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【RP】〜神に抗うのは悪魔か自然か人間か?〜「PPT第157回定期演奏会」を中心に

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

<はじめに>

すでに角野隼斗氏は次のコンサートを2つも終えられ、場違い感もあるなかでの投稿です。
今回もコンサートを中心にしつつ、関わりがあるテーマの方をメインタイトルにしました。
一つ前の小曽根真ジャズ・ライブfeaturing 松井秀太郎」「直前の雑感」とした6/2の角野隼斗氏の「かてぃんラボ(有料コンテンツ)」からのつながりで一緒すべきか迷っていたため、その投稿すらこのPPTのコンサートが終了してからに。
ですから、これを書き始めた時点ではラボ内容からのものはこちらに全て書くつもりだったのですが…コンサートに関わるものだけでも26,000字を超える長文となってしまい、結局「PPT第157回定期演奏会」だけに絞りました。
つまり、最初にラボを観て「書こう」と思ったことはどんどんと後回しになり、結局このnoteにも書けなかったという事。泣
いくつか「匂わせ」だけになっているのはそのためです。すみません。

当日は開演直前に電車が遅延したそうで、開演を遅らせるべく飯森範親マエストロによる前説がありました。
この日は氏が尊敬する「アルプス交響曲」作曲者のR・シュトラウスの誕生日であり、来年は生誕160年とのこと。
また、「悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?(以下悪魔〜)」はアデスの時とは難しさが違う、リズムをオーケストラと合わせないといけない難しさがあること、終わり方が不思議なので感想を投稿して欲しいともおっしゃっていました。
「アルプス交響曲」については、ドイツのアルプスで飯森マエストロご自身も登っていらっしゃると事、作曲家本人が14歳の頃に実際に登山をした経験をもとに作られていること、スコット隊の南極到達やマーラー第一次世界大戦やニーチェの思想回帰などの影響を語られていました。

【悪 魔】

<ジョン・アダムズ:「Must the Devil Have All the Good Tunes?(悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?)」>

予習としてSpotifyでユジャ・ワン氏のリリース音源を聴き、かてぃんラボ(有料コンテンツ)「John Adamsの音楽に感じるジャズとの関連性 - "Must The Devil Have All The Good Tunes?"」を参考にしました。
要約は角野氏によりnoteに掲載されています。

また、飯森氏と角野氏の対談も事前に公開されていました。

○第1楽章 Gritty, funky, but in strict tempo, Twitchy, bot-like
冒頭の部分、ワン氏の演奏との違いを大きく感じたのは、和音全体が一塊の響きにに感じられた事。
音響が悪くてモヤモヤしているのではなく、角野noteに記載されているように「ハーモニーにメロディが付随している」=ハーモニーの印象が強く感じられたのだと思われます。
リズム良く刻んではいるのですが、1回の打鍵から次の打鍵に移っても前の音の印象が残っている感じです。
また、ワン氏は最初からズンズン進んでいくのですが、角野氏の場合はまず悪魔が起き出して、そこに弦が入るところからのっそり動き始める…という展開が感じられる表現でした。
同じハーモニー&リズムの平行移動の繰り返しにも関わらず、モチーフが繰り返されるごとに「悪魔がもっそり起き上がった」「ゆったり立ち上がった」「いよいよ歩き出した」「これから飛ぶ前兆」というように、徐々に前進性・ドライブ感・タメ感が増していくのです。
たぶん、ハーモニーとリズムのバランスを、最初はハーモニーが強く後半はリズムが強い表現にされていたのでしょう。
冒頭の9拍子について、初演時の解説では4分の4拍子と8分の1拍子と紹介され「最後の句読点のような余分な1拍が、調子が狂い、よろめいている印象を与える。」とあるのですが、ワン氏の音源も含めて私の印象とは全く違うのです。
たぶんですが…これは音楽を鑑賞した感覚ではなく(初演の前に書かれた可能性もあり)、きっと楽譜を読んで解釈しているに過ぎないと思うのですよね。楽譜が読めない素人が偉そうに書いて申し訳ないのですが。。。
私としては8分音符の2・2・2・3=9拍子で、それぞれフレーズの区切りとしても成立しているため、ワルツの3拍子目がゆったりしている感覚やジャズのテンポの揺らぎの様に認識すれば、ノリのある4拍子に聴こえてくるのです。
と考えると…対談で角野氏が語られている「序盤から四つ打ちのビートが聞こえてきた」という言葉の意味が理解できるはずです。
逆に言えば、そう捉えないと意味不明な「四つ打ち」なのです。
そして、その最後の4拍子目のゆったり感・もったり感こそが「起き上がった」「立ち上がった」「歩き出した」というような、次の行為への前兆を感じさせる効果になっています。
それらが、変拍子として刻まれたリズムなのか、みなし的な揺らぎのある4拍子として感じられるのか、危うい感覚で迫ってくる所にこの曲の現代音楽としての真価があるように私は感じます。
変拍子の分割をメロディによって危うさのある四つ打ち感を与えているところがこの作曲の凄い所かと。。。
また、アルムグロッケン(ガムランのような金属打楽器の音)を打つタイミングがめっちゃカッコ良かった!!!
この方は絶対ジャズも演奏されると思います。笑
ちょっと後ノリっぽく微妙にタイミングを揺らすのです!
他の楽器や(指揮の後ろで見えない)後の楽章の時はジャストで演奏されていたので、楽器の効果として角野氏の揺らいだ四つ打ち感に合わせられたのかな…と。
中盤テンポが早まるところからは、蠢く小悪魔のような存在を感じたり、不気味な切迫感が増していきます。
やがて一つの方向性をもって世界が突き動かされていきますが、この部分では明らかにジャズ的なタメのようなもの・コシのあるリズムを感じて体が揺れてしまう!!笑
かと思うと…今度は何かが爆ぜたかのような音が聴こえてきたり。。。
やがて管楽器のファンファーレのような「一声」の後にスーッと全体が収束すると、不穏が空気を第2楽章へと引き継がれていきます。
(楽章間に切れ目はありませんが便宜上分けます)

○第2楽章 Much slower, gently, relaxed
冒頭のピアノの部分、薄暗い洞窟の壁面からポタポタ・ヒタヒタと雫が垂れているようなイメージ。
高音の弦の音に対して低音のエレキベースは電気的に引き伸ばされた時空的な歪みのような違和感。
ピアノからは水のような弱い高音と悪魔の影のような低音が絡まり合っていますが、それがなんとも言えず妖艶で本当に美しく、背徳感すら感じる美にただただ沈んでいくのです。
すると目の前に突然、ぶわーーーーと高校の時に1度だけ観たヴィスコンティ監督「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の洞窟のイメージが浮かんできたのです!!!!
当時、背伸びをして観たのでストーリーもほとんど覚えておらず、これまで思い出す事すらなかったのに。。。(詳しくは後述)
これはワン氏の演奏からは全く感じない質感とイメージでした。
そして、こうなるともう…音楽がどうだったのかという詳細は覚えていないのです。
鑑賞が別モードに入ったというかなんというか…

○第3楽章 Piu mosso: Obsession / Swing
当初この楽章のテーマを知らずにいて、飯森氏と角野氏の対談を読み「えええ?スウィング?」と驚いてしまいました。
ワン氏の演奏からはどうしてもスウィング感が得られなかったからです。
私が思っているスウィングは重心は左右に振られて捻れる「∞ 横8の字」なのです。
ワン氏の場合は第1楽章同様のドライブ感はあるのですが、左右に振れる感じ・捻り的なもの・タメが入る様な感覚はほとんどありません。
角野氏の演奏はもちろん、第2楽章の終わりから小さな歩みが軽やかに感じられるスウィングでした。
しかも対談では「まったく楽しくない」と書かれているにも関わらず、浮き立つような身体的な心地良さがあることで、楽しいまではいかないまでも不穏な曲調に対し相反する複雑で豊かなイメージや質感が感じられるのです。
実は冒頭に一つ前のnoteとつながりがある部分と書いたのは、まさにここ!
小曽根真氏が4/21にリリースされた「A Night in Tokyo (Live at Bunkamura Orchard Hall 2013)」の2曲目「My Witch‘s Blue」です。

