【RP】メゾン・ド・ミュージック『角野隼斗のはやとちりラジオ』1/12 高木正勝氏ゲスト回を聴いて思ったこと
(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)
<はじめに>
番組で高木正勝氏のお話を伺い「わあ〜〜!girlsにはこんな秘密があったんだ!!!」と大興奮!!今までの疑問が晴れたこの感激を他の方と共有したいという気持ちを持ちつつも、「昔の高木氏を知っている」みたいなマウントになってしまったら嫌だな…とも思ってしまい、正直noteを書くか迷いました。
ただ、角野氏ファンの皆様の放送前後のTweetでは、高木氏の音楽性やアートワークを純粋に追求されているものが多く見られ、私はそのお陰でMarginalia #104の投稿や「おかえりモネ」サントラについての高木氏の想いを知る事ができました。
なので、高木氏の昔の事=ラジオの補足的内容を楽しんで下さる方もいらっしゃるかも…と書く事にしました。時代的に当時の情報を探すのが難しいという事もありますので。
が、実際に書いてみると当時考えていた芸術論を思い起こすような作業になり、まるで自分の過去を振り返るような…1万字以上の長文になってしまいました。
角野氏ファンの方はご興味がある所だけ飛ばし読みして頂ければ幸いです。
<本編>
これまでも遅れて公開されていた同番組の公式YouTubeは拝見していたのですが、高木正勝氏がゲストとの事で舞い上がってしまい、角野氏スタッフアカウントへレスしてしまいました。。。(スタッフアカウントさんだけかと思ったら、色々な方への巻き込みをしてしまったらしく本当にすみません)
うわ〜!!超絶期待していた組み合わせ!ハニャ・ラニ氏の飛び入りコラボの後、もしかして高木氏とのコラボとか無いのかしら…と勝手に思っていました。お二方とも電子ピアノが並んでいるという事はコラボ演奏されるのですよね♪メチャ嬉しい!早速、ラジコプレミアム申し込みます!笑
— 中野が好きです会員α (@nakano_member) January 12, 2022
ハニャ・ラニ氏の音楽は角野氏のインスタで初めて知ったので、実際に高木氏と交流があった事がラジオで語られていて…ビックリ!
というか、そもそも私が高木正勝氏やマイケル・ナイマン氏の音楽が好みだったので、角野氏がインスタのストーリーズで紹介して下さった時に「これは好き!」と感じたのだと思います。
私にとってこの放送を聴くことは、20年近く前の自分が蘇ってくるような特別感慨深いものでした。
私が高木氏を知った2003~5年頃(うろ覚え)は、「Girls」などで海外でも評価の高い現代アートにおける新進気鋭の映像作家という位置付けでした。
今でもビジュアル表現と音楽表現を同時にされる現代アート作家としての側面を持ちつつ、職業音楽家としてのご活躍も本当に素晴らしいです。
高木氏がこれまでの音楽的興味の変遷について語られた際、エレクトロニカからのバグやエラーの影響について「Girls」を例に「肉体でそれをやった」とわかりやすく演奏で説明して下さったのですが、ビジュアルと音楽が同じコンセプトである事に約20年近く経ってから気付くことができるなんて!!!!本当に感激しました!
ナム・ジュン・パイクからの影響を考えると(ラジオでは語られていませんが、現代アートの文脈とエレクトロニカの話題からはパイクの影響を無視する事の方が難しい)、「girls」はビジュアル表現の方が「人体的に行うノイズ=有機的なノイズ」の意味合いは大きかったのではないか、あのビジュアルがあったからこそ音楽表現も肉体でのノイズにつながったのではないか、と思ってしまいました。私にとっては本当にお宝話!公式ではないのでリンクは貼りませんが、高木氏のお名前とgirlsで検索すれば動画は簡単にヒットしますので、 ※2/11に「girls」や過去の映像作品が高木氏の公式YouTubeアカウントで公開されましたので、ご興味をお持ちになった方はどうぞ。映像と一緒にご覧になると「肉体でやったバグやエラー」の意味がよりお分かりいただける事と思います。
<1/19追記>
ちなみに、高木氏の初期エレクトロニカの音(2004年以前の作品)と聴き比べると「肉体でやったバグやエラー」の音楽的な意味もすごく明確になります。私は2009年当時「Tai Rei Tei Rio(後述)」をきっかけに以前の高木氏の作品にも興味を持ちエレクトロニカ時代(2003年発売)の「Rehome」をDL購入したものの余り好みではなくほとんど聴いていなかったのですが、この放送をきっかけに聴いてみたらポップで凄くカッコ良くて(今の自分には凄く好みで)焦りました。エレクトロニカが最近一回りしてきたというお話も放送でありましたが、時代の感覚というよりも、単純に「自分が聴きたい曲」のイメージと一致しなかっただけでしょうね。いや、本当にもったいない事をしていました。
※1/12追記 高木氏の初期作品についてのTwitter解説でエレクトロニカ時代と思われるもの『Birdland (2001) 『Light Park #2 (2001)』
