの自然を捉える方もいらっしゃるほど、今や身近な実感として得られる時代なのです。
逆にいえば、こ「坂本さんもこれに近い考えをもって」と書かれていることが、「そこに辿り着けなかった、辿り着く一歩手前」という意味になってしまうのです。
中盤に「「レイト・スタイル」「時代遅れ」についての記述が前にあった上での印象でもあるのですが、こういうところが芸術理論の冷徹さなので。。。

坂本氏の「抗う」ことへの固着には、著名人としての責任感としてその枷を引き受けていらっしゃることを強く感じるのですが、ほぼ同時期に放送されたNHKの二つの番組が象徴的でした。

「戦争中の芸術家」は、坂本氏が危惧されていたプロパガンダとして音楽が語られており、ドイツのフルトヴェングラーやロシアのショスタコーヴィチの戦時中の苦悩を伝えていました。
「ライブエイドの真実」では、主催者ボブ・ゲルドフが「今、ライブエイドのように音楽によって世界にインパクトを与えることは難しいと悲観している」「音楽を通して社会を動かすことはもう2度とできない」と残念そうに語っているのですが、実はそれこそが現代の希望とも言えるのです。
音楽が世界にインパクトを与える力を持ち得ない時代なのであれば、戦時のような国家的な大きな影響力にはなり得ないという事なのですから。
その一方で、ポストトゥルース時代の「共感」は距離や国・宗教・民族・年齢という属性を超え、個人間の結びつきで広がります。
現在の音楽は、それぞれ属する共同体においではなく、個人の主観においてのみ同期・共有されるのです。
坂本氏が最後まで危惧された音楽の政治利用へのリスクは、氏が想定されていたものよりも縮減していると考えるのが妥当だと思っています。
番組最後にブライアン・メイに対して「今もウクライナ支援から環境保護まで地道なチャリティー活動を続けている」と紹介し、音楽によるチャリティや励ましが無意味に至ったとまでは語られていません。
坂本氏も継続して東北への支援を続けられていましたし、音楽による音楽以外の影響を全否定していらっしゃった訳ではありません。
音楽の同期力は、「特定の属性において共感を促すもの」から「当事者の主観においてのみ共感を成立させるもの」に変わりつつある時代で、そのアプローチ(出発点)は小規模で行われることが自然なのです。
坂本氏の子供たちとのワークショップの様子を動画や記事から拝見しましたが、音楽の純粋な(=イノセントな)楽しさや喜びをご自身が感じ、伝えていらっしゃいました。
その一方で、悲しい音楽の方が作りやすいという事は度々語られていたようですし、「3万字インタビュー後編」は音楽からは離れ反原発的な内容になっていました。
もし、その抵抗の枷から自由になれていたら、どんな音楽が生まれていたのだろう…と想像したくなります。
もし、はありませんが。。。

注:ポストトゥルース時代だから戦争への危惧がなくなったという事ではなありませんし、音楽の政治利用への警戒が不要になった訳でもありません。
ただ政治利用されていた音楽の効力は第二次世界大戦時よりも弱まったというだけの話で、個人的にはそこに希望を見出したい、ということです。
政治的な視点からすれば、残念ながら戦争への危機感は近年さらに強く感じられる時代といえるのかもしれません。

<二つのアップライトピアノからみるそれぞれのベクトル>

4/1にはソロコンサートツアーで角野氏が演奏されたスタインウェイのアップライトピアノの無料貸出プロジェクト「角野隼斗 アップライトプロジェクト Piano for Myself」が発表されました。
プレスリリースにも書かれているように、「誰かのための演奏でなく、自分の心と向き合う」というアップライトピアノです。
このプロジェクトが発表された時の私の感想はこちら。

「Piano for Myself」「誰かのための演奏でなく、自分の心と向き合う演奏体験」をテーマとされた一方、設置場所の例で語られた「ある程度の環境音があった方がスパイス」という所がポストトゥルース時代にける調和へのヒントかと
#CateenPiano #角野隼斗

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 4/1

「自分の心と向き合う」際には、同時に「完全に周りとの関係性」への問題が生じる訳です。
周りとの関係性を断つのか、周りとの関係性を維持したまま自己と向き合うのか。。。
角野隼斗氏と高木正勝氏は同じようにカスタムアップライトピアノを使われていながら、「自己との向き合い方/環境との関わり方」が全く違うベクトルで象徴的に現れていました。
それを例に考えてみたいと思います。

●角野隼斗氏「坂本龍一 - Aqua」

坂本氏ご逝去に際して演奏された「Aqua」は、前日のコンサートで「自分のために」と断りを入れたうえでアンコールで演奏され、改めてアップライト版がYouTubeでアップされたものです。
坂本氏「Aqua」という曲を、一音一音確かめるかのように自己に刻印するかのように奏でられています。
前回のnoteにも書いたハニャ・ラニ氏のアップライトでも、角野氏が自己と向き合う為に演奏された場合、私にはその音楽が角野氏から独立した存在として感じられました。
超自然的な自立性を持っているというか、音楽を表現している一人称としての角野氏の存在性が希薄になるのです。
ショパンコンクル3次予選の「ピアノソナタ第2番」もほぼ同じ印象を持ち、それが「能みたい」という感想に至った理由です。
この場合、角野氏のそもそもの表現スタイルが外部に向けて開かれているからこそ、内省的な表現への転換キーとしてアップライトピアノが使われているような感じも受けます。
温かみのあるピアノの音の問題だけではなく、ピアノの構造上、自身の前にあるその壁から発した音が聴こえてくるのですから、「鏡」のような存在になるのではないでしょうか。
上への空間に音が上がってていくようなグランドピアノとは明らかに違うはずです。
常時の角野氏の演奏はオーケストラや聴衆との調和・一体感が大きな魅力の為、その表現性とこの動画のそれとは違うように感じられるのですが、「演奏者が同期している対象と同化する」という構造モデルで理解すれば、実は一致するのです。
対象と差異があればキメラ的な同化として「角野隼斗質」的なものが認知されるのですが、本人が本人と同化するので「質」が消えるとでも言うのでしょうか。。。
「角野隼斗質」が消えるということは、音楽の媒介者としての存在性が消えるということでもあり、聴衆は角野氏やその音楽に感情移入するのではなく、あたかも自分が角野氏に移り変わったようにその音楽と一つになったように錯覚し、直接的にその音楽を味わうとても不思議な鑑賞行為になるのです。
人によっては角野氏の感情にも同調されると思われるので私とは違う受け取られ方をされる場合もあかと思われますが、角野氏ご本人の感情に対する同期も常時よりも強いものとなっているはずです。
この際の環境との関わりはというと、角野氏にとってはほぼ存在が無いかのように感じられ、どれほど雑多な環境においても周りを無音化するほどの効果があります(ハニャ・ラニ氏のピアノ演奏時に確認済)。

高木氏の場合は動画がないので、コンサートのレポートを掲載します。

「eatrip seed club - sounds blow vol.13-高木 正勝 " はるのおんど "」GYRE.FOOD

●3/27 高木正勝氏「eatrip seed club - sounds blow vol.13-高木 正勝 " はるのおんど "

このコンサートはお弁当・飲み物付で、演奏中にも飲食OKというもので、客席も普段はオブジェとして置かれているウッドキューブに各々自由に座るスタイルです。
主催のeatrip soilさんが購入されたピアノの初披露!
冒頭は上記で埋め込んだ動画のようにお膝に乗られたかわいらしいお子様とのコラボが始まりました。
コラボと言っても、お子様はピアノが演奏できる訳はなく、グラスの中におもちゃを入れカラカラと音を鳴らしたり、時折ピアノを触ってはまたカラカラ音をならしたり…
幼児が無造作に奏でるグラスのその音は坂本氏「12」「20220304」の様な美しさで、聴いているこちらがハッとさせられたほどです。
最初に曲としてはっきりわかったのは、お祝いと言うことで演奏してくださった「Girls」
1枚目の写真に写っている緑色の大鍋にはマイクが取り付けられていて、そこで始まったお料理の音ともコラボレーション!
卵を、割り混ぜる音、スリコキで擦る音、卵を焼くジュージューした音も、高木氏の即興音楽のパートナー。
5音くらい決めて組み合わせ自由に少しずつ変えていく作曲法、絵を描く様に作曲されるお話や、打鍵した後のピアノからフワッと音がひろがる瞬間(打鍵直後ではなくて1秒弱位後)をとらえて「聴いた通りじゃない次の音を捕まえたい」「聴いて、この音かな…と波にのる」「外の音を聴く」と。
「Marginalia」はこうやって出来てくるのかしらと思ったり。
ところが、、、
ある時「弾くってかんじになるなあ」と、突如演奏を止めてしまわれたのです。
そして「誰か弾くひと!」と客席に呼びかけれ、観客のうちのお一人(男性)と、即興の連弾が始まりました。
その後は、このアップライトピアノのカスタムセッティングをしてくださったという女性ピアニストの方とも即興連弾。
お名前が不明ですみませんが、私のすぐ近くに普通にお座りになっていて、本当にその場で急に!という感じでした。
会場全体が盛り上がり、どんどん楽しくなってくる!