この曲、冒頭は三拍子+所々変拍子が入る曲です。
で、コンサートで流れてきた瞬間に「プロコフィエフ 2番 第3楽章で欲しかった質感、ちょっと鬱屈としたメロディと右足と左足に交互に体重移動しながらヒョコヒョコ弾むリズムの組み合わせはまさにコレ!と気づきました。
重要なのは、右左で∞ねじれ感のある軽やかな質感ということ。

「小曽根真ジャズ・ライブfeaturing 松井秀太郎」〜直前の雑感とともに〜

これって、まさに私が感じていたスウィングの質感だったのです。
第3楽章を聴きながら、あああ!!と、笑ってしまいました。。。
ちなみに、スウィング自体は特定のリズムを事を指すので、ワン氏の表現でもスウィングはスウィングですし、小曽根氏のこの曲はスウィングではありません。
ですが、6/24の「題名のない音楽会」での解説でも「スウィングとは揺れるようなリズム」と説明があったように質感も重視されている訳で、私が問題にしているのはあくまでも質感・体感の方です。
この小曽根氏の曲タイトルが「Witch=魔女」となっているように、ちょっと怪しげで左右にバランスを振りながら軽やかな進んでいく感覚は「悪魔は〜」の第3楽章の最後のスウィングによる行進イメージにまさにバッチリはまったのです!
ちなみに、これらは後で「そういうことだったのか!」とたどり着いた答えでしかなく、実際にはラボがらみで「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番」を聴いた時点から「モデルとなるリズムの質感」がイメージとして涌き出ていただけ、最初にプロコフィエフの演奏を聴いた時に「それがない、、、」という漠然とした不足感として認識しただけのものです(これ以上は長文になるため、次回noteに譲ります)。

後半リズムが複雑になり、ワン氏の演奏ではガンガンに盛り上がるところも実はボリュームは少し抑え気味、決して軽やかさ・浮遊感を失わない表現でした。
メトリックモジュレーションやシンコペーション、スウィングのモチーフの間に混ざってくる所が絶妙な拮抗感。
しかも、ピアノとオーケストラとがポリリズム的に拍子が分かれている部分、ピアノのリズムがメインかと思っていたら…指揮をみると逆・オーケストラがメインだったのです。笑
どちらが主副かわからない緊張感・カオス味が増した表現はより悪魔的な表現でもあり、現代音楽的な曲としての面白みも感じられました。

サントリーホール10列のほぼ中央という神席で、この素晴らしい曲・演奏が聴けたことは、本当に幸運でしかありません。
大人数の迫力あるオーケストラに掻き消されることなく、繊細かつ迫力あるピアノの音が堪能でき心から感謝!!!
唯一残念な事は、ホンキートング調の演奏はアップライトピアノの影で見えなかったこと、「この部分で響いているかも…」という程度の認識しかできなかったことです。
ただ、単独としてホンキートングの音を音楽として用いているというよりも、ストリングスやグランドピアノに対して「響き」をプラスしている効果として使われていた様に思われます。

飯森マエストロが不思議に思われていた「曲の終わり方」については、「ハーメルンの笛吹男」がテーマに感じられ、下記の様にTweetしています。

角野氏の演奏で時々起きる驚き 元の神話や寓意がわかる
アダムズの終わり方、どうしてもハーメルンの笛吹男にしか思えずwikiで調べたら画像の通り。ユジャ・ワン氏では感じず角野氏もご存知ないはずですが、作曲時の着想としては可能性大かと。

補足)死の舞踏が着想にある事はアダムズ氏より語られていますが、飯森氏が不思議な終わり方のへの感想を、との事。
ハーメルン〜は大人が教会に行っている間に子供達が行方不明になった話なので曲の終わり方に一致します。
#飯森範親
#角野隼斗
#PPT
#日本センチュリー

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 6/11

その後、私と同じ様に「ハーメルンの笛吹男」を感じられた方とのやりとりが下記となります。

おおお!やはり!そう感じますよね。同じ様に感じられた方がいらっしゃってうれしいです。行進だけでも同じ様に感じてましたが、最後の鐘の音とその消えるシーンでもう確定!と思ってしまいました。

実は角野氏の演奏で、私はこういう事を度々経験しています。あまりにも確信に至るので神話を掘ると当たってる。先ほどにもジャズの事を書きましたが、今回のハーメルンに至る理由の一つ、私はスウィング感にあると思ってます。

スウィングは楽しげな浮き立つリズムで軽やかさも必要としますが、ユジャ・ワン氏の演奏には本来の軽やかさがほとんど感じられないのに対し、角野氏はジャズ本来の質感も残されていて、この軽やかさが子供のイメージ、不気味さも漂いつつも惹きつけられ付いていってしまう感覚に私は直結しました。

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 6/11

飯森マエストロが「不思議な終わり方」とおっしゃる箇所は、おもむろに鳴った鐘の音で行進が途切れる事ではないかと思われます。
「ハーメルン〜」で子供たちがいなくなったのは大人たちが教会に行っている間だったので、象徴的な鐘の音で終わることが物語の描写に一致します。
上記のwikipediaの引用では「死の舞踏」の絵画テーマの関連性を「笛吹男」との関わりだけで書いていますが、実はネズミにも関わりがあります。
ハーメルンの笛吹男(Wikipedia)」では、この実話伝承の物語にネズミが加わったのは後世であり、当然ながらペストと関わりがあるのです。
(上記のwikipediaには書いてありませんが、通説として普及しているので、ペストとハーメルンで検索すると大量ヒットします)
ヨーロッパにおける身分制度の頂点は国の王よりも教皇や法皇ですから、ペストによってもたらされた身分制度を崩壊させる「意識革命」であるならば、平等によって崩壊するのは教会(システム)で、死神こそが神の秩序を崩壊させる意味として捉えられます。
「死の舞踏」では身分の平等性が示されていましたが、「ハーメルン〜」の終わり方になると、もっと強い教会という統治システムへの抵抗が感じられます。
さらに言えば、「笛吹男」は前々回のnoteに書いたトリックスターでもあると言えるでしょう。
最後は洞窟の中に消えていく物語であるところも、第2楽章に私が感じたイメージに繋がっているのですが、それについては後述します。

※ソリストアンコールについて書最後の項に記載


<悪魔の正体は何か?>

この見出に驚かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私がたまたま目にした記事を引用したタイトルでしかないのに、その「悪魔」の正体を探るなんて馬鹿げていると。笑
ですが、第2楽章のイメージを元に、真面目に悪魔の正体を探りました。
鑑賞で得たイメージが鮮明で具体的だった場合、「自分は知らないのに、調べたらそうだった!」という事が割と高確率で起きる事があり、今回もまさにその感覚が訪れたのです。
ちなみに、悪魔の正体が「ハーメルンの笛吹男」ではちょっと弱く、これは第3楽章のテーマとして引用されているものとして捉えます。
そこから、各章にテーマ的な引用モチーフがあるという考え方を導き、第2楽章は洞窟のイメージから発生したモチーフを探ります。
第1楽章は、ジャズの超スタンダード曲をレジェンドピアニストがお得意アレンジとしていた部分を偶然聴いていて、もしかしてそれでは?!となりました。(後述)
では、時系列順に追っていきます。

○「ルートヴィヒ2世」について調べる
ヴィスコンティ「ルートヴィヒ 神々の黄昏」は18世紀のドイツバエルン地方に実在した王ルートヴィヒ2世を描いた映画です。
私のかすかな記憶だと、自分が好きな芸術(耽美で退廃的なもの)を収集するため湯水の様にお金を使った王なので、このタイトルに近い「全ての芸術をその手におさめようとした」人です。
Wikipediaで両方を確認してみると「ワーグナー」に心酔していた事がかかれていました。
これは何か関わりがあるかも〜!!!