それにしても、初顔合わせでしかも短時間の放送時間において、ご自身の表現活動の核となるようなお話をされていた事に驚きました。同じ表現者としてのシンパシーのようなものがあったからなのでしょうか。
j-wave(職場で流し放しだった)Good Neighborsでは、ナビゲーターのクリス智子氏と親しくされているのか、年1回は長時間ゲストとして出演され色々なお話をされていましたが、ここまでご自身の表現における核心的な内容はなかったと思うのです。
2008年当時「Tai Rei Tei Rio」のコンサートまでを追ったドキュメンタリー映画「或る音楽(完全版※/12分ダイジェスト/予告動画/レビューサイト)」を、興味深く拝見させて頂いたので、映画「ピアノレッスン」のピアノ演奏による民族的な音楽との出会いについてのエピソードは、それが後年作品として結実したのかしら…と感慨深く伺わせていただきました。(「Tai Rei Tei Rio」については末尾で追加情報を記載)
お子様がいらっしゃる場でのピアノ演奏についても、エピソードとしてはJ-wave経由で耳にした事があったと思うのですが、「演奏としては無茶苦茶になっても自分が今100%使いきれてる」みたいな事は、アーティスト同士の対話における「表現への姿勢」という意味合いが生じて興味深く伺いました。
個人的に、高木氏のご活動はその時々に変わるような「点」としての認識だったのですが、ノイズやエラーをキーワードとして考えることで、そのご活動全体が一つにつながった様に感じられ、心から納得しました。
※2/12追記 高木氏の初期作品に関するTwitterでは『pia』を「Marginalia」への繋がると語られていました。
※7/17追記 「或る音楽」完全版は7/2に公開された為、新たにリンクしました。作品中のインタビューで、後に「Marginalia」に繋がるだろう音楽表現について語もられている。
ここで、角野氏の朝日新聞のインタビューに書かれていた坂口安吾「日本文化私観」に突然話が飛びます。笑
実は、角野氏のインタビューをきっかけに「日本文化私観」を再読していなければ今回のお話がこれほど心に響いてこなかった可能性すら感じているのです。
(安吾の文章は戦時中の体制や権威に対する批判であり、ブルーノ・タウトの「日本文化私観」へのアンチテーゼとして書かれているので極端すぎる所があります。そもそも、タウトの論は伝統を軽視していた日本人への警鐘としては大きな意味がありましたが、西洋の価値や視点で日本の美を賛美しているにすぎず、真に日本文化を理解する姿勢では無いものに対して国粋主義化をすすめる人が利用した感じ…というのが私のものすごくざっくりした理解です。いずれにしても、ご両人とも性格が捻くれているからなのか素直に文章を読んでも理解するのが難しい。。。苦笑)
「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない」(角野氏が一番印象に残った箇所だそうです)という事例として、「やむべからざる実質」(審美的にデザインされていないという意)が生む美を工場の建築を例にしてあげています。また、その前には「俗悪的な価値」として雑多な芝居小屋のような事例も出しています。
これらの部分は、様式として完成された美だけでなく、美に還元されない価値を受け入れる日本人的な感覚として、今回のお話に通じるように感じたのです。
しかも文章的な「俗悪的な価値」→「用の美」という文章の流れが、高木氏の表現の変遷である「エラーやバグを美とする表現」→「環境として当然存在するノイズを必然性として生かす表現」として、相似的な関係であるように感じてしまいました。もちろん、安吾の文章構成には高木氏の変遷のような意味はないのですけれど、たまたまこの順番に書かれていた事でより共感性が膨らんだ、自分の中での納得度が高まったと言えるかもしれません。
安吾は「中途半端を排撃し、無きに如かざるの清潔を選んだ」として芭蕉や良寛を「欲が深すぎ」とまで書いていますが…まあ、タウトへのアンチテーゼとして強く否定している極端な主張です。たしかにミニマリストの押しの強さみたいな所は現代社会でも感じますし、恣意的意図が見える表現では一気に興ざめする所も納得なのですが、芭蕉や良寛の芸術性を否定するまで至りませんし、タウトが属するモダニズム建築こそが本来の「用の美」であり、メタ的に考えれば日本文化を厳密に定義し直す行為(しかも否定による肯定)こそが「中途半端を排撃する行為」に他ならない。笑
たぶん、「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない」の「特に」という所がものすごーーく重要なのです。「特に美を意識する=美を他の何よりも特別なものとして絶対的な価値を置く状況」「美を特別視することで他を排除する行為」では、その美が逃げていくと言いたかったのではないでしょうか。繰り返しますが、だとしても芭蕉や良寛の美は否定できません。それは、美を全く意識しなければ表現としての美は生まれない事も事実だからです。
美のモデル(=イデアやエイドスの様な理想の美の概念モデル)は存在します。数学のような絶対性は持ちませんが、それがなければ多くの人が共通して美しく感じる事は有り得ません。
