ナラティブなアンソロジーが還元する抽象性〜読売交響楽団 第267回土曜&日曜マチネシリーズ〜
※10/24 <追加リンク>「ナラティブが還元する抽象性」にリンクを追加しました。
※7/26 期間限定テキストを削除しました
<はじめに>
7/22・23に行われた「読売交響楽団 第267回土曜&日曜マチネシリーズ」は、角野隼斗氏とフランチェスコ・トリスターノ氏がピアノ協奏曲を演奏されたコンサートでした。
目的は当然そのピアノ協奏曲だったのですが、全体のプログラム構成がとても興味深く、コンサート全体として圧倒的な素晴らしさだったことを最初に書かせて頂きます。
東京公演は両日ともに伺ったのですが、日にちによる違いについても曲毎に記載しています。
また、テレビ番組の書き起こしやおまけの分量も多く37,000字を超える長文になっています。
(すでに武道館公演も終了していますが、どうにかこうにか書き上げました)
コンサート前の予習
<デスナー:2台のピアノのための協奏曲>
始まりは、読響 267回 土曜マチネシリーズ&日曜マチネシリーズが発表された1月から。
角野氏が演奏される現代音楽には目がないので、発表直後に「デスナー:2台のピアノのための協奏曲」を聴いたところ自分の好みにド・ストライク!!!
チケット発売前のずいぶん早い段階からブライス・レスナー氏のことを調べてしまいました
この時の様子は「昔から変わらない音楽の好み〜」1月20日の項以降に記載済なので部分的に重複します。
デスナー氏を調べてみると、杉本博司氏の「海景」をフィーチャーしたインスタレーション「Wave Movements」を共同制作されている事がわかりました。
私の「アデス:ピアノ〜協奏曲」の第2楽章の印象は、杉本氏の「海景」だったので(詳細は「パシフィックフィルハーモニア東京 第152回〜」)
この偶然にはとても驚きました。
また、もう一台のピアニストはトリスターノ氏とのこと。
ウィーンで行われた無声映画に音楽を奏でたというお二人のコンサート写真からは、杉本氏「廃墟劇場」の影響が読み取れるので、これはもう断然楽しみでしかありません!!
トリスターノ氏が参加されることで角野氏お一人では届かないだろう現代アート的解釈を期待してしまう訳です。
<ピアノ協奏曲以外の曲>
クラシックには全く馴染みがないので事前の予習は必須なのですが、昨年「アダムズ:悪魔は〜」の「悪魔」の正体を推理した際(詳しくは「〜神に抗うのは悪魔か自然か人間か?〜」)、ワーグナーの中でも最も再生数が高い人気曲として、「ワーグナー:トリスタンとイゾルデ 前奏曲と愛の死」は聴いていました。
が、よく言われる「トリスタン和音」がどの様な和音なのかはわかっていなかった所、kari_kariさんへの質問から楽譜付の音楽的な解説動画を教えて頂きました!
ウェーバーの名前を冠した「ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容」は、自分で下調べを行いました。
特に「ウェーバーの主題による」とあるので、元ネタを聴いておく必要があり、Spotifyでプレイリストを作成しています。
「第2楽章のウェーバーの:トゥーランドット」以外は4手のピアノ曲との事、なるほど「デスナー:2台のピアノ〜」に通じています。
しかも、「ウェーバー:トゥーランドット序曲」の元は、ジャン=ジャック・ルソーの「音楽辞典」の譜例「中国の歌」からの引用とのことです。
元曲と続けて聴けばわかるのですが、主題の引用は意図的な改変・再構築が行われているという意味で、純粋な編曲というよりも変奏曲的なアプローチと考えた方がしっくりきます。
タイトルにも「交響曲変容」とありますから、変容そのもの・展開性に重きが置かれていると考えられます。
前例へのリスペクトとして「重なる部分」と後年のクリエイターによる「ズラされている部分」とが、一つの作品として美しく成立しています。
この表現性は日本的な「付け合い的技法」に近く、前述している杉本氏が近年こだわっている「本歌取り」とも通じている訳で、、、
まあ…つまりは私にとって最高のプログラムという訳です。
ウェーバーのwikipediaを確認すると、もう一つ興味深い事例を発見!
ウェーバーが訪問先にイギリスで死去し埋葬された後、音楽的な遺志をつぐたワーグナーの力添えでドイツへの帰還(ドイツに埋葬)できたとの事。
さらにそれにを深く調べて下さったkari_kariさんの投稿です。
これを知った後に「デスナー:2台のピアノ〜」が角野氏による提案だという事がわかったので、予想としては逆算的にプログラム全体が構想されたのかもしれません。(もちろん本当のことはわかりませんが…)
「デスナー:2台のピアノ〜」
↓4手ピアノという共通項から
「ヒンデミット:〜交響的変容」
↓同じくウェーバー作曲の「序曲」
「ウェーバー:オイリアンテ序曲」
↓ウェーバーの遺志をつぐワーグナー
「ワーグナー:トリスタンとイゾルデ〜」
お考えになった方、凄いですね。
個人的には時代順の演奏にも惹かれるのですが、曲の様式(能でいうところの「五番立」)や長さ(能でいうところの「重さ」)によって演奏される順番はある程度の制約がある様なので、今回の順番になったのでしょう。
いずれにしても、kari_kariさんのおかげでアンソロジーとして素晴らしいプログラムだということがわかりました!