○ワーグナーの作品に、似た様な曲や主題になるものがないかチェックする
Spotifyは人気順に表示されるのですが、たしかに他の作曲家に比べて「行進曲」的なものが多い様です。
  ワルキューレの騎行
  エルザの大聖堂への行進
  タンホイザーより入場の行進曲(祝祭行進曲)
  結婚行進曲(ローエングリンより)
  アイーダ 凱旋行進曲
  ジークフリートの葬送行進曲‥‥‥
曲の知識がないので、とりあえず流しっぱなしにしていたら…思わぬ事が!!(ちょっと脱線)
なんと、「トリスタンとイゾルデ:第3幕愛の死」と表示されているのに、ガーシュウィン:ピアノコンチェルトin Fが聴こえてくるではないですか?!

カスタマーサービスに連絡し「バグを認識した」とのことですが、まだ直っていませんね。。。苦笑
他のものどうやら違っているようで、曲名は知りませんが、「葬送行進曲」なのに、めっちゃ明るいジャズの曲が流れてきて爆笑したり。。。
ちなみに、この日はボストンポップスのアメリカ公演でも角野氏がゲストソリストとして演奏される事が発表された日だったのです。
曲名は発表されていませんが、日本と同じならガーシュウィン=inFとなるので、私の怨念ではなく幸福なシンクロニシティだと信じたい!
すみません。話がそれました。。。
ということで、Spotifyでワーグナーを聴いてはみたものの元の知識がないので新たな展開も生まれず、もちろん共通項を発見することもできるはずもなく、このアプローチは断念しました。

○映画に使用されていた洞窟を検索する
「ルートヴィヒ2世 洞窟」で画像検索すると、出てきました!私がイメージした洞窟が!
ワーグナー「タンホイザー」のヴィーナスの洞窟をルードヴィヒ2世が再現したものであることが判明しました。

ただし、映画ではこの劇場に仕立てた洞窟から外の湖に水路が通じている自然の洞窟も映されていて、ゴツゴツとした暗い洞窟部分が冒頭や終わりなど所々に象徴的に用いられていた記憶があるのです。
この劇場洞窟もライティングが落とされたシーンが死の直前にあった様な、、、(本当にうろ覚え)
私にとっての第2楽章は、この妖艶な美しさと人を寄せ付けない冷たいモノクロームのゴツゴツした洞窟とが二重写しになったイメージです。
ちなみに、ルードヴィヒ2世はこの洞窟の水が流れ込んでいる湖で水死体として発見され、今もその死因は特定されていません。

ワーグナー「タンホイザー」を調べる
調べるといっても、Wikipediaでちょこっと検索する程度でしかありませんが、ワーグナーは音楽だけでなく歌劇の台本も自分書いていた、神話を題材にしたものが多いことがわかりました。
「タンホイザー」の官能・愛欲の世界に溺れるという部分、ルードヴィヒの為に作曲したという「パルジファル」にも通じています。
どちらも複数の伝承や神話を合わせて作り上げている部分などは、能の構成にも似ている気がします。
つまり、物語の軸はプロットの整合性にあるのではなく、イメージの結びつき(原始的な物語に多い)にあるということです。
ただ、キリスト教の根源はインドにあるというワーグナー独自の宗教観、そこからユダヤ教・ユダヤ人を排除する思想に辿り着くところなど、あまりにも非論理的すぎて今でいうオカルトマニアっぽい。。。
以前「私観:二項対立を超えた〜」で紹介していた「バタフライエフェクト」でのエルサレムのコンサートでのトラブルはワーグナーだった事を思い出しました。
そして「タンホイザー」が、実はシュトラウスにも関わりがあることも思い出したのですが、それは後述。

○アダムズ氏とワーグナーの関連を検索する
それぞれの関係性・知識がストックでき、私の中では悪魔のイメージが段々と具体的になってきました。
全ての芸術を収集しようとした欲深いルートヴィヒ2世と、このルードヴィヒ2世すらも利用して自分の芸術表現に突き進んだワーグナー。
この二人が表裏一体となったイメージが私の中の「悪魔」です。
ただし、これは「悪魔は〜」を聴いた私がイメージするものでしかなく、アダムズ氏がそれをイメージしていたかどうかとは全くの別問題。
私が勝手に思うことは観者の自由として保証されますが、曲の解釈としては悪魔を特定するには至りません。
アダムズ氏とワーグナーがこの曲と関連があるという論拠、二つを結びつけるものが必要なのです。
果たして、私がイメージした「悪魔」とアダムズ氏が想定しただろう「悪魔」とどこまで一致・関連するのか、、、
いよいよアダムズ氏とワーグナーの関係を確認するところまできました。

英語で二人の名前を検索したら……
なんと最初のヒットで大ビンゴ!!!!!!!笑

Tweetの日本語訳

ワーグナーに関する本の書評をアダムズ氏が書かれているのですが、最初の一文「WAS RICHARD WAGNER A SUPERSPREADER?」には「集める」の対義に該当する「SPREADER=拡散者」が用いられ、さらに末尾は「?」が使われています。
(コロナウィルスの拡散でスーパースプレッダーの存在が話題になった頃でもある)
Tweetの日付は「再投稿」とされおり、元の投稿は9/16。
「悪魔は〜」初演から10ヶ月後・音源リリースから4ヶ月後ですから、まだ制作時の記憶が鮮明なはずです。
このTweetからリンクに飛ぶと会員登録が促されるポップアップでテキストが読めないのですが、スタイルシートを外すことで読むことができます。
(有料会員ページを違法的に覗き見るのではなく、ログイン・会員登録を促すポップアップなのでテキストと画像表示のみにすれば解除される)

ページ全体をGoogke翻訳した日本語はこちらから

<7/4補足>
【PC】
スタイルシートを外してください
●firefox=表示→スタイルシートを使用しない で長文が読めます。
●Chrome=機能拡張「CSS無効化くん」を入れるのが簡単ですが、途中まで(半分位)のショートバージョンが読めます。
原文を読もうとすると、firefoxでも半分しか読めません。(要約版と全文の違い?)
後半が特に重要なのですが、英語で長文を読む場合はfire foxで日本語訳のページでテキスト(日本語訳)を選択することで原文を確認することが可能です。

【スマホ】
ブラウザアプリで「リーダー表示」にしてください。
日本語訳にされる場合は改めて設定なさってください。
ショートバージョンが読めます。

この書評のタイトルが
「ジョージ・エリオットからネオナチ・スキンヘッズまで:リチャード・ワーグナーの混沌とし​​たカルト」
対象の本が
「ワグネリズム 音楽の影にある芸術と政治 」アレックス・ロス著

アダムズ氏はワーグナーをカオス/カルトだと認識していますが、そのイメージはまさに私が抱く悪魔に通じています。
また、冒頭にワーグナーの凄さについて著名人のお墨付きを紹介する箇所があるのですが、なんとなんと、レヴィ=ストロースが登場してるのです!!!
「人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、彼を「神話の構造分析の議論の余地のない父」と認めました。」
また、この書評ではシニフィエ/シニフィアンを用いて構造的な思考を展開されています。
なんか私と同類=「レヴィ=ストロース好き」な匂いがする。。。笑