「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない」は、美という存在を考えない表現というよりも、「意識せずに美を成す状態に至らなければ美は成立しない」という意味として考えた方が、角野氏の志す表現性に近いのだろうと思われます。
角野氏のお話で注意が必要な事は、「ピアノの音色が美しい」という意味や価値をご自身の音楽表現においては前提、スタート地点としてしか捉えていらっしゃらない所です。ですが、角野氏が表現のスタート地点として捉えている「美のモデルに近しい位置」に多くの人が辿り着こうとして頑張っても、空回りして(特に美を意識しすぎて)しまうことの方が多いのでは。。。
ただし、この事は自己完結できる「完璧に近い理想の美」を持たない人は美を表現できないという意味ではありません。
高木氏は上手くピアノが弾けないからご自身で「自分が弾くための曲」を作られたとおっしゃっていました。ご自身の中にある不完全さを前提に表現と向き合われ、広義の環境を昇華する(時には依り代として同化する)表現とされたのだと思われるのです。
その広義の環境というものが、偶然的なエラーやノイズだったり、表現における技術的制約だったり、他の方の映像作品の場合もあり、ご自宅周辺の自然やお子様との生活でもある、という事ではないでしょうか。
いや〜〜〜、私にとっては、約20年間で高木氏の表現媒体や様式の変化を一つに繋げるものを発見したような、すごい「アハ体験」となりました。
実は、美の純粋性を求めるタウトも猥雑さや雑多性に価値を見出す安吾も、唯一その価値を認めている存在が、世阿弥です(安吾は文中で当時の上演芸術としての能を否定していますが、文章の端々で世阿弥礼賛を滲ませている)。
このnoteの前にショパンコンクールの角野氏の演奏が能に近く感じられたと書きましたが、日本文化私観を読み直してよくよく考えてみると…世阿弥が様式として大成した能に近いという事だけでなく世阿弥の表現的志向性にだんだんと近づいてきている気がするのです。
前置きですが…能を戯曲作品と考えた場合、世阿弥だけでなく金春禅竹の作品も本当に素晴らしいです。ただし、名前に「禅」とあるように、世阿弥作品にあった原始的・アニミズム的宗教観から、禅の影響がより強い自己探求・観念の純粋化に向かう作品でもあり、安吾の「中途半端を排撃し、無きに如かざるの清潔を選んだ」類です。
禅竹・芭蕉・良寛・など「完璧に近い理想の美」を表現できる技術を持つ場合、理想の美に対するノイズを可能な限り排除し純粋化に表現が向かう(向かい易い)という事なのだと思います。
自身で完結する完璧に近い美を持っている表現者にとって、環境を含めたその他の影響を昇華させてより高次の表現を志す事は、たぶん個人の完璧な美を追求する以上に難しく、その極めて稀な表現性で後世に作品を残したのが世阿弥なのではないかと個人的には思っています。
芭蕉や禅竹、番組中で高木氏が語られていたラヴェルの自然描写からは作者の視点を通した自然が感じられ、それがたぶん安吾が「欲」と書いて否定した質感に近い部分と言えるでしょう。しかしそれこそが芸術(西洋的概念)の最重要要素である自己表現でもあり、だからタウトが絶賛し安吾が日本文化ではないと否定したとも言えます。今となってはその評価自体は意味をなしませんが、相反するベクトルを持つ二つの価値観(表現の志向性)が存在し、世阿弥だけが同時に評価されているという事に私は注目したいのです。
世阿弥作品(世阿弥作品を世阿弥の表現性に近しい能として演じられた場合)は個を超えているというか、そこに作者の視点は感じず、自分が中世の人間としてその場に居る様なリアリティをもって、言葉にすら無いイメージが感じられます。
作者の視点ではなく物語の登場人物への感情移入でもなく、タイムスリップとかテレパシーとか、真面目に書くとちょっとオカルティクな方向性に行きそうになるほど直接的な感覚なので説明が難しいのですが、高木氏が語られていた「生活の中にある音楽のリアリティ」との共通性を強く感じました。
個を超えた(作者を持たない普遍的な伝説や神話にも通じる)世阿弥の表現は、当時の自然や人々の文化に寄り添うアニミスティックな多神教的日本の宗教観あってこそだと思いますが(高木氏の京都での生活とも繋がるかも?)、芸能様式として能を完成させるには、個として自己の信じる美を妥協なく追求する必要があります。
言い換えるとすれば「広義の環境的影響を受け入れた上で表現として調和・昇華させる能力」と「自己の表現を追求する欲とも言える美的純粋化に向かう力」との絶対的なバランスが必要なはずで、世阿弥はそれを奇跡的に成立させているからこそ、相反するベクトルの価値観においても賞賛されるという事なのでしょう。
実は、高木氏が「作曲と身体を動かすのが一緒」とお話しされた部分、角野氏の即興性を重視される作曲法とリンクするように感じたのですが、拍子抜けするほど角野氏が反応されずにあっさり終わってしまいました。もしかすると、高木氏が角野氏について「弾けるから」と度々評されていたことと関係がある???