コンサートの感想
演奏の感想を書く前に、今回の鑑賞・特に2日目は、後述する「日曜美術館 時を超え、自由に 日本画家・福田平八郎」に影響を受けている事を事前に明記しておきます。
というのも、2日目には日本画と能が好きな友人とご一緒し、直前まで平八郎の話をしていたからです。
自分の偏り(=バイアス)を通して音楽を鑑賞していることになりますが、その時々の状況に身を任せ主観的にどっぷり浸って鑑賞することが芸術体験だと思っているので、その感覚のまま書いていきます。
<ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死>
●前奏曲
視界が及ばない遠くの方から微かにチェロのが響きが感じられる始まりと、それを受けた木管楽器。
音の方向性が見えず夢の中にいるような感覚です。
そこから弦楽器と木管楽器のやりとりが繰り返され、音楽自体が自分に近づいてきます。
一瞬ボヮンという感じでオーケストラ全体が鳴り楽器全体の演奏に入ってくるのですが、上座の端だったこともありコントラバスの厚み・体に届く響きがとても素晴らしかったです。
音楽はゆったりと奏でられているのですが、セバスティアン・ヴァイグレマエストロの指揮は、曲調に対してとても激しく見えます。
なんというか、特別な「気」を注入している感じとでも言えば良いのでしょうか。
再びボヮンと全体の音が鳴ると、「ああ!トリスタンとイゾルデが出会った!という印象を受けました。
音楽が上昇するイメージを奏でると、二人が恋に落ちた様子が眼に浮かびます。
やがて戸惑いの様な心の揺れ、感情の高まり…木管楽器と弦楽器の呼応するフレーズが二人の存在そのもののように感じられます。
そして、音がタラララ〜と下から何度も何度も登っていく様はまさに愛のクライマックス。
ですが、しつこさが全く無い夢の様な非現実感が漂っています。
やがて二人の悲劇的運命を予感させるように音楽が静まります。
呼応する吹奏楽器と弦楽器の関係はそのままですが、テンポが少し揺らされていて不安感を覚えるのです。
終盤はまさに二人の会話の様な印象。
終わり方は序曲として物語の始まりを示しているのでしょうか。
不穏な感じや欠落感を表現することで二人の運命を暗示している様にも思うのですが、メロディだけで考えると中途半端になりそうな所に、最後の「ボン・ボン」の二音で音楽として完結させてしまったのです。
事前に聴いていた音源とは異なり、「曲としての収まり感」が素晴らしく、読響の皆様の力技という感じがしました。
●愛の死
一瞬ふっと間が開いて「愛の死」が始まりました。
他の方のご感想を見ると、どうやらこのタイミングが短すぎて曲の繋がりがわからない場合があるのだとか。
他を聴いたことがないので想像ですが、前述した「ボン・ボン」の圧倒的な完結感も大きな影響を与えていると思われます。
曲は静かに木管楽器のテーマから始まり、水が満ちるように静かに広がっていきます。
上座だったのですが、美しい金の粉を振り撒くようなハープの音色もとても良く聴こえました。
タイトルとは逆に、一旦は「死=無」に至ったところから夢の世界で再び「生=色」を取り戻すかのような印象です。
同じテーマ(メロディ)が続いているのに、その中で二人の喜びや不安や高揚などが移り変わっていく様が手に取るように感じられます。
そしてやはり「前奏曲」のような盛り上がる所で波の様に何度もフレーズが繰り返されます。
これは様式として何か呼び名がついているのか、たまたまなのか、オペラとしての感情表現なのかわかりませんが…
「感情の盛り上がり」と思ったら「二人のすれ違い」と思ったり「とどまる事のない愛の泉」みたいな感じで、重なりながらも異なる様々なイメージが次々と湧き上がります。
フルートの音色がさらに鮮やかな色彩感を醸し、その様はなんと表現したら良いのか…
そして最後が本当に独特で素晴らしかった!
波のように繰り返すフレーズがやはり終盤でも出てくるのですが、音源を聴き比べてみると、そのまま静かに終わるタイプと盛り上げてから静かにおさめるタイプとに大別されます。
が、ヴァイグレマエストロの指揮はどちらとも異なる印象でした。
「盛り上がりそうで盛り上がりきらない」という抑制がストレス感を覚えるほどに絶妙で、それが「成就できなかった愛」という悲劇性を感情とは異なる身体感覚で実感させてくる感じなのです。
そして、音楽自体は終わりに向けて静寂に向かうのですが、音とは異なる「清らかな気」は消えることなく満ちていて、擬人化したような「愛」の自立性が感じられるのです。
最後の部分、木管楽器(始まりと同じ楽器?)の一音が他の楽器よりも長く印象的に響いていました。
タイトルとは逆に「無」ではなく死しても尚も残る「愛」です。
●二日間の違い
ヴァイグレマエストロの方針や読響オケの演奏が特に変わったという印象はなかったのですが、とにかく余りにも美しすぎた結果‥受容感覚がものすごく抽象化されてしまったのです。
個々の表現は前述した通りでありながらも、一切不問になってしまうほどの夢見心地といえば良いのでしょうか。
脳が感じるイメージというよりも本当に夢を見ているかのような身体的な感覚に近い部分で鑑賞をしていた様に思います。
「初めて歩く道の周りを注意深くのキョロキョロしながら進む」のが一日目なら、「馴染みのある道を特に周囲に注意をはらわずに散歩を楽しむ」というのが二日目の感覚です。
どこにどういう花が咲いていたのかは前の方がよく分かりますが、心地よい風に吹かれながら歩いた自分自身の感覚・その実感は後者の方が強いのです。
そう、このnoteのタイトルはまさにこの体験からつけました。
<ブライス・デスナー:2台のピアノのための協奏曲(日本初演)>
●プレトーク
舞台にピアノが2台用意される間、ソリストの角野隼斗氏・フランチェスコ・トリスターノ氏が登場され、「デスナー:2台のピアノのための協奏曲」についてのお話がありました。
詳しくnoteに書いて下さっている方もいらっしゃるので詳細は省きますが、フランスの詩人ボードレールの言葉をトリスターノ氏が引用、角野氏が訳された言葉は「「美しいものはいつも奇妙でそれは人生のようなものだ」でした。
これぞまさに、1月から期待していた解釈!!
杉本博司氏のポートレートシリーズは、蝋人形をリアルな人間のポートレートの様に撮影したものです。
蝋人形にされた時点で、人物は「その人らしさ」という偶像化が施されており、それを生きた人間と見紛うような生々しさを抱かせるように撮影しています。
この無機質な物体から発せられるリアリティが感覚をバグらせ、美しさゆえに偶像化された虚構性が滲み出てくるのです。
博物館のジオラマ展示を撮影したジオラマシリーズとともに、当たり前として考えていた「生・歴史・時間」の認知に疑問(奇妙さ)を抱く作品です。
ボードレールの言葉は3回公演の全てで語られていたので、今回の演奏解釈の元になっていることは間違いはないのですが、6/19のかてぃんラボ(有料会員コンテンツ)「ブライス・デスナー ピアノ協奏曲について語る Talking about Bryce Dessner Concerto for 2 Pianos」での内容からは大きく離れています。
角野氏は「ミニマル・ミュージックのイディオム」「アメリカンミュージックのイディオム」「場面がパチパチと変わっていく面白さ」「映画音楽的」と、広義のアート的解釈ではない純粋な現代音楽としての魅力を語られていたのです。
果たして、実際の演奏はどちらのベクトルが強いのか、もしくはこの二つが新たなケミストリーとなるのか、とても大きな期待をもってコンサートに臨みました。
●第1楽章
最初のバチンという音から始まり、聴いていた音源よりも若干早いテンポです。
角野氏らしいキラキラ粒立つ音が聴こえてくるかと思いきや、少し曇った印象で共鳴が強め。
角野氏の第一ピアノの高いメロディに対し、トリスターノ氏の第二ピアノがズンズンと「相の手」を入れる様な所は重さたっぷりで打楽器感満載。
音響のせいなのかテンポが早いからなのかわかりませんが、オケと相まってラベック姉妹の音源よりもカオス味が強く感じられます。
遠くで鳴っているホルン?フルート?にやはり呼応する第二ピアノはとても重さがあり、異質感が際立ちます。
第一ピアノが下からブワ〜〜と盛り上がるかと思うと、リズム連打のミニマルっぽさで音が重なっていきます。
ところが、なんというか……
ある意味「角野氏らしくない」のです。
角野氏だったらもっとグルーヴが生まれるはず、もっと高揚するはず、というこちらの期待値に届きません。
その違和感が演奏が進むにつれて大きくなっていくと、「コレってもしかして、ボードレール的な奇妙さ?」という考えが湧き上がってきました。
終盤、第一ピアノの呼びかけと第二ピアノのズズン、ホルンの呼びかけと第二ピアノのズズンからの収まりが、なんとも不気味な感じがしました。
●第2楽章
予習の項にも書いていましたが、私は「アデス:ピアノと管弦楽のための協奏曲」で杉本氏「海景」を感じたような、沈むような(あるいは重力が感じられないような)質感を期待していたのですが…少し異なりました。
水が落ちる水琴窟の様なイメージだとおっしゃる方もいらっしゃったのですが、そういう意味では「アダムズ:悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか」の方がそのイメージ。
トリスターノ氏とヴァイオリンのパルス感が本当にとても素晴らしかったことは言うまでもありません。
角野氏のピアノは音源で聴くよりももっと生命力を感じるというか…第1楽章のカオスと同様に生物としての「力」を感じました。
音楽的にはミニマル的なのですが、表現とはたぶんクラシック的な揺らぎが含まれているのでしょう。
中盤以降、弦楽器が前に出てきて間に第一ピアノが短音で入るところ、第1楽章の第二ピアノの「相の手」と音楽的に近いはずなのですが、空虚さを覚えました。
オーケストラの音の間に入るので、全体的にもっと音の厚みや重さを感じて良いはずなのですが、オケも含めてあえて「間」のようなスカスカ感が残るよう感覚で、質感が通常の協奏曲とは少し異なるのです。
その後、第3楽章に向けてグルーヴが盛り上がってはいくのですが、その空虚感は続き、角野氏としてはあえて高揚感を押さえている感じすら漂っていました。
この状況を説明するのはとても難しいのですが、そのグルーヴはラベック姉妹の音源程度にはありますし、角野氏の演奏を余り聴く機会が無い方だったら「噂通りにグルーヴのある演奏」と認識してしまいそうな、そういうギリギリの和感です。
●第3楽章
第2楽章のグルーヴから繋ぎ目はなく一気に第3楽章に傾れ込むのですが、ここからはまさにミニマル!