アダムズ氏が書かれているワーグナーの「革命」への意識は、この曲で扱われている「死の舞踏」への関わりにも通じます。
また、ワーグナーはフランス人でありWikipediaの記述でもそれほどまで重要視されていないにも関わらず、ここではドイツや神話との関係性に多くが割かれています。
それらを総合すると、ワーグナーの生涯を網羅する視点で書かれた書評というよりも、「悪魔は〜」の経験をふまえた(ドイツとの関わりにある)ワーグナーへの視点と考えられ、この書評と「悪魔は〜」とは関連性が有ると考えられるのです。

ロスがワーグナーの「神話の操作」と呼んだものによって、ワーグナーは、個々の芸術形式だけでは刺激できなかった集合的無意識の反応を呼び起こすことができました。「神話の比類のない点は、それが常に真実であるということです」とワーグナーは音楽と演劇に関する思索的なエッセイの1つで書いています。「そしてその内容は、最大限の圧縮によって、いつの時代も無尽蔵である。」彼の天才は、私たち一人ひとりにとって「常に真実」でありながら、次の人にとっては異なる方法で、私たちの神話的潜在意識を利用することでした。「巨獣は聞く者それぞれの耳元で異なる秘密をささやきます。

この部分は、まさに神話でしか成立し得ない物語の構造が書かれています。
英語のニュアンスはわかりませんが、物語の骨格を整合性ではなく「集合的無意識の反応を呼び起こすこと」に置いているのです。
まさにレヴィ=ストロースの神話構造ですし、「私たち一人ひとりにとって常に真実」」という書かれ方は、主観に重きを置き一人一人がそのイメージを表現から受け取るナラティブアプローチにも通じます。

その一方で、ロングバージョン後半ではナチスドイツとの関わりに対しても注意深く(誤解を招かないように)書かれ、末尾のアダムズ氏ご自身のプロフィールも「ニクソン・イン・チャイナ」、「ドクター・アトミック」など戦争にかかわる作品を掲載するなど、氏の社会問題への意識の高さを感じます。
そもそも、この「悪魔は〜」は雑誌《ニューヨーカー》のドロシー・デイ(社会活動家)に関する記事の中のフレーズに由来とのことなので、ある種の社会的なアイロニーを含んだ作品だと考えられる訳です。
そう考えれれば、「ハーメルン〜」や「死の舞踏」というモチーフの引用が社会的意味としてもこの曲に相応しいことが理解できるのです。
すべてに共通することは、両義的で一つの答に統一できない価値観や概念がカオス的に混在し主観による相対的な視点で認識されていることです。
大量の死者を出したペストは死神なのか人類を新たな世界観に導いた存在なのか。
「ハーメルン〜」は子ども達が消えて不幸なのか、教会に対抗できる存在を知らしめたのか。
ワーグナーからは、人類の真実を含む複雑な神話の世界を芸術で表現しつつ、ユダヤ人を排除する特異な悪魔的イデオロギーが見出せます。

また、ワーグナーの芸術性は退廃的な美を好んだルードヴィヒ2世の趣味には合っているとは思うものの、退廃芸術を排除したナチスには受け入れられない類だとも思えるのですが…実際はヒットラーに愛されナチスに利用されています。
英雄的な音楽表現がヒットラーに好まれたのかもしれませんし、ゲルマン民族の優位性・ユダヤ人排斥の正当性を利用しようとしただけかもしれません。
権力者は理屈が矛盾していても人々を同期させる強い力を求めていたはずですから。
いずれにしても、芸術や神話が戦争に都合良く用いられたのは日本でも同じで、多面的で整合性・一貫性が欠如している分、都合の良い部分だけを拾うことは容易なのです。

また、私が「悪魔の正体」について探る気になったのは、アダムズ氏が社会に対して興味ある姿勢を示していたこと、実際に戦争や政治に関するテーマを作品にされていた事を事前情報として得ていたことも大きな理由です。
「死の舞踏」を作品テーマとして語られた時点で、背景にはリストの引用ではない「何かしらの社会性」が潜んでいることが予想できたからです。
前述している「悪魔は〜」の初演時の解説にはルターによるドイツの宗教改革に結びつけてつけたタイトルだったことがアダムズ氏の言葉として紹介されています(やはり全てがドイツ絡み)。
ここからも、教皇・法皇を頂点とした教会システムへのカンター要素が読み取れるのです。

上記の動画は角野氏ファンの方がTweetしてくださっていたものです。
興味深いお話ばかりですが、特に印象に残るエピソードは、民族性やその文化を作品に用いたバルトークへのリスペクト。
バルトークの音楽性を音楽理論として捉えるているのではなく、構造的に自身のアメリカでの立場に置き換えている部分です。
類似性を構造的に捉える手法はまさにレヴィ=ストロースの構造主義的解釈。
その姿勢は、「悪魔〜」をドイツ文化との関わりで捉えているだろうことにも繋がりますし、意味以上に体感的なリズム/グルーヴ/エネルギーを重視しているだろうことにも通じます。
また、ピアノを弾けないことこそが氏の作曲家としてのDNAであるとおっしゃっている所では、音楽にとどまらない広い視野こそが自身の作曲家としての個性であるとおっしゃっているようにも感じられました。

そう考えてくると人類における二大意識革命であるもう一つの問題もこの曲の中に隠れている可能性があるのでは?と。。。
二つのうち一つはペストによる平等性への意識、これは「ハーメルン〜」がモチーフ。
もう一つは産業革命で、これによって人間は神の如く地球上の生き物の頂点として、やがて神すらも凌駕する存在に向かって行く訳です。
そう考えると冒頭の9拍子の部分からは機関車のイメージが感じられ、所々汽笛を模したような音も聴こえてくるのです。機関車こそが産業革命の象徴ですから。
ちなみに、産業革命の萌芽として周知されているのが16世紀ドイツニュルンベルクで発明された印刷技術、ここでもまたドイツ繋がりが…笑
実は、全然別の理由でとある曲を聴いていたところ、モチーフの捉え方によっては聴こえ方が違ってきたので、おおお!!!という思い至り、それが「悪魔は〜」の第1楽章にも似ている!となったのです。
これが前述した「ジャズの超スタンダード曲をレジェンドピアニスト」と書いた所です。
具体的にどの曲を聴いてそう思ったのかというのは、偶然による「わらしべ長者」のような状況で長い説明を要するため、次のnoteに書く事にしました。すみません。

ちなみに、この冒頭の機関車的質感は角野氏の演奏よりもワン氏の演奏の方がわかりやすいです。
角野氏はより有機的な蠢く質感があったので、機関車そのものよりも機関車を比喩とした悪魔、複層化されたイメージとして感じられます。
知っていれば辿り着けるけど知らなければわからない…みたいなもので、イメージはより豊かに広がるのですが、知らないと(とりつく島が無いと)辿り着けない表現とも言えます(これが能が難解と言われる所以)。
洗練化でもあり共同体内でイメージが共有される表現(それが神話的という意味でもある)ですが、そこを誰もがわかりやすい質感とレイヤー化させることでそれぞれの楽しみ方ができる表現に至らしめるのが角野氏の真骨頂といえるかもしれません。

そして、これほどまでに「悪魔は〜」からドイツの影響が見えてくると、一見無関係に思われた「アルプス交響曲」ともドイツ的な繋がりでプログラムが組まれた可能性が考えられるのです。
飯森マエストロがドイツで研鑽を積まれた事、以前のPPTの公演でも趣向として全体のプログラムを組まれていた事を考えれば、誕生日公演になるシュトラウスの「アルプス交響曲」に対し、単に角野氏に合いそうな現代音楽・日本人の演奏としては初めてになるという以上の何かがあるのではないか…と。
「タンホイザー」が「ルードヴィヒ2世」のイメージから出てきた時、シュトラウスをWikipediaでに書かれていたことを思い出したのですが、オペラ歌手だった奥様を「タンホイザー」のステージで見染められていたらしく、シュトラウスのお誕生日にちなんだちょっとした趣向という程度で当初は考えていました。
が、ワーグナーがドイツや戦争に関わりが深い事がわかると、もっと深い部分まで共通項を認識されていらっしゃた可能性を感じる訳です。
前説では「アルプス交響曲」の話題でニーチェが出てきましたし、たぶんこのアダムズ氏の書評はお読みになっているだろうことまでも推測できるので。(英語がわからない私が検索して最初にヒット位ですから)