角野氏のラボで「無駄な音」について言及されていましたが(具体的な内容はマナー違反になるので避けます)、それは弾けるが故の問題でもあり、今回のお話を伺うと高木氏の作曲においては起きづらい事だと言えるかもしれません。
つまり、「作曲と身体を動かすのが一緒」という行為自体が近くても、創作活動においてのスタート地点が逆で、作曲への作用が真逆に起こっているような事なのかも…と。
まあ、私の勝手な想像なので、お二方で作曲におけるその共通性に盛り上がり過ぎて後々編集されただけなのかもしれないのですが。。。笑
ただ、この逆の作用について考えることが、もしかしたら秘密の鍵となる可能性があります。
表象として抽象化(省略化・簡略化)する行為は、個人のフィルターを通した要素抽出になる訳ですが、技術的な問題で必然的に単純化された表現には恣意的なフィルターの介在が少ないはずです。しかし、技術によって「作為的無作為」を様式化したのが、たぶん世阿弥。
もちろん芸術(西洋的概念)におけるミニマリズムや一部モダニズムと重なる部分でも抽象に無作為を内包していますが、無作為=意味の消失に向かうので表現として純化する志向性にしか存在しません。西洋の芸術概念でも無作為を無意味化させない抽象化は偶然に寄る表現には存在しますが、ノイズは大きなままのため純粋化には向かわないからです。
普通に考えれば、表現を美しく抽象化する際に個人のフィルダーでもなく意味を捨てる行為も無いなんてそんな事ができるの?状態なのですけれど、奇跡的にできてしまっているのです。。。
それは世阿弥のイメージが構造化されているから。
目に見える一層目がタウトの好きなノイズの少ない抽象ですが、一層目の抽象から想起される二層目のイメージからは、安吾が好きな雑多なものやアニミズム的な世界観・自然の多様性がそのまま表れている世界というのが私の大雑把な把握です。
どうしてそういう事ができているのか私にはわかりませんが、もしかしたら、「作為を持たずとも美を表現できる状況にある人=自分が持っている完全に近い美を雑多な日常と同列・フラットに捉えて特別視しない人」だからこそ可能だったのではないか…と。まあ、必要条件の一つとして考えられる仮説、という程度でしかないのですけれど。。。
次世代の禅竹にとっては技術として会得した作為的無作為なので、その表現を追求することは純粋化としての志向性が強く現れるのは当然です。
安吾が否定していた芭蕉にも桂離宮にも、表出する比率の差はあれ日本文化のイメージには常に構造性を内包していると言えるのですが(見えている部分が人によって変わってくるのでタウトや安吾のように評価や解釈が分かれる)、完璧に近い理想の美を表現可能な技術を持つのであれば、その技術がより生かされる表現を目指す(純粋化の方向に至る・純粋化の表出が大きくなる)のが普通ですし、作品としての完成度が保証され易いという事もまた自明でしょう。
西洋の古典的芸術概念では、一神教の影響が強い「真の美・芸術」的な価値観を置きます。だからこそ過去の芸術を否定し新たな表現を生むというような近代以降の様式変遷に至ります。その後、現代の多様性をそのまま提示するポストモダンが発生しましたが、ノイズが大き過ぎたのか余り広がりをみせず、2000年を超えた頃から日本文化との親和性が高いと言われていた「構造主義」「複雑系」的な視点を持つ表現が日本で盛り上がってきた(と私は思っている)というのが当時の大雑把な理解です。その後のムーブメントは大きく変わったと思われますが、今は芸術鑑賞の趣味から離れているので現在の状況はわかりません。
私にとっての角野氏は、ピアノの美しい音色が好きな演奏家で、多方面のご活躍は素晴らしいと思いつつも、正直、通常の「美の純粋化を追求する表現者」であり、特別な思い入れはなかったのです。
それが、ショパンコンクールの演奏で「えええ??なぜに能みたいな表現をするの??(そこに立ち現れたばかりのような瑞々しさからは、古典における解釈表現の放棄と感じる人もいれば、想起による背景イメージをよりリアルで生々しく受け取る人もいて印象が両極端に分かれた=イメージが構造化されている為ではないかと仮定)」と驚き、ハリャ・ラニ氏がストーリーズで投稿されたアップライトの演奏で「あの、、、まさかこちら側に来るってこと??」みたいな感じになり、お正月の「337 × 6」の動画を観たときに「あああ!!!やはり本気だ!」と思うに至ったのです。
というのも、数字・数学を音楽表現の中に取り入れるという事は、広義の環境との関わりで創作する高木氏の表現(現代アート的な、音楽に限定されない類)と対照が違うだけで同質と考えられたためです。しかも、この本気のお遊びのような諧謔性が実に日本的で、本当に「やられた〜!」という感じ。お正月早々ファンクラブに入会し、会員限定のライブ盤を入手前提でBlu-rayプレイヤーも買いました。笑
