【RP】解釈とイノセントな表現性が統合に至る兆し〜角野隼斗氏とフランチェスコ・トリスターノ氏による二つの公演からの思考的展開〜(長文)
(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)
※10/22 <後書き>シンポジウムの所にXの追加埋め込みを行いました。
本編
<前書き>
前回のnoteも非常に遅い更新だったのですが、一度「presents STAND UP! CLASSIC FESTIVAL'22 in TOSHIMA(スタクラフェス)」と「角野隼斗 with フランチェスコ・トリスターノ(Blue Note Tokyo)」二つの公演の感想を途中まで書いた後に構成から全て書き直しています。
12月初めから延々と約1ヶ月の格闘。。。苦笑
なぜこんな事になったのかというと、このnoteでは度々シンクロニシティが起きるというか、これまで探していた情報(頭の中に思い描いていたイメージや概念)に偶然出会えたり、このnoteを書くに当たり必要な情報や配信があったりしたのですが…今回はそういうことが何度も何度も起き、その度に構成を変えていたからです。
書き始めた段階では私が個人的になんとなく思っている事から、幸運な出会いによって更なる興味や思考に発展したという感じでしょうか。
ただし、それらによって導かれた内容は、あまりにもややこしく長大になってしまった為、ここでコンサートの感想を書いてしまうと焦点がボケてしまい、一体何が書きたいんだ?!となってしまいました。
他のファンの皆様がコンサートのご感想は本当に素敵に書いて下さっているので、私は諦めることにします。
なので、タイトルには「角野隼斗氏とフランチェスコ・トリスターノ氏2台ピアノ」も入っているのですが、これは思考のきっかけになったコンサートという意味ですので、感想を期待されてお越し下さった方には先にお伝えさせて頂きます。
最近は割とコンサートの感想も書いてはいましたが、考えてみると最初は「角野隼斗氏の表現から私自身が何を見出したのか」という事をこのnoteで書いていたので、初心に帰る感じですね。
「私が何を見出したのか=角野氏ご本人の意図と関わりなく私が勝手に感じた事」になり、ご本人の意図を汲みしていないのです。
ファンのスタンスとしては、もしかしたら納得しがたい方がいらっしゃるかもしれませんが、私は表現者と受容者の間にある不可侵領域(聖域)での飛躍(ズレ)にこそ芸術性が宿ると思っていますので、ご了承ください。
そうそう、「ご本人の意図と関わりなく私が勝手に感じたこと」に関してですが…12/4のインスタライブでわかったことを少々。
私がそもそもファンになるきっかけは「337×6」の数字を使った現代アート的なアプローチによるものだったのですが(何度も過去のnoteに書いているので引用しませんが)、それは単なる勘違いだった様です。
このインスタライブでは、NY近郊の美術館でモダンアート作品をご覧になった時の感想を語られ、「数学をインスピレーションとして音楽に生かすことができるのでは‥」と言う様なコメントをされていました。
「ええええ???、それをしたのが「337×6」ではないの???」と、私がファンになった根本理由を覆されてしまったのですが、どうやら数字と音楽とを芸術的アプローチとして組み合わせたものではなかったらしいのです。。。
つまり私の勘違い。笑
ただし、芸術鑑賞という側面からは「337×6」に現代アート同様の芸術性(通常の音楽だけとは別種)の存在を鑑賞者である私が感じ取った時点で、すでにそこに「在る」ということでもあります。
それが角野氏の意図ではなかったとしても全く何ら問題ではありません(ここ重要!)。
角野氏にとっては、目の前に興味を惹く「数字の組み合わせ」があり、それを面白いアイデアとして音楽と結びつけたに過ぎなかったのかもしれませんが、そこに芸術的思考が全く無かったとしても、アールブリュットやアウトサイダーアート、プリミティブな遺品から芸術性を発見するのと同様の芸術性は存在するからです。
しかも、レヴィ=ストロース(下記補足参照)のブリコラージュ的手法で芸術作品に至ってしまうところに、音楽表現者としての真価があるとも言えます。
まあ、今後は自覚的に芸術概念がプラスされるのですから、もう…無敵!ということですね。笑
ということで、私の勘違いに対する自己弁護になっていますが、今後も書き続けるだろうことは角野氏の意図とは関わりなく、自分がそこから何を読み取るのか、です。
今回は超長文のため、具体例頭の補足は小さい文字にしてあります。
飛ばしても意味は通じると思いますが、具体例なので概念的な知識が無い方にとっては読まれた方が理解し易いと思います。
また、私が西欧の概念や様式を学ぶ際に大混乱した経験があるので、その混乱を具体例で咀嚼するように記載していますが、それでも相当ややこしいです。
<2つのコンサートのセットリストに内在する意味>
とりあえず、思考のきっかけになったコンサートにから話を進めます。
STAND UP! CLASSIC FESTIVAL'22 in TOSHIMA(以下スタクラフェス)はクラシックのイベントでBlue Note Tokyo(以下Blue Note)はジャズの聖地、その場所から導きだされる「観客が求める音楽性」は異なるにも関わらず、セットリストは多くが重なっています。
そこには、演奏日が近く曲を変更する日数的余裕が無いという理由とは異なる別の意味が内在しているとも考えられます。
一つは目は、同じ曲であってもTPOの違い(コンサートとライブの質の違い)に合わせて表現性を変えているということ。
もう一つはTPOが変わることで同曲・同種の表現性であっても意味づけがかわってくるというものです。
私が認識した分類は下記になります・
表現性の違いが明確に感じられた=Bolero/Pastorale in F major BWV590
表現性の違いが明確には感じられなかった=Jeux d’eau(水の戯れ)
「Bolero」は、スタクラフェスよりもBlue Noteの方がJazzyなフレーズや即興的要素が多く用いられていたという事が最も大きな違いですが、その事によって曲そのものの位置付けにも変化が感じられました。
詳細は後述しますが、結論を先にいうと、曲全体の解釈がクラシックの文脈上にあるのか、それ以外の要素が大きいか、です。
どちらも2台ピアノとして編曲されているという意味ではクラシック音楽の伝統的表現そのものではないのですが、トリスターノ氏からはマーガレット・レン・タン氏の映画「アート・オブ・トイピアノ(予告編)」で語られていた現代音楽の解釈と技術・その表現性が正当に引き継がれていることがとてもよくわかりました。
一方、クラシック音楽の文脈として続く現代音楽的素地は角野氏にはありませんので、二人の表現性の違いを明確にされた上で、そのバランスを会場によって変えたと考えられます。
結果としては2タイプの表現性として伝わってきたとも言えるでしょう。
この二つの表現性は私が考えている二つのグルーヴと相関関係にあるので後述します。
「Pastorale in F major BWV590」は、生音と配信(PAを通した音)という音の扱いが異なる会場で、その違いがより明確になった曲です。
音楽が作られた時代とは全く違う現在の環境において、「現代的解釈」ということがどういうことなのかを意識することになったからです。
現代のクラシック界において、スタクラフェスは現代的解釈としての「オリジナル指向」として、生音へのアプローチが感じられたのに対し、Blue Noteでは「時代性を伴わない純粋な音楽要素」を追求するかの様な表現に感じられました。
「オリジナル指向」として生音へのアプローチは<音の響きと時代的・環境的解釈>に後述、時代性を伴わない「純粋な音楽要素」については<ミニマルな(抑揚が少ない反復する)音楽の作用と展開性>で後述します。
表現性の違いが明確には感じられなかった「Jeux d’eau(水の戯れ)」については(末尾の<追記3>で補足)、角野氏ファンの方々なら鮮烈な記憶として残るフジロックで演奏された「英雄ポロネーズ」が、まさに代表例と言えるでしょう。
クラシック曲をロックフェスで演奏することで「クラシック演奏=伝統的価値観」から「革新的価値観」に変容させてしまったのと同じく、クラシック音楽をほとんど編曲を施さずにBlue noteで演奏することこそが、Blue noteにとって意義深いことになる訳です。
また、角野氏がインスタライブでNY近郊の美術館でミニマルアートをご覧になった感想として「巨匠にならないとできない」と漏らされていたこととも少し関係があるかもしれません。
というのも、「ただ真っ黒なキャンパス」だけであっても、芸術家としての実績でその作家自身の文脈が成立していれば、作品そのものだけではない芸術性を読み取ることが可能だからです。
無名の人が同じ「ただ真っ黒なキャンパス」を描いても評価されないのは、「同じ表現でも意味づけが変わる」という事を考えれば、ある意味では当然とも言え、単なる権威主義の問題だけではないのです。
つまり、昨年とは比べ物にならないほどクラシック音楽での人気と実績を得た今この時点において、クラシックイベントとBlue noteで同じクラシック曲をそのまま演奏する行為が、角野氏の文脈においては芸術的意味として認識される訳です。
音楽や表現性からは少し離れた文化的な意味合いが強い解釈と言えますが、それを含めずして、このnoteの結論には至らないので見落とせない所です。
また、Blue noteでは1stステージと2ndステージは同じ演目にも関わらず演奏順が変わっているとのこと、それもまた「同曲・同種の表現性であっても意味づけがかわる」という事の現れでと言えるかもしれません(もしかしたら、実験的な意味で試みられた可能性も考えられます)。
また、両会場の演奏で1曲ずつ聴かせるのではなく続けて演奏するということも行われました。
このことで、曲という個別の表現性と全体の表現性をそれぞれ別のアプローチとして演出していることが伺えます。
BBC Proms4では、エヴァンゲリオンの文脈においてジャンルが違うバッハとオリジナル曲とが繋げて演奏され、その後のオリジナル曲は分けて演奏されました。
プログラムでは別分類として扱われている2曲が続けて演奏され、エヴァンゲリオンの曲として連続表記された2曲が分離されていたのです。
これは、曲の文脈上の分類と音楽表現上の分類は異なるものとして演奏がなされた、ということになります。
ただし、通底するエヴァンゲリオンの文脈上には存在する2曲でした。
今回はそこからさらに発展し、テーマ性や作品性の文脈が無い複数曲を「純粋な音楽性」との関連性でつなげていると考えられたのです。
単なるメドレーではなく、曲間をシームレスにするだけのものでもなく、その二曲に音楽的な相互作用が感じられるところに、「クラシックの新たな展開では?」と思わせるものがありました。
クラシック演奏において当然と思われている音楽鑑賞スタイル(=演奏スタイル)そのものへの問いかけと言い換えられるかもしれません。
ただし、これが角野氏の意図かどうかはわかりません。
単にポップスやロックコンサートの演出を取り入れただけかもしれませんし、ワンステージの持ち時間が少ないことからYouTeubeライブで行っている様なことをコンサートで用いただけかもしれない可能性もあるのですが、スタクラフェスのようなクラシックを中心としたコンサートで行ったことに結果として新たな意味が生じていると言えるのかもしれません。
(でも…YouTubeライブはメドレー的なものとしてしか受け取れませんしBBC Proms4からの流れであれば意図的な可能性が高いのですけど、、、)
また、トリスターノ氏が演奏された内部奏法は、「アート・オブ〜」で語られていた現代音楽の技法としての正当な内部奏法で、内部を弾くフォームもペダルを重視する表現性(弦を響かせるのでペダルが重要なのは当然)も、角野氏の見様見真似の内部奏法とは明らかに違いました。
(書き方が気に触られる方がいらっしゃるかもしれませんが、角野氏の内部奏法の様な衝動的で規範を伴わない演奏が持つ魅力は十分あるということが前提です)
タン氏は映画内でもこの技術を若い世代に伝えたいと語られていたので、もしかしたらジュリアード音楽院で受け継がれているのかもしれません。
このコンサート直前のラボで、スタインウェイは内部奏法が認められていないとおっしゃっていたのですが、タン氏のスタインウェイのページを見ると、ピアノに最もダメージが強いボルトやナットを使ったジョン・ケージの「プリペアード・ピアノ」が認めてられている様なので、一概にNGという訳でもない様です。
また、トリスターノ氏のスタクラフェス「ラプソディ・イン・ブルー」では、2階の端の席だったのにも関わらず楽譜を捲る音がとても鮮やかに響いてきました。(静かな曲は細心の注意で無音になるように捲られていました)
その音がとてもリズミカルにシャープに聴こえてきたので、もしかしてわざと鳴るように捲っているのかも?と思っていたところ…
「星野源のおんがくこうろん ジョン・ケージ」「4分33秒」では、楽譜を捲る音が意図されている重要な音楽要素として感じられました。
もちろん、パーカッシブなステップ音もとても心地良かったですし、ピアノのフレームを叩かれている表現も、音質が叩く場所によって変わることが考慮されている様に見受けられました(ケージの楽譜には叩く場所の明確な指示がある)。
トリスターノ氏はケージから受け継がれてきた現代音楽のアカデミックな演奏法を、角野氏の即興的な表現に対比するかのように行っていたのかもしれません。
一見、即興的?雑音?と思えるのに構築的な表現性が伝わってきて、それが独特のニュアンスとしてケージ音楽に近しい印象を受けました。
角野氏の即興的な演奏がクラシック曲で、現代音楽としてのアカデミックな演奏法がトリスターノ氏のオリジナル曲だったり…とても興味深いコンサート構成だったと思います。
<2つのグルーヴ>
ここからはコンサートからの思考を展開していきます。
前回の「BBC Proms〜」で私はグルーヴを2種類に分けて考えていると書いているのですが、特に論拠はありません。
ただ自分が体感的にそう思っているというだけなのですが、この分類は割と便利で、今回の角野氏の生み出すグルーヴとトリスターノ氏が曲全体を導いたグルーヴにハマります。
一つは、ジャズに代表される様なリズムやフレーズのウネリのようなもの。曲の中で波の様に訪れては揺らぎ、リアルな身体感覚に訴えかける様な心地よさがあります。言うなれば、リズム要素の影響が強いグルーヴ。
もう一つは、ミニマルミュージックやテクノ(ハウスやトランスも含む)等から感じるもので、反復するビートによるグルーヴ。
単発ではドライブ感にも近いです。