ではなぜ、飯森マエストロは「悪魔は〜」の終わり方に疑問を持たれたのか。。。
死の舞踏」という絵画テーマ=美術史・文化史的解釈には馴染みがなかっただろう事と、「ハーメルン〜」の終わり方に対して教会の鐘の音を連想する所まで詳細にはご存知なかった事が考えられます。
多くの方は粗筋で知ったつもりになっていますし、話のバージョンが数多くありますから。
この終わり方だからこそ「ハーメルン〜」が「死の舞踏」に通じ、それらが宗教に対するアンチテーゼとして認識できる以上、逆にそのイメージがなければ「不思議な終わり方」になってしまうということです。

また、もしこのプログラムを飯森マエストロが関連性のある趣向として組まれたのであれば、あの第2楽章の「タンホイザー」に通じる妖艶な美しさは、きっと飯森マエストロ主導の解釈だったと考えられます。
角野氏ファンとしてはつい角野氏の表現性に意識が向いてしまいがちですが、角野氏がワーグナーのオペラについてそこまで深く理解されているとは思えません。
飯森氏の解釈だからこそ、私は「ルードヴィヒ〜」のあのシーンが鮮明に浮かんできたのだと思うのです(もちろん、指揮者の表現意図を豊かに再現できる素晴らしさは前提として)。
そして第3楽章は、角野氏の真骨頂とも言えるスウィングによって、音楽的解釈云々ではなくその身体的な感覚から「ハーメルン〜」に辿り着いた訳です。
角野氏によるJazzyなピアノとで現代音楽としてのオーケストラとの拮抗するカオス的な表現性は、アデス氏「ピアノと管弦楽のための協奏曲」での質感(グルーヴより世界観としての調和が重視されていた)を考えると飯森マエストロのバランス感覚に依るところが大きいのではないでしょうか。
最後に残った第1楽章の機関車モチーフは、コンサート前後の偶然の産物でもあり、私の推論としては「そういう可能性がある」という程度のもの。
ここに書いたその他の関係性に比べれば最も可能性が低い扱いです。

ちなみに、またもやnoteを書いていてシンクロニシティが起きました!笑
6/16に公開された「【厳選クラシックちゃんねる × 蔦谷好位置】コラボ第二弾」で、ワーグナーのサイコパスぶりとニーチェの関係などが語られています。
これを観るとさらなるワーグナーの悪魔っぷりが実感できますね。(下記秒数指定済)

ここに書いた「悪魔」の存在全てに通底しているのは、ピラミッドの様に一つの頂点・一つの真実を持たず、両義的・多面的であり混沌とした状態にある事です。
実は、それはまさに「自然」そのものでもあるのです。


【自 然】

<リヒャウト・シュトラウス:「アルプス交響曲」>

昨年のこと、この曲を地元のコンサートでお聴きになった角野氏ファンの方から感動した旨をお伺いしていたので、「アルプス交響曲」が聴けるのを楽しみにしていました。
が、事前にSpotifyでの演奏を聴いても全く頭に入ってこないのです。
コンサート2週間前の時点、「悪魔は〜」よりもこの曲を中心に聴いていたのですが…自分には相性が悪い曲だと諦める事にしました。
するとNHKEテレで放送されることをファンの皆様のTweetで知り、視覚情報が入れば理解できるかも?!と。
ところが、この動画の場合は観ている(聴いている)のも辛く、最後まで完走すらできませんでした。
何がどう違うのか当初はわからなかったのですが、この指揮者の方のコメントにそのヒントがありました。
この曲の解釈として、自然の写実表現であることを否定され、人生経験等人間の問題に置き換える表現であるべき…という様な解釈だったのです。
これはもしかして?と、聴いていたSpotifyの音源を確認すると外国の指揮者による海外オーケストラの演奏。
日本のオーケストラの音源を探して聴いたら、、、おおおおお!!!!音楽が聴こえてくる!!!!(笑)
どうしてこういうことになったのかは後半に記述しますが、それがコンサート前の私の状況だったことだけ先に書かせて頂きました。

休憩中にピアノとともに指揮台も片付けられたため、飯森マエストロは楽譜をご覧にならず指揮をされる事がわかりました。
演奏直前、丹田に力をこめてふんばるお姿はまるで相撲力士、大地からの気・エネルギーを取り込まれている様に感じられます。
やがて演奏が始まるとそのエネルギーを手先から放出されるのです。
厳かに響き始めたオーケストラの音は、音量が大きくないにも関わらずに会場の隅々にまで広がっていきました。
夜が明けて朝となり(枕草子とは違って「日の出」が徐々に明けていく過程ではなくバーンと明るくなったその事を指す感覚の違いも面白い)、澄み渡る世界に光の輝きが満ちていく喜び。
これは自然の中に神の祝福を感じる宗教観ではなく、自然の偉大さ・人間とは違う存在をそのまま感じ取るだけで感無量になる感覚です。

いよいよ登山が始まりリズミカルに音楽は展開していきますが、所々遠くで響くホルンが山の存在を示していている様で、曲が進むにつれて段々と存在感が増していきます。
森のシーンは音の重心が下でゆらめき、山道が途切れてその小川の際を進んでいるだろうと思われること、辿り着いた滝ではキラキラと水滴が光を反射させるかのようなトライアングルが!
事前には次の幻影というテーマの意味がわからなかったのですが、なるほど滝壺から立ち登る水蒸気か滝のカーテンかにイメージが浮かぶ事だ!と腑に落ちました。
草原では人の気配が感じられる親しみやすいメロディ、牧場では牛を示すカウベルが音源とは違ってランダムにコロコロと鳴る感じがすごく良い!
この後は段々とテーマの区別がわからなくなってくるのですが…苦笑
ホーンの切り裂くような響きで山中に出現する氷河が現れ、弦楽器が不安なメロディーを漂わせます。
面白かったのは不安な心理描写としての弦と、自然描写的な山を象徴するホルンが独立して交互に音楽になっていることでした。
これも事前に聴いている時には全然気づかなかったのですが、実際に聴くと感じられます。
(ちなみに、この感想は完全に記憶できているものではなく、再度音源を聴き直した際に「コンサートではこの部分をこう感じた」と思い出したものです。きっかけがないと記憶の引き出しはなかなか開いてくれません。。。)
頂上では360度の山頂の情景を静かに眺めた後、達成感をを示すかのような荘厳さで彩られます。
美しい山々の景観は爽快感とともに美しい峰や高く険しくそびえる山々の間にゆったり流れる雲なども見えてきました。
時間経過を示す短いテーマを経て、夕日が陰ってくるだけでどうしてこんなに寂しく陰鬱な気分になるのか…哀歌という心理描写がテーマの部分に。
事前にはこのテーマ性が最大の謎だったのですが、飯森マエストロの不穏な時代背景を考えると納得できました。
また、後述するように単にそこ在るがままの自然を写しとる写実描写ではなく、人間の視点を自覚・獲得したうえでの写実表現としては、やはり不可欠な要素だったのかと思われます。
そして後半、嵐の前の静けさを経て怒涛のようにクライマックスへ!
雷雨では、今まで聴いたコンサートの中で最も大きな音ではないかと思われる大迫力で会場に落雷が鳴り響きます。
サンダーマシンで落雷が表現されると書かれていましたが、コレはぶん稲妻が表現されていて、実際に雷の音がドドドドーンと表現されているのはティンパニーではないでしょうか。
その落雷が地面を揺らすかのような響きに至らしめるのがパイプオルガン。
ウィンドーマシーンは、演奏される方(ウクライナから来られたアーティストを受け入れていらっしゃるとのこと)の長い髪が大きく体を動かす毎に風になびくように漂って、とても美しかった!