第2楽章で感じたような情緒性はなく強い推進力で進んでいく…はずなのですが、やはり角野氏としてはドライブ感が不足している印象。
というか、いつもならこういう盛り上がりには没入感が発生するのですが、それが無いのです。
これが偶々そうなったものなのか、もしくはボードレール的な解釈を試みた結果なのか、私には判断が付きません。
その後、緩徐楽章のようなカデンツァは雫が落ちるような音色がとても美しく感じられましたが、内観性は余り感じられません。
記号の種類は「シグナル>インデックス>シンボル」と構造的に情報量が増えていくのですが、いつもの表現がシンボル(多様なイメージを象徴する)やインデックス(イメージとの直接的関わりを示す)だとすると、シグナル(意味的な情報が最も少ない)的な印象なのです。
音楽的にはその前のミニマル様式から一旦外れてはいるのですが、表現としてミニマルな無機質感が続いているとでも言うような。。。
終盤のクライマックス、ラボで「戦闘音楽」と語られていた部分から終わりの部分では、ラベック姉妹の演奏と顕著な違いを感じました。
ダダダンダダダダンと繰り返えすフレーズでは、頭だけに強いアクセントが置かれ、それが段々とクレッシェンドするノーマルなクラシック的演奏になっていたのです。
これはオーケストラ全体の表現なので、ヴァイグレマエストロの解釈でしょう。
「曲の終わり方が唐突」というご感想もチラホラ見たのですが、この終わり方になったことで私自身は明確な「終わり」、記号分類で言うと本来は「シグナル」としての終わりだったものを、ヴァイグレマエストロがクラシック的手法を取り入れて「シンボルにした」という様な感覚でした。
●二日間の違い
実は一日目は不完全燃焼だったのでは?というご感想を複数目にしました。
それは席による音の違いかもしれないのですが(東京芸術劇場は席による音響の違いが顕著という余り良くない評判を事前に確認済)、角野氏のラボの言葉から「思っていたのと違う?」と感じられる方がいらっしゃるだろうな…と。
そこで下記のポストをしてみました。
鑑賞や感じ方はそれぞれ異なるものなので、正直おせっかいな事なのですが、ラボ的な解釈で観ていると「?」になってしまうので、ボードレール的解釈の可能性を広げることで納得感に繋がれば良いなあ…と。
なぜなら、アデス氏やアダムズ氏のピアノ協奏曲をすでに聴いている場合、この曲自体に語られていた「奇妙さ」を感じることは難しいからです。
逆に、初めてこういう現代曲を聴いたファンの方は、この曲自体に不思議さを感じラボとの遊離には気づかることはなかったでしょう。
そして二日目の演奏。
同じ演奏は行わないというス角野氏のスタンスからなのか、最終公演ということもあったのか、「角野氏だったらもう少し感じるはずのグルーヴ感やドライブ感」は、まさに「角野氏だからこそ感じられる没入感のある「グルーヴ感やドライブ感」になっていました!!!
二日目をご覧になった方は、まさにラボでお話があった現代音楽としての楽しみ・喜びが感じられたと思います。
一日目の解釈は、手がかりがあれば多くの方に鑑賞を堪能頂ける可能性はあったはずなのです(好みの問題は抜きにして)。
本来は鑑賞ガイドとして存在するはずのラボが、かえって疑問を抱かせる要因の一つになった気がしています。
演奏としてどちらの演奏が良いとか悪いとかではなく、一日目の演奏は「音楽以外の何か(コンセプトや説明)」を必要としていたかもしれません。
それを独立した音楽としての完成度の低さと捉える場合もあるでしょうが、角野氏の場合は必ずしも音楽だけでその表現を完結させる必然性も感じないので、逆に言えば今後の可能性がさらに広がったとも感じました。
そう考える一方で(自分で現代アート的解釈を期待していながら無責任かもしれませんが)現代アートのことなど何も考えずに演奏された緩徐楽章のアデスは「海景」の様でしたし、アダムズはビスコンティの映画の様に感じることができました。
が、今回の演奏はそこまでの陶酔感はありません。
その理由を自分なりに考えてみると、一日目はアート的解釈として俯瞰的な構築性・全体性が優った結果に感じられ、二日目はいつもの角野氏のグルーヴが楽しく聴けたということなのではないか…と。
角野氏の表現はミクロとマクロが同時に成立する事で通常の音楽表現の次元を超えてきます。
やはり、この絶妙なバランス感こそが誰も真似ができない最大の魅力なので、鑑賞結果にそれが大きな影響を与えている気がします(中間領域好きの私としては特に)。
今年はKEYSツアーを含め、これまでになくバランスが崩れたと感じる事があったのですが、それだけ様々な新しいことに挑戦されている結果だとも思います。
それ無くしては新たなクリエイティビティは広がりませんし、色々な事に挑戦されているなかでも「角野氏らしいバランス感」の安定度は確実に増していますので、やはり天賦の才=センスによるものなのでしょう。
今後に益々期待してしまいます!
