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Official Fanclub 8810 presents Hayato Sumino with String Quintet 東京夜公演 〜混交する視点と属性〜

<はじめに>
「カプースチン・スペシャルナイト」「東京交響楽団第723回 定期演奏会」を先に鑑賞しているので順番が異なるのですが、このコンサート内での楽章間の拍手や評価がSNS上で騒がしい事態になっていた為、9月2日開催こちらを先に投稿させて頂きます。
私は当初から角野隼斗氏の音楽だけではない文化的側面にも興味や意義を感じている為、この事象を記録しておきたい気持ちが働いた為ですが、音楽鑑賞とは異なり時間が経つと書き残しておく気がなくなってしまうので。。。



Official Fanclub 8810 presents Hayato Sumino with String Quintet 東京夜公演の感想

String Quintet
成田達輝(ヴァイオリン)
石上真由子(ヴァイオリン)
鈴村大樹(ヴィオラ)
ルドヴィート・カンタ(チェロ)
ダニエリス・ルビナス(コントラバス)

角野隼斗:かすみ草

角野氏/成田氏/カンタ氏というトリオ編成でした。
冒頭のピアノのメロディが、とても遠くで響いている印象。
今回はオペラシティの2階前方だったのですが、一度天井に登った音が降ってくる感覚があり、やはり音的には3階の方がピアノの質感がきちんと届く気がします。ぜひとも、3階前列にチャレンジしてみたい。
ですが、この「遠くで響いている」という質感が「かすみ草」には良かった気がします。
演奏そのものは成田氏のヴァイオリンも含めてリリース音源の様な華奢で繊細な印象は余りない一方、より広がりのあるあたたかさが感じられました。
特に最後に向かってはおおらかな生命力や希望が広がっていくような感覚があり、これが遠くで鳴っている音・上から感じられるホールならではの質感として心地よく感じられました。

<角野隼斗:映画「ファーストライン」組曲>

「かすみ草」の後一旦皆様が下がり、ご出演者全員でのご登場。
この日の曲目とクインテットの皆様のご紹介がありました。
曲名に組曲形式とある様に繋がっているのですが、そもそも「ある日のスタジオ」と「ミトの決意」の主旋律は同じに聴こえてしまいますし、「線の息吹」と「幻影」の最初のピチカートの部分はとても近いこともあり、リリース音源でも曲の認識ができていない状態での鑑賞です(トホホ)。
早々にどの曲がどう使われて繋がっていたのかを考えるのは止めました。
音源の時点からピチカートが印象的だったのですが、面白かったのはシンセサイザー等で作られただろう効果音の代わりに、さまざまな所で弦楽器のギューとかバンバンなど、面白い音が用いられていたことです。
(音源の効果音の代替としてその部分で弾いているという意味ではなく、曲全体における効果音として弦楽器の音を用いていたという意味)
演奏で映画を思い出された方々が多かった様ですが、私はピアノと弦楽器が織りなす音そのものの面白さに興味が奪われ、現代音楽的なスタンスで聴いていました。
終盤、無音の間合いが通常より長めにとられた後、最初のテーマに戻ったと思われる所があり(前述した様に曲の違いが判別できていないので怪しいですが)、ここで映画の構造が示されていた様に感じました(映画そのものをイメージしたという意味ではありません)。
もう少し個別の曲の識別と組曲形式についての理解が進めば、もっと面白く聴けたかもしれず…自分の力不足が残念なところです。

角野隼斗:追憶(弦楽五重奏版)>

私的には、この日もっとも感動した一曲でした!
冒頭に、このオペラシティで収録された「題名のない音楽会」での成田氏・石上氏との共演エピソードがお話され、「パイプオルガンも弾かれたんですよね」というお話にまで。その時以来のご共演とのことです。
(実は投稿日9/8には、角野氏にパイプオルガンの指南をされた石丸由佳氏の所沢ミューズでのコンサートに伺ったのですが、印象的なお話を聴いたので最後にご紹介)

冒頭のバーンというところから水が跳ねた様な様々な音は音源でも入っていますが、コントラバスやヴァイオリンのバやバシン!ズーーーーーと引っ張る音などなど、弦楽器の多様な音が用いられていました。
コンサート終了時点の振り帰りとしては、今回の角野氏の編曲に共通する興味として、ペインティングの筆致に相当するような「弦楽器の多様な音」の存在を感じました。
特に不協和音も混じる印象的響きに魅了されてしまったのですが、現代音楽的な強い不協和音ではない浮遊感を感じる質感で、それらは会場にフワーッと広がっていく感じ。
この絶妙さがまさに自分にとってはド・ストライク!
その心地よさに身を任せながら聴いていたら…
ああああ!前日のかてぃんラボ(有料メンバーシップコンテンツ)「カプースチンから学ぶハーモニーの作り方 / Cool harmonies in Kapustin's music」説明にあった「和音の中間部で不協和音にする、ヴォイシングで全体のバランスを調整する」という事そのものではないか、と気づいてしまいました。
しかも、この手があったか!やられた〜〜〜と!!
(素人が何を言っているのだかって感じですが…)

私は角野氏の音楽を聴く10年以上前から、ブラッド・メルドー作品やE.S.T.(Esbjörn Svensson Trio)作品を聴いていて(もちろんカプースチンも)、この時点から不協和音が一部混ざるような響きに魅了されていていたのですが、角野氏の影響でクラシックを聴く様になると、ラヴェルやバルトーク等の近現代クラシックからの影響を感じる事ができました。(コード自体は全くわからないので質感として認識している状態)。
それらからは「「ジャズの要素を取り入れた近代クラシック→ジャズを吸収した近代クラシックが影響を与えた現代音楽的ジャズ」という流れが感じられます。