次の飛び入りコラボは、なんとなんと…森山直太朗氏とハナレグミ氏。
曲が決まっていませんでしたが、丁度お鍋と出来上がったばかりのお料理の前ですから…「家族の風景」が披露されました。
あああ、まさに!まさに。世界が音楽に溢れている幸せ!
次は高木氏のお知り合いのパフォーマーの方とパーカッショニスト?の方らしく、ちょっとお名前がわかりませんでした。
パフォーマーの方がグラスにカトラリーを入れて鳴らしたり、ピアノを弾くような姿からは「音」的な質感が感じられて驚いたり、パーカッションは民族楽器の類だったこともあり、やがては「Tai Rei Tei Rio」の演奏になり会場全体がものすごいグルーヴに包まれていきました。
ステージとは別の方向からパーカッシヴな音が聞こえてくるのでそちらを観てみると、先ほどの森山直太朗氏とハナレグミ氏の御二方がカウンターテーブルを叩いて参加されていました。
なんとも表現しがたい幸福感と興奮に包まれました。
演奏後には、お鍋で作られた「特製だし」が一人一人に振る舞われました。

角野氏の「Aqua」が内省的だとすれば、高木氏の表現は外に開かれた環境と混然となったものなのですが、この二つの対比は、実はそれほど単純な話ではありません。
高木氏の「外に開かれた環境と混然となったもの」は、特殊な状況において(このコンサートでは最初と最後の演奏のみ)変化していくのです。
そもそも、私が知っていた20年ほど前の高木氏の表現というものは、ご自身の世界観の中に沈んていく・潜っていくかのようなものでした。
「Marginalia」の環境との調和・呼応する作品は日常的な音楽の存在なのですが(日本的に言えば「ケ」)、ライブ等で特別なゾーンに入ると、周りの環境(観客)も含めて全て高木氏の世界観の中に吸い込まれていくのです。
それがもう…本当に何とも表現しがたい唯一無二の感覚です。
聴衆である私たちは、環境とともに高木氏の宇宙の中で漂うのです。

一方角野氏はというと、常の表現は環境との関わりに比重が高く、オーケストラやセッションなど相手方の表現性との呼応によってご自身の表現性を自在に変化させます。が、その変化に対して「音色」には絶対的個性が備わっています。
しかも、無音であるものに対しても同期・調和させる感性を持ち合わせているため、観客のリアクションも角野氏にとっては演奏に影響を及ぼす条件の一つといえるでしょう。
つまり、常に自己と他者との関係性の中で音楽が奏でられているのです。
だからこそ、その感性・表現性が内省化された場合、自己が自己と同化することで無色化し、曲そのものの存在性のみが燦然と浮かび上がるように感じられるのです。
トーマス・アデス氏の「ピアノと管弦楽のための協奏曲」では、角野氏の自己が消えているように感じられるものの(たぶんリハ時のようなグルーヴが本来角野氏の個性)、オーケストラとの調和が前述した自己と近しいレベルで同調していると思われ、角野氏の存在性は通常より透明度が増し、曲そのものが持つ質感が直接伝わってきたように感じました。

この御二方は全く別のベクトルでピアノを奏でていらっしゃっるのですが、一つだけ共通して起きていることがあります。
勝手な仮説でしかありませんが、本来のそれぞれの表現個性をベースにした極めて主観的な世界観が表現されながらも、そこから超越的に飛躍する表現に至ることがあり、その時、聴衆も音楽として聴くという感覚を超えて、特別な鑑賞体験を得ることができるのです。
これはご本人の問題だけではないので、簡単に「ゾーン入った」という言葉ではない超越性を持っています。
特別に素晴らしい感動を呼び起こすものと言えますが、だからといってこの表現性を常時の演奏に求めるのも少し違っている様に思うのです。
というか、たぶん常時求めたらそこに至らないのではないでしょうか。
日々あるべきそれぞれの個性の中で表現されるからこそ稀に出現をみるというか。。。
まあ、こういう考え方自体が日本的な考え方なのですが、私としてはある種の「ハレ」で、稀に出現することにこそ意味があると捉えています。

あっ、もう一つ御二方には共通点がありました。
今回の高木氏の今回のライブでわかったことですが…
御二方ともに、相性が「かっちゃん」だったのです。笑

ちなみに、高木氏の「Marginalia」の再開は角野氏のラジオ番組「はやとちりラジオ」へのゲスト出演がきっかけで、つい先日、そこからの「Marginalia」がCD化されました。



<主観的解釈とナラティブアプローチ>

ここからは、いままでこのnoteに書いたことがないほどの角野氏批判を含みます。
また、ファン批判と受け取られかねない内容もありますが、坂本氏と同様の「抗い」が私の中には存在するので、申し訳ありません。
ご承知の方のみお読みください。
(ご反論がお有りの方は直接ぜひコメント欄にお願いします。また、非公開のやりとりをご希望の方はその旨コメントくださればTwittterのDMを解放させて頂きます)

4/10の「THE TRAD」『音楽家、坂本龍一が残した音楽』の内容は、正直拝聴するのが辛いほど酷かったです。
ご年齢から考えれば坂本氏の音楽履歴をすべて把握されていることは難しいとは思いますし、精神的なショックからうまく考えが纏まらないという見方もファンの贔屓目では可能なのですが…(稲垣吾郎氏のフォローの優しかったこと!)。
最後に稲垣氏からの「龍一さんから引き継いだ、どんなメッセージを伝えていきたいと考えていますか」へのお答えが、私には納得できませんでした。

「坂本さんは音楽を通してメッセージを伝えたいという事は…あんまり好きでは無いような‥」
「ただ音楽は音楽だって」
「僕も坂本さんの音楽を演奏する時は何かメッセージを伝えたいとは思わないし、僕はただ好きだから弾くし、今後も彼の影響を受け続けて音楽活動をしていくんだろうな」

角野氏は以前から、坂本氏の本の影響かと思われる「メッセージは込めるのは好きではない」「どう受け取ってもらっても構わない」という様なことを表明されていらっしゃいました。
けれど、「抗い」のない角野氏が発してもその言葉の意味は全く違ってしまうのです。
そして案の定、直後にそれを実感する出来事がありました。