それがズレや重複など曲中で少しずつ変化・展開されていき高揚していく感覚で、その変化の結果が幻覚的な飛翔感・上昇感に繋がります。
どちらもリズムやビート(違いの説明ページ)が微妙にズレたり変化することで生じる「高揚感」「恍惚感」という認識です。
いずれのグルーヴも人間の原始的な身体性と関係があると思っているのですが、音楽的な表現として考えると、専門の音楽教育を経ないアフリカ系アメリカ人の即興音楽から直接発展したジャズと、ミニマルアートの概念を取り込んだアカデミックな音楽をバックボーンとしたミニマルミュージックとでは、時代や成り立ち等が違います。
ジャズが民族音楽から自然発生的な音楽の流れのままに展開したのに対して、ミニマルミュージックはモダンアートの「ミニマル=最小限の要素によるもの」という概念を「反復」という技法を用いることで音楽表現にしていた訳です(後で名付けられたという意味では厳密には違うかもしれませんが)。
その反復性のある音楽の前例としてプリミティブな民族音楽のリズム要素を当時の前衛的音楽に取り込んだ、引用した、ということです。(これ、後に他の項でも関わってくる内容です)
その後、テクノロジーの発展や様々な様式と絡み合って多様な音楽ジャンルでそれぞれに「グルーヴ」が感じられる音楽が展開していったのでしょう。
私個人では、ミニマルミュージックとネオクラシカルとの区別はほとんありません。
これは音楽的知識が無いことも大きく関係していますが、それも後ほど記載します。
具体的な話に戻ると、トリスターノ氏の作り出すビートからはミニマミュージック的なグルーヴが生じているのに対して、角野氏は主にジャズ的なグルーヴを生み出しており、全体的な高揚と部分部分のウネリが組み合わさり、これまでには感じた事の無い稀有な質感として伝わってきました。
ただし、「スタクラフェス」ではクラシック音楽の系譜としてのミニマル的なグルーヴが強く、Blue Noteでは角野氏のジャズ的グルーヴが全体性から突出しているな感覚が強くなるなど、同じ曲でありながらもそれぞれの場に相応しい表現として変化していた様に感じます。
私が知っている限り、角野氏の演奏からはまだミニマル的なグルーヴを実感したことはないのですが、ドライヴ感は受容しているので、演奏曲との組み合わせの問題だろうと思われます。
バッハやバロック、ミニマルミュージックへのアプローチは今まであまりされていなかったとおっしゃっていたので、来年の演奏が楽しみです。
<混乱しがちな芸術概念の解釈>
角野氏の演奏やコンサートとは関わりのないこの内容をどこに入れるのか色々と悩んだのですが、やはり先に書いておかないと後々全てにおいて説明が難しくなるので、ここに入れさせていただきました。
前述のレヴィ=ストロースの動画でも近いことが語られているのですけど、さらに端折って芸術寄りの概念の解釈のみに集中しています。
モダニズム的思想の祖はルネッサンス、カント・デカルトに始まると言われていて、大雑把に言うと、古代ギリシャの「人間重視=哲学」の時代から中世の「キリスト教重視=宗教」の時代に至り、神の相似形としての人間のような扱いで人間の存在意義を再び取り戻したのがルネッサンス、というような感じです(適当ですみません!)。
ギリシャ・ローマ時代の彫像はものすごくリアルで、ヒエラルキーの最上位がキリスト教である中世に描かれた人間表現は物凄く下手クソで(でもその下手さに神聖な意味があり)、ルネッサンスで人間の存在価値が高まった社会背景に伴い再び人間の描写がリアルになった、ということです。
産業革命以降の狭義のモダニズムは、ヒエラルキーのトップに人間が躍り出た時代という感じでしょうか。
本来芸術概念やその様式は多用な解釈や分類法があるものですが、ものすごく大雑把に、「混乱しがち!」という事をお伝えするのに都合が良い所だけを取り出しています。
その概念が最も表されている造形の代表としているため、表出例もアートだったり建築だったり…とバラバラです。
なので、違うと思われる方も当然いらっしゃるでしょう(私も心苦しい)。ただ、思想や芸術がそれぞれの作品の一部から次の一部に関わってきたり、またカウンターとして次の概念が出現したり、反転作用で新たなムーブメントが生まれたり…という事象をざっと見るために書かせていただきました。
モダンアート(産業革命以降の合理主義・非装飾から抽象化が展開され、作品のメタファーを否定する程のミニマルアートまで行き着くが、実はその一方でプリミティブなアフリカの単純な造形表現からの影響も受けている)
↓
ポストモダン(無機質なモダニズム建築へのアンチテーゼとして多様性をそのまま提示。ミニマルアートが作品自体のミニマル化により展示場の建築・環境との関わりを深めたことで、逆説的に広範囲の環境をも作品に含めるインスタレーションにも発展。)
※時代区分としてモダンの次という意味のみ。思想概念としてポストモダニズムを具現化したのは建築。
↓
ネオモダン?(構造主義を経たメタ思考でモダニズム表現の融合を試みる、個人的には、日本的な複層的イメージを持つ抽象表現が世界的に評価されたのもこの価値観によるところが大きいと考える)
↓
????(最近15年位の動向は不明のためムーブメントの有無は不明)
↓
「今」はココ!
久石譲×西村朗氏の対談で、久石氏は感情的な音楽表現ではない現代音楽に洒落た良いタイトルを付ける」ことを否定されています。
久石氏が語られていた無機質的な現代音楽に「洒落たタイトル」をつけたようなイメージ構造を持つ造形作品として、コンスタンティン・ブランクーシの「空間の鳥」を例に考えると、久石氏がおっしゃっている事が分かり易いいのです。
ここから特別対談企画【久石譲×西村朗】第2回:現代音楽とバッハとミニマル・ミュージック」で久石氏がおっしゃった意味を紐解いていきます。
「アメリカの作曲家も〜みんな洒落たいいタイトルを付けるじゃないですか」
「付けた段階である種言葉で表現するのに近い何か意図がでてきちゃう〜」
「〜僕、今それも邪魔くさく感じる」
(中略)
「なぜかというと〜ある人はそれで「朝」を感じるかもしれないし〜喜びだ悲しみだと感じても全然構わないし僕自身がそれを全く主張していない」
「単体では意味を持たない型(=モデル)やその組み合わせ(パターン)を用いて、イメージを想起させる芸能や工芸を見慣れた日本人にとっては、無機質な表象から勝手に「意味・メタファーを感じる」ことはとても自然な行為です(日本以外でもケルトやイスラムにネイティブアメリカンなど原始的な民俗文化では普通ですが、書き出すとキリがないので自分がわかっている範囲での比較として日本に限定します)。
無意味なモチーフになんらかのイメージを勝手に投影することは日常的に行われ、能や茶道具では、そのイメージは複層化されどの階層のイメージをどう受け取るかすら自由です。
それらのイメージ構造を特別視する日本人はほとんどいないでしょう(受容側の自由がなければ茶道具の取り合わせや見立てというものは存在し得ないのですが、そのことを不思議に思う人はいません)。
ですが、たぶん西欧においては、造形としての抽象は意味としても抽象化(=無意味化)される志向性を含む為、タイトルがないと意味が無い抽象とみなされがちであると考えられるのです。
つまり、「洒落たタイトル」は、イメージを増幅(複層化)するために補われている可能性があるのです。
なぜなら、洒落たタイトル=レトリックだからです。
西欧においては、「無機質な音楽+洒落たタイトル」は、表現性や作品とイメージとを複層的に考える構造主義的な概念を経た後のもの、ネオモダン的なもの、それらが一般に定着した後の感性だと考えられるためです。
ですが、イメージ構造としては具象イメージを抽象のメタファーとして内包しているミニマル以前のブランクーシ作品とほぼ同じ、ということになるので…まあ、なんというややこしさ!!!
ただ、久石氏がそれすらも不要とおっしゃる所には、解釈の自由、ズレを容認する(もしくはそれを期待する?)ことを前提とする作曲者の姿勢があるのです。
そう、スタート地点がたぶん違う。
連歌のようにズレを誘発させる表現様式がある日本文化的視点であれば、鑑賞者が勝手にイメージすることは当然なので、「意味のあるタイトルは無粋」となります。
一方、ケージ的な西欧の前衛芸術の概念に照らし合わせるのならば、システムを重視した時代性が反映された表現性(後述します)と言えるかもしれません。
いずれにしても、久石氏のご発言にはモダニズムの「タイトル無用」とは明確な違いがあるのですが、歴史的な文脈やその経緯を理解していないと、単純なモダニズムに後戻りしているだけにも聞こえてしまうのです。
久石氏の表現は「ネオ・ミニマル」で、厳密には過去のミニマルとは違うということでもありますし。。。
「受容者が自由に感じて良い」(概念的には、たぶん「演奏者も自由に演奏して良い」という意味合も含まれる)は、鑑賞者のイメージに任せているという時点で、過去のモダニズムとは違う「作品の本質(作家の意図を含む)よりも受容者との関係性」を重視する姿勢があり、鑑賞の任意性を作品に保証していることに注目する必要があります。
この久石氏の作曲者としてのスタンスは、ケージの作品へのスタンスに近いはずなのですが、これまで私はそうは思っていませんでした。
なぜなら、ケージの時代を考えると古いモダニズム的理解が妥当だからです。
ケージ作品をモダニズム解釈で理解すれば、音楽の崩壊を起こすことに目的があると思ってしまいます。
それが「〜トイピアノ」を観るまで勘違いしていた「ケージ作品への誤解」です。
「おんがくこうろん」では、アカデミックな音楽教育を受けられている林田アナウンサーも似た様な誤解をされている様でしたし、通史に沿って広く浅くケージを理解しようとすると間違え易いのかもしれません。
ただし、4分33秒の作品性はミニマルアートからインスタレーションへ向かった発生原理そのもの、作品のミニマル化が進みすぎて「作品」という本体の存在性がが極めて小さくなると結果として外部環境による影響の大きさを気づかせる、という展開モデルと同じです。
日本人が松風を感じるような意図でケージが4分33秒を作ったとは思っていませんが、作品は日本人が松風を感じるような捉え方で解釈をする方が矛盾がなくクオリティの高い鑑賞が行えるということです。
ケージの創作意図はわかりませんが、鑑賞においてはその様に感じて良いし、そう鑑賞されることを望んだのだろう…としか言えない訳です。
ブランクーシ作品がミニマルアートとして語られる事と同じく、ボレロには確かにミニマルミュージック的な要素を感じますし(【現代室内楽の夕べ】四人組とその仲間たちコンサート2022」のステージ対談で久石氏がそれを匂わせている)、ターナーには印象派的な表現が見受けられます。
概念が成立する以前に表現が似ていてもその概念後に成立した表現と同じに扱うことはできませんが、その類似性そのものを否定することはできません。
そしてもう一つ興味深いことは「特別対談企画【久石譲×西村朗】〜」で、西村氏がロマン派以前の音楽に対し、「感情は後からついてくる」ともおっしゃっていることです。
つまり、日本において能が人間の感情よりも神性・霊性なものを表現することに重点を置いていた様に、西欧も時代が古ければ人間の感情よりも神や荘厳を表現していたということでもあります。
(時代区分として芸術のバロック時代は本来人間の感情に訴える表現になるはずなのですが、後に美術と音楽は時代性がズレていると書いているように、バロック音楽は中世的な感性を引きずっていると考えられる)
ここでは共時的には「西欧的・日本的」と比較していることも、通時的には必ずしもそうではない、ということでもあります。
発展を前提にした「新しい・古い」という考え方自体へのアンチテーゼがレヴィ=ストロースの思想ですが、現在はそれが一般化されていますから、古いものの現代性を西村朗氏は指摘されていたということになります。
そしてブランクーシについては、、、
ミニマルアートが作品内のメタファーを排除することで環境との関わりから別の表象性を獲得していった後までとして捉えていくと…
ミニマルアートではないと言いながら、外的要素との結合からはミニマルアートの祖だという解釈も可能になります。
この時点ではとりあえず、思想概念の前に出現した表現はその影響下にはない以上様式として同じに扱えないが、類似性は意識する必要がある。
一方、新たな時代に過去の思想概念と近しい表現であっても、その類似性を否定はしないが同じではなく、その小さい差異を見落とさないよう注意が必要、という混乱しがちな部分をお伝えするための説明でした。
まあ、歴史の中で概念や様式や動向を理解をするのは本当にややこしいので、詳細にそれぞれを探求せずに誤判断を避けるためには「ややこしい状態」のままアトリビュート・保留しておくことが唯一の手段となります。
(この混乱しがちな「理解」こそが実はとても重要という事だけが書きたかったので)
「メゾン・ド・ミュージック『角野隼斗のはやとちり〜」で書いている、ブルーノ・タウトの日本観は、イメージ構造を内包した文化を理解していないモダニズムでの解釈であり、解釈者の都合の良い理解で日本を見た結果という事例です。
と同時に、今現在でもタウトの美意識を賛美する人がいるのは、日本的な視点でタウトを見ているにすぎない(タウトがドイツのモダン主義で日本を見ているのと真逆の構造)という事でもあります。
ちなみに、ここに書いたことは私がたまたま知っている20年位前までの概念なのですが(今の現代アートは全然わからない)、美術より音楽の方が後追いになっている感覚があります。
美術の方が新しいとか音楽が遅れているということではなく、時間芸術として存在する以上は、鑑賞時間中に「快」が必要だからです。
美術作品の場合、不快な作品を鑑賞しても一瞬で済みますので、社会的・概念的価値が作品にあれば、必ずしも「快」への必然性が無い、制約が小さいと言えます。
でも、不快な音楽を聴き続けるのは拷問に近いですからね。。。
つまり、音楽は「快」の必要性が大きいので、その概念・思想が一般化・普及してからでなければ音楽として成立しないという事ではないでしょうか(広義にはバロック音楽が中世的感性を受け継いでいる事も含まれる)。
ケージの様に現代アートと同時期にその表現を試みた作品は、当時の大衆の理解を得られなくても良いという意味で「実験音楽」であり、一般的な人も聴いて楽しめる「現代音楽」とは違うということです。
ただし、そのケージの作品に音楽的な「快」の息吹を与えたのがタン氏のピアノだったという事なのです!
たぶん、落合氏が今年プロデュースしたミュージサーカスも同じく。
<音の響きと時代的・環境的解釈>
前項にモダニズムについて書いていますが、実は今のクラシックコンサートはモダニズムの概念内にあると考えています。
クラシック/古典とはいえ、鑑賞スタイルやその視点は完全なモダンスタイル!