小曽根真氏のオリジナルの中でも、(たぶん)ラヴェルやラフマニノフの様な響きを感じられたり、From OZONE till Dawnの皆様のオリジナル曲の中からも、クラシック的な現代音楽調の響きを感じる事がありました。
私的には「日本の現代音楽的ジャズ」と勝手に読んでいる質感・曲調でもあり、世界的に評価される可能性があるのではないかと考えていました。
それが前述のメルドー氏やE.S.T.とどう違うのかは明確には語れないのですが、何だか違うのです。
強いて言えば、ジャズとしてのクセが弱まっている感じと言った方が良いかもしれません。
その微妙なバランスは、本場アメリカのジャズではきっと起こり得ないでしょうし、ジャズ人口が世界に広がった状態では、アメリカンなジャズとは少し異なる新しさ(あくまでもジャズ的質感はある)が、オリジナルの魅力になるのではないか…という期待を持っているのです。

で、この時の「追憶」からは、「ジャズの要素を取り入れた近代クラシック→ジャズを吸収した近代クラシックが影響を与えた現代音楽的ジャズ→現代音楽的ジャズの要素を内包する現代クラシック」という流れを感じたのです。
もちろん、それを感じたのはラボがあったからなのですが‥‥
この折り繰り返されるジャズとクラシックとの影響関係で最後の部分がこれまでとどう異なるのかというと、影響を与えたり受けたりしたその前の関係とは異なり、ある程度日常感覚として自然に存在する音楽的ニュアンスが感じられるのです。なので「内包」という言葉を使ってみました。
角野氏の場合「人が心地よいと感じる不協和音の加減=ヴォイシング(ラボによる)」で成立するクラシックのハーモニーが、現代のジャズ=クラシックの影響を受けているメルドー作/E.S.T.作/ティグラン・ハマシアン作に近いのですが、様式的にそれらの作品を引用している訳ではありません。
どちらかと言うと、その結果として人間に与えている「響き・質感・印象」に近しいものを感じるのです。
私の勝手な思い込みで大変申し訳ないのですが、それはきっとクラシックの文脈にある現代音楽の表現性・思考性とは異なるもので、その文脈からはきっと辿り着けないと思われる「心地良さと浮遊感とハッとする斬新さを抱かせるバランス」です。
一般聴衆を寄せ付けない前衛的難解さはなく、かと言ってクラシック然として整った印象でもなく、揺らぎ・浮遊・広がり・ファジー(長調か短調かわからない)的な心地よさと、POPになり過ぎない先鋭性(これが現代のクラシックだと感じる部分でもある)が適度に感じられます。
これはメルドー作のピアノコンチェルト(「ブラッド・メルドー IN JAPAN 2023 〜」に詳細)でも感じなかったので、いや〜〜〜〜これからの角野氏の作曲・編曲が猛烈に楽しみになりました。
というか、メルドー氏がどうしてこちらに行かなかったのか少し不思議な程。
E.S.T. SYMPHONYは和音的響きはまさに!なのですが、様式的にはジャズを踏襲していますし、挾間美帆氏のシンフォニックジャズはニュアンスやリズムはジャズを生かしていますが全体的には現代音楽寄りのオーケストレーションなのでそれとも違う感覚なのです。
もしかしたら、ちょっとしたコロンブスの卵的なことなのかもしれません。

少々脱線しますが、8/30にリリースしたニューアルバム「ティグラン・ハマシアン:The Bird Of A Thousand Voices」、めっちゃ良いです(8/4のJ-wave「TOKYO TATEMONO MUSIC OF THE SPHERES」でも角野氏が紹介済)
前作のスタンダードジャズをベースにしたものはハマシアン色が薄まっていて私的には少々残念だったのですが、これは先に書いた特別な和音の響きと民族音楽的な広がりを感じて大好き!これからの季節にぴったりだと思います。

話をコンサートに戻します。
実はこれまで、角野氏オリジナル作品は作曲直後に聴くとリスペクトする曲や作家の影響を強く感じすぎる事が多く、そこから作品としてオリジナリティが現れるまでは少々もどかしい想いをする事があったのです。
今回のことで改めて、角野氏のクリエイティビティは「唯一無二のバランス」にあるという気がしました。

そして、演奏の感想に戻ります。
クインテットとしても多彩さを意識された編曲の様で、第1ヴァイオリンの通常で言うバッキング的な力強い表現の下側から第2ヴァイオリンの美しいメロディが流れてくるところも面白く、成田氏の男性的な力強さと石上氏の女性的な繊細さの対比として当て書きっぽい印象も受けました。
ズンズンズンというそのリズム的な表現自体に面白みを見出している所にも、どこかジャズ的な感覚が伺えます。
チェロと第2ヴァイオリンのバッキングの上に第1ヴァイオリンのメロディが出てきたり、チェロやビオラのソロ的な聴かせ所を設けているなど所も、個別の楽器をフィーチャーする感覚が、テーマが楽器を渡っていくようなクラシックの感覚ではなく、やはりジャズっぽいのです。
なぜそういう質感的違いになるのか私にはわかりませんが。

そしてそして!!!
少し前に自分で書いていながら具体的にどういう表現か全くわかっていなかったものが、毎度ながら角野氏から見えてしまいました!!!笑
下記に抜粋しておきます。