4/17に「かてぃんピアノ」「角野隼斗アップライトピアノプロジェクト」の関連動画として、「追憶」の動画がプレミア公開されました。
メッセージ性が強いこの動画のどこが「メッセージを込めることは好きでは無い」のか、私は角野氏に問いたい!
どれほど世の中のためになるプロジェクトであろうとも(私自身もこのアップライトピアノプロジェクトには大きな希望・期待を抱いていますが)、坂本氏なら絶対にこんな動画は作成されないはずです。
また、角野氏のラジオでの発言に共感を寄せた多くのファンの皆様は、何ら疑問を持つことなくこの「追憶」に陶酔されていましたが、私には坂本氏が心配された戦時中のプロパガンダ同様の無批判さにしか映らず、不気味さしか感じません。
※なぜこれほど不気味さを感じたのかは追記3に記載
しかも、実在性を転用して固有のメッセージを強固に伝達する「特殊な演出」は、ナチスが用いたプロパガンダの方法論にほぼ近いのです。
サブリミナル的な表現(←気づく時点でサブリミナルでは無いですけどストーリーの印象度にに直結する「気づくか気づかないかの仕掛け」)もあり、一つのメッセージがより強力に伝わるようあらゆる手段が尽くされている動画なのです。
完全なフィクションとして作られているならば、これほどの拒否反応は起ません。
現実のシチュエーション(公開時には閉店している、角野氏にとって思い入れがある場所)に、ワンカメ・ワンカットという…ある種ドキュメンタリー的な手法で作られていることが、問題を大きくしているのです。
ナチスのプロパガンダとして制作されたレニ・リーフェンシュタールのベルリンオリンピック記録映画「オリンピア」は、ゲルマン民族の優位性をその美で表現していますが、ドキュメンタリーとして記録する体裁を持っています(実際には完全なドキュメンタリーではありません)。
「実際の出来事」というレトリックで「真実味」を補完し、「ゲルマン民族の優位性」という「ナチスだけの真実」の信憑性・信頼感をその「事実」で増幅させたのです。
この動画では、角野氏が持つ実際の文脈を利用し、実際の場所で、ワンカメ・ワンカットで撮影されていますが、プロによって計算されつくした演出で美を表現した「実際には存在しない虚構世界」なのです。
虚構を現実と見紛わせる「オリンピア」のような手法に感じられてしまう訳です。

今風の言い方に改めるならば、このPV(ミュージックビデオではない)は
リアリティショー」同様、現実のキャラクター設定を利用したコンテンツなのです。
一見、前述した「顔が感じられる関係=真正」に通じている様に思われるかもしれませんが、個人が「生」のままでないという意味では「真正」ではありません(SNSにおいても対人関係においても厳密な意味での「生のままの個人」などあり得ませんが)。
「現実性を補強する演出」が「共感の強さ」と結びつくことで、冒頭に引用したポストトゥルース時代の危惧「真偽が判断できなくなる状態」に至らしめるのです。
ひどい言い方になりますが、角野氏のピアニストとしての実体験をプロデューサーの角野氏が利用した、自分が自分に身売りした。芸術家としては禁じ手を使った、ということです。
その手法は今回たまたま善としての方向に傾いているだけで、坂本氏は善悪は相対的、戦時中の国民は善だと思って軍国主義に加担したという様なことも語られていました。(記憶だけでなので言葉遣いは不確か)
どれほど素晴らしいメッセージでも、音楽への敬意があるほどに坂本氏はそれを最も強く拒否されたはずです。
「音楽を作る側がそういう力を及ぼしてやろうと思って作るというのは、言語道断でおこがましい」と。
この動画には、音楽そのものへの敬意、芸術の独立性は不可侵であるという理念が欠如しています。
他者の作品だったらここまでのことはされなかった可能性がありますが、自作品であっても、生まれ出た時点で作家・演奏者本人と切り離された「芸術として尊い存在」なのです。
しかも、角野氏はこの動画を制作されていたにも関わらず「TRAD」で坂本氏の言葉を引用されていた訳ですよね。。。
坂本氏がどれほどの重さと責任を背負われた上で抵抗されていたのか、やはり今の若者には理解などできる訳がないのだ…という落胆しかありません。
もし、坂本氏がご存命でこの動画をご覧になられたら、私は角野氏が受け入れられることはなかったと思っています。

とは言っても、今後ナラティブアプローチは多くなっていくでしょう。
その意味では表現としては先端でもあります。
坂本氏ご逝去による一連のことがなければ、私もここまでの気づきははかったかもしれません。
この時点で改めてポストトゥルース時代へのリスクについて気づかせて頂くことができました。

下記は「追憶」が公開された時の私のTweetです。

成る程、良く考えられてる!#かてぃんピアノ #角野隼斗 アップライトピアノプロジェクト主催者がこの動画を使ってイベントPRができる様に、クリエイティブコモンズライセンスCC BYが設定されています。著作権者のクレジット表示で編集・改変自由です。
Recollection - 追憶 https://youtu.be/NFbgo8ACSrs

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 4/17

正直、このことしかつぶやけなかったのです。
私には、他者の手で変わっていくことを前提に作られていることが、表現者としての角野氏に対する信頼が唯一担保された部分でした。
絵の上からトレーシングペーパーや薄紙をコラージュしてさらに絵を描く前提なら、そのままだと鮮やかすぎて違和感を感じるくらいで丁度良いと言う感覚に近く、コラボ前提の素材動画という位置付けです。
新たに様々なイメージやメッセージが乗ることを前提にしたものだと考えれて、どうにかギリギリ‥というところです。
まあ…私がファンとして自分を納得させるだけの理由づけかもしれません。

その後、4/20に行われたNYでの1回目のかてぃんラボで、「日本にいるとアウトプットに100%時間を割く」という言葉を聞いた時に、ああああ、、、、と。
広義の芸術家としてのインプットが不足していた所での120%のアウトプットだったのか、と思わずにはいられませんでした。
ピアノの演奏だけであるならば、一つの解釈に限定されるような安易な表現はほとんどされてこなかったのです。
かといって坂本氏の様な頑なさもなく、ナチュラルに自由でイノセントな表現こそがその最大の魅力でした。
ABCラジオ「緒方憲太郎の道に迷えばオモロい方へ」で、「楽しさのレイヤーが何個かある」とおっしゃっていたとおりに、メッセージをこめるかこめないかという二項対立ではなく、ひとつのメッセージに固定化されない複数の解釈可能性へも言及されています。
固有のメッセージ性を無効化させるには二項対立でバランスを取ることも答えの一つですが、具象的理解が不能な抽象表現でも良いでしょうし、無機質で何もイメージさせないものでも構わないというだけのことです。
そういう演奏をされているにも関わらず、自身の物語性を利用して一つのメッセージが強く伝達されるPVを、自身のプロデュースで制作してしまったのです。
ピティナの方のお言葉「全幅の信頼」「彼の後に道はできる」という期待に応えようと頑張りすぎてしまったのでしょうか。。。
ただ、戦時下で国威高揚に駆り出された当時の芸術家の多くは、こうやって国からの期待に応えてしまったのですから、それを理由に私がこの動画に納得することはありません。
単純に、角野氏には広義の芸術においてインプットが不足してた、社会的影響力が強い芸術家としての自覚が足りなかった、ということだと思います。
実際問題、この若さで日本のピアニスト業界を背負うにはまだ荷が重すぎたという気がします。

ここで、ヴィキングル・オラフソン氏のTweetを埋め込ませて頂きます。
普段Twitterのおすすめタグは内容を見ずにすぐに変えてしまうのですが、このTweetが流れてきた時、英語がわからない私ですらパッと見でここに全てが詰まっていることを直感しまた。

