【RP】高木正勝氏「Rama」と角野隼斗氏「葬送」について〜お二方のラジオ共演に舞い上がった本当の理由〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

『角野隼斗のはやとちりラジオ』についてはすでに長文を書いているのですが、私の個人的な事は書く事が出来ていませんでした。長文に書いた事は嘘ではなく本心からの事ですが、肝心な事を隠したまま論理武装しているようで少し後ろめたいような気になってきていました。
でも、数日前に高木氏がアップされたお子様と一緒に演奏された「あすなろ」を何度か拝見しているうち、私にとって本当に特別なお二方の音楽について書いてみようという気になれました。

この動画に書く勇気を頂いたというか、その若い息吹にふれて気持ちがほころんだのかもしれません。

9月中旬、同居の義理の姉妹(姉か妹かは曖昧にしておきます)が急逝しました。
前日まで普通に話をしていたのに。。。
今でも「どうして…」という言葉が出そうになってしまいます。

出棺から葬儀(お別れ)の様子を動画にまとめたのですが、その音楽に高木氏の『Rama』を使わせて頂きました。(葬儀場等で公開するものではなく個人利用の範囲)

彼女の美しさや可愛らしさや、私たちを幸せにしてくれた存在として、美しい輝きとともにそれまで生き生きと過ごした営みそのものが(普通よりは短かったけれど)感じられる曲にしたかったからです。
あと、「おかえりモネ」を見ていた彼女へ私が昔から好きな音楽家の方の作品だと伝えたら、「言われて改めて聴くと確かに凄く音楽が良い!」と言ってくれていたからです。
泣きながら編集作業をしていましたが、逆に沢山泣けたから少し気持ちも軽くなった、救われたとも思っています。
コロナ禍ということもあり、来られなかった方に見ていただくことも想定して喪主に渡したものの、実際には編集した私以外は誰も(喪主も)見ていません。
3回忌か7回忌か…時間を経ていつか皆で見る事ができるかもしれません。


半月後のショパンコンクール3次予選では、反田氏の「葬送」も拝見していました。素人が聴いてもわかる素晴らしさだったのですが、私にとっては今まで聴いてきたクラシックの音楽でした。
一方、角野氏の「葬送」は、大切な人を送った私の感覚にリアルに寄り添う音楽に感じられたのです。

クラシック音楽のことはわからないので、今回書くに当たりこの曲についていくつか調べてみたのですが、曲自体が様々な要素から成り、それらを後でまとめた構成になっているのだそうで、統一感を持って美しく弾くことも重要なのだとか。(ネットで転がっている解説は鵜呑みにできませんが、この文章を書くに当たり改めて反田氏の演奏も聴いてみると、確かに全体の調和・曲全体を通したコントロールのようなものが感じられます)
ですが、様々な感情や感慨がその時々にフッと思考の外から現れる感覚こそ、実際に親しい人の死を目前にした送る側の気持ちに近いのです。しかも、その演奏の音が瑞々しく発せられることで、感覚が自分に湧き起こるようなリアルさにつながりました。
特に、故人を送る事で自分が生きている事の意味を噛み締めるような感覚は、他では感じた事がありませんでした。(具体的にはなかなか説明が難しいのですが…)

「送る側の気持ち」「生きている感覚」と書くと、以前書いた「個としての表現ではない」という事と一見矛盾すると思われるかもしれませんが、そこにあるのは個人の解釈ではなく、音楽との対話・もしくは音楽に同化された状況で結果的に現れてきたイメージや質感です。最初にあるのは抽象としての音楽そのもので、その結果のイメージなのです(以前書いた時にイメージの構造化とした部分)。表現者が恣意的解釈として描写を音楽に委ねるようなものではないというか…(能的な見方ですので、、クラシック音楽の専門家の方とは大きく考え方が異なると思われ、お気に障る方がいらっしゃったら申し訳ありません)
そして、恣意的な解釈なくその音楽に同化した結果現れるイメージであるならば、それこそが元々その音楽が持っていたイメージそのものではないかと、能の考え方になぞらえたのです。私はショパンの事はわからないのですが、「ショパンの演奏の様」とお感じになられた方々のお気持ちも似た様なものだったのでは…と想像します。