アップライトのノイズについては、ネオクラシカルとフェルトを用いた音が流行っているというような事がご本人の興味に一致しているのでしょうが(これもラボからの受け売りなので、あえて正確性を持たせない為に記憶だけで書いています。間違えているかもしれません…笑)、世界でも認められるクラシック演奏の技術を持った方が、完璧に近いピアノの音を犠牲にしても向かう表現性なのか?という疑問を持つ方だって、当然ある程度の割合でいらっしゃるはずだと思われます。
けれど、完璧に近い美しい音を維持しながら環境への積極的な関わりを持つことで、別次元の音楽(=より広義の芸術)への可能性が、他の誰よりも開かれているのです。
この別次元の方向に踏み出すことが余りにも凄過ぎて、「なぜにそんな棘の道に足を踏み入れるの?!」と思ってしまいます。が、その一方で「いやいや、、、かてぃん氏として『かっけー!』と楽しげなスキップでその棘の間を軽々と飛び超えていかれるのかも…」と。笑
角野氏の表現性と日本文化との関連性はショパンコンクールまでは全く感じる事がなかったので、角野氏の生まれ持った素直な個性とは違うのかもしれないと思うものの、12/30放送NHKラジオ「RadioCrossOver」伊沢拓司氏との対談で個性について話題になった際、伊沢氏が「個性ってキメラだよね」とおっしゃっていた事を考えると、今まで表立って出てこなかっただけでパーツとしてはその素養はお持ちだったのかもしれません。一方で、ご自身の興味のままに行動や表現に移す事ができてしまう所までを考えれば、メタな意味で圧倒的な個性と言えるのでしょう。
一見相反するような個性や物事が一つに昇華される時にこそ奇跡が起きるのですから、ご自身の才能と興味を信じてこのまま突き進んで頂きたいです!
ちなみに、環境音まで作品として考える高木氏のMarginaliaは、音楽として考えると特異に感じられるかもしれませんが、ファインアートのインスタレーションとして考えれば普通の事(凡庸という意味ではなく特別な表現スタイルではないという事)で、現代アートに在る高木氏においては当然の表現性といえます。
これは受容者側の意識が変われば同じものでも受け取り方が変わるという事なので、表現自体の変化だけでなく、解釈や意識の発見を促す事もまた新たな表現と同じ価値を持つという理屈につながります。(現代アートの一部はそういう類の表現)
世阿弥を褒め称える文章ばかりを書いてしまいましたが、能なんて全然わからないとおっしゃる方の意見は当然で(そもそも私自身がそうでした 笑)、現代においては、能は共通する美のモデルを持っていない(持つ方が少ない)という事に他なりません。
安吾は「我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。」と語っていますが、認識できる対照を失えば文化の概念モデルも消え、タイムラグはあるもののやがてはその文化が消滅する事は明白です。
つまり、古い表現が消失する場合も新しい表現が発生する場合も、表現者側だけでなく受容者側においても同じ責が担わされているのです。
これは本筋とはちょっと脱線している事なのですが、私のような古い世代の人間がお若い方の表現を鑑賞する際の自戒として記します。
角野氏の演奏や活動を拝見していると、クラシック・ジャズ・ポップスなどのカテゴリを軽快に渡り、完璧に近い美しい音への犠牲も厭わずノイズを響かせ、古典もコピーもオリジナルもこだわりなく音楽として同等に敬意を持って対峙し、即興として演奏することも楽譜に忠実に演奏することもご自身のクオリティーとして決して妥協しないという事なのだと思うのですが、書いた時点でカテゴリに閉じ込めている事になり、書き並べるのが本当に陳腐。
なんというか、カテゴリや物質性やご本人の技術なども含めてさまざまな要因で限界と感じてしまう事がない「リミッターが外れている状態」で、球体のような全方位的な可能性が揺らぎながら(その時々の興味でチャーミングに揺れる感じ)フワーっと広がっているイメージです。
日本文化好きの偏った価値観で考えない方が良いとは思うものの、その多彩な表現性は日本人として角野氏が生まれたことと無関係ではないと思えることが、純粋に嬉しいです。
しかし、育って来られた環境からはほとんど伝統的日本文化の影響は感じられません。親日家として知られるジャン=マルク・ルイサダ師からの影響の方が強い可能性すら感じられますが、その間接性があるからこそ、逆に純粋な日本文化礼賛とは違うグローバルな可能性を持っているのだと思えます。ここが唯一、安吾の「古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない」の説に通じているのかもしれません。なぜなら、そのタイムラグや間接性が表現としてプラスの作用を果たす可能性があるからです。
とはいえ、処女作がまさかあんなに和っぽい曲だったとは…笑
YouTubeにUPされている神童の角野少年の頃ですよね。
一体何があったというのでしょうか?!