DeepL翻訳
「音楽を解釈することは、誰かからのメッセージを自分のものにするようなもので、そのメッセージを作った人と自分が出会うようなものです🎶 」

このオラフソン氏の言葉こそが、芸術へのニュートラルな視点です。
表現(作品)と対峙した時、間に必ず「解釈」という行為が存在するのです。
「自分のものにする」という「解釈」行為を通さなければ鑑賞は成立しないということです。
言葉として固定化できない「何か=質感・イメージ・情動」を音を通して伝えるから音楽なので、聴衆は「何か」を個人として主観的に受け取るしかありません。
なぜ主観的なのかといえば、言葉のように多くの人々に意味が共有されている媒体記号を用いていない以上、客観的受容にはなり得ないからです。
客観的な音楽評価を否定している訳ではありません。
それは、音楽としての規範モデルに比較した際の評価であればある程度の客観視が可能でしょうが(絶対的な客観性は担保されるとは言えませんが)、一般的な意味での鑑賞ではないということです。
逆に言うと「メッセージを込めるのが好きでは無い」ということ自体が、実は伝達性を過大評価していることに他ならないのです。
受容者の解釈が必ず存在することを前提にするならば、メッセージを込めようが抽象性が高い無機質なものであろうが、結果の違いはないはずなのです(後者は茶道具のように、意味のないものに解釈として銘を勝手につけるような行為につながる)、
このことは、坂本氏も当然お分かりでした。
前述の朝日新聞の有料記事に「音楽の感動は誤解」「理解は誤解」「感動するかしないかは、勝手なこと」と語られていますから。
私がFCコンサートで鴬の鳴き声と感じたことも、そもそも「337×6」に角野氏の能動的な音楽以外の芸術性を見出したことも大きな誤解です。
が、だからといってその感動が私の中に存在することは確かなのです。
それを何と呼ぶのかはわかりませんが、仮に「真実を超えた実在」とでも言っておきましょう。
つまり、問題は表現にこめられたメッセージそのものにあるのではなく、多様な解釈を無いものと定義した表現、表現解釈の多様性を隠す表現にあるわけです。
これが選択されると表現に込められたメッセージは一択のみ、受容者を一つの答えに誘導するのです。
私はPV「追憶」の演奏から、「Aqua」のように自己に向き合う内省表現には感じられませんが、「角野隼斗」という個人のメモリアルイメージを想起させ、過剰なほどに「Piano for Myself」というコンセプトを伝達しています。
PVという役割として考えれば多くの方に伝わる必要性があり、演奏を内省表現にすべきだとは思っていません。
また、個人の主観のなかで実際に自己にむきあっている、と思われる方を否定している訳でもありません。
「角野隼斗」の文脈にある実在性を利用した、印象の誘導に問題がある・禁じ手だと言っているのです。

概念そのものはオラフソン氏も坂本氏もほぼ同じでありながら、稀であるという前提で出会を素晴らしいと語るオラフソン氏と、同意を前提とした社会に対して解釈の相違を反論として語る坂本氏。
そして、何も考えずにあの動画を作ってしまった角野氏。。。
現代においては、もう坂本氏のような強い抵抗は不要であったはずなのですが、抗うことをやめられなかったご心境に、私は共感できてしまうのです(後述)。

一方、受容者側も「解釈」を避ける場合があります。
多くが無意識的に行われますが、対象者への同化(エロスの概念として)志向が大きい場合です。
坂本氏の訃報の際、坂本氏への追悼よりも悲しまれる角野氏への同情が大きく、坂本氏関係の方や坂本氏のファンの方に失礼だと思える投稿を散見しました。
エロスが介在する同化への志向は、より強い同調への欲求に至ります。
ポストトゥルース時代の問題として改めて気が付いたことは、坂本氏が懸念されていた体制への同調より、個々の同調・共感が強くなることによる反作用的な分断が大きくなるだろう…と。
「共感を持つ人と持たない人との分断(共感がある人々に対しその共感性が強いほど共感を持たない人の反発は大きくなる)」※私自身が今実感しているがこのnoteです
「自分だけがより同化したいという欲求による分断(例:同担拒否・同族嫌悪)」

では、どうすれば良いのか…ということになりますが、ナラティブなメッセージ全体をそのまま共感として受け入れるのではなく、一つ一つの部分を丁寧に意識するしかないのです。共感できる部分とできない部分と。。。
さらに、その共感は真実だからこそ発生している訳ではないということを自覚し、個人の主観として他者の主観に共感しているに過ぎないこと、主観的解釈という作用の存在を前提にするしかありません。

そう考えた場合、多くのヒントがやはり古代にある気がしています。
そもそも古代のコンテクストはロジックではなくポエトリーで、一つの真実を伝えるものではありません。
そこに自然が存在するかのように、見方や意識によって大きく変わっていく表現が散りばめられています。
ある種の矛盾を包括しながらそれらを全体に緩やかにつなげるためにナラティブな手法が用いられているのです。
ですが、これら古代の表現性・感性は日本では昭和までほぼ残っていました。
いわゆる「情に訴いかける」手法ですが、古代とは違い一つの答えを強く伝達するために用いられていたことが最悪だった訳です。
これが私にとっての「抵抗」の大元になっているのですが、個人的なことなので小文字で書きます。
(でも、このことが後に少し関係してきます)

●戦後の反戦教育
戦後教育は「いかに戦争が酷いものであったか」という恐怖心を子供に植え付けるもので、なぜ軍国主義に向かったのか・戦争に至ったのかのロジックが欠け、まさにナラティブのアプローチのみ。
そもそも、戦前・戦中の国威高揚と全く同じ手法でその中身を反戦に変えたに過ぎません。
私の幼少期には巣鴨や新宿等にはまだ傷痍軍人の方が物乞いをされていました。
手や足の切断から顔が崩れていたりケロイドの酷い方が真っ白い装束で筵に佇み、軍歌と悲惨な状況を具体的に物語るナレーションが大音量で流されていました。
小学校教育でも生々しい写真を直接見せられ、決定的だったのは小学1年で観た「はだしのゲン」の実写映画、どれほど怖いと泣き叫んでも外に出してもらえませんでした。
当時は呼び名もその症状すら認められませんでしたが、今で言うPTSDになってしまいました。
不眠は数ヶ月以上続き、日常で飛行機の音が聞こえれば建物の影でうずくまる、毎年平和の鐘の音がテレビから聴こえてくれば吐きそうになるため夕食は摂らず、部屋の布団の中で泣いていました。
PTSDがPTSDたる所以は、時間が経ってもその苦しみから解放されないことです。
高校3年の修学旅行で九州に行った際、バスの中で「ここから長崎市内に入りました」というガイドさんの言葉から以降、窓の外も観られません。
ただ震えてうずくまり泣くしかできないのです。
当然平和公園の見学などできるわけもな、一人バスの中で留守番、長崎市を出るまでただ泣き続けていた記憶しかありません。
今も書いている手が震えてくるほどですが…PTSDの対処法も現在は広く知られるようになり、自己流の対処でずいぶん軽くはなっています。
本来の記憶は前頭葉や海馬を通って感情が側頭葉に記録されるのですが、あまりの衝撃で全てを飛び越し直接側頭葉に記録されるとPTSDになるのだそうです。
症状を改善するには、通常と同じ記憶のラインを新たに作る、辛い感情の記憶を前頭葉を経たロジックで上書きするのです。
PG-12やR-15は、子供は前頭葉が未発達であるためにダイレクトに側頭葉に記録されるリスクが高いという非常に納得ができる規制です。
古代のテキスト発生はロジックではなくポエトリーである、というレヴィ=ストロースの論説です。
「言葉が先か思考が先か」という問いがある通り、言語はポエトリーではなくロジックと対になっていると思われがちですが、私は実感としてはこれがとてもよくわかるのです。
古代の人々が言語を獲得した始まりから、その前頭葉の発達が未熟であれば側頭葉への働きかけが強いポエトリーこそが伝承に適しているからです。
日本でも世界でも、古代の歴史が神話で語られるには必然性がある、ということがわかるのです。
そして、坂本氏のあまりにも頑なな「抵抗」は、どれほど長い時間が経っても、頭ではその必要がないと理解していても、どうにもならない存在として感じられるのです。

これまでずっとナラティブな世界観で生きてきた日本人にとっては、なぜ急に「ナラティブ」と言われるのか不思議に感じるほどですが、西欧ではルネッサンス以降ロジカルな思考が主体だったため、一つの真実の力が弱まった今、ナラティブという概念が浮上してきたと考えられます。
(ただし、もともとは心理学の分野からの概念でその発生がアボリジニの文化が残るオーストラリアからだという事にも何かしらの必然性を感じます→詳しく調べていないので勝手な想像)
日本では今まで身近にあった感性だと思われるのですが、共感の繋がり方・影響力の広がり方がインターネットの出現で劇的に変化したという事だと思われます。
私が大きな共感が起きても先の戦争のようにはならないだろう、分断の方が大きな問題になるだろう、と考えたのはそのためです。
(戦争が起きるか起きないか、という問題とは別問題)