また、別軸で考えてみるとクラシックもジャズもPOPSも出自や様式が異なるままに共感し、その音楽を楽しむコミュニティが発展する可能性が考えられます。
これは、様式をミックスしたり引用するような手法ではなく、デスナー氏が語られていた様な「ポップ音楽への愛情を隠さないこと」「シリアスなクラシックと不真面目なポップスといった対立軸が無効になった」という部分です。
そう、バウンダリーを越えるのではなく、背景にそのイメージを持つ様になるということです。
実際にインディー・クラシックを聴いた訳ではないのですが、「ポップ音楽への愛情」という書き方から想像すると、ガーシュウィンが行った様なクラシックの様式にポップス音楽の要素を直接引用する手法とは異なる展開を感じます。
もっとナチュラルに自身の音楽表現の中にとり込まれているような質感やバランス感覚ではないかと想像するのです(私の勝手な「そうあって欲しい」という想像ですが…)。

ナラティブなアンソロジーが還元する抽象性〜読売交響楽団 第267回土曜&日曜マチネシリーズ〜

まさに、「クラシックの様式に別様式のスタイルを直接引用する手法ではなく、ナチュラルに自身の音楽表現の中にリスペクトしている好きな音楽がとり込まれているような質感やバランス感覚」を感じたのです。
これ、そもそもデスナー氏のインディーズクラシックに対する言葉を引用解釈したに過ぎない訳ですから、私自身がその表現性を鑑賞できるなんて微塵も思わずに書いていただけですから。
ということで、コンサート終了後に下記の投稿をしています。


<坂本龍一:Last Emperor(弦楽五重奏版)>
予習には、サントラ版ではなくYouTubeのコンサート版(東京都交響楽団)を聴いていました。
悠久の大河が静かに流れていくような深い推進力が好きだったのですが、なんとなんと、今回のピアノ+クインテットでも見事にそれが感じられて本当に素晴らしかった!
グランドピアノそのままなのに琴の音に聴こえてきましたし、コントラバスの低音とがカッコイイ事!!
ピアノと弦のユニゾンが混ざって一つの音に聴こえてくる感覚が大好きなのですが、その倍音的な響きは「西洋から見た東洋」というエキゾチックなイメージにビッタリでした。
もちろん、坂本氏のあの素晴らしいメロディありき!ですが。
終盤、成田氏のヴァイオリンが長く長く残る音の中で黄河の流れのような旋律が進んでいったのですが、そのヴァイオリン一音がなんと美しい事か。。。
最後に、あの印象的なメロディが一旦盛り上がった後に静かに収まり、そしてまた大きく津波の山の様に盛り上がると、やがてはフーっと消えていきました。
「静かに収まる」は小さい音になっていくイメージで、「消えていく」は、空気と混ざり透明になっていく様なイメージ、同じ音が小さくなっていくのでも、その質感が全く異なるのです。
この部分、オリジナルのサントラにはそのニュアンスが全然なく、YouTubeにはあるのですが、贔屓目というだけでなくこの日の演奏の方が断然素晴らしかったことを記録としてとどめておきます!

<ショパン:ピアノ協奏曲第2番(弦楽五重奏版)>

この曲も弦楽五重奏版ということで、予習ではオーケストラではなく室内楽版のYouTubeを聴いていました。
私は基本的に有名か無名関係なく、自分の好みかどうかで予習音源を決めるのですが、今回わずか3,000回しか再生されていない室内楽版(一部吹奏楽器も入る)のYouTubeでした。
全く知らない女性ピアニストだったのですが、調べてみたら著名な(それも知らなかった)ロバート・レヴィン氏の奥様で、レヴィン氏との2台ピアノの演奏でも知られているヤ・フェイ・チュアン氏でした。
この演奏は一部吹奏楽も入っているものの、聴き比べた中では最も室内楽的な繊細な表現を大切にしていると感じました。
レヴィン氏は音楽研究者的側面をお持ちの様なので、室内楽だからこその解釈があったのかもしれません。

が、聴き始めてすぐに「ああ〜〜!!!予想が外れた!!!!」となりました。笑
ショパン第2番は、冒頭の短調のメロディなどは第1番と近しいイメージは感じられつつも、強弱のレンジも大きく感情的でオーケストラ然としている印象です。
弱音のテイストも情緒性としてのそれ、1番のフラジャイルな質感とは異なるというのが私の印象です。
わざわざカルテットで演奏されるということは、カルテットとしての質感表現を目指される、オーケストラをそのまま縮小した様な表現ではない、と勝手に思ってしまったのですね。。。
が、それが大外れだったという事です。笑

なので、成田氏の最初の数小節を聴いて、そのオーケストラに劣らない音圧に「違う!!!」になってしまったのです。
ただ、よく考えてみれば当然のこと。
パンフレットにある「〜今後も弦楽器やオーケストラと取り入れた作品をたくさん書けるよう、日々努力を重ねております」という言葉からは、このコンサートの位置付けが「成長の途中経過」「プロトタイプや新たな表現を試す場」である事が透けて見えます。
ショパンコンクールの直前に行われたFC限定コンサートもそういう位置付けだった様ですし(私はまだ入会していなかった)、海外オーケストラとの共演が決まっている以上はオーケストラ編成を見据えた表現として最初から考えるべきでした。
昨年のアットホームなコンサートのイメージから導き出された「ショパン作品の室内楽・クインテットとしての親密な空間の音楽性」を想定していたのが大誤算。
(実はこの思い込みが後々の話にもつながってくる)