<アンコール リチャード・ドロニー・ベネット:「4つの小品組曲」から第4曲「フィナーレ」>
大阪でこの曲名をポストして下さった方がいらっしゃったので、事前に数回聴いてはいたものの、まったく別物という感じ。笑
ジャジーでノリノリ、スナップフィンガーも入り本当に楽しかったです。
この曲が選ばれた要因として、ウィーンでのお二方のコンサートでも演奏されていたと投稿して下さった方がいらっしゃいました。
私としては、タイトル「4つの小品組曲」というのがウェーバーの「4手ピアノのための6つの小品」に近い様な気がしていたのです。
音源で聴いていた原曲は「ヒンデミット:〜交響的変容」の第2楽章のジャズ味に近く、大衆音楽的な広い様式を指していた時代的空気も感じたからです。
実際の演奏は圧倒的にJazzyだったのですけれど、そういう時代による様式概念の変化も含めて、すごくこのプログラムにふさわしい選曲だなあ…と思いながらノリノリで聴いていました。
一日目と二日目は音楽的にはきっと異なるのだと思いますが、細かい部分は私にはわかりませんし「楽しいスウィング感」という解釈としては同じでした。
<ウェーバー:歌劇「オイリアンテ」序曲>
憩中にステージからピアノが片付けられました。
予習時から唯一この曲だけ「ノーマルなクラシック」だと思っていたのですが…実はちょっといわく付きだったことが当日配布されたパンフで判明。
それは後ほどの「全体のプログラムについてのまとめ」で記載します。
歌劇「オイリアンテ」のストーリーはわかりませんが、明るく華やかに始まりました。
三拍子でははないのですが、ワルツような躍動感です。
私が事前に聴いていた音源(全体にサラッと聴ける音が好みのため大抵テンポが早い曲を選ぶ)よりもテンポが遅めで、クラシックとしての王道感はありますが、決して重くならない舞踊的な質感。
御伽話系のアニメのシーンにあるようなお城の舞踏会に向けて色々な人が準備している感じ。
そこから場面が変わり静かになり(テーマは生かされて変容していく)、テンポもさらにゆったりとなりビオラ?のメロディが美しく優しく響いてきます。
曲調に合わせてテンポも少しUPし、煽られるように高揚したかと思うと、ふわっと鎮まり‥
やわらかいフワフワした真綿のようなものの内側から音が広がっていき、振るわせるような弦の響きで不思議さを醸し出されると…威厳のあるコントラバスが登場!と、まさに御伽話。
その後、クライマックスに至るまでテンポ変化の繰り返しが続いていくのですが、単調でもなくやり過ぎ感もなく本当に「いい感じ」なのです。
後半のティンパニーが入る所もゆったりと王道感あふれていましたが、そこからまたテンポアップして‥また落ち着いて…みたいな、、、
一体いつ終わるんだ(笑)というクラシック特有の山をいくつも超えて終わりましたが、とても聴きやすくて感動しました。
前述したようにテンポの緩急が激しくどっしりしたクラシック然とした演奏が苦手なので、緩急のあるゆったり目のテンポ感やクラシック特有の繰り返しでも重さやしつこさがないヴァイグレマエストロと読響オケの演奏に心から感謝です。
今回、チケットを自分好みの席で観るために(上座の端ではありましたが、聴くには好条件だった)1万円の個人賛助会員になったのですが、読響をサポートできた事が嬉しくなったと、友人に語ってしまったほどです。
とはいえ、基本は王道クラシックなのでこの曲に関しては1日目と2日目の違いを語れるほどではありませんが。。。
<ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容>
●第1楽章
元曲の「4手ピアノのための『8つの小品』作品60の第4曲」では、少し民族色を感じる軽やかな舞曲のようなのですが、いきなり魔王感満載でティンパニーと低音が響きズンチャズンチャと始まります。笑
曲調は一旦軽やかな曲調になるのですが、ヴァイグレマエストロの指揮では圧(気)は抜けずに維持されていました。
中盤は吹奏楽器メインに音量も小さくなり、様々な楽器の音が入れ替わり立ち替わりしながらも、基本はマーチ的なリズム・ドライブ感が音楽を先導していました。
メロディは同じにも関わらず、元曲の軽やかで上下に跳ねる質感から重く推進力のあるドライブ感を曲の中心に据えた変化で、タイトルにわざわざ「変容」を用いている意味がよくわかります。
変奏と変容とどう違うのか音楽概念のことはよく分かりませんが、一つのテーマを多様な変化で聴かせる「変奏」は、クラシックの手法で主題をどう変化させるのかに意識がある様に思うのですが、この「変容」は元のメロディに対してヒンデミットが抱いた別の印象をさらに拡大するようなイメージがするのです。
つまり、変化の違いからヒンデミットの目の付け所を楽しむ鑑賞が可能というか。
だからこそ、音楽理論がわからなくても「ああ、縦ノリを前方へのドライブ感に変換したのね」みたいなも実感が得やすいのです。
このnoteのテーマでいえば、音楽変化を感じる行為が主観的・ナラティブな視点で成立するという事です。
最後は盛大に盛り上がったのですが、それで「世界が開かれた」という印象を持ちました。
●第2楽章
最初に鐘の音が聞こえてきて、コントラバスの小さい音がかすかに響いています。
メロディが始まると、元曲「ウェーバー:トゥーランドット序曲」に対しする「変容」として使用楽器は異なっていますが、第1楽章の様な分かりやすい質感変化はありません。
ですが、元曲と調を変えているのです(第1楽章はそのまま)。
どの調からどの調に変えたのかは絶対音感も調性の知識もないのでわかりませんが、調を変えた理由はわかります。
今春のツアーKEYSの「24の調によるトルコ行進曲変奏曲」のお陰で各調にはそれぞれイメージがある、という他の方の投稿から知識を得たからです。
とはいえ、それは単なる知識でしかなく実際に元の調性が何でそこからどう変化したのかはわかりませんが…。
元曲は、バレエ「くるみ割り人形」や「マーメル・ロア」に出てくるような可愛くエキゾチックな中国のイメージがあったのですが、ここでは北京の静かな朝霧の湿度感や段々と街が目覚めていくようなイメージが立ち上がってきました。
御伽の世界ではなく、人が多いザワザワした北京の街に近い印象です。
やがて不協和音的に様々な音が鳴ってくると街中の喧騒がイメージされます。
中盤、ビッグバンドのジャズのようなを展開に感じられたのですが、予習時の音源との感覚の違いに驚きます。
音源ではこの変化の落差が大きく二つを結ぶ弦の表現もインタールードの様な「つなぎ」的印象なのですが、コンサートでは活気ある街の様子がガーシュウィンによるNYの喧騒のように聴けていたので、ジャズ的展開が自然に人々の営みや活気ある街の様子として感じられたのです。
ジャズ展開から大きく盛り上がり、最後に鐘が鳴って静かに音楽が収まっていく所もやはり、一日の終わりとして感じられます。
さすが、ヴァイグレマエストの解釈はとても物語的です。
その「物語」はストーリー感情やストーリーを音楽で表現するドラマとは異なる「自分がその事象(物語)に対峙しているようなリアリティ」で、観能時の感覚にとても近いなあ…と。
そう、ストーリーではなくナラティブなのです。
●第3楽章
元曲の「4手ピアノのための『6つの小品』作品10aの第2曲」は実は探すのが一番大変だったというか、現代風の演奏がなく古典的な強弱の無いピリオド楽器?という様な演奏しか見つけられませんでした。
それの何が問題かというと、曲が持つ音楽性のとヒンデミットが考えた「変容」という現代的(当時)解釈の間を埋められなかったからです。
ウェーバーが作った当時の様な表現とヒンデミットの曲との差を考えるべきなのが本当かもしれませんが、私にはそこまでの音楽知識と古楽的な表現を楽しむ感性もありません。
また、個人的にはヒンデミットがその当時の古典的演奏からこの曲を着想したとは思えないのですよね。。。
他にSpotifyで選んだ元曲3つはもっと「ワーグナー以降のクラシック」という表現性の中で演奏されていて、たぶんヒンデミットもその流れで元曲を聴いていたのではないかと思われるからです。
私見ですが、演奏数(割合)からすると古風な原理主義的解釈は割と最近のものだと考えられるのではないかと思ったので。
漸く本題。
私が聴いていた元曲は室内演奏を前提としてチェンバロっぽい装飾音も多く鍵盤楽器として整っていましたが、抑揚に欠けていました。
ヒンデミットは調を少しあげて吹奏楽器から始める曲にしているのですが‥
またもや聴いていた音源とコンサートでは全く違う質感です。
より緩徐楽章としての表現として繊細で、田園の朝が少しずつ明けていくような風情。
イメージの後方でズーンズーンと鳴っている低いコントラバスは音楽的な強調ではなく、イメージの水平性・広がりに感じられます。
後半から弦が奏でるメインのメロディにフルートの別フレーズ(専門用語としてはオブリガードと言うらしい)が入るのですが、それがもう…本当に本当に素晴らしかった!!!!