そう考えると、古代から受け継がれている日本の古典的な表現性には、ポストトゥルース時代に有用な方法論が隠されていると思われるのです。
というよりも、私がポストトゥルース時代に対してつい最近までネガティブなイメージを全く持っていなかったのは、古典にみられる主観を前提にした表現性を想定していたから、ということに気づきました。
以下、能の主観性について書きますが、詳細・補足のため小文字にします。

●能の主観性
能では「主観的だからこそ普遍的である」といわれます。
主観的=一人称の視点だからこそ、時代・ことば・生活様式が変わってもその人がその時に感じた感情や想いがリアル伝わり、まるで自分がそう感じているかのように錯覚することがあるほどです(角野氏が奏でる内省的表現に近い)。
映画やドラマのような具体的な感情移入にならないのは、劇中設定が曖昧で表現として抽象度が高く、「主観的な想い・感覚」の方が大きく伝わってくることが要因だと考えられます。
世阿弥の詞章の特徴といわれるのが「叙事詩であり抒情詩でもある」ということです。
叙事詩というのは事象を表現している詩であり、抒情詩は感情や思想を表現している詩で、景色そのものの描写自体が感情表現になっているような、二種の表現性が同時に一つの文章の中に内在しています。
この二つのイメージのどちらを強く感じるかは演じるシテの解釈や観者の解釈に委ねられています。
また、能では同じ条件で上演すること(同曲を同じ演者の組み合わせ)を拒むため、同じ解釈・表現性に至らないものとして創作されている可能性もあります。
金春禅竹の場合は、全てが「抒情詩」的な内省的表現ですが、禅問答のように結論が見えない=抽象度が高められています。
この場合、どちらも「抽象」の有り様が、無意味な方向性ではなくイメージを想起する方向に働いているところが、日本的とも言えるでしょう。
武士の話をテーマにした修羅者は、今の私たちの感覚では「反戦」的な印象しか持たないのですが、実際には足利将軍の庇護を受けていた訳で‥
なぜにこんな物語・表現を武士が好むのか?という疑問さえ覚えるのです。
が、人間の多くが自分に都合の良いバイアスで物事を解釈していると考えれば、義満が気に入るような表現に感じられたのかもしれません。
世阿弥が意図的に解釈にかかるバイアスを利用して作能したのか、自然界の存在性そのものが相対的な理解でできていることを写したのかはわかりませんが、どれほどナラティブな表現性であっても一つの答えには辿りつかないのです。
たぶん、世界中に残る古代の神話は似たような表現性だと思われます。

唯一神的な一つの答(=真実)の価値が下がることで、相対的な視点による主観的な共感性という価値が高まった結果、二次元的な相対バランスだけでなく、多層や双対という構造的な表現性への希求につながったのでは…というのが私の仮説です。

私は、これら日本的な感受性や方法論を現代の表現に展開できる可能性が大きいと感じています(というか、造形芸術では行われている)。
様式としてのエキゾチズムやジャポニズムをモチーフとして引用することとは全く違います。
それは日本に限ったことではなくそれぞれ民族や国々にもあるもので、ポストトゥルース時代にはそれぞれの出自から様々な表現性が生まれる可能性がおおいに考えられるでしょう。私はそれが本当に楽しみです!
また、日本では昭和までナラティブな表現が主流だったということは、逆にロジカルな視点が不足していたということでもあります。
これからを担う若い方々には、何にも抗う必要のない自由さで、その感性や方法論をこれまでとは違う表現として展開されることを望みます。
坂本氏が東北の子ども達と接した様子を動画等で拝見すると、ご自身が持つ頑な純粋性を求めているようには感じられず、ただただ音楽を楽しまれているだけのように感じるのです。
勝手な想像ですが「神奈川フィル〜」で書いたような、音楽の楽しさ・喜びが世界中に広がることで訪れる平和を願われていたように私は思っています。
(もちろん、勝手な憶測です←自分に都合の良いバイアス)

そしてそして、やはりこのnoteには偶然的なシンクロニシティが起きるらしい。。。
4/22にオペラシティで聴いたスティーヴ・ライヒ2020年の新作「トラベラーズ・プレイヤー」が、まさに古代的な感性や方法論を現代に再構築した作品だったのです。
目的は15年ぶりの日本上演「18人の音楽家のための音楽」だったのに…笑
(ここでは詳しい感想を書きませんが、「18人〜」はめっちゃエモくてグルーヴヤバすぎ!6/12 NHK「クラシック倶楽部」で放送予定!)
あのライヒが!?というほどの、これまでとは全く違く作調なのですが、古代を受け継いだ14世紀の宗教音楽スタイルを下敷きに、ヘブライ語を用いた呪術的な歌唱(シャーマンから教示を受けたとのこと)が用いられています。
ご本人の紹介動画
旅行される方へ・亡くなった方へ・新たな門出に向けて、その時々に無事や幸福を祈る気持ちとして長いあいだ捧げられてきたテキストだそうです。
無粋な説明となりますが、その音楽には大きなメッセージが込められていても、旅行される方にも亡くなられた方にもまた実際に旅をしない方へも「祝福」が伝えられるものなのです。
パンデミック前に制作が始められ完成は2020年、その間に言葉の重みが変わってきたともパンフレットには書かれていました。
私も、もしこの言葉との出会いが少し前だったら、全く違う感慨だったと思うのです。
私は今まさに、この言葉に出会えたこと・唱えられることに感謝を覚えます。

<トラベラーズ・プレイヤー 歌詞訳>
「コリン・カリー・グループ ライヒ《18人の音楽家のための音楽》」
パンフレットより抜粋
※ぺブライ語の祈祷書「旅人の祈り」へ付加される形で唱えられるテキスト


見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、
あなたを道で守らせわたしの備えた場所に導かせる。
(出エジプト記 23.20)

主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。
(創世記49.18)

あなたの出で立つものも帰るのも/主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。
(詩編121)



<おまけ 角野氏NY移住への私感(←「感」の方)>

角野氏がNYに拠点を移されたことに対し、温かい励ましやお心遣いを述べられるTweetをたくさん拝見しているなか、このタイミングでこのnoteの内容は相当酷いという自覚は持っています。
が、それが芸術を「主観として鑑賞する」ということなので、どうしても譲れないのです。
実はこの記事を書き始めた時点では、今回で投稿を終わりにするつもりでした。
2月入って、このnoteに関する身バレリスクが高くなったからです。
もともとは、造形芸術や能では当たり前のようにみられる表現がクラシック音楽では特異だと思われている点に納得ができず、その比較を中心として書いていたのですが(私が角野氏のファンになった要因もそこにあるので)、さすがにこの一年で一通り書き終えた感・ネタが尽きた感があります。
秋田で聴いたガーシュウィン「in F」で長年の望みが満たされた事も大きいでしょう。
別に身バレが決まった訳ではないのですが、気にしながら書くのはわずらわしく、諸条件が全て終わりに向かっている様に感じていました。
それもあって、ファンの皆様とは今後距離を置く可能性があったとしても、それを厭ずに書くことができた訳です。

ところが、NYからのラボ配信の翌朝、なんだかとてもスッキリ気分良く目が覚めて、そうだ!と気づきました。
角野氏のNY移住でこのnoteの身バレリスクが下がったのです〜〜〜♪♪♪
新型コロナ5類への移行で平日のコンサートはほぼ行けなくなりますが、日本での活動が少なくなれば経済的にも週末の遠征が選択肢になります。
寂しさを吐露されていらっしゃた方々には申し訳ないのですが、自分の推し活にとっては願ったり叶ったり!!!
とはいえ、ネタ切れ感が払拭できる訳ではないですし、こんなnoteを書いてしまった以上は今後どうするか…みたいな問題もあり、これまでの様な頻度(行ったコンサートの後に必ず書く)にするかは未定です。