私にとっては嬉しい事なのですが、余りにも不思議すぎて、誰かに乗り移られたとか誰かの生まれ変わりとか…それこそオカルティックな話に行ってしまいそうです。笑
<おわりに>
![](https://assets.st-note.com/img/1696435992913-1WVho23iZZ.jpg?width=1200)
(音楽は今も聴いていますが実物は久しぶりに棚奥から出しました)
市販された「Tai Rei Tei Rio」は、神話テキストと音楽CDがセットになった作品で、音楽やテキストとは反するかのようにビジュアルはかなりデジタルっぽい表現になっています。ですが、繰り返し文様はアボリジニやケルト文様など原始的表現に通じますし、CDレーベルや本の文様は原始的なドローイングのままで施されているので、もしかしたらデジタルっぽく見せることで古代と現代の共通性を示しているのもしれません。まあ、勝手な想像ですが。。。
それと、ナイマン氏とともにミニマル・ミュージックのスティーヴ・ライヒ氏「18人の音楽家のための音楽」同様の、繰り返しが続くにもかかわらずに声も含めて絶対的にアナログ表現にこだわる「或る音楽」でのコンサートスタイルは、YouTubeの無い時代において、とても興味深く拝見しました。
私が高木氏を知った頃、私自身が能や民俗学にハマっており、日本的解釈の現代アートの表現(一見して和っぽい表現とは違い、構造性や複雑性が重視されているような表現)とともに、神話や原始的質感・自然観を現代の表現として提示する「Tai Rei Tei Rio」を同じ文脈で受容していました。
今の京都での生活で感じられるという自然に対するリアルな実感などは、まさにアニミズムの影響を受け継いだ日本的文化だと感じますし、私にとって高木氏はもともと「こちら側」の方だったため、冒頭のTwitterの「超絶期待していた組み合わせ」「ハニャ・ラニ氏とのコラボの後」という発言に至った次第です。
最初に書いたとおりに、高木氏のご活動はその時々が点として感じられ、常に追いかけている…という事ではありませんでした。
昨年はたまたまコロナ禍のテレワーク中という事もあり「おかえりモネ」を拝見するに至り(とても繊細で美しいい作品!)そのサントラで久しぶりに高木氏の新作音楽を楽しませて頂いていました(膨大な量なので全曲購入した訳ではないのですが)。でも、それ以上は高木氏の情報に対して何もアプローチをしていなかったのですよね。
そんな中、角野氏ファンの方が高木氏のインタビューをTweetしてくださっていて、とても興味深く拝読させて頂きました。
中でも「あすなろ」が「Marginalia」につながる特別な曲としてお話されていた所が感激!!「あすなろ -息吹-」は本当に大好きな曲で、今再生回数を確認したら106回でした。笑
あと、アン・サリー氏のボーカルは阪神淡路大震災の「満月の夕」への共鳴だと勝手に思っていたのですが、やはり私と同じ気持ちだった!と。
そして、104という数字が特別だったという事も知る事ができました。
「おかえりモネ」が朝ドラとして104番目であるということ。もう一つが、本来「あすなろ」が「Marginalia#104」になるはずだったという事。そして、「おかえりモネ」の後に途絶えていた最初の「Marginalia#104」が、この角野氏との対談を機に生まれたという事。
「おかえりモネ」の1年を挟んで、実に16ヶ月ぶりのマージナリアを録音できました。角野隼斗さんとお話しして、あらためて「窓を開けてみよう」と思い立ちました。寒いからと少しだけ開けてたのが駄目だったようで、思いっきり開けてみると冬のピアノになりました。https://t.co/EMgjAVfTYZ
— 高木正勝 (@TakagiMasakatsu) January 11, 2022
「Marginalia #104」は本当に素晴らしくて、試聴後すぐに購入させていただきました。これも私が自ら検索したのではなく、角野氏ファンの方がRTして下さったお陰で出会えた音楽です。
本当にありがとうございました!!!!