演奏法や演奏されていた環境が昔とは違っている事は角野氏が度々語られていますが、規模や会場の違いや楽器・調律の違いだけではなく、鑑賞視点が違うはずなのです。
クラシックコンサートの標準的上演スタイルからは、作品の純粋性を確保する為に「外界要素をできるだけ無意味化する意図・効果」が読み取れます。
この考え方自体がモダニズム(現代という意味ではなく旧態来の価値観)の影響によるもので、絵画で例にするならば、作品や室内空間に合わせて装飾的な額縁が用いられていた時代の作品が、作品の純粋性を際立たせる為に無機質な額縁や額縁すら用いずに展示されている状態と言えるでしょう。
この「コンサートの当たり前」、という前提を覆そうとしたのがジョン・ケージではないでしょうか。
一方では前衛でもあり、一方では原点回帰的な視点でもあり…
ケージ以降はその演奏される環境への意識が高まったことで、曲に対するオリジナル解釈にも影響が出ただろうということです。
クラシック音楽が発生した当時の音の環境要素を含めて表現に取り入れる古典解釈は、ミニマルアート・構造主義を経なければ成立しないという「現代性」を持っており、インスタレーションとして会場全体を作品として捉える感覚が一般化したからこそ、現代の鑑賞で音楽が作られた当時の環境を再考するに至る、と考えられるからです。
この事が、<2つのコンサートのセットリストに内在する意味>に書いた「オリジナル指向」が「現代的解釈」から成立していると書いたことの論拠です。
そういう音楽鑑賞の環境的な問題に意識を向けてみると、なぜか「響き」という音楽要素がとても重要に感じられるのです。
前回のnoteで、バロック音楽は聴いていると飽きると書いたのですが、チャリティイベントでの武久源造氏のチェンバロコンサートには何度も足を運んでいて、全く知らないバロックの曲でも飽きることありませんでした。
チャリティという意味とお寺の本堂という空間、バロック音楽の祈りに近い音楽の質感が、チェンバロの繊細な響きと一つになっていました(年1のイベントで数年行っていましたが職場環境が変わり終了)。
ですが、曲名を覚えるとかCDを買ってその曲を聴きたいという気持ちにはならなかったのです。
本当にその時間空間にだけ存在する音楽を味わう行為で、展覧会で鑑賞するインスタレーションの感覚だったと思います。
もしピアノのコンサートでその時に聴いた同じ曲が演奏されたとしても、私はきっと飽きてしまうだろう…という事です。
脳科学的なことはよくわからないのですが、音の響きは香りに近い効果のようなものとして、自分をとりまく環境や記憶等と結びつきやすい感覚があります。
響きが遠い歴史に想いを馳せる感性にも直結すると言いますか、時空を超えたかのような言葉にできない質感として感じられると言いますか。。。
スタクラフェスに話は飛びますが、実はコンサート直後にこんなTweetをしました。
ホーミーが倍音であることは知っていましたが、あえて「ホーミーの共振のような」と書いたのは、倍音そのものだけでない空気感、それ以上の音の広がりを込めたかったからです。
2階の端ということもあり、空間に広がった音だけではなく壁からの反響音が響くという条件もあってか、本当にバロック時代の音楽を彷彿とさせるような気がしました。
その時代のことは知らないのに懐古的な温かみと荘厳な響きに感じられ、前述のチェンバロのコンサートのような会場と音楽性との一体感がありました。
BBC Promsでもバッハ「主よ人の望みの喜びを」で「荘厳」という形容詞を用いているのですが、それはピアノの演奏としてのものなので、ここで書いている全体性とは少し違っています。
その後のBlue Noteの配信では、多くの方が「ボレロ」の後半高音部で「不思議な音」についてTweetされていたのですが、実は私はどこかわからず…
相互フォロワーさんにDMで場所をお伺いした程です。
確認してみると、私には普通に倍音として和音が聴こえているだけで特に不思議さはありませんでした。
ところが、アーカイヴ期間が短い為に翌日の仕事中にスピーカーで流していたら、その箇所がとても不思議な金属音に聴こえてきたのです。
考えられることは、イヤホンで聴いている倍音だけでは「そういうもの」という聞こえ方しかしないのに、実際に金属が周辺にある環境(スピーカーはスチール棚の上に配置)で音が共振する等の条件では、本当に不思議な音になる、ということではないでしょうか。
ちなみに、スタクラフェスで聴こえてきた不思議な共振する低音は、Blue Noteの配信時にはイヤホンでもスピーカーでも聴こえませんでした。
このことからわかることは、空気を通した振動とイヤホンだけで聴く音とは明らかに違っているということです。
そして、空気で伝わる音は耳以外にも振動として届いているという事に他ならないのですから、環境的・体感的な鑑賞体験につながるというのも、あながち間違いでは無いのでは?ということなのです。
で、ここで終わりだと普通なのですが…
実は実は、偶然的なシンクロニシティが!!!!
イヤホンで聴いた坂本龍一氏の配信コンサートで、このスタクラフェス「パストラーレ」と同じ様な低音が聴こえてきたのです。
1回目の昼、クレジットの表示が短く4曲目ということだけをメモって再度確認のために夜に聴いたらや、はり音に対する質感は同じものでした。
その後、Twitterで公式サイトに掲載されたライナーノーツのお知らせ流れてきたので読んでみたら…、どうやら私と同じ様な「他とは違う質感」をライナーノーツを書かれた方も感じていらっしゃった様です。
4. Aubade 2020
(前略)
「それはスタジオ内でのピアノの存在そのものも変質させ、木材の塊としての質感が、それまで前面に出ていた弦の金属的な質感を背景に押しやっていく。」
他のピアノの音とは違っていて、明らかに金属の響きだけではない共振音が空気で広がる感覚があったのです。
しかも、イヤホンで聞いている音だけでそれが感じられました。
Endingの遠景からの風景では、広いスタジオ全体に響く音すべてを取り込もうとするかの様に沢山のマイクが設置されていましたので、今はその空気振動が広がっていくところまでの音を耳に届ける技術があるということなのでしょう。
実はこの「 Aubade 2020」(facebookの試聴ページ)の冒頭の部分は、印象的な単旋律の繰り返しや曲の収まり方にバロックの曲を彷彿させるものがあります。
だからこそ、その低音の響きがまるで教会でのパイプオルガンみたいに聴こえたのです。
本来はバロックとは違う曲になのにそう感じられる要因は「〜2020」としての編曲にあるのでしょうが、音響設計としての演出的自由さが技術として保障されているからこそ、それが全体の作品性に大きく影響を与えていると思われるのです。
角野氏のスタクラフェスのピアノからも、その調律が普通のセッティングとは違ったのでは?と思わせましたが、坂本氏のコンサートは1曲ずつ録音されたということですから、調律を1曲ずつ変えている可能性はありえます。
「オリジナル指向」についてすでに記述済みですが、このことから、一方では現代曲に対する「質感引用」にもなり得るという事です。
極端に言えば「古楽器を用いて現代曲を弾く」ことと似た様な効果という意味ですが、総じて音楽表現と作品性をピアノの演奏だけに留めおかない視点を見出すことができる、ということです。
そして唐突ですが、どうやら響きそのものに関わる要素は、文脈やイメージを想起させるような暗喩=メタファー的な表現性に結び付くのではないか、というのがこのnoteを書きながら思いついた一つのアイデアです。
これはもう、本当にどこにも何にも書いていないので私の勝手な思いつきですが、このレトリックの分類を用いた思考展開は後に続いていきます。
が、その前に…音についてはもう一つ面白い発見がありました。
2. Lack of Love
(前略)
「〜ダンパーペダルの操作音。そんなノイズさえもが音楽を成立させる重要な要素として機能しているようだ。」
1回目に聴いた時、この音は一体なんだろう?と、とても不思議に思いました。
なぜなら、音楽においては重要なリズム要素を担っていたからで、トリスターノ氏がピアノを叩かれていた様な現代音楽としての奏法を別録りで合わせているのかも?とすら考えたほどです。
それほど、ここに書かれているように音楽的な効果が高かったのです。
しかも、このノイズにはダンパーペダルのパーカッシヴな音だけではなく、ペダルが開放された弦に響く金属音が含まれていて、その音(ダンパーの音は含まないは)milet×Cateen - Ordinary days / THE FIRST TAKEで聴こえていた音でした。
実はコメントで「スネアをスタジオに放置したままの雑音が入っている 初歩的なミス(?)で残念」という様な内容のものがあったのです。
プロデューサーの方のTHE FIRST TAKEに関するインタビューでは、録音クオリティには相当拘っていらっしゃると書かれていたので信じがたかったのですが、実際にピアノとボーカルだけではない金属的な共振音(スネアドラムのスナッピーの共振音みたい)が聴こえて来たのは事実です。
今では2,500件以上のコメントになっているためこのコメントは探せないのですが、坂本氏のコンサートにおける弦の共振音と一致していました。
結論としては、今の技術であれば、空気を伝わって会場で人間が自然に聴きとっている音も、人間がにその場にいるだけでは聴きとれない音も、自由に集音・録音できるという事と、角野氏のアップライトピアノのカチカチする打鍵音もだけではなく、グランドピアノにもマイクで拾える美しい雑音があるということです。
その音楽に必要不可欠と思えるほど繊細な美しい音楽要素は「マイクを通したからこその音」という現代的な表現性で、ケージが試みた内部奏法同様にまだまだ可能性が開かれているのではないでしょうか。
でも、マイクや録音技術はそれ専用に条件を合わせる単焦点の様なものです。
人間の聴覚のように自然にその条件に焦点が合うようにはならないので…やはり人間の感覚器官凄い!笑
<ミニマルな(抑揚が少ない反復する)音楽の作用と展開性>
グルーヴの項でも概念解釈の項でも、散々ミニマルミュージックについて書いているのですが、別の視点でミニマルミュージックやポストクラシカルなどについて考えてみたいと思います。
昔、音楽に詳しい知人から説明を聞いていた解釈にもっとも近かったミニマルミュージックの説明を見つけました。
バルトークのラボへのコメントの内容が、あながち間違いではなかったことになり、少々ほっとしています。笑
10/27に配信で観た MUSIC FUTURE Vol.9で演奏された「室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra」(演奏に関する内容は後述)に関する読売新聞の記事「久石譲の新作、ミニマル・ミュージックの癒し…「コロナ禍で痛んだ人々に届く音楽を」のタイトルには、心底納得しかありませんでした。
記事自体は「耳に優しいサウンドが聴き手に癒やしをもたらした。コロナ禍で痛んだ人々の心の奥深くに届く音楽をめざした」という程度で、なぜミニマルミュージックが癒しに繋がるのかは書かれていませんが、私自身の経験でそれを実感しているからです。
角野氏が生まれる前の昔、ストレスで半年に12kg痩せて精神状態のダメージも最悪になったことがありました。
もともと音楽を聴くという趣味は無かったこともあり、ラジカセもミニコンンポも持っていませんでした。
ですが、どうしてもスティーヴ・ライヒ「Music for 18 musicians(18人の音楽家のための音楽)」を聴きたくて、変に低音やボーカル域が強調されないという条件で前述のZS-F1を購入したのです。部屋の関係でミニコンポは置けなかったので。
どう説明したら良いのかわからないのですが、精神が本当に疲弊していると感情が動かされる様な曲は全く受け付けないのです。
テレビから流れてくる普通の音楽も含めて。
とはいえ、静かな曲だったら良いのかというと、そうでもなく。。。
どういう感覚が当時に近いのか考えてみたのですが、最近「サウナで整う」という言葉を使いますよね。
「Music for 18 〜」はまさにこんな感じなのです。
自分の精神をチューニングするみたいな。。。
「Music for 18 〜」は静かに始まりますが、一定のビートによってある種の緊張感・ドライブ感を持っています。
それが、1曲60分弱という長い時間のなかで潮の満ち引きのような大きな緊張と弛緩が訪れ、その弛緩のなんとも言えない開放感がカタルシスになるのです。
泣くことでデトックスやカタルシスの効果があると言われますが、緊張と弛緩との落差はダメージがある時には耐えられません。
一方、音楽の要素がミニマルでグレデーションのように小さく変化していけば、負担が少ないまま緊張状態・弛緩状態への変化が起きます。
クライマックスの部分では感情を伴わない身体的な切迫感や緊張感が結構強く働いていて、それがゆっくり弛緩していく結果、熱いサウナの後に整う感じや、映画を観て大号泣した後のすっきり感に近くなるのではないでしょうか。
当時は「Music for 18 〜」を毎日必ず聴いていましたし、1曲がとても長いので、私の人生で一番聴いた回数、時間のどちらにおいても、「Music for 18 〜」が断然1番です。
好きという感情で言い表せないほど大切な曲で、前回のnoteで「私にとっての定番はミニマル」と書いたのはその為です。
今はというと…その緊張感が仕事にとても良い効果を生むので、時間に追われた仕事の時に時々聴いています。
当時の辛い状況や感情を思い出すことなく全く違う聴き方で受容できるのは、当時この音楽の記憶と感情が結びついていなかった事の証でもあります。
「ファイナルファンタジー Ⅶ」の曲を聴くと当時の事がフラッシュバックするのとは全く逆なのです。笑
ちなみに、角野氏のショパンコンクールでの「ピアノソナタ第2番」にも音楽に寄り添ってもらえた様な感覚があり、今でも感謝するほど助けられたと思っていますが、ナチュラルな表現の中で、曲調がさまざまに変化していく所に要因があったのかもしれません。
精神的に辛い状況にあると、やはり感情表現が大袈裟ではないことが重要要素になるのではないかと思っています。
そして…またもやシンクロニシティ!笑
12/20にBlue Noteの配信で観た「SAVE LIVE MUSIC FINAL" 上原ひろみ ザ・ピアノ・クインテット」、実は事前にどういう内容なのかも調べずに観たら、久石氏の「室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra」のエレキヴァオイリン(ソロ)と同じ新日本フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター 西江辰郎氏が第一ヴァイオリンでご出演でした(お名前で知ったのではなく、配信時のお顔で同じ方と認識)。
この上原氏の音楽も、わたしにとってはミニマルミュージック!まさに小さい音のフレーズが重なっていく感じなのです。
最後に行われたMCによると、サブタイトル「SAVE LIVE MUSIC FINAL」とあるように、もともとはコロナ禍で企画されたものだそうです。
すでにアルバムになっているということで改めて「Silver Lining Suite(Spotify)」を聴いてみると、うーん、、、やはりミニマルとしか思えませんでした。
(というか、そもそもミニマルかネオクラシカルかは、正直全然判断がつかないのですが…そのことはこの項の終わりに後述します)
やはり精神的にダメージを負っていると、こういう音楽フレーズの単位が小さく無機質なものに安心する方が多いと思われるのです。
急激で大きな変化が起きない閉ざされている感覚が、サンクチュアリに居る安心感に通じるというか。。。
って思ったら!!!
そうそう、星野源氏の「うちで踊ろう」も、音楽的にはすごくミニマル要素でした!!!