ということで、ようやく感想です。
最初のヴァイオリンから、漲る力が満ち溢れていて凄い!
フレーズが終わった所、コントラバスがズンズンと入るだけでハーモニー全体の厚みが一気に広がりました。
聴いていてクインテットに思えない程。
また、強弱の弱が弱くなり過ぎない所も自分の好み。
以前から情緒的になり過ぎる演奏は好みではないと書いていますが、オーケストラでは強弱を大きくつけている所も、楽器が少ないことで音圧が弱くなり過ぎない様ボリュームがコントロールされている様に感じます。
ピアノの最初の音はキラキラ放出している感じ。
予習でいくつか聴いたものよりは感情表現は抑え気味(大小の音幅はあるのですがそれとは別の問題)で、1番とは異なる力強さ・若々しい生命力のようなものを感じます。
それが成田氏のヴァイオリンに対しての表現なのか、オーケストラとの共演を見据えた表現なのかわかりませんが、たぶん通常はもう少し情緒的なアプローチのはず。確実に言えることは「私はこっちの方が好き」という事です。笑
そして第1楽章後半のクライマックスに至ったのですが、ここで問題の「楽章間の拍手」が起きました。

その状況を少し詳しく書かせて頂きます。
この日はどの曲でも演奏後の余韻をしっかり味わった後に熱心な拍手が起こり、余韻をじっくり味わいたい自分には最高の環境でした。
さすが角野氏のファンだけが集う場!という実感がありましたから。
この第1楽章後もしっかりと長めの余韻を味わった後、いよいよ第2楽章が始まる…とそのつもりで臨戦体制をとったそのタイミングで拍手が起き「ううっっっっ」と、前につんのめりそうになりました。
鑑賞に大きな影響を与えた一番の理由は、余韻を味わった後の「第2楽章が始まるのは今!」という完璧なタイミングでの拍手だったからで、フェイントをかけられたような、なんとも言葉では説明し難い残念感に襲われたというのが私の正直な感想です。
そして私も「クラシック音楽初心者の方が多いのかも…」と思いました。
一方で、クラシックに対する知識の有無と関わりなく、余韻までも逃すまいと真剣にその音楽に耳を傾ける姿勢とその集中度は、他のコンサートとは比にならない程素晴らしかったのです。
だからこそその集中のまま第2楽章を聴きたかった〜〜〜という想いと、一方では私の様に角野氏に誘われてクラシック音楽の世界に足を踏み入れた方々が大勢いらっしゃる事には喜びを感じたりもしました。
(奏者の皆様もつんのめりそうになって集中が途切れたりしないだろうか…という一抹の不安を抱きつつ、、、)
これが当日の私の感想で、続きは後の項に。

第2楽章、静かに弦の音が流れた後にゆったりとしたピアノから始まりました。
そこからの軽やかで美しいピアノは、まるでロココのギリシャ神話が目の前に現れたかのような美しさ!
ロココは光と影を対比するバロック表現を経て、その影が弱まり輝く光が降り注ぐような表現が具現化されています。
しかし光を引き立たせるには暗部が必要で、黒い・暗い・という印象を残さずに対比として存在することで輝く光が表現できているのです。
キラキラ光輝くピアノに対し、コントラバスの低音が暗さを意識しない暗部として全体を支えている印象を持ちました。
しかも、音の厚みがオーケストラに引けをとっていません。
(動画のの表現性とは明らかに異なる!)
そして次の展開に至ると(この場所を何と呼ぶのかわかりませんが第2楽章は2部形式とされているので、この2部の部分)、世俗・人生・感情など人間の世界を表している様に感じられました。
ドラマチックに過ぎゆく人生、所々に不穏な打楽器的なバンバンという弦の音も入ってきます。
そこからグレデーションのように3部に移行し、やがて穏やかに過ごす日常、人間の安らかな営みが戻ってきた様で安心しました。
この第2楽章、予習で著名ピアニストの演奏を聴いても「お腹いっぱい」と感じてしまうほどだったので、私的にはまさに絶妙!!
これだから他の方の演奏が聴けない…と思ってしまうのです。
曲解釈としては、第2楽章に当時のショパンの恋愛が表現されているという事なのですが、私的には直接的に恋愛的な感情は見出せず、もっと普遍的な表現としての「人間の人生を感じました。
恋愛等の感情面にドップリ浸かった様な表現が苦手なので、自分がより普遍性をこの曲に投影しているという事かもしれません。

第3楽章はロンド形式。
以前調べた時に「ロンド=輪舞曲」の「輪舞」にはダンス的な意味は余りなく、「繰り返し」としての名称だと知ったのですが、が、今回のロンドはまさに舞踊曲!
角野氏お得意のマズルカ(こちらは舞踊としての質感を含む様式)的躍動感は、予習に聴いたどんな音源以上に本当に素晴らしかった!
特出すべきはクインテットの皆様の躍動感!(角野氏は当然なので)
前出のYouTubeは抑え気味ですが、他オーケストラで聴いた時も弦楽器は刻む感じやマズルカ的様式は感じるものの、本当に踊り出すようなリズミックな印象ではなかったのです。
オーケストラの様な大編成では躍動感を表現することは難しいとも考えられ、もしかしたら室内楽編成独自の表現としても大きな魅力として考えられるのかもしれません。
しかも、とても軽やかで楽しく(弦を叩いている音も可愛い)、レガート的な部分との交互の切り替え・繰り返しもすごく自然。
弦主体になる部分とピアノが主体になる部分が交互に現れる所では、バンドリーダーとしての他メンバーへのアプローチ(オーバーリアクション的な体の使い方)が、音楽とともに成田氏と角野氏で行ったり来たりしていました。
その様子が俯瞰的に見ることができたのは、まさに2階だったからこそ!
そして終盤、ホルンのファンファーレが何で表現されるのかすごく楽しみだったのですが(予習の動画には吹奏楽もあった為)…結果はビオラでした。
音の質感からするとチェロかな…とも思っていたのですが、ファンファーレとしては響きの華やかさが必要なのでしょうね。ビオラのファンファーレ、素晴らしかったです。