主旋律に対して目立ち過ぎているわけではないのに伴奏とは明らかとは違う表現性で、言葉を失うほど美しかったです。
「トリスタンと〜」の時のフルートも本当に美しかったので、この日演奏されたフルートの方(たぶんフリスト・ドブリノヴ氏)には感動しました。
●第4楽章
元曲の「4手ピアノのための『8つの小品』作品60の第7曲」を行進曲としてアレンジしているのですが、冒頭からちょっとファンファーレ的な管楽器が入り、断然ジョン・ウィリアムズ風。笑
他の方のご感想でも、スターウォーズ味を感じられたとありましたが、まさに!
そして、やはりヴァイグレマエストロと読響のドライブ感・観客を引っ張っていく牽引力は音の強弱や中盤の柔らかい曲調とも関係なくキープされています。
このドライブ感マシマシの演奏は本当は爽快でカッコ良くて、大満足でした!!!
アンコールはありませんでしたが、何度もマエストロがカーテンコールに出てきてくださり(フルートの方を最初に紹介された!)、会場も大きな拍手でいっぱいになりました。
●二日間の違い
実は一ヶ所だけ大きな違いを感じたところがありました。
一日目は1階扱いのバルコニーの様に少し高くなっているところで、二日目はほぼ同じ位置の1階の席だったのに音響の違いがあったのです。
一段高くなっている方がピアノの音が良い可能性が…と期待していたのですが、東京芸術劇場では1階の方がピアノもオーケストラもくっきり輪郭のある音と響きが実感できました。
第3楽章の繰り返しが続くフレーズで盛り上がった後、ヴァイオリン全体で歌うような所があるのですが、コンサートマスター(たぶん長原幸太氏)のヴァイオリンの音だけが表現に色をつけているというか、音を伸ばす長さも少し長かったのです。
ソロ演奏とは異なりますが、明らかにリード演奏としての違いを表現されていました。
また、全体的な印象は一日目も二日目もほとんど違いはないのですが、やはり音が素晴らしいと感じられた分だけ「その美しい音楽にただ身を任せる」という感覚が大きく、ここに書いた感想の多くも1日目にメモした内容です。
やはり主観的な心地よさが高まると、感覚は抽象的になるのだとと実感しました。
<全体のプログラムについて>
このプログラムは主題を引用したり元曲が4手のピアノ曲として共通だったり、ヒンデミットもワーグナーもウェーバーをリスペクトしている等、様々な繋がりがあります。
なのですが、パンフレットに書かれていた内容は運命のイタズラなのか皮肉なのか…というような出来事ばかり。
歌劇「オイリアンテ」は台本の評判が悪く、オペラとしての上演は稀で序曲だけが良く演奏されているのだとか。
また、「〜交響的変容」は最初にバレエ音楽として構想・依頼があったのに「少し尖った」編曲のため立ち消えになった為、後でそれを下敷きに完成させたとありました。
さらに、ヒットラーが熱烈に愛したワーグナーに対し、ヒンデミットはナチスに迫害を受けアメリカに亡命、この曲が書かれたのです。
第1楽章の魔王感も第4楽章のカッコイイドライブ感も、バレエ曲であれば別の表現性になっていた可能性がありますし、後の依頼は吹奏楽教授によるものだったため吹奏楽器が印象的な箇所が複数あり、後にはヒンデミット自身による吹奏楽バーションもつくられたほど。
もしオペラの脚本が良かったら、もしバレエ曲として発表されていたら、もしナチスに迫害され亡命していなければ、現行の作品にはなっていなかったかもしれません。
ここでは作者の意図として現れている「関連性」と、偶然的結果として存在する「現在性」という、哲学的な問いの様なものが感じられます。
また、私自身も音楽にどっぷり浸れば浸るほど抽象度が高くなり、その音楽への観察が弱まるという体験をしました。
始まる前は作品の関連性がわかるような時系列の演奏が面白いのではないかと思ったのですが、この演奏順のお陰で作者の意図だけでその作品が生まれていないという所までを考えるきっかけになりました。
途中にノーマルな「オイリアンテ〜」が挟まれている感じも絶妙で、終わってみるとこの順番で演奏される事がやはり一番素晴らしいのだ!と実感できいました。
<余談:指揮棒を下ろすタイミングが長かった事について>
開演前、指揮者の指揮棒が降ろされるまで拍手はしない様にアナウンスがありました。
私は余韻を楽しみたい派なので(このnoteにも何度かフライング拍手に異を唱えてします)事前のアナウンスは嬉しかったのですが、タイミングに注目してみると、「ワーグナー:トリスタンとイゾルデ〜」は通常ではありえないほどとても長いものでした。
一方、「デスナー:2台のピアノのための協奏曲」と「ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容」は通常より長めという程度ですが、「ウェーバー:歌劇 オイリアンテ 序曲」は普通のタイミングで下ろされていましたので、意図的に長かった訳です。
読響主催のコンサートであえてアナウンスされている事を考えると、ヴァイグレマエストロは余韻を大切にされる指揮スタイルだと思われますが、「オイリアンテ序曲」は、ヒンデミットの「〜交響的変容」に繋げる意図が考えられ、この1曲だけ短時間だった事には納得できます。
では、なぜ「トリスタンとイゾルデ〜」だけがとても長かったのか。。。
Xではその事に違和感を覚えられたというポストもみかけたのですが、私には全く違和感がなくその時間を両日ともに味わいました。
実は日曜に観にきていた友人がこの直後に一言、「能みたい」と言ったのです。
言われるまで気づいていなかったのですが、確かに。
改めて考えてみると、もしかしてヴァイグレマエストロは複式夢幻能を意識されていた可能性が考えられるかも…と。。。
能の場合は上演が終わってすぐは拍手せず、橋掛かりを通り揚げ幕に入る直前に拍手する事が常となっています(我慢できずに橋掛かりの残り1/3位で拍手される方々は当然いらっしゃる)。
戯曲は終わっているのでそこには物語のイメージは存在しないのですが、演能から発せられていた「気」が空間を支配します。
単純に演目(物語・内容)の余韻というよりも、能楽師というリアルな存在と能そのものを同時に存在させる抽象度の高い感覚なのです。
あるいは、役から素の能楽師への移行期間と言ったら良いでしょうか。
オペラを得意とされていらっしゃるヴァイグレマエストロが、日本のオーケストラの常任指揮者となられる時点で日本文化や能に対し関心を寄せていらっしゃるだろう事は予想できますが、幕や暗転を終演の区切りとしない部分にはオペラとの共通性も考えられ、能の終演様式に興味をお持ちになった可能性は考えられます。