歌詞の内容もウチにずっと居ながら「踊る!」ですし。
でも、上原氏の「SAVE LIVE MUSIC 」もファイナルを迎え、ライブではリリース音源よりずっと躍動感と生命力に溢れた演奏でした。
さすがに閉じこもっているだけの時期はもう終わりを迎えつつあります。
そういう意味では、「サントリー1万人の第九」の「喜び」が何の障害もなく心に響くようになってきたというべきなのかもしれません。
そして、ミニマルミュージックとネオクラシカルの類似性について。
以前別のnoteにも書いているのですが、正直私の耳には「MUSIC FUTURE」で演奏された久石氏のネオ・ミニマルとニコ・ミューリー氏のネオクラシカルの曲が様式的にどう違うのかはほとんどわかりませんでした。。。
ですが、前述の「特別対談企画【久石譲×西村朗】〜」の久石氏は「ミニマルミュージックの作曲家は4人しかいない」「今のネオクラシカルの作家は本人が意識しないにしろ影響を受けている」とまでおっしゃっているのです。
ええええ?素人からすれば、ネオクラシカルとミニマルミュージックって、どう聴いても「近い・似ている」っていう感覚しか無いのですけど。。。
特にハニャ・ラニ氏からは、ライヒのような急激な変化の無い大きな潮の満ち引きのような質感を覚えます。
ちなみに、ラグタイムとデキシーランドジャズの違いもよくわかりません。苦笑
年代や文脈の違いは調べて理解はしましたが、耳で聴くだけではなんともわからないのです。。。
ここで先ほどの「混乱する〜」に書いたことを思い出していただきたいのですけど、文脈への理解や知識がないと自分が判別できる表面的な類似点で結びつけ易いということです。
ですが、知っていてもあえて意味を排除した類似・近似的なもの同士を結びつけることで、芸術的創造性につながる場合もある訳です。
ミニマルミュージックの民族音楽からの影響はまさにそれ。
文脈と切り離して音楽要素を部分的に引用したところに音楽的な革新性がもたらされたわけです。
角野氏がバッハとポストクラシカルのビート感が近いと認識されている所も、同様でしょう。
もっと近しい関係性から言えば、コード進行が似ている曲同士を重ねるマッシュアップも文脈から切り離された類似性で結びつけています。
「胎動」「追憶」もまさに!ですよね。
ショパンのオリジナル曲には意味が含まれる曲名が付いていないので、曲からの類似性になりますが、クラシックの伝統的感情表現という解釈ががメタファーにはなっているようにも感じます。
(これ、実はちょっと後々重要になってきます)
で、何が書きたいかというと…
リズム要素や音律・和声など具体的に音楽要素として把握できるもの、最初の項に書いた「純粋な音楽要素」に関しては、隣接性・近接性が明確に判断できるので換喩=メトニミー的な創作性に直結しているのではないか、ということなのです。
メタファーが表現性でメトニミーは創作性と、形容する言葉を変えているのは、どちらも表現や創作に至ることはあるとしても、表現の中でも「創意」に結びつくのはメトニミーで、創作の中でも「質感表現」に結びつくのがメタファーというイメージを私が持っているだけです。
あくまでも、わたしの中のイメージです。
なぜなら、先にも書いたように音楽表現にレトリックの分類を引用して例えり行為自体が、私の勝手なアイデアだからです。笑
ちなみに、高木正勝氏の「Tai Rei Tei Rio」が好きなのも、私にとっては原始音楽のメタファーを持つミニマルミュージックのメトニミーだから、ちょっと特別なのですよね。
ただし、人によってはミニマルミュージックのメトニミーにはなりませんし(音楽知識の問題)、現在の音源だけに接した方にとっては神話とセットになっていないのですからメタファーを感じない方もいらっしゃるでしょうし、全く違う鑑賞になると思われます。
<自立した世界観と結合する感性が反映される時代性>
そもそも私自身が何故こんなことを考えるのか、感じるのかがわからなかったのですが…このnoteを書き始めてみると、思考が同じ方向に向かっていたことに気づきました。
「表現の発生プロセスとメタ的な表現アプローチへの私観 〜ポーランド国立放送 〜」で「天動説の宇宙(閉じられた宇宙)の中で響いているような音楽世界」と書いたことも、角野氏の演奏から感じた私の印象です。
「パシフィックフィルハーモニア東京「第152回定期演奏会〜」でアデス氏の作品を「人為的自然」という言葉を用いたのは、そのインタビューの印象と実際のコンサートの印象から私がそう感じて用いた言葉です。
それら2つは、久石氏がミニマルミュージックにあえて「システム」という言葉を用いたこと、プログラミングで音楽が成立している現代性を感じていらっしゃることと、たぶん同じ感覚です。
この時代性を最も明確に言葉にされているのは落合氏による「デジタルネイチャー」でしょう。
AI自らが学習して特定の世界を作り上げていくことが現実となった時の「システム」は、その挙動の一つ一つを人間が指令することで成立する「システム」とは全く意味が違っているのです。
今後考えられるデジタル世界では、ある種のビオトープとして人為的に自然的な世界を作り上げることができるということです。
しかも、そのデジタルネイチャーに対する捉え方においては、とても興味深いことが起きている可能性があります。
私がボーッとしながらの世界を眺めた得た感覚だけなので、仮説にも及ばないのですけど…
どうして今、レヴィ=ストロースなのか、ジョン・ケージなのか、という理由にも繋がります(学術論文やレポートだったら絶対NGのヤツ!)。
<混乱しがちな芸術概念の解釈>に書いた様に、西欧から輸入された概念は、芸術を考える際の私にとって多くの混乱をもたらしました。
ケージの場合は「西欧概念だから西欧的な解釈をすべき」という思い込みがあり、正しい理解には及ばなかった訳です。
レヴィ=ストロースはそもそも西欧思想のアンチテーゼとして書かれていて誤解は少なかったのですが、理解そのものが難しい。。。
どちらにも共通して言えることは「アニミズム的自然観」が見受けられることです。
レヴィ=ストロースは南米の未開民族(差別用語ですがそう書かないと当時の状況を正確に言い表せない)の世界観をそのまま受容していましたし、ケージもきのことの関わりの中で自然の内部にある自己の存在性を感じていたと考えられるでしょう。
どちらも、さまざまな自然要素の中で人が関わっていく感覚で、キリスト教的な神の子としての特別な人間が自然を支配する関係性ではありません。
レヴィ=ストロースの「主体(人間)の不関与」は、神話(原始宗教・キリスト教以外)という別世界からもたらされた概念ですが、テクノロジーが作り出す世界観は、まさに神話という別世界のと相似形です。
システムがシステムを作り出す時代に至る時、人間と自然(あるいはアニミズム的な神の世界)の関係がフラットだった原始的な世界観・思想に近づいていくのかもしれない…というふわっとした予感が生まれるのです。
けれど、人間はその世界とは別に存在し続けます。
世界も実は閉じられていて別の世界があるという可能性が感じられます。
それらの違う世界観はどうか変わっていくのか…
デジタルの自立する世界を外側からリーチする意識は、この世界の内側から外側の世界にリーチする構造的理解になります。存在する世界自体を内外で行き来するという「構造的飛躍」は共通だからです。
その違う世界へリーチする感覚の捉え方の一部は、身体性の拡張性にも繋がると思われるのです。
なぜなら、属する世界が変われば繋がっている身体も変わるから。。。
SFでよくある様な…不思議な壁に腕手を突っ込むと自分の腕も変化する!みたいな感じ。。。
一方、西欧思想の基本として人間を特別視する意識・もしくは形而上学的に自己の「真」を探究する自己意識では、人間と自然世界(人間以外)の構造を超えた交流はほとんど感じられないのです。
実はこの違いがわかる興味深いtweetがあります。
角野氏はピアノを身体の延長として捉えています。
一方、有島京氏は人間と外界の接点である「窓」と捉えています。
この「窓」は、人間の感情や表現性を比喩する場合に用いられ、自己の「窓」から世界を観るのか、自己を世界に反映する「鏡」とするのか…と、二項対立で扱うことが多いです(昔から色々なところで用いられているらしく出典は不明)。
「鏡」は自己の投影であるのに対し、「窓」はそれを通して外界の関わりを持つ意味で最大限の外的アプローチですが、どちらも人間と外の世界とは隔絶していて窓が接点というだけ、結合はしないのです。
角野氏とは自己意識の前提が違うので本来比較はできないはずなのですが、その違いに気づかない所に、西欧のアカデミックな芸術概念が基礎にあるとも考えられます。
角野氏による身体とピアノが繋がっている感覚は、匠の技として道具と身体とが一体になる工芸技術に対するものと同じです。
日本人には普通でも、西欧的な芸術概念で考えるとそれほど自然な事ではないのでは?と想像します。
日本ではなぜこれほど自然に身体拡張が受容されるのか、私は個人的に憑依(カカリ)や因縁など、なにかとすぐに外的要素と結びついてしまうアニミズムの影響だと考えていて(出典論拠はありません)、現代においても様々な日本の文化や芸術表現に大きな影響を与えていると思っています(後書きにも関係します)。
NTTドコモ CM「あなたと世界を変えていく。」の人間拡張も全く同じですよね。
二つ目の補足では日本的な「内側から繋がるテクノロジーに対する無抵抗感」のようなものを書きましたが、今やその先の半歩を踏み出した時代性を感じます。
それは、「世界の内側」と見なす対象が人間だけでなくAIという非人間的存在に変わることで、人々の感性が変化しつつある所です。
<混乱する〜>の項目で久石氏の「洒落たタイトルは不要」というお考えを抜き出しましたが、それにはまだ続きがあります。
「純粋な運動性という方が今の時代にいい」とおっしゃっているのです。
しかも「作る側が感情をつくるのではなく、システムをつくる」とも。
この「システムを作る」感覚こそ、まさに今の時代感覚なのではないでしょうか。
MUSIC FUTURE Vol.9で演奏された「室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra」を聴いた時、驚いて下記のTweetをしました。
私は角野氏がこのコンサートに行かれたという情報から「面白そう」と配信を観ただけで、久石氏がミニマルミュージックを数多く作曲されていることすら知りませんでした。
事前に何の知識もなかったのに、ミニマルを超えたネオミニマル的な表現として「リズム音の無い所でもビートを感じさせる新しい試み」という事がその音楽を聴いただけではっきりわかった事こそ、最大の驚きでした。
きっと「純粋な運動性を表現させる為に音楽をシステム的に作曲した作品」という事なのでしょう。
リズムはなく主要メロディが奏でられている所で、バッキングが刻まれているかのようなビートを感じるのです。
音が無いのにビートが刻まれているのがわかるのは、その前に強いビートを一定期間継続させて聴いていたことで、引き続きリズムを感じる慣性的な感覚を利用しているのでしょう。
慣性効果は時間によって減衰していくので、それは作品のなかで絶妙に調整されているとも思われます。
前回のnoteで「無音を音楽にする可能性」は、自己の中にあるリズムが要因ではないかと書いたのですが、このコンサート配信を観て、自己の中にあるリズムが継続すること=その運動感覚が慣性として続いている感覚がある、という所に行きつきました。
そうそう、曲が終わった後の感想に「余韻」て書きますものね。
「余」という感じの意味は「期限をこえて」というものもありますから、途中でも終わりでも、慣性が働いているという所では共通なのでは…と。
そして12/24の夜中にまたまたヤバいものを見つけてしまいました。。。
(構成はシンクロニシティ的に度々出会った新情報によって順番が変わったり詳細に各部分が増えたりしていて、本当に苦労しています。。。)
「人工知能美学芸術展 演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」という美術展&コンサートです。
第一に興味深いのが美学を人間と機械に分けたマトリックスにし「機械美学/機械芸術」として扱っているというところ。
その世界においてはテクノロジーによる自発的な芸術を思考している訳です(まだ実際には実現し得ないテクノロジーですが)。
そして、タイトルとなっている「演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」の部分。
アイヴズが語った言葉だそうで、どういう時に語られていたのかは不明ですが、「演奏家に指が10本しかない」のは演奏者内部から視点で、その内部の視点は「作曲家の責任なのか」という外部から俯瞰する視点(=メタ視点)からの問いかけになっているので、たぶん意図的に構造を超越する視点を取り入れている、相互的な視点の交換が起きていることが感じられます。
ちなみに、落合氏の「遍在する音楽会」でもアイヴズ「答えのない質問」が演奏されすごくカッコ良かった事が配信を聴く理由の一つなのですが、アイヴズの作品を取り入れた意図は、「遍在する音楽会」においても落合氏のデジタルネイチャーとの関連性があったからではないでしょうか。
※実際にこの配信を観ることができたのは12/30夜と12/31昼だったので(長かったので2日に分けた)、詳しい感想は<後書き>に記載。
私が考える「今」という時代性は、「将来への予感」を含んでいます。
何度も何度も書いているので耳タコ状態だと思われますが「ミクロアップ」「マクロダウン」、内と外の視点から構造の境界を乗り越えるアクションが同時に行われる世界観です。
落合氏の有料noteや著作を読んだわけではないので、氏の「デジタルネイチャー」が私がここで書いたものと同様であるかはわかりませんが、ケージの再解釈や民藝(個人の意識による芸術ではなく文化的必然性や用の美を尊ぶ価値観)を重視されていることからも、やはり同じ匂いがします。
そうそう、落合氏がRTされたTweetからもそれが感じられるものを発見しました。
メルロ=ポンティはレヴィ=ストロースと友人関係にあり、二人の思想概念は影響し合っていると言われます。
絵画や芸術、媒体そのものを独立した世界として認識するということは、人間のみが唯一の主体という視点から解き放たれて自由になったという事でもあるはずです。
ケージで言えば、前衛・実験的な表現で既存の音楽概念を壊したという事なので西欧的な外側からのアプローチになりますが、その一方で日本的に内側から自然を感じる作品性が認識できます。
ケージ作品を鑑賞・理解する時点では日本的な感性がしっくりきますが、ケージが与えた音楽への影響やその業績を考える場合は西欧の芸術体系から理解することは不可欠で、やはり内側と外側の視点を同時の持っている、二つの構造を越境するかのような作用が成立している、と考えるのが順当だと思われます。
そう、だからこそ「おんがくこうろん」の冒頭で「私は作曲家でもあり聴き手でもありたい」という言葉は私の理解に本当にフィットするものでした。
(そこを切り取ったNHKのスタッフの方も、私同様になんとなくこの時代性を感じているのだと思われます!)