そしてラストの部分、弦楽器がメロディーを盛り上げてピアノに渡し、タララランタン・タララランタン・タララランタン・という部分、ピアノの音には驚くほどの強弱があり、本当に軽やかに美しくダンスをしている様でした。
他の演奏ではほとんど強弱はなく、終盤の収まり的表現として弱めのまま最後にもっていくのですが、解釈自体が全くことなります。
その強弱にはボリュームとして感じる変なわざとらしさがなく、本当にダンスをしている膝の上下運動や高揚感に感じられるのです。
こういうところ、本当に他の誰も表現できない!素晴らしすぎます〜〜〜〜!!!!
ということで、感動した「ショパン:ピアノ協奏曲第2番(弦楽五重奏版)」でした。

<アンコール>
昨年同様に、チケットの半券の抽選でプレゼント(サイン入りポストカードとサイン入りシチリア&ドイツのマグネット)と、その方々からアンコールリクエストを受け付けるという事でした。
結果としては、ジャズっぽい曲というご希望を含む全ての曲がYouTubeライブの様に繋げられたアンコールとなりました。
なんというう贅沢さ!笑

「人生のメリーゴーランド」は優しいジャズテイストから少しダンサブルになったかと思いきや、このアンコールのメインと言っても良いほどに美しい「ムーン・リバー」。
時にクラシカルに時にジャジーに川の流れの様にたゆたう質感。
そこからはかわいらしく「大猫のワルツ」になると、一瞬「ボレロ」が入り客席からは笑いが。
音的なつながりもあるでしょうが、ワルツからボレロ舞踊的ワードのつながりもツボってます。
そして、明確な転調を感じつつ、角野武道館としての関連性をも感じる「Human Universe」からの「英雄ポロネーズ」なのですが、まだポロネーズとして聴いている時に面白いリズムになったなあ…と思ったら、そのリズムからめっちゃ早い「トッカティーナ」に!
低音の同音連打のところ、あまりにも早すぎて音が重なった一つの効果音のに感じられました。本当に驚き!
すごーいアンコール演奏で、楽しい楽しいFCコンサートが幕を閉じました。

ここで、なぜこのサブタイトルにしたかの説明を。
「混交する視点と属性」とは、普通に読んだ通りに視点と属性が混交している状態を指しますが、構造的に考えると、視点と属性そのものの概念が一筋縄の解釈では成立しない、色々な意味で受け取る人がいる、という事でもあります。
ジャズやクラシックという様式としての属性が混交しているだけではなく、ジャズやクラシックという分類認識が人ぞれぞれの視点で混交している状態とも言えるのです。
今までの角野氏の表現は確かに多ジャンルの様式が混在するものだったのですが、今回はさらに、視点によって様式の認識自体も変わってくるだろう表現に感じられたのです。
少し前にXで流行った、何色に見えるか?またはルビンの壺みたいな感じです。
ただし、クラシック専門の人がわからずにジャズっぽくしているのではなく(申し訳ないですが、ロイヤルアルバートホールのラプソディ・イン・ブルーは指揮者の方のジャズ理解がそういう程度にしか思えない)、その表現やスタイルへの解像度が高く細部の特徴を捉えているために、表出する質感だけではない部分にまでそのスタイルの影響が染み渡っている、という類のものです。
表の縫い目・ステッチはクラシックだけれど裏の糸の渡りをみたらジャズだな、みたいな感じです。
それが、「様式のスタイルを直接引用する手法ではなく取り込まれている」という部分なのです。
今回順番を変えてしまいましたが、先に拝見した「ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 in F」も、まさにそういうものだったと言えるでしょう。



SNSで騒ぎとなっっていた投稿と「楽章間の拍手」について


<事の次第>

東京の夜の部ではショパン2番の第1楽章後に拍手が起きた事も含め、クラシックファンの方がこのコンサートのご感想をXに投稿されたのですが、以降3日ほどSNSが騒がしい状態となってしまいました。
私個人の感覚としては、「批評」としてはニュートラル=感じる事は人それぞれ、という印象でしかありませんでした。
が、「楽章間の拍手の否定」「ガチなクラファンの上から目線」として受け取られたファン側の反応が広がり、中には「被害者意識的な反応=過剰防衛的な+αの攻撃性」を帯びている様に感じるものも見受けられました。
それなりに年齢を召した男性特有のクセは感じましたが、私にはそれほど侮蔑的には思われず、その一方で反論の方が口調としては攻撃的に感じられたからです。
普段は素敵な投稿をされる方々のそういう一面を見るのはとても辛いものがあります。
これを書いている現在はさらに様々な事に波及し、投稿内容の是非すら問わず「ファンとして・女性として見下された云々」という主張も見受けられました。
そこまで話を広げてしまうと、外部からは「ネガティブ投稿を容認しないファンダム」という認識につながりかねない残念さ。。。
愛情が故だと思うのですが、その方向性が混迷している様に感じられ何とも言えない気持ちになってしまいます。