終演時の「橋掛かり〜揚げ幕」までの時間をどう捉えるかには諸説ありますが、複式夢幻能(成仏できない霊が夢として顕れ僧侶が成仏させる)では戯曲の表現性と関連する解釈があります。
それは「僧侶であるワキが霊であるシテを見送る」という意味です。
橋掛かりは、「あの世(幽り世)」と「この世(現し世)」を結ぶものとして名付けられています。
「橋」はその2つの世界を繋げる装置であり、その異なる2つの世界を行き来する間に存在し(またもや中間領域!笑)、シテの幽霊が幽り世に行くその間を舞台上に残るワキの僧侶が送ります。
戯曲の役柄が幽り世に行くことで現し世の能楽師としての人間が顕れてくる、橋掛かり上の人物は役から離れて段々と素の能楽師に戻ってくるのです。
つまり、劇中の後半は夢ですから現実世界においては「虚」、物語世界の幽り世への送りが現実世界の帰還です。
この解釈で終演からヴァイグレマエストロがタクトを下げるまでの時間を考えると、死を迎えた二人の存在・曲の物語性を、幽り世に送っている時間として捉えられるのです。
もちろん、私たち観客も含めたその場の人が現実世界に戻るための時間でもあります。
あくまでも能的な解釈ですが、そう考えれば「トリスタンとイゾルデ〜」にだけタクトをおろす時間が特に長かった事に納得できてしまうという事です。
ナラティブが還元する抽象性
<ナラティブが還元する抽象性とは>
感想の冒頭に書いた「日曜美術館 時を超え、自由に 日本画家・福田平八郎」(感想の前にリンクしたものとは別でこちらの方が詳しい)ですが、この作家には常に「写実なのか、抽象なのか」という問いが付随します。
それを別の角度から言うと「ナラティブかミニマルか」という問題でもありますが、記号として考えるとシニフィエの要素が多いか、シニフィアンに偏るか、という事でもあります。
通常は「ナラティブとして物語性があるものはシニフィエ的要素が大きい」「ミニマルは記号として意味内容を持たないシニフィアンに偏っている」ということなのですが、平八郎の作品はこのカテゴリー分類が当てはまらないのです。
実はこの前に放映された「美を見つめ、美を届ける(1)奇想の系譜 辻惟雄」「美を見つめ、美を届ける(2)名画を見る眼 高階秀爾」とも関連してきます。
シリーズ(1)の日本美術史 辻氏の特集最後に西洋美術史の高階氏との対談が行われ、(2)の高階氏特集に続いていきました(「Switch」の様な手法)。
辻氏が印象批評に近い自由に作品を解釈される研究なのに対し、高階氏は様式や持物の分析から割と厳密な解釈をされるスタンスだったはずなのですが、(1)の対談では高階氏から古代ギリシャ哲学からの引用で西洋美術と日本美術の共通性が語られ本当に驚きました。
実際にはギリシャ哲学の後にキリスト教の展開があるのでこの概念は引き継がれているとはいいづらいからです。
(2)での対談でも、具象から抽象への変化に対してモンドリアン 「ブロードウェイ•ブギウギ」を例にされていたのですが、モンドリアンは一度完全に意味を消去した「コンポジション」シリーズを描いた後、晩年に意味のある抽象作品として描いているので、表現としては二つの中間に位置しますが具象から抽象への変化という時系列からは外れるのです。
そして、意味のある抽象はこのnoteに何度も書いている様にとても日本的な表現なのです。
結果的には、「〜『角野隼斗のはやとちりラジオ』1/12〜」で書いたブルーノ・タウトの桂離宮や能に対する誤解された「抽象」の捉え方の様に(作用としては真逆ですが)日本的抽象を西洋美術の抽象画概念に通じるものとして誤って認識させる行為なのです。
実際のモンドリアンは、「りんごの木」の連作で抽象化に向かい、描いた内容を無意味化する「コンポジション」に至るのですが、それが美術史としての抽象化の潮流です。
「ブロードウェイ〜」はその後のモンドリアン個人の表現性でしかないため、対談のように美術史の抽象化への概略として用いるには相応しくありません。
なぜ高階氏が美術史的誤解を招く様な話をされたのかわかりませんが、対談では美術史家の一般社会への役割について話されていたこと、今年3月(昨年度末)に大原美術館館長も辞された事(現職はほとんど名誉職のみになられた)も無関係ではない様に感じます。
美術史的にはミスリードを誘うような事であっても、世界が分断されている今「別の出自から見出す文化・芸術の共通性・共感性」には意義があり、引退されたお立場からあえて発言なさったのかもしれません。
たまたま先日の朝ドラでは、老齢の最高裁判事のエピソードに「出涸らしの役目」という言葉が出てきたのですが、まさに!と思いました。
●10/24 追記
本日、高階秀爾氏ご逝去のニュースが流れてきました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
日本的な「抽象表現」に近いというのは何かを書く前に、美術で用いている「抽象作品」の抽象の意味・概念をあらためて確認しました。
本来の「抽象」の日本語ておしての意味は「多くの物や事柄や具体的な概念から、それらの範囲の全部に共通な属性を抜き出し、これを一般的な概念としてとらえること」とあるので、必ずしも無意味である必要がありません。
ところが、西洋美術における「抽象絵画・抽象彫刻」では、その抽出する対象が目に見える表徴(シニフィアン)に偏っており、内容が無意味化する表現を「抽象作品」と呼んでいる訳です。
具象からの抽象には同時に捨象を伴いますが、「抽出」そのものよりも「捨象」に重きが置かれていると考えられ、当初は描かれている表徴としての形や色を対象としていたものから、やがては意味そのものも「捨」の対象となりました。
抽象化がさらに進むとその表徴そのものも捨象していき、色・形・質感などが最低限になる「ミニマル」に行き着きます。
なぜそうなったのかと言えば、西洋美術のアカデミーではヒエラルキーの頂点に「描かれている内容を重視した歴史画」を置いていたからで、アンデパンダンとして発表された印象派以降の抽象化への潮流は、同時にアカデミズムへのアンチテーゼ・カウンターとして成立してきた歴史性があります。
それが芸術界に取り込まれると(普及すると)、その反動として意味に重きを置く表現がコンセプチャルアートとして現れますが、同次元でそれを行えば以前に戻るだけなのd、え作品の外にある社会との関係性や芸術概念などコンセプトを重視する芸術が出てきました。