実は個人的にとても期待していることがあります。
NYには、音楽評論家であり(米国作曲家作詞家出版者協会ディームズ テイラー賞の音楽評論家賞を2回受賞)、ウォール・ストリートジャーナルで美術評論を連載されているエドワード・ロススタイン氏がいらっしゃるのです!
日本には角野氏の総合的な芸術性に対して評価できる批評家はいないと常々残念に思っていましたが、ロススタイン氏ならそれか可能です!
角野氏はマーガレット・レン・タン氏とすでにお知り合いになられていますし、タン氏とロススタイン氏はお知り合いですから、今後ロススタイン氏による論評は可能性として大いに考えられます。
私はロススタイン氏がどう角野氏を評価されるか本当に本当に知りたい!!!
カーネギーホールでのコンサートや著名なミュージシャンとのコラボも期待されますが、自分にとってはこの興味や期待に勝るものはありません。
本能にも近いそのイノセントな表現が、ポストトゥルース時代の分断を超えるものと成り得るのか。。。

最近、高木氏が坂本氏との御関係をTweetされていました。
私は高木氏の初期作品と最近の作品を聴くことが多く(というか途中はあまり知らない)、テクノ色が強い初期作品からはきっと坂本氏の影響がお有りだろうと思っていたのと同時に、「Marginalia」は「12」へも影響を与たのではないかと感じていました。

ポーター氏の動画は自動翻訳で見た限りですが、ご自身の表現との違いを明確にした上で共感を示され、まさにポストゥルース時代の理想的な共感性に感じられます。(ちなみに、私が経験したお子様をお膝に乗せての演奏の様子やその音楽性についても語られています)

そう、若い芸術家にはその時にしか持ち得ない「特権」があるのです。
角野氏の、小曽根真氏やハニャ・ラニ氏との出会いもそういうものだったはずですが(ちなみに、ハニャ・ラニ氏もツアーの合間に度々坂本氏へのオマージュをインスタストーリーズで投稿されている)、今の日本で角野氏がこの特権を生かすことはもう不可能です。
NYでは、若い芸術家としてしか得られないさまざまな出会いを、その好奇心のままに満喫されるのではないでしょうか。

台湾のコンサートの後は急なラジオ出演のみでしたから、それがなければ居住をそのままNYに移されることになっていた訳ですよね。
台湾行きの空には「行くぞ〜!」と気を吐く龍がはっきり感じられて不思議に思っていたのですが(見えない方は写真をタップ or クリック)、今考えてみるとなるほど…と。
龍神様も一緒にお引っ越しされましたね!


★すばらしいコメント(ご感想)を頂戴しました。
ずっとしたの方にコメントがありますので、ぜひご一読を。
特に4つめのコメントには、今の時代の音楽家に何が必要とされるのか…
すっきり分かりやすく書いて下さっています。

追記

<追記1>

プロパガンダと認定されたものでも、純粋な芸術の観点ではその価値は存在しています。
芸術作品の独立性を認めているが為に、作品やその表現の用いられ方には注意が必要、というのが自分のスタンスです(特に後年の価値については)。

本編とは全く関係ないですが、当時プロパガンダと認定された作品についての相対的な価値観、芸術とプロパガンダの境界の揺らぎを問う藤井光氏の展覧会がオンラインで4/26から開催となりました。
これもまたシンクロニシティ、ということで追記させて頂きます。
視覚的にはポップで可愛い・カッコいいと思えるように梱包材を作為的に切り取り、境界・価値観・評価を曖昧にする作者の意図が感じられます。

●藤井光
「プロパガンダと芸術の境界線、戦争画で考えた」(昨年の展覧会)
   ↓
「藤井光の日本の戦争絵画を巡るインスタレーションが、ボックス&インスタレーション作品としてオンラインで公開へ」
(上記末文にオンライン展覧会URLが掲載 2023 4/26〜5/30 )

●補足
戦後の反戦教育を正しいと思われる方々にとっては、プロパガンダ作品の価値ををポップな表現に変換することは許し難いものかもしれません。
けれど、そういう個人的感情を超えた表現を可能にしているのが芸術ですし、芸術の分野だから許されるということもあるでしょう。
抵抗する方の気持ちも私にはまだ少しだけ共感を持てる年代ですが、それはやはりその時代特有の感性です。
歴史化され直接的感情が起きない時代にあっても、芸術はその関係性や問題点をその時点での感性の中で鑑賞することを可能にします。


<追記2>
実は、「追憶」の動画が公開される前には別の結論を用意してこのnoteを書き始めました。
100歳を超える現在も制作に向き合われているその表現性が、角野氏にとても近く感じられていたからです。
前回のnoteも含めて最近は「今の時代の感性」として書き進めていましたが、その方の表現姿勢をみると時代は関係のない原始の時代から続いている一番自然な姿なのかも…とも思ったのです。
ただ、<追記1>やその補足記を書きつつもそれを今まで書かなかったのは、私の中で割り切れないものがあった為です。
それが角野氏のNYの動画を観て解決しました。

とはいえ…この「I moved to New York」を拝見した時には決してプラスのイメージは感じられませんでした。
世界の中心ともいえるNYでのご自身と、継続する日本での位置付けとが統合されないモヤモヤ、その両者に対して身構えている感じがなんとなく伝わってくるとでも言いましょうか。。。
いくら厳しい環境に身を置く決断をされたとは言え、学生の様に身一つになれる訳ではありませんし、その重さはショパンコンクール時のリスクの何倍もあるのでしょう。
こんな風に書くと、どこにもクリアになった理由が見当たらないと思われるかもしれませんが…まさにその通り。
私には見出せなかったのです。
相互フォロワーさんがこの動画についてTweetされた言葉の中に、それがありました。
この動画のサムネの印象から「#ピアノに一礼」と書かれていたのです。
ところが、動画にはそのようなシーンは無いのです。。。
でも、このサムネは明らかにNweピアノに対する敬愛があふれた挨拶として感じられます。
まさにフォロワーさんの主観による発見!
それをシェアして下さったことで、私も見出すことができ本当に感謝しかありません。ありがとうございました!
ということで、本来書くはずだった結論と、改めて感じたことについて。

●「生誕100年柚木沙弥郎展」@日本民藝館


館内で撮影許可されていたコーナー

柚木沙弥郎氏は昨年10月に100歳を迎えられ、現在もまだクリエイティブな創作活動を続けていらっしゃる民藝の染色家です。
最終日4/2に駆け込んだのですが、可愛くて斬新で時代を感じさせない瑞々しさに溢れていて、どれが古い作品なのか新しい作品なのかもよく観ないとわかりません。
そもそも、100歳とは思えないほど自由奔放な作品たち。
ただ、館内に流れていた2018年の講演動画を拝見すると、仕事には厳しい言葉を語られていて、すべて「染色に身を捧げている」という感じがありました。
でも、作品からはそういう厳しさは感じられずにどれもが本当に愛おしくて楽しくてかわいい。
で、これは前置き。
書きたいことは『民藝』2023年1月号「柚木沙弥郎のいま」で掲載されていた「インタビュー・本気で信じること」からの言葉です。
ここから書く言葉は上記のリンクから画像を拡大すれば読めます。

「自分の信じるものを掴めば楽しくなる。本気で信じること」
「人々が生きる元気を、見て、感じてくれればいい」
「人間が熱くなると、(中略)衝動はそのまま移っていく(中略)火が点いたように燃え上がる」
「これいいなと思うもの(中略)そう思う気持ちに古いも新しいもない」

ここからは上記以外のページです。
「第三者がいて僕を元気づけてくれる(中略)ワクワクすることで創造できる」

これを読んで下さる方は、どこかで似た様なことを聞いたことがあると思うのです。笑
ですから、坂本氏とは異なるこの感性をnoteの結論としてまとめたかったのです。
実際は思わぬ方向に転んでしまいましたが。。。