レヴィ=ストロースの思想は大きすぎてここではかけませんが、構造主義として定義してしまえば外側からの視点に偏りますし、社会人類学・民俗学的成果で捉えれば内側からの視点に偏ります。
今、改めて両方同時に受容できる(自然に納得できる)時代になったということだと考えられるのです。
それは、日本の文化からは理解し易いという前世紀末的で身贔屓な理解とは少し違います。
日本人が理解し易い内側からの感性と日本人が理解しづらい外側からのアプローチを全体像として認識する、しよう、という意識です。
そして今、この感覚が日本的なのではなく、全世界的な潮流になりつつあるのではないか、と感じているのです。
西欧でのポストモダニズムを経たダイバーシティに対する理解や、システム内で相互に関わりながら学習・発展するテクノロジーからは、原始から続くアニミズム的な感性に近く「内部的視点のままで展開する様(さま)」が実感できるからです。
芸術作品において、唯一のオリジナリティに価値を置いた段階から、複製品にまで価値を広げたマルセル・デュシャンを経て、リミックスやスクラッチ、マッシュアップなど、ブリコラージュ的な「組み合わせ」の芸術性をオリジナルと同等に扱う価値観が西欧でも定着しました。
それらは、「受け手」として元作品を受容し「表現者」として再構築をしている訳ですが、リスペクトやオマージュをメタファーとして作品に内在させる感覚は、ミニマルミュージックがアフリカ民族の重複するリズムを引用として「飲み込んだ」ものとは明らかに違います。
作品として再構築させる際にも「受容者的感性」が表現として十分に生かされていると考えられるのです。
日本では、ブリコラージュ的な手法が通用しないテクノロジー中心の世界になり、否が応にも意識をシステムに向けざるを得なくなりました。
以前も書いたように、高度成長期の一時的な成功は目の前にある素材で創意工夫したことが功を奏したからで、その後の凋落を招いたのは俯瞰するシステムに目を向けられなかったからだと考えられます。
でも、目の前の素材がシステムで成立したテクノロジーになっているのが今現在、目を向けざるを得ないというよりもそれが当たり前の世界です。
デジタルネイティブの若い人々とそれ以前の人々の意識は全く違うはずなのです。
つまり、西欧も日本もどちらも逆の出発点から、完全には同じではないものの似た様な理解・方向性に向かっているのではないか…と考えるのです。
さて、ようやく角野氏の表現性に話が戻りつつあります。笑
前回のnoteで、角野氏を含む若い方の「能動的スタンスと受容的スタンス」の同時成立をSNS等の発信と受信を若い頃からパーソナルな段階で行えるメディア性に求めましたが、それを含めたテクノロジーによる時代性というのが、このnoteによる結論です。
マスメディアがパーソナルメディアとしても同時に成立し得ることも、現代のテクノロジーにおいては全く矛盾となりません。
多数を外側から意識するのと同時に個人としてのつながりを実感することは(一対多という関係性は変わらないためトラブルに発生する可能性もありますが)日常感覚です。
「”Cateen かてぃん”チャンネル 〜」でレヴィ=ストロースが「顔が見える関係」の可能性にサブカルチャーを予想していることは本当に凄い予言だと書いていますが、未開民族への意識と最先端の数学を同列に扱ったレヴィ=ストロースならば、ある意味では当然なのかもしれません。
では、角野氏の「クラシックを基盤としたピアノによる音楽表現」が、現在のテクノロジーとどのような共時性を持っているのでしょうか。
NOSPRとのショパン「ピアノ協奏曲第1番」の感想の一部の抜粋ですが、まさにAIが作り出した箱庭のような世界に外側からアプローチしている質感でだったのです(リリースされている大阪公演の音源からはそれを感じられませんが、録音だからなのか演奏自体が変化したのかは不明)。
古い世界にいる人間として想像すると、角野氏がAI研究に携わられて得られた実感とは無関係ではないと思われるのです。
なぜなら、私にはその実感がないからです。
でも、現実世界にない実感を与えてくれるのが芸術!
角野氏の作り出す新しい音楽世界の中へ越境することで、今の時代性を実感できるのです。
それは、「人工知能美学芸術展」のような概念を直接具現化した表現だけが時代性を反映させている訳ではないという事でもあります。
久石氏がお考えのネオミニマルミュージックも、アデス氏のピアノ協奏曲から感じられた人為的自然性(自立した世界観)を感じたことも、同じ方向に向かう感性です。
小曽根真氏のジャズからクラシックへのアプローチも、それまでの方とは明らかに違って現代的な拡張性を持っていると思われます。
それは、ご本人が思想や芸術概念を意図していなかったとしても、時代のなかで象徴的に立ち現れているものだと感じられます。
ただし、角野氏のクラシック音楽で、それがどう反映されているのかされ得るのかを語るには、まだ言葉が足りません。
さらに重要なもう一つの概念を定義します。
<「イノセント」の2つの意味>
私はクラシック曲のピアノ演奏が苦手でした。
恣意的で抑揚のある大袈裟な表現や、テンポ変化の間合いやタメもわざとらしく感じられてしまって。。。(クラシックファンの方、本当にすみません)
そんななか、角野氏の演奏はとても自然で、特にショパンコンクールでの「ピアノソナタ第2番 葬送」は特別に感じられました。
ご自身も記憶が余りないと仰るほどの「無の境地」のようなもの、角野氏の演奏であるにもかかわらずその音楽だけが自然発生的に感じられたほどです。
ご自身でも即興的という言葉を使われたり、音楽にはメッセージ性を込めたくないとおっしゃられるなど、一時期は特に音楽表現の中に個人の解釈(歴史な曲解釈ではない)を放棄していたかのように感じた事もありました。(注:ご本人の意図がそうであったという意味ではなく、その演奏からそう感じられるほどだったという意味)
一方で、ジャズセッションは合奏者の演奏を聴いた時点でリアクションとして作曲行為を伴う以上流れている音楽への解釈はあるはずですが、そこに恣意的な解釈性は感じません。
リズムにおいても、クラシック以上にタメや間合いを取りますが、恣意的な抑揚を感じることはありません。
たぶん、音楽やそのリズムに自然に身を任せる所から生まれる演奏だからなのでしょう。もちろん、同時に即興演奏でもあります。
そういう本来のジャズのエッセンスがクラシック奏者にも遺憾無く発揮されていると感じられます。
それ以外にも、音楽の楽しさや喜びがダイレクトに伝わってくる感じや締め付けられるような繊細な弱音、内側にみなぎる力を抑制するな緊迫感や圧力、もちろんそれらがダイナミックに表出する場合もあります。
たぶん、もっと色々なことを感じているはずなのですが…ここでは書ききれず。。。笑
角野氏のこれらの音楽表現を言語化する場合、今までは個別事例として別々の言葉を用いるしか手段はありませんでした。
角野氏の多用なスタイル・様式を横断する表現からは分断や不自然さは全く感じられないのですが、言葉にすると解釈によっては矛盾を孕んでしまう可能性があるのです。
基本的な語彙力の問題があったとしても、角野氏の表現性を定義する概念としていつも何かが足りない!と思っていまたところ…ついにこれらを包括する言葉を見つけました!!!
それは「イノセント」。
実は「アート・オブ〜」のなかで、芸術とそうでないものを区別する際に当時ニューヨークタイムズ(現在はウォール・ストリートジャーナル)評論家のエドワード・ロススタイン氏が使っていた言葉です。
「いま私たちの社会ではイノセントな表現と難解で努力を要する芸術との区別が難しくなっている」
「いまや私たちはその区別に慎重にならざるを得ない」
「ケージは区別を破壊したが評論家として聞き手としてまた何千年も続く音楽の伝統を重んじる者として私は区別することに賛成だ」
芸術に対してそれ以外を否定的に語るがゆえに、差別性を避ける配慮から「イノセント」を用いたと思われます。
ただし、実際に「イノセント」を含むだろうタン氏の表現には芸術性を認めています。
「タンの功績の1つは人々に耳を傾けさせたことだろう」
「冗談のような試みを通して人々に音楽の喜びを見出させた」
一般論とタン氏個人の表現性とを区別した評価ですが、私にとってはこれこそ角野氏の表現性を矛盾なく統合できる唯一の言葉だ!!!と感じたのです。
前回のnoteに書いた様に、おもちゃや楽器以外の演奏をも芸術に昇華するというタン氏の表現性への志がこの映画全体で語られています。
それは、芸術も芸術でないものも同様に扱うタン氏のフラットな姿勢そのものでもあります。
そのフラットな視点は「音楽の喜びを見出させる」という「イノセント」にウエートが置かれているからこそ成立するのです。
そう、まさに角野氏と同じ!
しかも改めて考えてみると…
感情表現が消滅するかのような「無心」も、子どものような「無邪気な楽しさや喜び」も、曲の中に没入するかのような身体感覚も、すべて「イノセント」で形容できてしまうのです。
古典に忠実な解釈であろうとする姿勢も「イノセント」ですし(現代的解釈=モダニズム概念の除外という意味でも)、思うがままに自由に編曲することも「イノセント」を用いることができるのですから、まさに魔法の言葉!!!
ただし、全てに「イノセント」が使えるのならば、言語としての役割は逆に無いのと同じです。
では、私は何をもって「イノセント」とそうでないもの(特に正反対だと感じる「恣意的な解釈」)とを認識しているのかが問題です。
きっと、それぞれの音楽が表現やジャンル・様式・曲調などでカテゴライズされる際に「イノセント」と呼ぶのに相応しい感性的なゾーン、エリアが存在するのです。
ジャズやポップスだったら多め、クラシックだったら少なめ、現代音楽も少なめ、ジャンル・様式によって「イノセント」のボリュームも変わりますし、曲調にだって違いは出てくるはずです。
でも、どの様な曲であっても「イノセント」は内在するはずです。
ただ、わたしは区別・抽出することに意義を求めている訳ではありません。
本来は相容れないと思われていたものが「イノセント」という概念・ワードを用いることで結合される、あるいは芸術表現として全て昇華される可能性が見出せるという事が重要なのです。
タン氏はそれを見事に成し遂げられていると思うのですが、その芸術性を成立させている場は「現代音楽と大衆的音楽やその挟間」という限定性があります。
それすらも凄い事として、ロススタイン氏はご自身のポリシーを一部覆してでもタン氏を評価されているのですが、、、
角野氏は古典も現代音楽も大衆的な音楽も、たぶん全てにおいて「イノセント」と呼べる表現性を備えているという事なのです。
これって、メッチャすごい事〜〜〜!!!!
あああ、、、、ようやくスッキリしました。笑
ちなみに、アンリ・ルソーで知られる素朴派=イノセント・アートとも、角野氏がこの表現に至る理由を考えると無関係とは言えないのです。
素朴派はアカデミックな芸術教育を受けていない芸術家の作品を指すので、アウトサイダーアートの要素もある芸術家という感じでしょうか。
角野氏が専門教育を受けていないと書くと語弊がありますが、音楽学校で音楽や芸術理論を学ばれている訳ではありません。
アカデミックな専門教育はその体系が学べるのに対し、独学や個別指導による学びは体系的理解がどうしても弱くなるというデメリットはありますが、若い時(学びが一方的になりがちな時)に体系的な専門教育を受けると、その概念内の思考が染みついてしまい、そこから出られなくなる場合もあります。
換喩的(音楽的文脈を問わない)創造性の発揮には、知識や常識的な概念が障害になることすらあるのです。
角野氏は西欧から輸入された体系的な音楽の専門教育を若い頃に受けていらっしゃらないからこそ、ナチュラルに日本的な感性を表現に投影され、工学研究で培った広い俯瞰的視野で音楽を認識できているとも考えられます。
ちなみに、アイヴズも保険会社の副社長として成功したダブルワーカーですし、Penthouseの皆様も!
そういう多様な価値観を持ったまま一つの世界観を作り上げていく感覚が、今の時代性にとてもフィットしていると感じるのです。
ですが、、、、大体の思考的展開を描き終えたところで大問題が発生!
12/9に観た「【現代室内楽の夕べ】〜」を引用するために改めて見直してみたら、、、なんと西村氏が久石氏のミニマルミュージックに対して「イノセント」という言葉を使われていたのです。
うううう、、、構成をさらに大きく変えざるを得なくなりました。
というのは、作家の意図が排除された無機質な音楽・システムで作り出された曲も「イノセント」として扱われるということがわかったからです。
そう、前の項でデジタルネイチャーを入れたのは、人間以外の自立する世界観(人が作り出したものか自然に存在するものかは問わない)の純粋性を表す「イノセント」を別途紐解く必要があったからで、その部分は後から挿入しました。
9月のショパン「〜協奏曲第1番」でその不思議な表現性を感じたとはいえ、それがなぜ角野氏の演奏から感じるのか、それを何とて呼べば良いのかすら分からず放置していたものが、此処にきて呼び起こされた気がしました。
西村氏が当たり前の様にミニマルジュージック=システムで完結する自立的世界観に対して「イノセント」という言葉を当てていらっしゃることに、その手があったか!!!みたいな。。。
(もしかしたら音楽的知識・概念としては当然かもしれないのですけど…)
また、上原氏のライブでミニマルミュージック的な世界観の内で感じる躍動感!