コンセプトは作品の見た目に対して構造化され、マルセル・デュシャンの様に、作品の見た目が通常意味する内容を裏切るか・不問にする作品となるのです。
一方、日本的抽象とは何かといえば、描かれた内容や目に映る象がどれだけ抽象的になっても、ナラティブな意味が消えないもの、もしくはタイトルでイメージを投影させ作品からそのイメージを想起させます。「見た目は抽象絵画の様なのに具体的な意味やイメージを感じる」というものです。
それは工芸分野の造形においても、幾何学的文様に対しも青海波の様に名をつけることで意味やイメージを想起させるたり(=装飾)、偶然できた焼物のムラに具象的名をつけたり(=見立て)の文化でもありますが、どちらにしても次元が異なる「見た目」と「想起されるイメージ」は対になっているのです。
日本人が前述したモンドリアンの「白と黒のコンポジション」の様な絵を描いたとしても、元イメージの「木」の意味をタイトルに残すと思われ、そのイメージ構造と同じなのが「ブロードヴェイ・ブギウギ」です。
一見すると幾何学的な抽象絵画の様でありながら、そのタイトルを知った途端にNYの喧噪や車が行き交う光を想起する「ブローフォウェイ〜の様な作品は、西洋美術の抽象化で起きた表現ではなく、とても日本的なのです。
すでに前置きに部分で結構な文字数になっているのですが、これからようやくこの項の本題です。
この「ブロードウェイ〜」を紹介している部分を番組で見た時、「福田平八郎みたい!」と思っていたのですが、まさかまさか…その翌週に「福田平八郎〜」が再放送されたのです。
西洋と日本の共通性を対談で語られている部分と余りにも繋がるので、何か意図があるのでは?と考えてしまった程ですが、どうやら大分で展覧会が始まった為の様です。
とはいえ、この3本を連続で観ると「別の出自から見出す文化・芸術の共通性・共感性」がとても説得力を持ってくるのです(一部は誤解ですが)。
そして、これからの未来に必要だと思われる共感性が美術から抽出されたかの様に感じました。
この平八郎の番組が余りに興味深かったので(具体的に写実と抽象のカテゴライズの問題点がわかるので)、「日曜美術館 選 時を超え、自由に 日本画家・福田平八郎」主要な部分を大まかに書き起こしました。
平八郎の表現や言葉からは、一見では矛盾に捉えられるようなものがあるのですが、作品としては破綻なく全てが美しく統合されています。
「写実(具象)と抽象」
「日本画の伝統とバウンダリーを超えた表現」
「子供の様な無作為(衝動性)と構築性」
私がこれまで西洋の抽象で「日本的抽象と似ている」と書いてきたのは、コンスタンティン・ブランクーシとアルベルト・ジャコメッティです。
先日終了したアーティゾン美術館でのブランクーシ展は、そのタイトルが「本質を象る」で、見た目の抽象表現ではないということを示しています。
平八郎が写実を極めて抽象的表現に至ったように、鳥を観察し尽くし、自らも「雄鶏とは私のことだ」と語るほど。
まさに雄鶏がそのまま感じられる造形と、鳥が飛翔する空間が実感できる造形です。
(展覧会での撮影及びSNS等の投稿許可有)
アルベルト・ジャコメッティは、陽炎の様に立ち上がったその一瞬の刹那を捉えた目の印象を形に残そうとしましたが、その質感が余りにも写実すぎて抽象化されてしまいます。
ブランクーシよりもまだ具象表現が残っているのでデフォルメの範囲と言えるでしょう。
そういう意味では(歴史性ではなく造形的に考えると)写実と抽象の間には確かにイメージが存在するはずなのですが、西洋美術ではカウンターカルチャー的な展開の方が強かったので逆に異端になるのでしょう。
「歩く男1」は群衆の一部として、人よりも「歩み」そのものが迫ってくる感じですし、「犬」は一匹の野良犬の辺りを警戒しながらトボトボと歩いている様子が動画の様に感じられます。
(展覧会での撮影及びSNS等の投稿許可有)
二人の作家の抽象ベクトルは、「対象が持つイメージの追求=写実的表現の先」にあるものです。
しかも、そのイメージは表現者が主観的に見出したナラティブなものです。
ブランクーシの鳥モチーフは出身のルーマニア神話から着想を得ている事(そもそもナラティブの語源のナトラジーは神話論から発生)、ジャコメッティの作品は日本人精神科医矢内原伊作の存在が大きいことから、西洋美術の本流とは異なる出自を持っていると言えるでしょう。
それはレヴィ=ストロースが語った「野生=原始的文化」に共通する部分であり、本来は日本に限ったことではないはずだからです。
その「共通する部分」こそが、レヴィ=ストロースが未開文化の研究から読み取った「構造」で(そもそもナトラジー自体がレヴィ=ストロースの構造論と神話論とに影響を受けている)、逆のベクトルに働く対立から解放するのです。
写実と抽象が二項対立になるのはその二つの概念を同一平面上で扱っているからであり、「幽り世」「現し世」の構造で考えるならば、「現し世(=眼に見える形)が抽象」でも「幽り世(=そこから想起されるイメージ)は実感を伴うリアルな表現」という解釈に矛盾は生じません。
あるいは、本地垂迹の仏が化身として現れた(権現)姿が神という捉えられる様に、仏と神は別の存在でありながらも同一であるという概念同様の視点であれば、現実に見える抽象と想起されるイメージとが異なる事に対して何ら疑問を持たないのです。
余談ですが、ザ・グレンリベットの森山未來氏との対談「THE 初対面」では(オリジナルのザ・グレンリベットの特設サイトは消えてしまったので、リンクはオリコンのロングバージョン)、様々な興味深いお話がありました。
なかでも能の「間」の話から「ハイコンテクスト」に話題が及ぶのですが、この「ハイ」は記号論の構造的な意味合いで用いられているので、高尚や高級という意味ではなく、意味は暗黙知・言語を用いない文脈を指します。一方、ローコンテクストは、その文脈が言語の構造内に収まっているという意味での「ロー」です。(この後に「ハイカルチャー」についても記述していますが、そこで用いる「ハイ」とは意味が異なります)
日本ではコミュニケーションの文脈は実態(言語)を伴わない暗黙知的ですが、文化自体がハイコンテクストなのでその構造や分類を自らは語らないのです。
一方、西洋は基本がローコンテクストなので、文化的な構造は一元的でも構造主義の後に発展した言語学や記号学の概念や考え方が様々な分野で応用されていて、その概念のお陰で日本文化が構造的に理解できる、という感じでしょうか。
文化の実情とその文化を説明する手法が逆という感じがしてとても面白いですね。