それが鎮まるともう日没、山登りの終わりとして情緒的な美しいメロディーが印象的な結びの部分ですが、テーマの中で最長ともいえる6分以上あるのです。
配布されたPPTのプログラムノートでは「自然の素晴らしさや登山の喜びを振り返る」とありました。
大編成のオーケストラによる厚みのある音楽ではなく、パイプオルガン、弦、金管、木管、などなど…小編成的にそれぞれの楽器群から聴こえてくるメロディやフレーズは、まさに「振り返る」という感じ。
なるほど、ここでも自然に主観的心理が投影されていますね。
この「人間の目を通した自然=心理を情景に反映させた自然」という感覚は、能の(特に世阿弥の)情景描写に近いと感じたのですが、どちらを強く感じるのかはその時々の表現者や観者によって違うのかもしれません。
実際にコンサートを聴くとこういう事にすごく納得できるのが不思議なのですが、それこそが生の音楽の力なのでしょう。
やがて、アルプスの情景は元の暗い夜に戻っていきます。


<自然は在るものか見出すものか?>

コンサートの後に、下記のTweetをしました。

西欧では19世紀まで歴史画の背景でしかなく、風景画(=自然を写実的にそのまま描写する概念)がなかったので、アルプス交響曲も人間主体の人生観で解釈する場合がある様ですが、私は古より自然を芸術とみなすベタな日本人なので今日の様な解釈が断然好きです。
#飯森範親
#PPT
#日本センチュリー

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 6/11

先に書いた自然の写実的表現ではない演奏では鑑賞できなかった経験を踏まえての投稿です。
私にとっての「アルプス交響曲(以下アルプス〜)」は写実的な解釈・表現でないと鑑賞でなければ成立しなかったのですが、2種類の解釈を知った上で自分の好みを選択した訳ではありません。
そんなことは知らないままに、何も考えずにそうなってしまったのです。
このコメントには、飯森マエストロからもご返信をいただきました。

自然が芸術…お考えに賛同いたします!!お聴き頂きありがとうございました!!
私のアプローチを感じ取って下さり嬉しいです…

サークルへの返信Tweetのため埋め込みではなく引用 611

「!!」(本来は赤い画像)が二つも並んでいることに、飯森氏のお気持ちが強く感じられました。
というのも、コンサートの直前にNHKのあんな放送(自然描写的解釈は否定しないがそれだとこの曲のすばらしさは表現できない…みたいな上からコメント)があったので、それとは異なる表現解釈を貫く重圧は大きかったと思われるからです。
ただ、この曲への解釈が別れる事は今更の問題ではなく、だからこそ対談で「信念」というお言葉を使われていたようにも感じます。
飯森マエストロは今回の演奏でもご自身の信念を通されたということ。
ですが、現在の文化的状況を鑑みれば、飯森マエストロの解釈が今後スタンダード化するだろう新しさを持ち合わせていることも伺えるのです。
飯森氏へのリプで、私は以前「変移しつつある〜」で紹介した森美術館片岡真実氏(この時は開催展覧会のキュレーター、現森美術館館長)のインタビューをお伝えさせていただきました。

上記は連載2ですが、連載4ではレヴィ=ストロースについても触れられています。
アダムズ氏がレヴィ=ストロースを用いられている事を考えても、芸術解釈のバックグラウンドとして神の影響や神の子としての人間という存在から、自然とともにある人間としての解釈に変化しつつあるのを感じます。

先にTweetに書いた「自然をありのままに描く写実主義」は美術史を学んでいた際に実はまだ大きな混乱要因となったものでもありました。
日本人にとっては普通のことが西洋芸術の概念では普通ではない事に気づくまで時間がかかったことと、概念と視覚表現とが分離できていなかったためです。
そのこと自体は「解釈とイノセント〜」にも簡単に書いていますが、改めて「神と人間の相似形モデル」をもう少し詳しく記載します。
それがないと、「アルプス〜」の現代的解釈や現在も神のしがらみから開放されていない芸術への理解が難しいのですが、飛ばしても結論的には問題がないため、小文字です。

Tweetに書いた自然をありのままに描く19世紀の作家というのは、カミーユ・コローのことを指しています。
上記にリンクしたWikipediaにもあるように、「コローの風景画は、神話や歴史物語の背景としての風景ではなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を描いたものが多い。」というのが特色です。
その自然を見出す視点には、実は産業革命という人間を頂点とした視点の獲得とも無関係ではありません。
自然を破壊する産業が自然を神から分離する視点をもたらしているという意味ではやはりアイロニーの関係にあります。
コローはアカデミーに反旗を翻した印象派の理解者としても知られていますが、実はこの「自然をありのままに描く」という表現は大きな潮流とはならず、瞬く間に印象派から抽象画に移っていきます。
印象派は野外の移ろいゆく光をそのまま描くような表現ですから、コローの自然の風景をそのままという視点に近い視点の言えます。
ただし、あえて「木を見て森を見ず」というミクロ化した視点をもつことで違う世界を見出し、やがて全体像が崩壊する抽象に向かっていきました。
彼らには、神や歴史を重視するアカデミー的ヒエラルキーへの抗いがあったと思われるのですが、コローと同じ写実主義に分類されていても「種まく人」「落穂拾い」で知られるジャン=フランソワ・ミレーの場合、敬虔なクリスチャンという視点から見る社会=神を信じる人々で、同じく「理想ではないありのままを描写する」という写実的視点ではあっても神の存在は消えないのです。
コローとミレーはありのままの世界を描く写実性という意味では共通性がありますが、神の影響を抜けた表現と神の世界の中にありながら眺める視点とに分かれます。
そして、印象派を経たナビ派の存在!
実は神の相似形モデルとして近現代芸術が展開されてきたことの具体例は紹介できていなかったのですが(ミレーの様にその影響がある事自体が西欧社会においては普通で、影響から抜けきれない理由を考える方が難しい)、角野氏ファンの方が角野氏のリール音楽を引用しナビ派のピエール・ボナールの展覧会動画をアップしてくださってことをきっかけに「そうだ!!ナビ派だ!!!!」と思い出したのです。
(これもnoteにおけるシンクロニシティ?!)
ナビ派のモーリス・ドニの言葉はには「本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である。」「芸術作品を創造するものは、画家の力であり、意思である。」とあり、ボナールの言葉には「絵画とは小さな嘘をいくつも重ねて大きな真実を作ることである。」とあります。
これらからは、神の天地創造をモデルにした世界観を芸術に構造的に転用していることが読み取れます。
そこには神の相似としての人間と、世界の相似としての絵画画面という関係性があるのです。
つまり、神が作った自然をありのままに描くことに神の威光を感じるのではなく(日本人だそちらの方が自然に感じられますが)、神の子人間として天地創造のような新たな世界を絵画上で成立させるというという方向性に向かっていったのです。
面白いのは、ボナールが神や芸術の概念など皆無なジャポニズムから表象的(構図や平面性)影響を受けていることなのですが、これは後述。