高木氏「Rama」と角野氏「葬送」は、私にとって本当に特別な音楽です。
逆に言うと、余りに特別過ぎてどちらもその時以来聴く事ができていませんでした。
それが、高木氏が先日公開してくださった「あすなろ」を何度か拝見して「聴けるかも…」と思うに至りました。
どちらとも聴きながら泣いてしまいましたが、でも、やるせない涙ではありませんでした。
もちろん、昨秋の時点からそうだったのですけれど(そのお陰で助けられた事が大きかったのですが)、でも今日はもう少し軽くなっていました。
やはり、お子様のその先に向かう無垢な生命力は偉大ですね。

ということで、このお二方がラジオで対談されるなんて!!!と、音楽的な事ではなく、もの凄ーーーく個人的な事で舞い上がってしまったというのが本当の理由です。

<追記1>
夜中に書いた勢いで公開してしまう事が常のため、翌日以降色々と追記する事がばかりのnoteです。最後に、なぜこの文章を書こうと思ったのかという理由を書かせて頂きます。

前回の番組に関する文章はファンの方がTwitterにコメント下さった事がきっかけでした。そこから高木氏の情報やさらに他の音楽にまで広がりました。「スキ」を下さる方も沢山いらっしゃったのですが…本当の事を書いていないような後ろめたさの様なものも感じるようになってしまいました。
また、妙にご健康が心配でならない事も、単に「落葉」とイメージが重なっただけでなく、死に対する恐れが自分の中にあったのだと思いました。

角野氏の直近のラボでは「その人の人生に影響やきっかけを与えたようなコメントが嬉しい」とおっしゃっていましたが、とても素晴らしい大きな影響だからこそ、言葉にまとめられません。
角野氏のショパンコンクールでの演奏を「能のようで衝撃的」という様な事を何度も書きながら、私は具体的にどう感じたのかは書くことを避けていて、帰国後最初のラボのコメントにそっとお礼を書く事が精一杯でした。

先に書いた文章では、高木氏のお子様とご一緒の「あすなろ」を拝見した事がきっかけになったと書いてしますが、たぶん…それだけではきっとダメだったのだとも思います。
事前に高木氏のインタビューでお子様が生まれる前の出来事がこの曲のきっかけになった事を知り(角野氏ファンの方のTweetのお陰)、その小さな男の子が無垢な欲のままに大きく手を伸ばす姿を見て、生命の誕生と人が続いていく時間の流れと希望を受け取る事ができたのだと思います。
そもそも「おかえりモネ」自体が死を乗り越えられない人やそこに寄り添う人々をテーマにした物語で(見始めた時は自分がこの様な状況に置かれるとは思ってもみませんでしたが)、その事もまた大きく影響しているのだと思います。
素晴らしい感動を下さった事をファンの応援として書き残しておく事も動機の一つではありますが(ご本人に届くかどうかは別にして)、それ以上に「本当に感動したら言葉にする事はできない」「それを伝える術も無い」という事もまた、当事者としては書き残しておきたかったのです。
今回はたまたま書く機会を頂きましたが、私はこれまで様々な芸術と出会い、その度にどれほど助けてもらったか……。その感動をどこにも書かなかったとしても、その事実は消えません。
(今は距離を置いてしまったとはいえ)芸術を愛する者として、孤独と葛藤と時には不安ともにある全ての表現者の方々においては、どうかご自身の表現を信じて前に進んで頂きたい!それが心からの願いです。