たまたまこの日(コンサート翌日)届いたPenthouseの「花束のような人生を君に」のデモ版を聴くと、陰りのあるその歌詞に救われました。
もともとは個人的な問題でオリジナル曲が聴けないという状況にあったのですが、「愛情があるが故の食い違い」的な歌詞の部分はこの状況にも該当するかも…と、その日は寝るまでこの曲を聴いて過ごしました。
(「一難」YouTubeライブの時に「もうすぐ」とおっしゃってから随分日が経っていること、「適当な歌詞」とおっしゃっていたものとは異なり、よりドラマの世界観に近いと思われるので、もしかしたらドラマ最終回にエンディングが変わるとか?期待してしまいます。そうでなかったとしても、アンサーソングの様な別バーションとして、多くの方々にこの歌詞が届いてほしいと心から思います)

<複数の視点と認識が混交しているための混乱>

ここでは何が正しいとか間違っているとかという事ではなく、記録としてどうして事に至ったのかを重点に考えてみたいと思います。
一通り眺めてみるとその視点と属性が異なった状態であるにもかかかわらず、互いにそれを認識しないまま論争となっているのです。
それぞれの視点や属性を整理する為に、まずは下記二種類で分類してみます。

主にクラシック音楽ファンとしての視座=A
(主に議論元の視点/元々クラシックファンの角野氏ファンも含)
主に角野隼斗氏のファンとしての視座=B
(主に反論の視点/クラシック等ジャンル不問で角野氏個人の応援が主体)

●FC8810への認識
A:人気ピアニストのレアチケットが優先購入できる会
B:推しを応援するファンが集う会

●FC限定コンサートの定義
A:通常は聴く機会のない人気ピアニストの珍しいコンサート
  (ジャンルレスなピアニストの多様な新しい試みへの興味)
B:推しを応援する内輪の親密なコンサート
  (ファンサービスや親密度の高い場に期待)
     
●演奏曲(ショパン:ピアノ協奏曲第2番)へのスタンス
A:クラシックの曲である以上はその流儀で鑑賞する
  ショパン1番全体の享受を主眼とする為楽章間の拍手は望まない
 (ショパンの室内楽という曲として考えれば特に) 
B:ジャンル(流儀も問わず)問わず推しの演奏を真剣に聴き応援する
  角野氏やストリングスの皆様の熱演に対しての拍手
  (ショパン1番全体の享受 < 推しの素晴らしい演奏への応援)
  予習や下調べをしない(事前知識なく新鮮な状態で聴きたい等)
  等で第1楽章だけだと思われた方、
  クラシック初心者で楽章の区切や楽章間の拍手への知識がない方

ただし、クラシック初心者であってもクラシックの曲をクラシックの流儀で聴けば「A」に属しますし(私はそこ)、もともとクラシックファンであっても、FCコンサートの定義を「推しを応援する内輪の催し」としてお考えになれば「B」になります。
一人の人の中で、ファンクラブ/ファンクラブ限定コンサート/演奏曲に対して、「A・A・A」「B・B・B」だけでなく「B・B・A」「B・A・A」も成立するなど、混交しているのです。
にも関わらず、それらの違いを意識することなく意見が出ていた訳で、収拾がつかなくなるのも当然かと。
しかも、元投稿に反論された初期の方々は、この方が会員ではなく同伴で来られたという誤解があった様で(過去に角野氏を否定していたクラオタが物見遊山で来たのだと思われていた?)、初めから過剰防衛的な攻撃性を含む反論が一部で見受けられました。
ご本人が会員とわかったその後には、アンチがFCに潜入していると思われている方もいらっしゃる様で…そこまでの深読みに対してはもう、なんとも申し上げられません。
感じ方はそれぞれなのでこの方がどういう方なのかは保留のままで話を進めます。

この方、問題の投稿の後には角野氏を褒めていらっしゃるのですが、注意すべきは「(初心者を取り入れて)クラシック音楽のコアなファンを増やして欲しい」という様な、あくまでもクラシックファンとしてのスタンスから思考・発言が行われています。
「角野氏にはクラシックに専念して欲しい(そうではないと将来的には厳しい)」というニュアンスは私でも感じられますので、角野氏の多様な表現性や活動をそのまま受け入れ・応援される方々にとっては、「クラシックに固執する押し付け」や「クラシックを専門的に研鑽しなければ将来性が無い」という様な「一方的な上から目線」に感じる方がいらっしゃったかもしれません。
とはいえ、私的にはそういうアイロニーを込めたくなるほどにクラシックピアニストとして角野氏への期待や好意が大きいとも感じられます。
何の疑いもなくクラシック音楽が最上という価値観が前提である以上、通常の角野氏ファンとは相容れないこともわかりますが、だからと言ってそこまで過剰な拒否反応に至る理由は、残念ながら私には不明です。
これから書くことは想像でしかないのですが、この方のクラシック偏重の理想が角野氏に投影されることで、ご自身が持つ理想やイメージが侵されたよう感じられたとか(同担拒否の理由にイメージの違いというのがあるらしいので)。。。
ただ、個人的な理想を角野氏に投影することは他のファンの方々でも日常的に行われているもので、そもそも多くの人々から熱愛される「スター=偶像(アイドル)」とは、多くの人々のエゴイスティック(個人的)な愛がイメージとして投影される存在です。
傍目からは二者のイメージは大きく異なるものの、構造は同じ。
ただ、ファンダム内ではそのイメージがある程度共有されている(=結果としてはエゴイスティックではなくなる)ので、個々の理想の投影である事への認知に至りづらいのかもしれません。
しかし個人的な愛として存在している以上は、他者の異質イメージが上塗り(否定)される事に対しての不快感があり、抱いている愛情が大きければ大きいほど敏感になると考えられるのではないでしょうか(私にはその感情がわからないのであくまでも想像です)。
いつもは音楽への共感で溢れるコミュニティー内においても、私の様に過剰に反応するのが不思議に思う人と、傷ついて辛さや悲しみを吐露する人とに大きく分かれた様に感じます。
多くのファンの皆様が共感している(いた)イメージは、実は個別の部分的重なりでしかなく一致ではないという事が詳らかになっただけだと思うのですが、「皆で共有するもの・できるもの」という漠然とした思い込みが存在すると、ご自身の感情や意見への共感を求めてしまい、その手段として「正論化」が行われていた様に感じました。