結果として、神の影響のない人間の視点で写実的に自然を描いたのはコロー周辺だけで、神の影響下からは抜けられなかったということです。
注目すべきはコローの表現性にあります。
その作品をそれまでの古い歴史画的絵画と比べた場合、視覚的にはそれほど大きな違いは感じらないのです。
印象派は見た目もまさに新しい表現だと感じられるのですが、後に影響を与える視点を切り開いたのは印象派の前に存在したコローです。
概念が変革しているため、コローから印象派誕生は割と短時間で成立し後の抽象化も加速していきます。
以来さまざまな新しい芸術表現が生まれてきましたが、神の子である人間として天地創造的な芸術が尊ばれ、現代に至るまでも神の影響からは完全に抜け切れていなかったのです。
その影響から抜け始めてきたのがつい最近という事です。
なぜコローにこんなに拘っているのかというと、その作品は見た目のしては新しさやインパクトはなくとも、西欧の歴史・文化の中では革新的な位置付けにあり、それが「アルプス交響曲」に近い様に感じられたからです。

実は昨年この曲をお聴きになった方から、「アルプス〜」についての千葉フィルハーモニー管弦楽団による解説ページをご紹介頂きました。
前説で飯森マエストロが社会背景としておっしゃったことはこの前半部の要約的なものですが、一歩踏み込んだ解釈はさすがにコンサート直前に語られていません。
ただ、「反キリスト」がこの曲の背景にあることが書かれていた事を読んで、やはり!と。
私とは出発点やアプローチが全く違うのですが、ほぼ同じ解釈にたどり着いたという訳です。

そこに地下水脈的に流れているのは、作曲の間中一貫して標題として掲げられてていた「アンチクリスト=反キリスト者」というタイトル。ニーチェの第一の遺稿集(88年)によるこの『反キリスト者』を簡略化して説明するのは難しいが、そこにあるのは“異端、魔女狩り、免罪符”などによって歴史を暗黒化していったカトリックに対する批判。曲想は真逆だが〈キャンディード〉で、ヴォルテールの戯画的な筆致をそのまま音楽化し、枢機卿や大司教を皮肉たっぷりに断罪したバーンスタインとも一致する。

R.シュトラウス アルプス交響曲の楽曲解説 P1より

しかも、シュトラウスのWikipediaをみると1900年以降は「前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。」とあり、その後1915年に「アルプス交響曲」が作曲されているのです。
一旦前衛的な表現制作に向かいながら、後に従来のクラシック的音楽表現に戻ってきたといえ、だからこそ新たな(反キリスト教的な)視点なのだろうと推測ができるわけです。
西欧においては「反キリスト」の視点・概念によって、ようやく「自然」を見出すことができたと言う経緯と重なります。
けれど、日本人にとってありのままの自然を感じること日常的な普通の感覚です。
ジョン・ケージは実験音楽としてとして既存の音楽概念へのカウンターとして「4分33秒」を作りましたが、その芸術としての文脈を外せば、日本人が様々な音に音楽を感じる感覚にとても近かったという事に近いかもしれません(詳細は「「解釈とイノセント〜」)。

「アルプス交響曲」には所々に一人称の心理を自然に投影す描写的表現があり、「これって本当に写実された自然なのか?」と問われれば、主観を投影している意味では厳密な写実そのものではありません。
自然は在るがままの存在として、どう感じるのかは感じる側の問題でしかなく、そこに神のような絶対的視点を設定しないこと=主観を前提とする事もまた「在るがまま」と言えます。
つまり、感情を投影することと自然をありのままに表現することには矛盾はないのです。
ただしその一方で、自然の在るがままを主観を排してそのまま表現したい・写しとりたいという表現動機ももちろんある訳です。
その純化した写実表現は正岡子規の「写生」概念に感じられますが、それが明治期に来日したアントニオ・フォンタネージ(コローと同じバルビゾン派)の「リアルに描く」という西洋絵画の技法から影響だとも言われていて、すごく納得してしまうのです。
日本文化のバックボーンに存在しない概念を取り込む中で新たな表現が派生していく様は、ボナールがジャポニズムをその表現に取り込んだものと同じで、本来の文脈から考えるとある意味誤解であったとしても、それこそが新たな表現に発展するエネルギーとなっている様を眺めるのは、実に興味深く面白いことです。(この時点では脱線ですが、後述に関連)

ちなみに、wikipediaのニーチェには、この反キリストの概念はギリシャ哲学がバックボーンであることも書かれています。
また、Wikipedia「自然」の項では、古代ギリシャでは自然が絶対的な存在であったこと、中世キリスト教世界では神の意向の結果としてある自然という解釈に変わっていったことも書かれています。
これは、「変異しつつある〜」に書いた「ミメーシス・模倣」概念とほぼ同じ歴史経緯を辿っていますが、ある意味当然とも言えるでしょう。
神の天地創造の力を自然から感じることが唯一無二の創造性を尊ぶことに通じるのに対し、自然の在るがままの姿を写実的に写しとる行為こそがミメーシス・模倣に他なりませんから。
しかしながら、現代は古代ギリシャとは違います。
キリスト教の影響が弱まったとはいえ、古代ギリシャの価値観に戻れば良いという事にはなりません。
人間の力が巨大化しすぎたため、「そこに在る自然」は人間の行いから影響を受けずに存在するものから、人間の行いによって消滅し得るものになってしまいました。
今はもう自然は絶対的な存在とは言えなくなってしまったのです。
日本人にとっての「在るがままの自然」という認識は、「在る」ことが当たり前すぎて「在るため」の能動的行為には想いが至らない可能性があります。
このまま無意識に時が過ぎれば知らないうちに自然は破壊されてしまうかもしれません。
自然を在るままに存在させるには人間がその自然性を見出し保存しなければならない所に来ているという今、西欧の「あるべき自然」としてそれを意識的に捉える観点も必要な気がします。
自覚的に自然を見出す概念と、在るがままの存在として自然を受け入れる感性が望まれますね。

一方で、実はWikipediaにはシュトラウスもまたナチスの協力者として認識されていたと書かれています。
当時ドイツに在住した芸術家のほとんどはそういうスタンスでなければ芸術表現を続けていくことは難しかったのかもしれません。
天候不順をもたらす世界規模の環境破壊に、長期化する戦争。
自然を在るものとしてそのまま受け入れる解釈を信念をもって表現されただろう飯森マエストロの想いと、戦争に翻弄される芸術家の存在などなど…
今現在の社会への問題提起としても受け取れる素晴らしいプログラム。
音楽鑑賞と共にさらに大きな芸術作品として、コンサート全体を味わわせていただきました。

【人 間】

<フリードリヒ・グルダ:「プレリュードとフーガ」(ピアノ・アンコール)>

ということで、後回しになっていたソリストアンコールとして演奏されたグルダの「プレリュードとフーガ」が最後になります。
角野氏のアンコールは毎回楽しみなのですが、純粋に盛り上がるタイプと演奏曲との趣向が感じられるタイプに大別できます。
今回の「プレリュードとフーガ」、聴こえてきた途端に「悪魔は〜」第3楽章のスウィングとの取り合わせだ!!!と感じました。
冒頭のプレリュードのリズム・質感が、ツアーでの表現よりもとても軽やかでスウィングっぽいのです。
ツアーではバッハ的に均一な縦方向の刻み印象的だったほですが、スキップするみたい!
また、フーガに移る所のぶつけるかの様な不協和音も「悪魔は〜」的な響きに感じられます。
そして最後即興と思われるところはもう、凄すぎ!!!激しくて、まさに悪魔そのものが出現したかの様でした。
迫力あるそのピアノの音をベストポジションででダイレクトに聴ける幸せ〜!!!
これはファンとしてただただ喜びに満ちた時間でした。

ただ、このアンコールについては多くの方が「かてぃんラボ」の内容からミニマルミュージックとの関連性として捉えていらっしゃいました。
次項は具体的にそれらについて考えていきます。