そう、まさに「ウチで踊ってる!」でした。
つまり、ここで書いている「イノセント」とは、人間の本能的な意味での無垢な表現=内的イノセントと、システムによって作り出された純粋な世界観をそのまま提示する=外的イノセントという意味の両方になるのです。
そう気づいてみると、、、
角野氏とトリスターノ氏の組み合わせも、内的イノセントと外的イノセントの組み合わせになっている様に感じられたりするのですよね。。。
実は、各項目の思考展開でも常に2項対立やその違いを意識する内容だったのですが…お気づきの方はいらっしゃいましたでしょうか。
次項でいよいよそれらをまとめて結論づけていきます。
<作品解釈とイノセントな表現の連合による統合>
いよいよこれまで書いたことを結論として結びつけるのですが、当初「統合」という言葉を使っていたものの、よくよく考えると…個別性は存在するキメラ的な結びつきなので「連合」を使った上で全体をまとめる「統合」を用いました。
ロススタイン氏が特別視するほどに、タン氏はなぜケージ作品の魅力を引き出すことができたのでしょうか。
「アート・オブ〜」の中でそれを紐解くヒントが語られていました。
タン氏はケージの生前「プリペアード・ピアノ」のボルトの扱いのような技術的問題は細かく相談・指示を受ける一方で、ケージがどう思ってその曲を作ったのかはあえて訊かないと語るエピソードがあったのです。
タン氏による「音楽の喜び=イノセントな表現」はケージの作品という以上にタン氏・演奏者の芸術性・表現性です。
ケージも、自身の制作意図に関わらずタン氏の様な優れた演奏家による解釈によって作品が変化することを好んでいたのでしょう(そういう作品性を持っているとも言える)。
作家の制作意図をあえて確認しないところ=タン氏の解釈=)に表現性が反映され、作品そのものが持つ芸術性と演奏者が持つ芸術性が絶妙な・特別なバランスとなり、それが成立している状態こそが、ここで何度も書いている「芸術の聖域」です。
しかも、タン氏ご自身が訊かない=あえてブラックボックス化している様子が垣間見られたということです。
ちなみに、もし作家の意図を聞いた上でそれを無視すると、たぶん演奏者がそれを「飲み込む・無意味化する」タイプの表現になるのです。
作品にまつわる文脈のうち簡単に調べればわかる事を全く知ろうとしない事も故意に無視する事と同じ。
訊かないで(=知らないで)その作品に沿った表現性を模索する行為には部分的一致が発生するという「ズレる可能性のある結合」タイプの表現(付け合い的な表現性)になるのではないでしょうか。
そう考えるならば、古い作家・作品については可能な限り資料や文献から作品解釈を試みることで一致の量を増やす必要があるでしょうし、直接知り得る作家・作品であればあえて距離をとる必要もある、ということです。
中間領域好きな私にとっては、まさに!という答えですが(自分で言ってスミマセン)、これ自体は特別なことではなく、演奏者の誰もが特に意識されず普通にされていることではないでしょうか。
私がここで書きたいことは、これまで矛盾する≒不可能だと思われていたことを角野氏が統合・実現する可能性です。
それらをさらにメタ的に俯瞰した上で成立する表現性。
現在はまだ成し得ていないので、タイトルも「兆し」になっている訳ですが。。。
ここで書いている「無作為性」というのは「イノセント」のことです。
しかも、その前の項<自立した世界観が反映される時代性>に同じく「表現の発生プロセス〜」から引用している「サンクチュアリ」も、完結した世界観としての「イノセント」です。
そう、「内的イノセント=主体からの視点」と外的イノセント=客体からの視点」がそれぞれ角野氏の表現性から感じ取れるのです。
この「個人の解釈を行いながらも無作為をコントロールする表現性」というのが「作品解釈とイノセントな表現の統合」にほかなりません。
でも、イノセントは2種類ある訳で、どっちの意味?ってなりますよね。
しかも、クラシック音楽という枠組みの中で内的イノセントを個人の作品解釈において行うことの矛盾をどう解決するのか。。。
これらの事はたぶん前人未到の表現領域で、9月以降、角野氏が早々にそこに手をつけることは無いだろうと思っていました。
なぜなら、来年のソロツアー“Reimagine”は、前述の「隠喩」「換喩」的な再構築の組み合わせで十分成立するからです。
ミュートピアノ(アップライト)や調律による?音の響きを演奏以外の表現素材として扱うえば現代的解釈による隠喩的な作用につながりますし、バロックのビート感と現代的なグルーヴを類似性として結びつければ換喩的な創作作用(その場合の「創作」はセットリストまで含まれる)になりますよね。
もう、普通はそれだけで十分な革新性を備えているのです。
ところが、、、、
Cateen's Piano Live (X'mas)で演奏されたショパン「スケルツォ(時間指定有)」を聴いて…ちょっとビックリ。。。
冒頭の所にアレンジが入っているだけでなく、ジャズっぽいグルーヴ、タメや間合いも感じます。
ノーマルなクラシックの演奏解釈からは外れていると思いますし、私が好まなかった大袈裟な感情表現に分類されると思いつつも、前述の様にジャズ的な衝動、本能的で無垢なほとばしりの様でもあり…クラシック特有の恣意的で嫌な感じではなかったのです。
ですが、そう感じることは私がこの一年角野氏の演奏を聴いて来た前提もあるわけです。
「角野隼斗」という音楽家の文脈(過去の演奏で無作為性やメタ的にそれをコントロールする表現性を認識していた)の中で新たな表現性だと感じられたもので、もし私が初めてこの演奏を聴いたら単純に「自分の好みでは無い」と思ったかもしれません。
そういう意味では表現的に完成されていませんし、YouTubeライブというラフな場だったからこそこの限定的な表現スタイルだったかもしれません。
ただし、いずれにしてもクラシック曲の解釈に「内観のイノセント」が感じられ、しかもそれが外に飛び出してきた感があるのです。
NOSPRとの「ピアノ協奏曲第1番」では、サンクチュアリ(=自立する世界観)の殻が厚かったためにわかったことでもあり、もし薄ければ私が認識できていなかったかもしれません。
というか、そもそもこの「スケルツォ」のように飛び出てくるのであれば殻の有無も怪しくなります。
殻の有無は概念上の比喩なので、実際にその表現に殻があるかどうかをここで問題にしているのではありません。
表現者の無作為=内から認識する主体的イノセントと、作品そのものが持つ自立性=外から認識する客体的イノセントとを区別するために用いているだけなので、それらをまとめる表現者の作為ともいえる「メタ的な解釈」が垣間見られるということです。
これをレトリックで考えると、もしかして提喩=シネクドキー的な作用になるのかも?と、ネットで調べてみました。
提喩はもともと定義自体が混乱気味な修辞法で、逆に言えばだからこそ角野氏のこの表現性に近いかも…という期待感!!!笑
提喩の定義が混乱している状況も含めて詳しくかかれているページに佐藤信夫氏のお名前があったので、手元の著作を調べてみると…
「ふたつのものごとが互いに含有=非含有という内部的な関係にある場合、すなわち全体とその一部という関係にある場合、その名前の貸借りは提喩である……ということだ。ただし、広い意味での換喩はその両方を含むことになる」(佐藤信夫著「レトリック感覚」より)
うーん、確かに近いけれど、これだと修辞の関連性からは意味や変化が抜け落ちてしまう。。。
なぜこんなにこだわっているのかというと、大きな意味では親和性・隣接的な意味での換喩でありながら、その革新性がもっとも現れるのは関係性や(飛躍的な)意味が含まれるだろうシネクドキー的な表現になるだろうと、私が勝手に思いついたからです(論拠はありません)。
理由は、換喩は記号的な隣接性のみでも成立するのに対して、提喩の場合は上と下・内と外という構造的な認識が発生したうえで転換されるからです。
検索してみると「両者の関係が包含・発展(成長)・変化の関係で示される修辞」として「発展(成長)・変化」までを含めて換喩を考えていらっしゃる池田光穂氏のページを見つけました。
この方を調べてみると…文化人類学をご専門としているとのこと。
なるほど、私が望んでいる解釈に近い訳ですよね。笑
なぜなら、シネクドキーを研究したロマン・ヤコブソンはレヴィ=ストロースがその思想を作り上げる際に影響を受けた重要人物だからです。
そちらの意味は言語学的には否定されている事もあるのですが、私は表現性の比喩として提喩を使いたいだけなので、言語学的にこの解釈が正しいかは問わないでください。
つまり、ヤコブソンやレヴィ=ストロース周辺のプリミティブな言語によるレトリック効果を提喩に見出す場合は、意味や変化との相関関係(転換)と構造を認識する理解の仕方があるということです。
まあ…「提喩」の定義一つとっても一筋縄ではいかないのですからね。。。
似た様なイメージ構造を私が感じ取るその表現性、どういう解釈をもって角野氏が演奏されているのか…ということですよね。。。
実は「解釈とイノセントな表現性が統合に至る」としていますけど「歴史性や類似性をメタファーやメトニミーの作用で再構築する際に分解する解釈」と「内側視点と外側視点の2つのイノセントを成立させるために統合作業のシネクドキー的な解釈」と、それぞれ意味・作用が違うものなのです。
そう、「イノセント」は内と外の構造で「解釈」は統合と分解の作用、
この時点でそれぞれの単語は構造的に別の(逆の?)意味合いを含むものなのですが、それらを一つに統合するって表現????
図にしてみるとか、四次元の概念を用いてみるとか…色々チャレンジしたり散々考えたのですが、もう一つにすることはできません。
私のレベルでは絶対に無理無理!
でも、そういう前人未到の表現の兆しを角野氏の演奏から感じたという事で結論づけます。
ところがところが、12/28の朝、ベッドの中で突然気づいてしまいました。。。
二つが対になって一つの世界観を表すって、両界曼荼羅じゃん!!!!笑
次元が違うので、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の二つがそろって仏教の奥義となるセット!
しかも、『「胎蔵」は客体、「金剛」は主体表現であるとされる』
ですって。
ちょっと〜〜〜!!まさにコレですよ。。。。
さすが空海(でも、wikipediaによると本当は空海の師の恵果阿闍梨によるものですって 笑)。
いずれにしても、統合できない概念をこういうウルトラC的な方法で解決してしまうから、古代人は本当に凄い!
(対で一つという考え方も、ある意味ではキメラ!)
そう、両界曼荼羅手法を使えば「歴史性や類似性をメタファーやメトニミーの作用で再構築する際に分解する解釈」と「内側視点と外側視点の2つのイノセントを成立させるために統合作業としてのシネクドキー的解釈」が連立として統合される表現性、と書き表すことができるのです。
ここで全体のサブタイトルを見て頂きたいのですが「角野隼斗氏とフランチェスコ・トリスターノ氏による二つの公演からの思考的展開」ですよね。
そう、具体的に思考を展開しているのは、実は「メタファーやメトニミーの作用で再構築する」という所までを指していたのです。
トリスターノ氏との2台ピアノで具体的に感じられたのはそれだけだったからです。
ですが、YouTubeライブの「スケルツォ」を観て、2つの「イノセント」の統合問題が俄然大きくなってきてしまい、またもや格闘の日々。。。。
あの日は、そう…亀井聖矢氏のリサイタルがあった日です。
もしかしたら、亀井氏のリサイタルで大きな刺激を受けられたのでは?と考えられなくもありません。
というのも、伝統的解釈や技法が存在するクラシック曲で編曲を行わない状態のまま「イノセント」を成立させる事がどう考えても一番難しい。。。
編曲を用いたり再構築を行ってそれを成立させることの方が、思考的比重が高い分、その表現は「思った通り」になり易いからです。
ということであれば、その後の亀井氏との2台ピアノでは、この時点(「スケルツォ」を聴いた時点)では未完成に思われる表現性がさらに発展した可能性も大きいと考えられます。
亀井氏はトリスターノ氏とは違いクラシックのフィールドでのみ表現性を磨かれているので、亀井氏との2台ピアノでより大きな刺激と新たな視座を得られたのではないかと想像できるのです。
皆様のご感想を拝見しても、これまでに感じられなかったほどの興奮が伝わってきましたから。
私もチケットの入手機会には全て申し込みましたが、残念ながら叶いませんでした。
ただ、もしこの演奏を観ていたら私はここまで書いてはいません。
来年のソロツアーや角野氏の表現性の聖域を侵す行為になる可能性があるからです。
と考えるならば、当たるも八卦当たらないも八卦、具体的な演奏や表現性が全くわからないままで「兆し」と書ける事もまた、私にとっては特別な意味があるのではないか…と。
外れる可能性があるなら、聖域を侵すことにはならないので自由に書けるのです。
もちろん、亀井氏との2台ピアノが鑑賞できて「ネタバレ・聖域を侵すことになるから書けません」ってここに書けたら、それはそれで幸せな事だと思うのですけど…笑
ですが、「わからないことをわかろうとすることでしか成立しない聖域」を神様から与えられたと、有り難く思うようにしています。
なぜなら、角野氏の演奏は本当に素晴らしいですが、その一つ一つを観ること以上にその音楽表現で未来を創っていくその存在が、自分にとって最も尊く魅了される芸術表現だからです。
そして、フジロックのアクシデント同様に、ここでも角野氏は神様から特別な機会が与えられたとも考えられてしまいますよね。
そう、新型コロナ感染症に罹患されていなければ、この年末の時期に亀井氏との2台ピアノは開催されていなかったのですから。
亀井氏の昨夏からのご活躍と大きなご成長、角野氏のNOSPRとのコンサートツアー無くしては、今の時代を切り開く表現性の萌芽には成り得なかったはずです。
しかも、対ともいえるトリスターノ氏との2台ピアノの直後!
いや〜〜〜、これでまた伝説が生まれた!笑
書いている内容の半分以上は角野氏の演奏とは関係がなく、芸術の概念やら時代的な解釈やら、具体的な例題まで書く必要があったのか…と思うことはありました。
ただ、興味を持って下さる相互フォロワーさんがいらっしゃる事や、後年にこのnoteを訪れた角野氏ファンへの方にとっては、過去から続いている今の時代性や現在認識されている西欧と日本との違いとその共通点は書いておきたいと思った次第です。
また、2022年1月1日に観た「337×6」こそが角野氏ファンとしてのきっかけになったことを思うと、この一年をまとめるという意味でもどうにかこうにか2022年最後の日にこのnoteをアップすることができたことに感慨深いものを覚えます。
記念日的な意図などまるでなく、次々とこのnoteの内容に関わる出会いのお陰で(苦笑)、本当にギリギリ間に合わせるのがやっとでしたが、その偶然もまた有難いご縁かと。。。。
ありがとうございました。
(※年末ギリギリにアップしたので構成を変えた際に繋がりが意味不明になっている所や誤字誤植などを細々と年明に修正しています
<後書き「人工知能美学芸術展 演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」感想>
仕事がギリギリまで続いた年末、おおまかな結論までを描き終えた30日の夜と31日の昼にようやく配信を見ることができました。
なので、本来は追記になる様な内容ではあるのですが、この展覧会・コンサートがここで書いている時代性を扱っているので、後書きとして同時に公開します。
●コンサート
※順番としては、シンポジウムは途中で入るのですが、便宜上最後のまとめました。
アップライトピアノの古いタイプ(パンチングロールを入れるタイプ)の自動演奏でコンサートが始まりました。
「自動演奏ピアノのための習作」は、人間の指が弾けない組み合わせで作曲されたものをパンチングすることでピアノ演奏として成立させている曲たちでした。
リアルでピアノ演奏が行われているので当然ながら音質的にも問題はありませんし、感情表現のない現代音楽ですから表現性の再現としても問題がなく、本当に素晴らしい音楽・演奏でした!
もし録音をコンサート会場で流してもここまでの臨場感はあり得ません。
人々が無意識的に有り難がっているイコン的効果へのアンチテーゼとしても解釈可能です。
もちろん、生身の人間の演奏がピアノ演奏の前提になっているという固定概念を覆す曲でもあります。
何の説明もなく、いきなりコンサート冒頭に古いタイプの自動ピアノの演奏をもってくるカウンターは、カッケー!(笑)
(ちなみに、ご出演の草刈ミカ氏が着崩さない伝統的な着物を着用されている事とも意識的だと思われます。私は余り好きではありませんが、グローバルなテクノロジーの時代に民族性を捨てないという意思表示としては妥当な範囲)
次はハノンの1曲を2台ピアノのお二人で分解して演奏されていました。
これは人工知能美学芸術研究会による編曲だと思われますが、思考実験をそのまま曲として具現化したものですね。
そう、分解は再構築のために必須ですから!