ただ、ここからは割り切れないこととして、追記1のタイミングにも書けなかったところです。
最も驚いたことは、学徒出陣されていらっしゃったにも関わらず、だからこそ?軍艦を愛でていらっしゃること。
しかも、今の人が興味を持たないことに「子供の頃に戦争を経験していないから仕方が無い」とまでおっしゃる。
私は当初、単に好きなものには倫理は関係無いという意味で受け取っていたのです。
前述した「プロパガンダと認定されたものでも、純粋な芸術の観点ではその価値は存在する」と同様に、価値の分離。
ただ、こういう分離(藤井光氏作品も含め)は、日本独特な気もするのです。
なぜなら、西洋では芸術や作品個別の価値よりも倫理の方が重いと考えられる事が多いからです。
ゲルハルト・リヒター氏の例をみても西洋ではホロコーストの罪は日本人が想像できないほどに大きいものだと感じますし、バタフライエフェクトでも、60年後彼のエルサレムでのコンサートでワーグナーの演奏の可否を巡りユダヤ人の観客が口論になっていたり…
「罪を憎んで人を憎まず」という価値の分離に対して、日本人は割と罪悪感もなくすんなり理解できてしまうのですが…それはなぜか。。。
たぶん、無常観とそれに通じるアニミズム的な感性に起因するのではないでしょうか。
同展覧会で公開されていた柚木氏の講演会動画でも、日常生活の中の感謝を語られている部分を拝見していたこともあるのですが、芸術だろうが戦争のために作られた道具だろうが、自然界にあるものだろうが人間が作ったものだろうが、「尊厳」は同じである、という感覚をなんとなく感じました。
ノイズとサウンドを平等に扱う坂本氏のスタンスは、その平等性をクリティカルなロジックとして展開されたものですが、私にはやはりアニミズムの影響が感じられるのです。
ご自身としては無意識的だったとしても。。。
なぜなら、私自身が桜の動画を撮った時に感じられたのは、論理として平等であるべきだと思ったからではなく、そう感じることが自然だったからなのです。
ただ、その分離はやはり同一面上で行われるのではなく分離しつつもつながっている構造化だと思われるのです。
だからこそ、矛盾する出来事をも含むことができる。

柚木氏からは、戦争参加の弁解的正当性の主張や、個人的嗜好を倫理より重視する傲慢さは感じられません。
それは、人にも物にも全てに敬意を持たれている姿勢がなんとなく伝わるからだと思います。
その感覚は、古代において大きな出来事があった際に生まれた宗教や神話の成り立ちにきっと関わっているのだろうな、という勝手な想像。。。
であるならば、物語化は本来現実と分離させる事で「大きな出来事を昇華するもの(=鎮魂するもの)」だったはずなのです。
西欧はルネッサンス以降ロジックによる真実を見出す歴史があったのに対して、日本はそれがないままに戦後、(西欧的)真実を尊ぶ価値観と結合してしまい、現実と結合し感情的影響が大きいナラティブな表現が出現してしまった気がします。
逃げ場になるはずの物語が、「真実として人の感情に影響し続ける(=苦しめる)」ような感覚。。。
「追憶」の物語化からは、それらと同様に逃げ場の無さ、一つのメッセージ以外には解釈が許されない強制力が感じられ、私には特に耐え難いものだったのかもしれません。
また、人の感情に影響し続ける効果を重視する製作姿勢からは、その音楽(=追憶の演奏)」と「角野隼斗というピアニスト」への敬意が見出せず、素材として利用されていると感じられたのです。
(利用したのはそのご本人なので、本来は部外者が文句を言うことではないのですが…

一方、「I moved to New York」の動画のサムネでは、これまで感じられていた角野氏の敬意を込めたフラットなスタンスを再認識できました。
敬意は、実は分離とは逆の繋げる表現をも可能にします。
様々な様式や表現を繋ぎ合わせても不快感がない角野氏の表現からは、
時として矛盾する物事に対してでもそれらを可能にする可能性を見出せるのです。
「I moved to New York」には割り切れないモヤモヤしたもの(音楽的な繋がりとは別)がリアルに感じられるものの、このサムネのお陰で、これらもやがて統合されるだろう、きっと大丈夫だろう…と、信じることができました。

最後は柚木氏インタビューの「インタビュー・本気で信じること」末尾からの引用です。
「言いたいことを言うとか、やりたいことをやるとか、人間的に当たり前のことを皆さんができていれば、いいね。明るくなって元気になります。」

これこそが、基本だと思うのですよね。
日本ではできなかった当たり前のことを、NYではぜひ楽しんで頂きたい!
と同時に、受容側も敬意をもって言いたい事・やりたい事をしなければ…と。
いや、正直これが一番難しいことなので、それを「当たり前のこと」とおっしゃる柚木氏は、やはり奇跡の方だとは思います。笑
常人としては…せめて心がけたいと思います。


<追記3>

Paravi『Rea lFolder Season3 010「ピアニスト角野隼斗」』が公開されて気づいたことがあり、追記させて頂きます、

本編冒頭には「追憶」MVのメイキングが紹介され、角野氏のがリアルな音楽表現へのこだわりがシャープに捉えられていました。
実は、どうしてこんなに「追憶」が受け入れられないのか自分でも不思議だったのですが、このリアリティへのこだわりを拝見し「不気味の谷だ〜〜〜!!!」と気付きました。
(全く無自覚のまま、最初に「不気味」って書いていた。笑)
その不快感の原因は「分離困難仮説」と言われ、「人は定位が欠如しているためにその正体が確定できないものに対して恐怖や嫌悪を感じる」「分離困難なものを回避する傾向がある」とされています。
私は真偽の判断がつかなくなることへの倫理的問題としていましたが、真偽の判断がつかないものへの生理的嫌悪感の方が大きかったと考えられます。
番組に記録されていた角野氏の意図通り「角野隼斗によるリアルな音楽」がMVには記録されているのですが、だからこそ冒頭の虚構(物語)設定とアップライトピアノプロジェクトのメッセージ性とが分離困難なものとして生理的不快感になったと考えられるのです。
もし物語設定がなければ「かてぃんチャンネル」の動画と同等であるし、ここまでのリアリティがなければ、韓国TOWMOOチャンネルと共同で制作された「胎動」「ハウルの動く城」と同様のものになったはずです。
不気味の谷に陥らなかった方にとっては通常のMVよりも熱狂的に受け入れられる可能性も理解できました。
私が感じた負の感情はあくまで個人の生理的な反応でしかないのですが、その感情の正当性を論理的に主張してしまい…これは大きな間違いでした。
真偽が紛らわしいメッセージ性を含む表現は不用意に行われるべきではないですし、その論理は今も間違いだとは思っていないのですが、私の感情とは切り離すべきことで…すみません!!!

で、「不気味の谷」なのですが…これはすごく大きな気づきをもたらせてくれました!!!
これまでは人間のキャラクター認識に生じる問題だと思っていたのですが、もしかしたらもっと広いものにも生理的反応として顕れている可能性が考えられるのです。
いうならば、自己の「リアルな実感や認知」が定位(判断基準)の不確かさによって脅かされる事への嫌悪や不気味さです。
もし、角野氏が作品に「快」を提示する必要がない現代アート作家であるならば、この偶然的に顕在化した「不気味の谷」には表現への可能性が広がっているのですが、、、残念ながら角野氏の表現スタイルとしては違います(角野氏ファンとしては私ですら全く望んでいません。笑)。
ですが、この事は別の問題に関わってきます。