<意味は後の解釈か最初から存在したのか?>

この日の「プレリュードとフーガ」はツアーでの表現よりもより軽やかでスウィング感があり、後半にはより激しい即興が奏でられるなど、直前に演奏された「悪魔〜」とは類型の並列として取り合わせが感じられました。
前項に書いた「なぜミニマル的な表現と混同される方が多かったのか」ですが、たぶん繰り返しをミニマル要素の類似性として認識されてた方が多かったのだと思います。
20年以上前の私も同じくそうでしたから。
これは、素人が感じる音楽の類似性と音楽理論としての意味や文脈から音楽を認識することとは別だという事を示しています。
それは正しいか間違っているかという問題では無く、勘違いや意味を持たない結びつきであったとしても、新たな表現の可能性に成り得るということに通じるのです。

比較文化論の古典であるロラン・バルト「表徴(ひょうちょう)の帝国」では(哲学的な視点をエッセイ風に書いているので言葉は難しくても内容的には実例が多くわかりやすい)、日本における記号的意味を排する文化が注目されています(リンクしたレビューだけでも面白い)。
日本文化は構造的であるという事にも通じているのですが(私は「シニフィアン=意味されるもの」と「シニフィエ=意味するもの」を用いることが多いですが、ここでは「表現体=エクリチュール」と「表徴=シーニュ」がほぼ同義として用いられている)、意味内容以上に意味を持たない表徴を理解・味わうことが紹介されているのです。

東洋は西洋と完全に断絶した、思いもよらぬ象徴世界の存在をかいま見せてくれる特徴線(トレ)の貯蔵庫となりうる。それは、西洋とは別の表徴、別の形而上学、別の知恵ではない(この知恵はいひどくのぞましいものではあるのだが)。それは、複数の表象世界のそれぞれの固有性相互間の断絶、変動、転換の可能性なのである。(p12)

《悟り》は《言葉の無化》作用をおこなう。そしてこの《言葉の無化》こそが表現体(エクリチュール)をうむ。いっさいの意味を廃絶しなはら禅が、庭、所作、家、花束、顔、暴力を描き出す場合の特徴線は、この《言葉の無化》から発するのである。(p14)

日本語の主語は(中略)、主観性のありすぎとはわたしたしに見えるもの(日本語が表出するのは、印象であって確認ではない、といわれる)、それは細分化され微粒子化され微塵化されてついには無と化す言語のなかに、主語を稀釈し瀉血していくやりかたなのである。(p17)

ロラン・バルト「表徴の帝国」ちくま文芸文庫


類似性や相違性を意味や文脈でとらえるのではなく(もしかしたらそれ以上に)、表象的な視点で捉える日本のものの見方が書かれています。
特に3つめ、細部に意識が向く事で意味が崩壊していくさまが印象派からナビ派に感じた表現性にほぼ近いのですが、日本ではそれらを説明する論理は必要としないのです。
とはいえ、ここまで純化された感性は特殊で日常的とは言えません。
記号(言葉と同義)を無意味化するというよりも、意味を排した表現も意味のある表現も同時に同等に味わうことができる・楽しめる感覚を誰もがもっているのだと考えています。
多彩な比喩や駄洒落に付合や趣向など、対象のイメージが重なるものは意味だろうが表象だろうがルールもなく自由で、その取り合わせに対しては特別な意味を必要としません。隠れているルールを探る大喜利のような遊びもあるほどです。
素人として聴くには「プレリュードとフーガ」がミニマルの関わりで演奏されたのかスウィングの質感的関わりで演奏されたのかは、取り合わせであることの方が鑑賞においては重要で正誤は余り関係がないのです。
関連付けが二つのイメージをより強調し、更に豊かな鑑賞体験に至らしめるのですから、「取り合わせそのもの」を遊び的な趣向として構造的に感じられることが重要なのです。
なんとなく「悪魔は〜」との関係性で演奏されただろうことがわかれば十分と言えるでしょう。
角野氏がソロツアーで試みた「再構築」はまさにそういう感覚を意図的に利用した日本人の十八番のような表現性とも言え、このアンコールの取り合わせも同様になります。
もちろん、「悪魔〜」と「アルプス〜」の取り合わせに関連性を感じてコンサート後に私がさらに感動することも同類です。

ここで改めてナビ派について考えてみたいのですが、ナビ派では抽象へ向かう省略や平面的表現のために、神秘性や宗教解釈の引用を必要としていました。
抽象化はもう一つ、ロシアのカンディンスキーを中心とした潮流があり、青騎士のロマン・ファンタジーから現実性が欠落していく表現経過はとても自然で、ナビ派のような思想は必要としません。
日本人としてボナールの作品を観ると、実際には細部への技法的な表現性や視覚刺激への物理的とも言える興味、表象的なシニフィアンへの芸術家の表現衝動の方が思想や論理よりも強く感じられるのです。つまり、理由に関わりなくただそれだけで視覚的に美しいということ。
だとすると、解釈の前に先立つ理由なき衝動こそが表現の源泉だと言えるのですが,まあ…本当のことはもしかしたら本人ですらわからないことかもしれません。
もちろんキリスト教に縁遠い私がキリスト教的解釈を読み取れないということもあるのですが、たぶん日本人だったら…理由なく「こっちの方が視覚的に美しい・おもしろい」で突き進めちゃうと思うのです。

ただ一つ明言できることは、表象的類似性を新たな表現として結びつけることが「現代の芸術表現」においては基本的な表現手法になっているということで、その結びつきに意味を持たせようが持たせまいがどちらでも構わないということなのです。
子規の西欧のリアリズムから生まれた「写生」も、ボナールのジャポニズムから影響を受けた表現も、誤解や本来の表現意図とは別の視点で受け入れたことで起きたと言えます。
その理論を逆転すれば、後の人が作者の解釈と同じである必要はない、正しくても間違えていてもどちらでも良いという事にもなり得るのです。

ただし、表現者がモチーフからアイデアを盗用したり敬意なく傲慢な結び付きを行う表現は、その傲慢さが観者にも伝わり嫌悪感を抱かせます。
それまで唯一の真実を追い求めていた場合、神の創造の相似モデルとして「絶対的」である必要性からなのか、アイデアから他者の存在を打ち消す・否定するかのような表現になりがちなのではないでしょうか。
ピカソの有名な言葉に「良い芸術家は真似をする。偉大な芸術家は盗む。」という言葉がありますが、盗む=完全に自分のものにする、というところが最終決着地なのです。
ボナールがジャポニズムの影響を隠さずにいたことで「日本かぶれのナビ」と嘲笑されたことからは、他者の存在を打ち消す取り込み方が主流であることが理解できますし、ボナールの日本へのリスペクトがいかに強かったのかも読み取れます。
一方、日本は対象に好意や敬意を持ったからこそ引用・組み合わせであり、その関係性を生かしたまま=完全に自分のものにはしない状態でとどめ、その組み合わせを楽しみます。
その「結びつき方」自体を楽しむので構造的という訳です。
真実追求でもなく、勝手な結びつきでもなく、リスペクトと自由さをかそなえた絶妙なバランスの結びつきが私は大好きなのです。
(まあ、結局は中間領域好きって事ですけど…笑)
ですから、私が【悪魔】【自然】で書いたことは、贔屓目にみて確率的には80%以下、学校の芸術論のレポートとしては論拠不足なのですが、本当にそういう繋がりがあるかどうかというのは正直問題ではないというか。。。
それらを探ることで全体の関係性を見出すことができ、それがまた私自身の新たな芸術体験として深い味わいを生んでくれる、そこに喜びがあるのです。
だからやめられない。笑

世界が広がりグローバル化が進めば(分母が大きくなれば)当然ながら多様化が進み一つの絶対的な神は共有されません。
「好きの反対は嫌いではなく無関心」と言うように、もしかしたら神への最大の抗いは「どちらでも良い」というスタンスになるのかもしれません。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略