音楽的には、2台のピアノの調律をわざと狂わせてズラしている様でした。
たぶん、普通に聴いていると2台・2人で演奏していることを聞き取ることが難しいので、ズレを拡大することでその差異をわかりやすくしているのでしょう。
(音楽的視点とは違う意味でコンセプトが分かり易い表現)
と、思ったら‥
次のアイヴズの曲「2台のピアノのための3つの四分音曲」を聴きながらの解説文を読んでいたら、2台のピアノは四分音違いに調律する事が指定されていたためのものでした。
そう、続けて演奏するのでハノンも調律を変えたまま演奏されていたという訳。
まあ、明らかに素人耳でもわかりますから‥笑
「2台のピアノのための3つの四分音曲」の、作曲意図「五音音階が現在すたれているようにいつしか全音階もすたれ、四分音音階の名曲を学童が口笛で吹くようになるようになる」というのが音楽的な具体例としてはわからないのですが、「五音音階」」というのは古い時代からのペンタトニックのようなものでは?(日本のヨナ抜き音階は7音から2音引いているからからの想像)。
それが四分音にすたれるというのは、より音の複雑性を求めた歴史と逆行している様にも思われるのですが、日本の音曲が単調化に向かった事実やミニマルな表現性に向かうモダニズムの時代にアイヴズがいたことを考えると、思考解釈としては理解の範疇です。
音楽家としてはその単調さを調律のズラしという新しい手法を取り入れることで純粋に現代音楽としての新しさも同時に成立させているということでしょう。
しかも、単調な音階を音楽として聴かせる為に残響の組み合わせを複雑に利用しているかのような意図も見受けられます。
単調なようで複雑、新しいようで懐かしい(私の中では響きが懐かしい時代感覚と結合しやすいという事とも関係している)曲でした。
ああ、でも…調律をしないで放置している古いジャズ演奏みたいな絶妙な狂った調律加減でもあるので、その懐かしさかもしれません。
思考概念を音楽作品として完璧に具現化できてしまうアイヴズって本当に天才!
(この具現化できてしまう天才だと思う所は、角野氏とイコール!)
ケージにはたぶん、ここまで音楽的才能が無かったのでしょうね。
もちろん、だからこそ概念を壊す様な実験的な表現に至ったとも思われるわけですが…
次にハース「スティーヴ・ライヒ讃」を聴きながら解説を読んだら…こちらも四分音間隔で調律されたピアノを用いるとか。
しかも、今度は一人で2台のピアノの演奏です(ハの字型にピアノが並べてある)。
そう、分解に対しての結合ですね。
(この二つがシンポジウムでもメッチャ重要なキーワードになっていた!)
たぶんこの曲が先にあったので、ハノンを分解して合奏する曲を作って演奏したのでしょう。
ハノンも素人の耳的にはミニマルですから。
(こういう音楽的素人の発想が概念理解の「わかり易さ」に直結しています)
もちろん「讃」というオマージュが感じられるライヒ作品の音楽特性も感じられましたが、リズムのズレをお一人で演奏できる様な方はいらっしゃらないと思われるので、少々物足りなさも。。。
いや、これを演奏できる事自体がピアニストの運動神経としては凄いとは思いますけど‥
これも概念を具現化されている作品ですね。
音楽的魅力はアイヴズ作品の方が断然素晴らしいと思えてしまいますけど(すみません)。
この感想は配信ということを利用して、曲を聴きながら解説を見たり聴きながらもしくは聴いた直後に感想を書いています。
「人工知能美学芸術交響曲」(短い今回のための曲)が人為的自然という意味でアデス作にメッチャ近い!と思ったら、後で聴いてたアイヴズ「交響曲第4番」と近いが為に、結果的にアデス氏「ピアノ協奏曲」に更に近づいていると感じられた!というのが正しいのかもしれません。
「交響曲第4番」はアデス氏の2/6のような拍子や楽器によって拍子がズレているような難解さを、なんと正指揮者と副指揮者2人の指揮による別拍子の同時進行(最強公倍数で二人の指揮一致する)で解決してしまっているのです(※他に合唱専用の副指揮者も居るのですが遠目からの撮影のみで確認できず)。
完全に両界曼荼羅方式!
アイヴズ天才〜〜!!!!!笑
それらの音楽性を一つにまとめて創作していると思われるアデス氏からは、西欧文化の本能の様なものも感じます。
そしてもう一つの注目点。
第二楽章は解説に白眉とありますが、本当に音楽性が多様に展開されているのです。
普通のわかりやすいメロディが複雑なリズムや不協和音に乗っている所など、ケージの「Credo inUs」のように二つの全く別の音楽が重なっているような質感が一つの曲の中で展開していたり… 解説でもあった様にまさに白眉。
しかも、ヴァイオリンをビリビリ震わせる様な演奏で壊れたレコードみたいな質感が感じられたり、自由でバラバラな様なのにまとまっています。
また、全四楽章のうちの第三楽章がノーマルな本当に美しい曲なのですが、そういうことを考えて見ても、まさにキメラタイプの曲と言えるかもしれません。
本当に曲自体素晴らしいので2007年にBBCPromsで演奏された動画をぜひ! (探すと、初演時の記録もYouTubeにはあるそうです)
ところがところが…ココがまた非常に面白いことなのですが、このBBC Promsの演奏では副指揮者が見当たらないのです。
アデス作品が普通に演奏できる技量があれば、当然一人の指揮者でも問題はないのでしょうし、指揮者としては自分の音楽性をダイレクトに演奏に反映できますから音楽本意に考えれば奇異なことではありません。
ですが、そういう所がまさに西欧的なのですよね。。。
そう考えるとアイヴズってどこからこの思想性が出てきたのか本当に謎。。。
レヴィ=ストロースもケージもなんとなくわかるのに、全くわからない。。。
可能性の一つとして考えられるのは(決定打ではない)、音楽・作曲以外に別のフィールドを持っていたということです。
ちなみに、この時の管弦楽はタクティカートオーケストラによって行われました。
BBC Promsの様な大編成でもなければ初演を担った実績あるNHK交響楽団とは違い「新進気鋭」とあるようにお若い方ばかり。
システムはわからないのですが、公式サイトを見る限り「オーケストラ公演を中心に様々な企画を通して、若手演奏家をサポートしています。」とあるように、もしかすると常時団員として所属契約をしているオーケストラメンバーではなく、オーケストラ団体に正規に所属できない若い方々への演奏機会を作られているのかも…と。
でなければ「様々な企画を通して、若手演奏家をサポート」とは書かれませんから。(もし違っていたら御指摘ください)
でも、そういう緩やかなつながりがあるからこそ新たな演奏機会が生まれる訳で、オーケストラの新たな形式として意義を感じます。
音楽のクオリティという意味で言えばBBCの演奏の方が素晴らしいのかもしれませんが、アイヴズの音楽を超えた芸術性を現代という時代からの解釈で演奏できたことは、お若い皆様にとってはとても大きな意味があったのではないでしょうか。
そのご経験が、古い時代の音楽表現とは違う新たな表現となってこれからの時代を作っていくと信じています。
年末に若い方への将来的期待が書けることは、本当に幸せなことですね!
●シンポジウム
ご参加のうちの片山杜秀氏は2020年に角野氏が出演されたNHK-FM「今日は一日“ショパン”三昧」のゲスト MCをされたとのこと。
日本で4回しか演奏されていないアイヴズ「交響曲第4番」の日本初演を中学生の時に聴かれているのだとか。
ちなみに片山氏は音楽評論家でもありますが慶應大学の政治学ご専門の教授でもあります(こちらも音楽評論がサブビジネス)。
アイヴズの曲に「秩序とそうではない無秩序の世界観があるのだ」と中学生の時のお感じになったというのが素晴らしい!
私がアデス氏「ピアノ協奏曲」に感じた人為的自然性とほぼ同じ感覚です。
また、AIによって顕わになる「人間唯の価値観」への疑問も語られていました。そう、レヴィ=ストロースの「主体の不関与」や私が時代感覚としてAIによる世界観から感じたものとほぼ同じですし、後の大屋氏のお話に直結します。
もうお一人のゲスト大屋雄裕氏は政治学がご専門だそうですが、、東大の稲見昌彦氏「感性工学」において、人間の感性が変容するデバイスへの可能性を研究されているとのご紹介。
「それによって、人間の存在が「逆証左」されるのではないか」と。
6本目の指を身体拡張としてのロボット指をにつけたり尻尾をつけたりすると、6本目の指や尻尾は人間の神経にはないのに動かすことができ(小指を動かそうとして薬指が動く事と同じことがロボットに起きているとのこと)、やがて人間は自由に6本目の指をコントロールできるようになるだけではなく、5本に戻すと喪失感すら感じるのだとか。
そう、まさに身体拡張!
こういうSFの世界が実際に起きる時代になっているとのお話。
●追加埋め込み
ただ、完全にコンピュータに繋ぐようなブレインマシーンインターフェイス(以下BMI)には自己喪失や、埋め込んだものが元に戻せないような不可逆性への不安もあるのに対し、6本目の指は見えるし外せるので、非常にナチュラルに我々の世界に受け入れられるとのこと。
それ以外に箸にナトリウム誘導の電極がついていて、塩味を強く感じる効果につながる(減塩食を食べても美味しい)というお話。
可逆的で取り外し可能なことに意味があるというのはまさに、完全結合や飲み込みではなくて、連合的な緩やかな統合。
それを「やわらかいBMI 弱いBMI」とおっしゃっていました。
デバイスの影響の前後を、ノーマル感と非ノーマル感として逆説的に考えることを、「眼鏡」で見る世界を日常と思うかそう思わないかという事例で語られていましたが、これもコンサートという常識への問題提起に近いと思いました。
しかも、主体と客体に対して視点がかわる=言葉の用法の転倒にまで言及されていて…
いや〜〜〜、、、、私が書きながら思考展開していたことがココまで繋がっているとは思っていませんでした。笑
でも多くの方が自覚しないだけで、皆様それらを感じているはずなのです。
本当に、そういう時代なのですから!
その後、大屋氏は現状の「スマホをに人間が使っているのか、スマホというデバイス=外部からの柔らかな働きかけによって支配されているのか」という社会的な問題にまでも言及されていました。
ここまでの領域はわたしの興味とは違うのですが、でも、社会生活では実感できないことが芸術でのみ実感できるという意味で、わたしはその関係性を実感できているのです。
BMI という言葉を初めて聞いたとしても、ほぼ同じ様な感覚で世界を認識可能なのは芸術による実感があるからです。
ですが、角野氏は両方を本当の意味で実感できている特別な存在という事に他なりません。
さらに発展した内容もすごく興味深かったのですが、ここでは余り関係ないので以下省略です。
●追加リンク
多摩美術大学芸術学科教授の小川敦生氏のレビューがとてもわかりやすかったのでリンクしておきます。(なぜか埋め込みできなかった、、、)
日曜ヴァイオリニストと書かれていましたし、美術と音楽についての著作もあったので、こういう方にこそ角野氏を評価して頂きたい。。。
<おまけ>
冒頭のレヴィ=ストロースの補足で紹介した動画シリーズ2つめに、構造主義の入門書として橋爪大三郎著「はじめての構造主義」が紹介されていたのですが、25年前にその後の私の人生を根底から変えた一冊です。
芸術学も能も、この本を読んでいなければ興味を持つことはありませんでした。。。
時代的にはポストモダニズムですら終焉を迎えつつある時代(初版は1988年で私が読んだのは1997年版)、確かにポストモダニズムではダメだよなあ…とは思いつつ、だからと言って他に希望がもてるものがなかったからです。
(とはいえ、私が応援している中野大好きナカノさんや中野区のダイバーシティの取り組みは、ポストモダニズムを経なければなかったことも事実!)
この動画の冒頭に語られていた様に「構造主義的思考がかっこいい!」と持持て囃されていた1980年代(西欧ではすでに構造主義が終焉を迎えてた時代に日本では少し遅れて流行った)、思想と芸術との深い関わりのなかで希望的に語られていました。
その「希望」が心の底に残っていたのでしょうね。
ポストモダニズムに希望がもてないなら昔あこがれた構造主義を読んでみよう、という軽い気持ちでした。
納得するところは大きいものの詳細を理解できたわけではなく…しっかり学ばないと無理だ〜〜〜!から次の一歩が始まりました。
話は飛ぶのですが、このnoteでは何度も角野氏のことを「待ち人」と書いているのに、なぜそう思ったのか、何をもってそう言っているのかは書いていません。
意図的に書いていなかったのではなく、私自身わかっていなかったからです。でも、ようやくわかりました!
構造主義的解釈とポストモダニズム的解釈が、とても自然に統合されるだろうことがその表現から標榜されるからです。
まあ、そもそもレヴィ=ストロースはそういう「ある種の混沌」を孕んだままの思想だったと思われるのですが、西欧で学問として展開されていくうちに枝葉が落ちていったのでしょう。
もしくは、アニミズム的なそれらの理解は、やはりポストモダニズムの概念が定着した後でないと真の理解に及ばなかったという事なのかもしれません(日本文化はたまたま現代社会にアニミズムの影響が色濃く残っていた珍しい例なので、遅れてその概念が日本に入ってきた時に未来での可能性が輝いて見えたのかもしれません)。
いずれにしても、私が25年前に実感できなかった「希望」が、角野氏のその表現には満ちていたということなのです。
だから「待ち人!」。
先日『角野隼斗はクラシックの未来を創る。〜』という高野麻衣氏による記事をワクワクしながら読み進めたのですが、残念ながら内容には一切そう言い切れる理由は書かれていませんでした。
この一文を単なるセールスコピーととるか、時代性の中で得られた「理由なき実感」として捉えるか。。。
私は、角野氏ファンの方々や多くの音楽関係者の方が後者として、言葉にならないその実感を得ているのではないかと思っています。
そもそも、音楽や造形などの芸術は、そういう言葉にすることができない思考や概念やイメージや想いや感情や…さまざまなことを伝えられる、それが前提なのですから!