以前のショパンコンクールでのnoteを書く際、とにかく直ぐに書きたい〜!という気持ちが抑えられず、地元情報専用Twitterアカウントに紐付いているnoteに「Tweetしないからそのままでいいか」と書いてしまった所、それをTweetして下さった角野氏ファンの方がいらっしゃいました。
すると、そのTweetから私のアカウントにも通知が入ったのです(noteの紐付は、自分の投稿だけでなく他の方の投稿でも有効らしい)。お陰で角野氏ファンの方との交流も生まれ、そのまま引き続き使うことに。
今回も、衝動的にスタッフさんのアカウントにレスしてしまい(巻き込みが多くて申し訳ありませんでした)何人もの方がイイねして下さったり、レスやフォローして下さる方までもいらっしゃりとても嬉しく思っています。
ただ、アカウント自体が地元情報に限定しているので(フォロワーさんがちょっと特殊なので)、角野氏のご活動については基本ロムとレスのみにさせて頂いている状況です。
今日も大阪のコンサートについて、多くの方がTweetされていらっしゃり、楽しく拝読させて頂いてます。
今後もファンの皆様の盛り上がりを楽しく読ませていただきますので、どうぞよろしくお願いします。
※1/15の深夜に投稿した事もありその後に修正や補足をしています。
<追記1>
○「波」 2022年1月号 対談 川村元気氏・角野隼斗氏
書籍では拝読していなかったので、webで読むまでその内容を知らずにこのnoteを書いたのですが、たまたま高木氏の話題で神話とか民族音楽、サントラの話などで個を超えた表現について書いた所、内容が少し被っているように感じられ、驚きました。
このnoteを書き始めた時に思っていた場所より、すでにもっと先に進まれている様に感じます。
川村元気氏にとっても、あのショパンコンクールの演奏は衝撃的だった様で、氏が角野氏に期待されている所はたぶん私と同じ様な事なのではないかと感じました。いや、著名な作家の方と同じというのは大変おこがましく申し訳無い事だと思うのですが、他の方でたはどり着けない所への可能性が開かれている、という特別な期待感がきっと共通なのだと思います。
それにしても、すでに書店に並んでいる事を考えると結構前のインタビューのはず。一体どんなスピードで走られているのでしょうか。。。
いや…もう、ご健康だけが心配です。
<追記2> ※というか、ちょっと蛇足
年末、角野氏のご活躍(露出)が急に増えとてもお忙しいご様子、妙に不安な気持ちでご健康を祈る様な感覚でした。追記1の最後も同様です。
自分がなぜこんな不安になるのかわからなかったのですが、今日ようやく理解できました。
どうやら、朝日新聞の有料記事の特典とされていた動画「亡き王女のためのパヴァーヌによる即興」を観ていたからです。。。笑
朝日新聞海外版の記事で一般公開され、改めて拝見したので少し自己分析してみます。
書く事でこの馬鹿馬鹿しい不安を客観視できる事と、久しぶりに芸術論的な思考をしたのでその続き、自分の備忘録的として(蛇足ですが)。
どうやら、短命(享年36歳)だった日本画家の菱田春草と無意識的に重ねていた様です。。。
個を超えて(普遍的イメージとして)、日本の伝統的表現と日本的とも言える表象化と明治という新しい時代の表現、それらを全て「完璧に近い美」の場所で実現した、近代においては唯一と思える(私はそう思っている)奇跡の人です。
これが、竹内栖鳳だと西洋の芸術概念に位置する感じですし、横山大観は春草を追って頑張ったけれど奇跡とまではいかないというか、、、
私のような一般人が偉そうに語るなって感じですけれど、春草の重文「落葉」の感動・衝撃は言葉では表せません。
つまり、何が起こっていたのか自己分析すると、、、
角野氏「亡き王女のためのパヴァーヌによる即興」の演奏→ 菱田春草 重文「落葉」のイメージが喚起(無意識、自覚は全く無い) → 角野氏=春草が勝手に重なる → 年末メチャクチャお忙しそうで健康が不安!!!!
って事です。笑
重要な所は、なぜ私が「亡き女王〜」から「落葉」にイメージが繋がったのかです。
しかも改めて動画を観直すまでその事にすらも気づきもしませんでした。
クラシック音楽の知識は全くないので先ほど「亡き王女のためのパヴァーヌ」をwhikipediaで調べたら、「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」「ノスタルジア」と書かれていて、「落葉」の質感とかなり重なる所が多くて自分でもびっくり!!パヴァーヌの意味は今回調べて初めて知ったのですが、古典的な行列舞踊なのだとか。
実は「落葉」に描かれている落ち葉は全然写実ではありません。あんな風に所々リズミカルに落ち葉がある状態は自然界では有りえない。
画面に描かれていない風に散る落ち葉や地で転がり漂うイメージも含めてあの美しい落ち葉の連なりになっています。スケール感としては葉が小さすぎるほどなので、まさに「小さな王女が踊った行列舞踊」に通じる!!!(後から勝手に自分が納得しているだけです 笑)
一方、「ノスタルジア」と「落葉」のイメージの共感性については説明すら不要ですね。
「落葉」の落ち葉は自然界にはありえない描かれ方をしていますが、落ち葉が持つ様々なイメージを内包し、調和した美の世界で響き合っています。非現実的な姿であっても作為やわざとらしさを感じる事はありませんし、誰が見てもわかる具象的日本画の様式のなかで当時新しい遠近表現をも志しています。
この「落葉」を観ながら「亡き女王〜」を聴くと、シューという環境音が風の音に、時おり聞こえるカタカタは描かれている小鳥のさえずりにすら感じるほどです。
本編では説明を放棄してしまいましたが、能で感じる直接的な質感・リアリティと今回経験した感覚は近い気がします。
物語がないので「その場にいる」というような実感には至りませんし、そもそも本来結びつけられるものとして存在する対の作品でもなく、私の中で勝手に結びついてしまっただけです。
でも、勝手に結びついたからこそ「思考や理屈を経ないリアル」と言えるのかもしれません。
とはいえ、人と作品とを混同してしまう所はさすがに問題アリアリですね。。。本編で「棘の道」って書いたのも、多分に春草のイメージなのでしょう。
たしかに、奇跡のような作品(ご本人が作曲・演奏を前提)は、稀有なバランスでしか成立しないことには変わりはないですが、多方面に広がっている可能性の一つでしかありません。もちろん、他の誰も到達し得ない可能性として其れを私は期待していますが、他の様々な音楽で充分にヒットポイントを満たした上で臨んでいただけるのではないか…と思います。
時代的に考えれば、上演芸術であっても完全に個人に帰属する作品として後世へ残す事もできます。極端な話、音楽を保存する新たな技術開発込みでの(共同開発・開発依頼など)作品創作だって角野氏の場合は十分有り得ますから。
と、ほとんど書き終えてページのリンク作業をしていた所、このお二方の人物としてのイメージがなぜ重なってしてしまったのか、その理由に気付いてしまった!!!!