そういう意味で、「SNS上は批評の場ではない=良い事を発言し応援する場でネガティブな内容を避けるべき」「ファンが称賛ばかりしては本人のためにならない」という対照的なご意見も並列し、どちらにも賛同者がいらっしゃいました。
ですが、個人的感情の共有化が起点のため、双方ともに一理あるものの他者の行為を律するほどの説得力はありません。
ファンとしてSNSで何を投稿するのかというこれらの理念を個人個人が持つことは素晴らしいと思うのですが、他者にそれを求めることはできないのです。
個人のSNS上のスタンスや理念はご自身だけのもので、だからこそ自由で素晴らしいのだと私は思っています。

また、SNS上の批評では、批判的内容の「批判(マイナス)度」よりも「拡散度」の方がネガティブに働く事も事実で、その投稿自体に攻撃性がなかったとしても受け手側が大きなダメージを受けてしまう場合があります。
ネガティブ投稿としては3程度の力しかなかったとしても、拡散力が10あればダメージが大きく、ネガティブ投稿としてが10の力があっても拡散力が弱ければスルーできてしまう(そもそも気づかない)という訳です。
元の投稿は多少辛口であるもののクラシック側からの批評としては私にはニュートラルな範囲に収まっているという認識です。
(FCコンサートに対してクラシックの一般的な認識を持ち込む事の是非を問うと論点がズレてしまうので、一旦は不問にした上で話を進めます)
が、反論があった事でファン間に拡散されてしまい、より大きな騒ぎに発展した考えられるでしょう。
以前のTwitterの仕様ではフォロワーの投稿しか見えなかったものが、今は「おすすめ」に流れてきてしまい、騒ぎがより大きくなるという仕様上の特性も大きかったかもしれません。

しかしここで最も重大な問題が発生していました。
もしこれがなかったら、ここまでの騒ぎになっていなかったかもしれない事です。
実は反発のご意見(楽章間の拍手を擁護・正当化するもの)には、実際にこのコンサートを鑑賞していない方々のものが多く含まれていたのです。
感想に書いたように、その場にはそう感じる理由が存在しました。
実際にこの拍手を体験した方が反発されるのは全く問題ないのですが、実情を知らない方は否定や反論はできない、すべきではない、という事です。
ここでは度々「正論は無い」と書いていますが、唯一断言できるとすれば、「自分が知らない事象に対して勝手な想像や思い込みで反論してはならない」ということだけです。
このコンサートを聴いていない方々が思い込みと想像で反論されることは、論争の参加人数を増大することになり、しかもその要因が個人的な感情に偏っていることにより、事の是非以上に騒ぎがより大きくなったと考えられます。
ではなぜそうなったのか…
「ご本人ご覧になったら…」と心配されている投稿も複数見かけましたが、この程度の批評(理不尽な批判ではない)で影響が出るメンタリティでは世界に通用しませんし、ダメージを受けたのはどう考えても推しへの愛に溢れるファンの皆様自身で、そのダメージへの抵抗として事象への精査がない感情的反論が行われたと考えられます。
正直なところ、実際にこのコンサートに行かれたFFさん方はこの投稿に対しては妥当性を感じていらっしゃる様で、実際に鑑賞されていない方が感情的に反論されている印象すら受けます。
(これは私の周囲の方々に対する印象でしかないため、実際に人数割合を調べたら結果は異なる可能性が高いのですが、実際にその現場にいる方々の方が冷静なスタンスだった様に感じる)。
いずれにしても、自分が体験していない・詳細を知らない事に対しては、安易にSNS上で否定・反論すべきではないはずです。特にすでに論争・騒ぎになっている事に対しては。
それだけは唯一正論として断言できます。
とはいえ、私はこれをSNS上で主張するつもりはありません。
「ファンダム全体の動向をコントロールする行為は避けたい」というのが私のSNSへのスタンス(理念)であり、正論の表明意義はずっと下にしか位置づいていないから為です。
実際には両者の方々のお気持ちに寄り添い・汲み取ってまとめて下さる方もいらっしゃいました。
すでにポストトゥルースの時代なのですから、SNSにおける正論の価値は余りないと思っているのですが、ここで書いているのは、その事象についての考察、後々に考える際の記録としての意味合いです。