私には音楽を専門とする方々のような自然な実感はありませんが、その一方で、「未来を創る行為そのもの」が芸術でであるという実感は持っています。
それこそが、私が感じる角野隼斗氏の最も大きな芸術性なので。
ですが、ファンとしてはその「未来を創る」という音楽における意義を明確に言葉にして頂きたい訳ですよね。。。
でも、日本のクラシック音楽界の中でその音楽性を自然に受容可能な専門家だったら、キャッチーなコピーは書けてもその革新性は逆に言葉になりにくいのかもしれません。
ということは、角野氏の表現性をナチュラルに受け取れる日本人では難しく、海外の方による評論を待つしか無いという事になってしまいます。
もしくは、音楽以外の芸術分野にも専門性を持っていらっしゃる音楽評論家。落合氏の「音楽:その他」の比重が逆みたいな方(←相当わがままな注文)
ところがところが、、、
実は、この全ての条件を兼ね備えた方がいらっしゃった!!!
このおまけを書いている時に、「アート・オブ〜」のロススタイン氏のプロフィール(whikipedia)を確認したら(前述の現在の肩書きも後に修正)、まさに音楽と美術の両方をご専門にしている方でした。最近は特に美術メイン!
「アート・オブ〜」の他のタン氏評に比べ、私の疑問に対してどストライクなお答えだった為に返却前に字幕は全てテキストに書き起こしていた程だったのですが…
造形芸術をも専門分野とされている=私の問題意識と直結する訳です。笑
ロススタイン氏が「イノセント」と発っせられた直後の表情が頭から離れなかったのですが、その理由もわかりました!
25年前の私の心境そのままに思えたからです。
少し気遅れしたように「私たちはその区別(芸術とそうでないもの:筆者補足)に慎重にならざるを得ない」「ケージは区別を破壊したが評論家として聞き手としてまた何千年も続く音楽の伝統を重んじる者として私は区別することに賛成だ」と。
コレ、「構造主義が終わっているのは分かってるけど、だからと言ってポストモダニズム的に何でもアリっていう訳ではないでしょ?」と、ほとんど同じ。笑
しかも、「区別することに賛成だ」の直後には「予想外の試みが出て来れば別だが」っておっしゃっています。
角野氏の革新性こそがまさにソレ。
近い将来角野氏がNYでコンサートをされ、ロススタイン氏がその音楽に出会われたら(その頃には革新性がもっと明瞭になっているはず)きっと私と同じ様に「待ち人だ〜!」って思われるはず。。。
うん、間違いない!笑
追記
<追記1>
「東急ジルベスターコンサート2022-2023」感想をレトリック的な表現解釈に関わる内容を中心に記載します。
●ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 第1楽章
冒頭の一音が響いた時に、鳥肌が立ちました。。。
あああああ、、、もうね、これは平和を祈る鐘の音にしか聴こえませんでした。
そこには痛すら感じるほどの絶望感とともに、それを超えた崇高さがありました。
実は演奏の前に、角野氏が「ロシア正教会の鐘の音から荘厳な雰囲気で始まる」と話されていました。
でも、Wikipedeiaにも書かれている情報のレベルなので、演奏が始まる前にはその言葉がどう演奏に関わってくるのは全く気付いていませんでした。
「ロシア正教会の鐘の音」のメタファーである「平和への祈り・願い」ということを、私はこのラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」聴いて初めて感じたのです。
そう、解説を知って曲を理解するのではなく、語られている言葉のメタファーを音楽から得たのです。
イメージを伴う実感として。
角野氏のこの表現には「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」という純粋な曲としての正しい解釈というよりも、ウクライナとロシアの戦争が一年近く続く状況で2023年のニューイヤーコンサートに演奏される曲としての解釈、その時、その場に特化したものに感じられました。
今年こそは平和になってほしいという願い、ウクライナの方だけではなくロシアの方だってきっと平和を願っているだろうということ、でも‥そういう人々の想いを超えて、どうしても抗えない大きな力がうねる波のように動いていくのです。
その中で小さく繊細に輝く希望が現れては、またその大きな波に飲み込まれていく様までが感じられました。
もしかして?、と動画を戻して改めて振り返ると、「新世界」に対する鈴木マエストロのコメントで「来年が新しい年になってほしいという願いと祈りを込めて演奏したいと思います」とおっしゃっていたのです。。。
普通、新しい年になることに対して願いや祈りなどは不要なはずです。
この「新しい年」は今起きている戦争が終わり平和を迎える年という意味(提喩的技法の暗喩?)になっていて、それに対する願いや祈りを込めて演奏されるとおっしゃっていると考えれられます。
終わった後の鈴木マエストロ「最後の遠く引いていく音のところがドボルザークの想いが遠くに伝わっていく気持ちがして」に対して、高橋克典氏「実は最後が静かに終わる曲はジルベスターコンサート史上発だったそうです」と。
これまでのカウントダウンとは違う想いを込めていらっしゃるのがわかるように、高橋氏がさりげなく強調されています。
ですが、「新世界より」はその曲自体に近しいメタファーがあるため、聞いた時には「新しい年」の意味に気づくことができなかったのです。
ところが、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」を聴いて、ああああ!とわかる訳です。
このラフマニノフでは、そういうところまでを表現していたと、、、、
素晴らしい音楽に対し本当に無粋だと思いますけど、、、
言葉が事前にありつつも、その音楽が表現されたことで言葉のメタファーを呼び起こすような関係性が生じた訳です。
そう、提喩に近い関係性です。
ただ、私がnoteの中で書いたのは、今回のような言葉がなくてもこの提喩と同じような表現性にたどり着ける可能性がある…という意味での兆しでした。
今回の解説=殻=と同じ扱いになるのですが、それは必ずしも直接的な何かとは限りません。
これまでクラシックの伝統的な解釈(正しいとされる質感表現)だったり作曲者の文脈だったり、作品そのものが持つシステム的な自立性かもしれませんし…。
表現に向けての解釈が行われる際に外部からの視点=メタ視点でさらに何かしら内・外の関わりが生じているように感じられる表現性ということです。
あくまでも「提喩」は角野氏の革新的な表現性を表現するための方便なので、、、
もちろんラフマニノフ生誕150年という表立った大きな理由もありますし、事前のお話では「新年に相応しい迫力のある曲」と、単純に新年をお祝いする気持ちでご覧になる方へのお言葉も話され、純粋に明るくニューイヤーの音楽を楽しまれたい方の鑑賞を否定するものでないのです。
そう「イノセント」は、常にどんな時でも角野氏の演奏表現においては絶対的に保証されているのです。
ご自身も、ABCラジオ「緒方憲太郎の道に迷えばオモロい方へ(リンクはYouTube後編)」でクラシック音楽の楽しみ方について「楽しさのレイヤーが何個かある」とおっしゃっていましたが、多様なイメージがレイヤーとして重なっている表現を前提とされています。
以前から書いたように能のイメージ構造とほぼ同じとも言えますが、言語を用いた作品は表現性の複層内容を言語にも頼れるのに対し、歌がない音楽の場合は頼る言語がありません。
今回、私の鑑賞は事前のコメントという言語の力からを借りて呼び起こされたのですが、角野氏の表現性そのものは言語とは直接関わってはいないままにその表現が成立しているわけです。
それが能とは違うところで、そういうことを意識的に解釈として行っているだろうと思われるところが、凄いということです。
もちろん、鑑賞者が勝手に受容するということでもあるのですけど、演奏される際の解釈の時点で、すでにメタ的にイメージを意識されている様な表現性と言えば良いのでしょうか。。。
角野氏がどう思われて演奏されたのかは私にはわからないのですが、普通の音楽解釈とは違う手法をとっていなければ伝わらないような質感を鑑賞で得たということです。
いずれにしても、イメージは複層化されていてどのイメージを強く感じてもそれは鑑賞者の自由であるということだけは強調させて頂きます。
あとは、今回の演奏でここまで明確に気付けたのは、私が録画で観ていたからで、果たして会場で不可逆な上演芸術として観ていたら理解できたかどうかは不明ですね。
素晴らしい記憶力があれば別かもしれませんが、、、
そういう記憶力が欲しい〜!
●アンコール
これはまさに、「イノセント」そのもの!!!!!
カッコいい!楽しい!!!
レトリックとしては、明らかに「換喩」が用いられています。
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲〜」の最後のところに出てくる単旋律のフレーズと始まりが似ていて、そこから「バッハ:平均律2番プレリュードハ短調」に展開した様に感じられました。
フレーズの引用と、そもそもそのリズムの隣接性による現代的な結合が行われています。
まあ、演奏については私がここで語る必要もない素晴らしさだだったですが、やはりどちらかと言えば鈴木マエストロが均一的なグルーヴを担当されて角野氏がうねりのあるグルーヴという感じ。
本当に素晴らしかった、楽しかった!!!
そして、この即興に溢れる楽しいアンコールを入れられことにも、ニューイヤーのコンサートとして楽しさ(まさに「イノセントそもの」)を同時に伝えたい!という、プログラム全体を作品表現とする解釈があった、ということでもあります。
ですが新年早々にちょっと気になってしまったことも。。。
いつもより唇の色が赤いので、テレビ用の特別なメイクかしら…と思って見ていたのですが、アップになると唇がとても荒れています。
もしかしたら口唇ヘルペスの可能性が……そうであれば、疲労からくる免疫力低下ってことになりますから、新年早々からとても心配になってしまいました。。。
今年一年、どうか健康でお元気でご活躍されますよう心よりお祈り申し上げます。
(言霊)
<追記2>
角野隼斗Presents RadioCrossOverの内容からレトリック的な表現解釈に関わる内容を中心に記載します。
●STUTS氏とのトーク
「バルトーク」の民族音楽からの影響とサンプリングの関係で「引用」についてお話されていましたね。
創造行為には引用は欠かせません。
単純な換喩だけではありませんが、様々な影響として取り入れることで何かが生まれますから!
また、STUTS氏がMPCから離れられない…っていうのは、MPCとSTUTS氏の身体と一体化されているということではないでしょうか。
あと、AIと音楽との関わり、可能性についても具体的にお話されていてとても興味深かったです(注:私がこのnoteに書いたのは将来的な概念なので内容は違いますが)。
●milet氏とのトーク
「無音をいかに操つれるか」等、無音についての面白いトークが展開!
ここに書いた無音の中に継続する音楽を感じる事ととは違うものですが、無音の様々な効果としてとても面白かったですす。
「無音の挿入」という考え方、日本の絵巻物では場面展開(時間や場所)に「白地」を効果的に使うので、それとも同じだと思いました。
<追記3>
飯田有抄氏によるレポートが公開されたので貼らせていただきます。
臨場感溢れるレポで配信で観ていた時のことを改めて思い出しましたが、「水の戯れ」では私の鑑賞イメージと違いました。
視点の違いと言ったらよいのかもしれませんが、記事と大きく異なるため補足させていただきます。
お恥ずかしいことなのですが、スタクラフェスで「水の戯れ」を東京芸術劇場で聴いた時、なんとなんと、曲名を「メモ・フローラ」だと思ってしまったのです。
いくら私がクラシックピアノが好きではないとはいえ、さすがに「水の戯れ」の曲はわかっていたはずなのに…。
アデス氏「ピアノ協奏曲」とガーシュウィン「アイガットリズム」の時にも書いていますが、集中・没入するほど質感しか聴かなくなってしまうのでメロディとかフレーズとかがわからなくなる。。。
どうして「メモ・フローラ」だと思ってしまったのかというと、もちろん直前にBBC Promsで聴いているという事はあるものの、それ以上に「日本的な現代音楽」として聴こえてきたからです。
それに比べると、スタクラフェスからBlue Note配信を聴いた際には編曲(即興要素も含む)が変わっているだろう他曲に比べると、ほぼ同じ印象でした。
そして、アーカイヴ配信中に現代音楽的に聴こえた箇所を区切ってピティナのYouTube動画と聴き比べましたが(当初は感想をnoteに書くつもりで検証していた)、曲は同じにも関わらず、不協和音を生かしたような曲に聞こえてきたことと、ペンタトニック(ヨナ抜き音階)的な日本っぽい情緒性が際立って聴こえてきたのです。
別の曲ではないし、編曲を変えてもいないのに、受け取る質感が全く違う。
何をもって「古いクラシック曲」「現代音楽」という違いを感じているのか私自身わからないのですが曲の概念が違うという感じ。
音符通りの音が響いてくるとか綺麗な音の組み合わせとか、そういう決まり事から解放された後に作られた曲の様な感じがしたという事です。
その対比を言語化することは到底私にはできませんが、感情表現や抑揚という類とは全く違う表現性の違いが明確にありました。
たしかに飯田氏が書かれた音楽性はその通りなのですけど、過去の角野氏のクラシック曲との違いはBBC Promsを経ている時点ですでにもう当然としている自分が居たということなのです。
「自由な緩急と、大胆なダイナミクス」は「ジャズの聖地ブルーノートだから」「ここがコンサートホールなら、きっと角野は違う演奏をするはずだ。」は、私が感じた角野氏の演奏への視点とは大きく異なっているという事の様です。
たぶん、演奏時の印象の違いではなく、「ピアニスト角野隼斗」の文脈における「2022年11月中旬の表現性」への認識が違っているのです。
そう考えてみると‥
ジルベスターコンサートでも、絶望と希望に引き裂かれる様なシリアスなラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」に対しても、「テンポが早め」「リズムにキレ」「推進力=リズム感」と指摘されていた方々がいらっしゃっいました。
あれほどまで絶望的に「抗えない流れゆく力」を鮮やかに感じられたのは、暗喩とは関わりのないピアノの演奏そのものに瑞々しさ(=イノセント)が表出されていたからなのでしょうね。
であるならは、単に私が気づかなかっただけで(殻が薄くなって?)クラシック曲での「革新的な(イノセントとしての)表現」は、「水の戯れ」に萌芽があったのかもしれません。(昨秋のショパン「ピアノ協奏曲第1番」では、それを表現として意図されていない感じがするので)
そういえば、すみかめでも「水の戯れ」を絶賛されていた方が何人もいらっしゃいました!!
ということで、色々と思い直すきっかけを頂いた記事でした。
あと、完全に同じ!と思ったのは「大猫のワルツ(ワルツではない)」ですね。
相互フォロワーさんのTweetには下記のリプをしたほどなので。
「わたしも「大猫のサンバ!」て思いました(サンバじゃなくても!笑)」
<追記4>
1/12 メゾン・ド・ミュージック「はやとちりラジオ」で、ラヴェルの和音では演奏の違いで聴こえ方が違ってくることを再現を交えて説明されていました。
過去の「水の戯れ」とは違いスタクラフェスとBlue Noteで「現代音楽」的な印象を受けたのは、やはり意識的にそう演奏されていたのだと思われます。
※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略