という事で、諸々と音楽だけの問題ではないのですが、偶然にもお二方のご対談という機会を頂いた事に感謝申し上げます。
角野隼斗氏 高木正勝氏 ミリカ・ミュージックの皆様 番組スタッフの皆様 ありがとうございました。

今日(1/28)は名古屋公演に行かれた方々の幸せなご感想を拝見でき、幸せをおすそ分け頂いた気持で私も楽しんでいます。


<追記2>

2月11日、高木氏のYouTube公式アカウントから初期の映像作品がまとめて公開されました。その中に、2002年に制作されたオリジナル映像作品の「Rama」が含まれていました。
拝見してみると、ここに書いた一連の出来事が「Rama」という作品が持つ不思議な力に誘われていたように感じられ、驚きを隠せません。

義理の姉妹の葬儀の動画に「Rama」を選んだ時、彼女の美しさを表していると感じただけでなく、実はこの音楽自体に「賛美・祝福・祈り」が満ちていた事を作品を拝見して改めて思いました。
しかも、それらの中心に在るのは子ども達です。
この記事を書こうとした(書けると思った)きっかけは、高木氏のお子様とご一緒に撮られた冒頭の「あすなろ」です。その事は「Rama」という音楽とは全然関係が無いはずなのに、この曲の中に子どもの存在があったという驚き!
他の記事にも書いていますが、音楽を含む芸術表現は時に説明できない直接的な感覚で伝わってくるということを、また体験しました。

私は2009年の「或る音楽」を観た興味から「Rama」が収録されている「Private/Public(2007年発売のアルバム)」をDLで購入しました。曲の背景が不明のため「Rama」の意味を調べてみた事もありましたが、「ラーマーヤナ」の英雄ラーマだとすると曲のイメージではありません。ラマ=チベット仏教の高僧という意味ならイメージがあるかも…と思いつつも「Lama」のスペルです。であるならば、固有名詞として人の名前が付いているだけなのかな…とそれ以上深くは考えず、だたその音楽を楽しませて頂いていたのです。

今も正確に曲名の意味がわかった訳ではありませんが、作品冒頭の建物はチベットかブータンか…アジアのどかの仏教寺院に見えます。また、改めて調べるとラマ=Lamaは欧文圏の言葉ではないので単にアルファベットの当字の様で、Rを使う場合もあるとか。さらに、ラマには高僧という意味だけではなく聖人という意味もあるので、子ども達を聖人・尊い存在としてあえてスペルを変えていらっしゃる可能性もあります。
とはいえ、タイトルへの詮索は重要ではなく、仏教寺院前の広場に集う楽しげな子ども達が描かれ、そこに敬意とともに賛美・祝福・祈りが満ちている様子が伝わってくるところに意味があります。
私は義理の姉妹が後の世代に引き継ぐ命を繋いだことの尊さを感じており、だからこそ「あすなろ」がきっかけになったのですが、この動画を観るとそもそもこの「Rama」にそこまでのイメージが含まれているという事に他なりません。
逆再生の動きによって生じる違和感は、ユートピアの非現実性を示しているのか現実世界の複雑さを表しているのか、さらには子どもの若々しい命も死に向かうしか無い反転の不穏さなのか、もしくは大人もその前は子どもでありその子どもも生まれる前の命の源と繋がっているという事なのか、、、私にはどういう意図で用いられているかはわかりません。ただ、義理の姉妹とのお別れに伴う悲しみや痛みをこの曲に託しても構わないような作品解釈の多様性・寛容性につながっていて、その懐の広さのようなところが私が芸術に抱いている特別な意義でもあるのです。

考え方によっては、「Lama」という作品には私の一連の行為につながるイメージが最初から内包され、私はそれに誘われていたという解釈すら可能なのです。
偶然か必然か?なんて言葉に書くと陳腐ですが、こんな不思議な事が起きてしまうという事。。。
説明のつかないものを伝えることができる、それが芸術なのではないでしょうか。
だから、私は芸術の力を信じています。