感想にも書いていますが、私は「鑑賞者」として楽章間の拍手は無い方が良かったと感じたものの、一方ではクラシックに縁のなかった方々やジャンルを問わず純粋に最後の一音まで真剣に聴かれている方々が大勢いらっしゃったという事でもには、素晴らしい事だと感じました。
なので、この拍手に対しては「残念な気持ち半分・嬉しい気持ち半分」です。
また、指揮者が居て楽章間の余韻と次章開始をコントロールしていたら、演奏曲「B」の方々もその真剣度から(第1楽章しか演奏されないという思い込みがあった方も含む)拍手はされなかったのではないか、わかりやすい合図が無いので「曲の終わり」と誤り易い状況だったのではないか、とも思いました。
これを「in F」の拍手の様に音楽的ないみを含めて正当化・反論するのは正直無理だと思われます。
なぜならショパンとガーシュウィンの音楽性は全く異なる以上、その作品・音楽を聴くという行為を第一主眼とした場合には、マイナス的影響の方が大きいからです。
その一方で、FC限定コンサートとしては曲全体を鑑賞する以上に(曲と拍手との質感を鑑みる以上に)、その熱演自体を称賛したい方・それが許される場である認識を持っている方がいらっしゃったとしても、何の不思議はないのです。
これら前提の違いを拍手の有無だけで語れば意見が分かれるのは当然。
個人的には「非難も正当化もできない・致し方ない(要因は理解できる)」というのが見解です。

角野氏の活動や表現性(音楽的クリエイティビティだけでなく文化的意義までも含む)が多彩であるが故に、ファンやFC会員と言っても様々なスタンスや視点で鑑賞・応援をされている方々がいらっしゃるでしょう。
私は過去に一度もファンクラブに入った事もなくクラシック音楽にも馴染みが無かったために傍観者でいられたのですが、これまでの経験で「ファンクラブ(エンタメ業界)」「クラシック界」の常識や定義が無意識的に身についていれば、それぞれの視点で正当性や妥当性を主張される事もあるのでしょう。
また、角野氏のどの部分が好きなのかも人それぞれで違いが生じている訳で、日が経つにつれてそういう内容にまで騒ぎが広がってくる状態は、正直カオスでした。
今後も意見の前提となる視点や認識の相違が論争のトリガーになる可能性は大いに考えられます。むしろ、ファンの絶対数が増えれば視点も増えそのリスクはより大きくなると言えるかもしれません。
氏の活動や表現性が多様かつ多次元にわたる以上は致し方ないともいえるのですが、だからこそ、そういうリスクへの自覚はファン個人で理解しておく必要性を感じました。
私には不快ではなかった事が他の方にとっては不快だったという事までをも否定しているのではありません。
リアルで不快な人に出会ったらその人に反論するより距離を置く事が多いのに、なぜかSNSではその人にわかる様に反論したり、その不快感に他者を巻き込んで共感を求めてしまうのがSNSということです。

共感を求める余りに一視点による意見が正当化・正論化されたこと、実際に自分が知らないことに対して感情論で反論されたこと、公開の場で攻撃性の強い反論がなされ当初の内容とは異なるテーマでも騒ぎとして広がったこと、ファンダム内における意見の相違・分断が白日にさらされたこと、、、
今回の騒動ではそういう様々な問題が噴出していました。
ファンでもそれぞれのスタンスが異なる事、SNSでは個人的不快感に共感を求めがちなため更なる拡散や反論が起こることは、今後も意識しておいた方がよさそうです。

昼の部ではカーテンコール時にプレゼントを渡された方もいらっしゃったそうで、夜の部では注意のアナウンスも流れていました。
このコンサートを親密度あるファンとの交流の場として捉えていらっしゃった為でしょう。
私にとっては感想に書いた様に新しい試みを完成度を度外視して披露する場という認識でしたので、諸々を含めると、来年以降はFC限定コンサートの趣旨・コンセプトを明確に事前告知して頂く方が「視点の相違」というリスクを低減できるかもしれず…このことはアンケートにも書かせて頂きました。

<カール・セーガンの言葉>
9/8、石丸由佳 氏による所沢ミューズホールオルガニスト就任記念コンサート「オルガンの宇宙」を拝見しました。
書きたい事はたくさんありつつも、書いていると今日投稿できないので…感想は同ホールでのウィーン放送響とのコンサートの時に。
ただ一つ、今回の内容に関連があるお話が紹介されていました。
太陽系外に飛び立ったボイジャーの「ゴールデンレコード」に制作委員長として携わったカール・セーガンの言葉が紹介されていたのです。
そこからさらに一部の抜粋を掲載します。

ほとんど見た目の同じな準人に対して、どれほど残虐な仕打ちをしてきたか。どれほど多くの誤解をしてきたか。
どれほど熱心に人同士が殺し合うことか。どれほど激しい憎しみを持っていることか。
私達の気取った態度、思い込みや自惚れ、
私達は宇宙の中で何か特別な存在なんだという錯覚、この淡い光の一点が、それらを教えてくれる。

「私達が知る、たった一つのふるさと」-天文学者カール・セーガンとボイジャー1号が写した、ペイル・ブルー・ドット–

セーガンの言葉では、争いや残虐な行為の要因を「誤解・気取った態度・思い込み・自惚れ・錯覚」などに置き、行き違いがなくなれば相互理解が可能なものとして捉えています。
気取りも時惚れも悪意とは言い難く、コンプレックス(抑圧感情)によるものですから。
実際には悪意だけで攻撃する人もいるでしょうが、ここでは正義も悪も存在しない相互関係が主体となる世界として人間を捉えています。
リアルな社会では無理がある理念ですが、少なくとも、今回の騒動においてはセーガンの言葉通りではないかと思った次第です。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
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