春草ってメッチャ猫好きで多くの猫作品を残しているうえ(特に「黒き猫」の重文指定は当時家畜でしかなかった猫を主題とした歴史的意義も含まれると言われる)、お顔立ち(特に目元)も似ていると思いません?(違うと思われる方もいらっしゃるでしょうが、あくまでも私の中で起きた連想なのでお許しを)
それらの事が作品の質感とともに無意識的に私の中で結びついてしまったのでしょうね。
人間の勝手な連想って何が原因なのか本人にもわかっていないという事がよくわかりました。
気をつけないと、ちょっとコワイことになりそうですね。。。
ということで、蛇足はこれでおわり。
<追記3>
角野氏が山形でのコンサートに向かわれる道中、アレクシス・フレンチ氏の音楽とともに車窓の雪景色をストーリーズにアップされていました。
インスタの使い方自体がよくわかっておらず、「音楽を保存」としても途中までしかできませんし、ご本人のアカウントに飛んでも英語がわからず他の方の演奏も並んでいて何が何だか、、、
そんな時に角野氏ファンの方がアレクシス・フレンチ氏の音楽解説の記事を2つTwitterで投稿して下さいました。
今回、角野氏ファンの方々にいろいろな情報を教えて頂いて、嬉しい事ばかりです。本当にありがとうございます。
で、そこから、アルバム「Dreamland」「Evolution」を試聴してみたら…もう、全てが好み!!!
しかもDreamlandに関する解説では、私がこのページで小難しい言葉とともに「(意味を捨てない)抽象」や「環境」などを繰り返しながら説明できなかった事が、誰にでもわかるようにシンプルに説明されていました。
普通の音楽評ではないかも…と思ったら、音楽だけでなく文芸もご専門とされる大学教授の方が書かれた様です。肩書きに諂うつもりはなですが、私のように音楽以上にそこから生成されるイメージに興味を持つ者としては、本当にありがたい解説でした。
一方、Evolutionの解説は、その音楽を受容した側に起きるイメージ構造を具体的に示していて、ここで何度も「リアルな感覚」と書いていた事と同類です。どちらも私が求めていたものでした。
(こういう風に自然に自由に書くにはきちんとした勉強が必要なのでしょうが、自分は余りにも基礎学力が欠落しているので…)
アレクシス・フレンチ氏が日本的だなんて馬鹿げた事を書くつもりは全くありませんが、私がここで書こうとしていた事とは共通する部分がとても大きいと感じました。
この思考自体が角野氏のアクションを媒介にしているのですから共通項があって当然、特別な事でないですし、また、私が好きなものが古典的日本文化に多いというだけであって、日本文化の特別性を語ることや日本的である事に必然性もありません(ファン心理として自分が好きなものに勝手に紐付けて必然性なのでは?と喜んでいる部分が多分にあります)。しかも、私にとってそれらを語る方法が日本文化に頼る事でしか果たせなかったというだけなのです。ここで書いた事の不足を補う意味でも、本当に素晴らしい「解説」を教えて頂いたと思っています。
早速ご紹介の記事にあったアルバム2つをDL購入しましたが、英語が全然わからないのが残念でなりません。
Evolutionの解説にあるように、そのテキストの言葉を見ながらよりイメージを広げて音楽を聴けたら、どれ程素晴らしい世界が広がっているのでしょうか。本当に残念です。
1/20は「かてぃんチャンネル」登録者90万人とのこと、おめでとうございました!
※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略