旧態依然のクラシックファンの方による角野氏への批判とその反論が、時々タイムラインに流れてくることがあります。
彼らが角野氏(そのファンを含む)を受け入れられないのは、「不気味の谷」同様の生理的不快感が原因かも…と思ったのです。
角野氏の表現は恣意的なものが感じられずとても自然ですが、人が演奏する行為におけるナチュラルさです。
そこには古典音楽のあるべき雛形との照合は不要で、角野隼斗という個人にその音楽的表現の拠り所があります。
つまり歴史的な音楽解釈のような「定位(拠り所)」にしていたものが消失してしまう不気味さ(不快感・違和感・嫌悪感)を引き起こしている可能性があるのです。
角野氏の即興(アドリブやインプロビゼーション)やその場限りの質感的表現変化は、その時・その環境における必然性の上で成り立つため、周囲へと拡張していくような音楽の一体感やリアリティが他者の演奏とは段違いと言えます。
キメラ的に拡張していくこの表現性にはファンである私ですら驚くことも多のですから、古いタイプのクラシックファンの方からすれば古典的参照モデルを侵略するエイリアンにしか思えないかもしれません。
つまり、彼らに生じる不快感は、広義の芸術性が表出した証とも捉えられるのです。(革新者は当初批判されるものという二次的な意味ではなく、不快感を与える生々しい表現性そのものに芸術的価値があるという意味)
一方、角野氏がその演奏だけでなくその人間性までをもがどうして大きく支持されるのか…という疑問にも一つの答えとなり得ます。
実は、単に性格が良いとか容姿が良いというのだけではない強いタレント性(英語の意味)が支持されていることへの疑問を持っていたのですが、音楽と人としてのリアリティが直結している表現性からより強い好感に至ることが理解できました。

排他的なクラシックファンの方に対し、どれほどの正論で反論しても生理的な問題である以上は納得されることは無いでしょうし、「受け入れる/受け入れない」の二項対立にしかなりません。
一方、「受け入れる」側が「受け入れない」を認めないことは「受け入れない」と同様の不寛容でしかないのです。(寛容さを全ての人に求める社会もまた、不寛容な社会)
「「多様性」について〜」でも書いているのですが、誰もが皆心地良く過ごせる社会などありえず、誰もがみんな少しずつ自己との違和感や不快感を受け入れることでしかダイバーシティは成立しません。
その排他的態度への正論的反論がクラシック音楽界全体のへ愛や振興の為と言われても…私自身クラシック音楽ファンではありませんし、角野氏以外のクラシック音楽を広く愛する気持ちは持ち得ていないので、あちらの皆様のご意見にも一理あり…正直申し訳ない気持ちも大きいです。
時代性を考えれば彼らはやがて少数となりマジョリティとマイノリティの立場は逆転することは自明、だからこそ強い抗いになっているとも考えられます。
個人的には、角野氏のリアルな音楽表現が彼らの固定観念を揺さぶっている!とほくそ笑む程度かと思っています。

ちょっと話がそれてしましましたが、なぜ今ここでそんな事を書いたのかというと、この番組で語られている角野氏の唯一無二の存在性がこの両者の反応を引き起こすところにあると私が思っているからです。
素晴らしいクオリティでジャンルを横断できる表現は稀有だとは思うのですけれど、世界を探せばそんな方はいくらでもいらっしゃる。
それよりも、「存在としての芸術性」、音楽表現の中にもレヴィ=ストロースの「(擬似的)真正の関係性」のリアリティを「1対多」でありながら実現させているところが唯一無二だと私は考えています。
その場・その時の環境的必然性に裏打ちされたリアルな表現というのは、ネットを介したコミュニケーションだろうとその場に実際に存在する観客やオーケストラだろうとも関係がなく、音楽と音楽ではないものもすら問わず(一種アニミズム的に)同期して自らを拡張することで成立します。
ITを前提としたSNSやVTuberなどのコミュニケーション分野では擬似的な「真正の関係性」が成立することはあっても、通常の現実世界では実現しません。
音楽のインタラクティブな同期はセッションとして成立するものですが、音楽以外との関係性で似た様な相互作用は通常ほとんど起きません。
角野氏は音楽以外のものにまでその同期が拡張し、観客まで含めて全てが一体化したような気に(!)させてしまうのです。
ファンにとっては堪らない魅力ですが、一部の方にとっては侵食されるような違和感や不快感にもつながるはずです。
(だから、彼らの「不快感」にほくそ笑む!)

広義の芸術であれば現時点でも唯一無二の素晴らしい価値を見出せますが、音楽としての成果として考えれば、やはりまだ角野氏の目指す所には至っていないのでしょう。
では角野氏の目指すものは何かというと、実は番組の予告編と本編とは別のことが語られているのです。
この2つをつなげている「唯一無二の存在」という部分は共通ですが…

予告編=好きなことをやっていながらも社会に役立つこと
本編=(ピアニストとして)世界的にも誰も発見していないものを発見して誰もが面白いと思う方法で作品にすること

「社会に役立つこと」と「ピアニストとして誰も発見していない方法で作品にすること」を同一上に並べたら相当大きな野心になってしまうのですが、編集では意図的にそれを回避していると思われます。
また、「どんなピアニストを目指している?」という質問も文字で表示し、答えたくないというリアクションも入れた上でその答えが語られています。
「普段語らない角野隼斗がビッグドリームを激白」として、答の直前にナレーションで質問を入れインタビューとしてのインパクト強調する作品にすることもできたでしょうが、そういう編集は行われていません。
「語らない」という角野氏から答えを引き出す取材手腕の見事さはもちろんですが、角野氏の「語らない」というスタンスを尊重し、可能な限りビッグドリームとして伝達されない配慮で編集されていることにはファンとして心打たれました。
こういう配慮ができるスタッフの皆様だからこそ角野氏もここまで語られ、素晴らしいドキュメンタリー番組になったのだともいます。感謝!

この番組を拝見することで、改めて角野氏にとっては環境の影響が大きいこと、NYにいかれたことの意味を実感できました。
「誰も発見していないもの」は何なのかはわかりませんが、ポストトゥルース時代における、真実を超えたその唯一無二の存在性=特異なリアリティが何かしらの形で影響してくるだろうという気がしています。

●オマケ
ハニャ・ラニ氏のMVがワンカメワンカットの作品として本当に素晴らしかったので…ちょっとオマケとして書かせて頂きます。

Hania Rani — Hello: live session in the mountains

本当に素晴らしくて、拝見した直後に下記のTweetをしました。

昨晩公開のハニャ・ラニ氏の動画が本当に素晴らしい
ワンカット・同時録音の技法的必然性が表現として見事に昇華している。ほぼ無編集の為か緊張の撮影から公開まで僅か1日
ダンサー&撮影の動線もストーリーズで公開中。 Hania Rani — Hello: live session in the mountains

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 5/12

その後、相互フォロワーさんとやり取りさせて頂いた中で、その方が「フレームインするにしても見えないところからの繋がりだったり枠の外にも世界があるんだよーっていう感じがいいですね!」と書いて下さって、まさに!!!と。
実は、一つの視線の流れが続く感じが映像作品というより絵巻物の様に感じられていたのですが、そうか!!!と、気づきを頂いたのです。(ありがとうございました)
平安後期の絵巻物、特に「信貴山縁起絵巻」などにみられるあえて画面から飛び出させるトリミングによって、その外側にも世界が続いていることが見事に表現されています。
絵巻物については高畑勲氏が「十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの」で専門的な研究をされているのですが、カメラのパンの様な固定位置からの視点変化と移動による視点変化の違いにも言及されていて、絵巻物は基本的に後者を効果的に用いています。
実はこのハニャ・ラニ氏の作品にはカメラパンがほとんどなく(移動を伴う方向転換はある)だからこそ「絵巻物みたい!」と思ったのだ〜!と、後で納得してしまいました。笑
普通、目の前に広がる景色全体を捉えたいと思ったら自然にカメラを振って全体を写そうとしますが、それをしないことで切れている画面の外側に世界が広がっていることを実感させています。
また、見えていない間に別のシーンが進んでいるところは、能・狂言の舞台の演出にも近いように感じられました(舞台は正面舞台と橋掛かりという2ステージに分かれているため、意識が集中していない場所の変化に気づきにくく、視点が移動してから「見ていない時に変化していたのだ!」と気づくことがある)。
一つの視点による連続性、視点が限られることで外側に広がるイメージ、さらには視点が限られることで成立する驚き、どれもがワンカメラ・ワンカットという技法だからこそという表現として成り立っているということと、同時録音としてのリアリティ・臨場感が備わっている素晴らしい作品でした。
最後に、ハニャ・ラニ氏がストーリーズで公開された動線を参考に貼らせて頂きます。

ハニャ・ラニ氏のインスタグラムより


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略