話題を戻します。
平八郎の作品に対して「バウンダリーを越えようとされた」という解釈にははもう一つの問題が隠れています。
区分や分類の発生は、整理する事で利便性が高いために行われたに過ぎなかったにもかかわらず、後にはとその区分や分類の範囲の中で概念が思考されるようになり、カテゴリーそのものが示す内容や事例に対して影響を与える様になります。
言語を中心とする思考が優位なローコンテクストの文化の方がその影響が大きいはずで、ハイコンテクストの日本はその影響から一部免れていた可能性も考えられます。
日本で描かれてきた絵画の伝統においては、抽象や具象という概念はなく土佐派や狩野派など「流儀(家)」として別の分類で受け継がれてきました(そもそも日本画という分類も西洋絵画に対して明治以降い作られた言葉)。
西洋的な分類が日本文化の中では成立していない状態(=未分化のまま)受け継がれてきたのです。
日本美術史の場合、「抽象」の代替として前述した「装飾」を用いることも多く、抽象絵画ではないものの見た目的であっても、抽象表現に見える絵画や工芸の作品が無数にある訳です(以前「〜本阿弥光悦〜」に書いた俵屋宗達の下絵なども!)。
平八郎はそれを前提として「日本の伝統の基礎」と語っているのですから、一元的に「バウンダリーを越えている」と評するのは誤りです。
ですが、平八郎が活躍した時代ではすでに西洋美術のカテゴリーは普及しています。逆に言えば、だからこそ「日本の伝統の基礎」にこだわったと言えるのではないでしょうか。
西洋美術とは視点を異にする別軸で日本画を語ることで、カテゴリーにとらわれない自由を確保し、さらにはそのカテゴリーを未分化な状態に還元していると感じられたのです。
平八郎のクリエイティビティ(個性・創造性)としてはただ一つの表現ですが、相対的な視点で見え方が変わってくる事を平八郎自身が熟知し、自身の表現性を構造的に(俯瞰的に)考えていることがわかります。
「子供の様な衝動的無作為と構築性」については、禅に代表される仏教の影響を考えれば、この二つの同時成立性を尊ぶ事は文化的な必然とも言えるでしょう。
それらを同時に成立させることは禅問答のように難しい事ですが、だからこそ価値を置くのが日本的なのです。
それは、表現者の意図や構想を排除する抗いでもなければ、偶然性に身を任せるアクションペインティングの様なものでもありません。
その表現の衝動的発露を、いかに表現に落とし込むのかを構築的に探るようなクリエイティビティです。
平八郎の場合、その「構築的に探る」の段階が写生だったのでしょう。
自らの無作為な衝動性を実現するために写生に基づいて構想を練り、構造的な抽象表現を志したといえるでしょう。
ちなみに「未分化に還元」されたものはカオス状態なので、取捨選択で抽出する抽象とは異なるのですが、意味付された概念からは離れていくという意味での抽象性(≒非言語化)が成立します。
言語や概念から解放されたカオスな世界はまさに原始的ともいえ、あらゆるものが記号化・言語化された現代において、唯一それらと距離が保てるものとしての価値が、芸術には存在します。
芸術体験について書き記す場合、言語化できないことを自明とする「不可能性・不確実性」を前提とする必要があり、だからこそ「主観的視点」が重要になるはずなのです。
私がここで書いている「ナラティブであること」は、物語的である以上に「主観的であること」あるいは「一人称としての視点」という意味が大きいのです。
それは、自分が経験した事象やエピソードを一人称として感じることがリアルな芸術体験やイメージだからです。
ここでようやく読響の演奏に戻ってくるのですが、この視点での鑑賞は伝達する他者の想定も客観性を意識する必要もないため、日々の漠然とした体験や夢などに近く混沌とした抽象度の高いイメージになります。
今回の「トリスタンとイゾルデ〜」は、まさに自分が夢を見ているような感覚そのままに感じられたというのは、そういうことです。
●「トルコ行進曲変奏曲」
そして、このnoteを延々と書き続けていると(書いているタイミングは実は頭からではなくバラバラ)、角野氏関連のトピックが増えてしまう訳です。苦笑
7/10には久しぶりのYouTube動画「トルコ行進曲変奏曲」が発表されました。
これ「アンソロジーが還元する(ナラティブな)抽象」になる?!と、ちょっと驚いてしまいました。笑
コンサート前「トルコ行進曲」の意味を調べたり、実際のコンサートで聴いたりしても全く感じなかった「うわあ〜〜トルコ(国)!!!」という感覚になったからです。
(タイトルとナラティブの位置が異なるのは、一曲としての認識とアンソロジーとしての区切りをどこに置くかの違い)
KEYSでの演奏では、クラシック的編曲、それも有名な曲やジャズ調などの様式を引用することと調性の変化が同時に行われているので「きらきら星変奏曲」と同様の変奏曲としての特徴を出した編曲だと感じられました。
ところが、今回は途中にわずかなジャズっぽさがあっとはいえ、全体がクラシック調に美しく統合されています。
しかも、冒頭のメロディのタララララのタラだけのタイミングが振られていて、それがジャズっぽくもありバロックの装飾音風でもあり…これはなんというか、様式を超えた新たな自由な表現段階が来た?!という感じ。
様式的変化は調の変化にあわせて当然行われていますが、全体に段差のない繋がりが強くなることで一曲としての抽象度が高くなった結果、私の中の「トルコ」が想起されたのです。
私は調に対してのイメージはありませんが、絶対音楽がある方や調へのイメージを知識としてお持ちの方は、また別なイメージを持たれるでしょう。
平八郎の項の千住氏の言葉のとおり、「芸術作品というのは、見る人の記憶に触れる」という、そういう現象に至らしめる抽象という事です。
その音楽が何を指し示しているか一つに解釈を導く表現ではなく、解釈も含めて自由なのです。
平八郎がそれぞれ写実を極めるためにあらゆる写生を行い、赤と黒しか描かれていないロスコや子供の絵を本気で模写し突き詰めた結果として、様式からも自由な作品を描く事ができたみたいな。。。
千住氏は他の部分でも音楽という言葉をあえて使われていますが、絵画や美術ではなくあえて「芸術」を用いた事は意図的なはずです(ご兄弟は音楽家の千住明氏と千住真理子氏)。
ただし、この「自由」には、制約が無いという意味ではありません。
自身が日本文化や日本画の伝統にこだわっているように、本人が定めた基準は絶対にあります。
その制約を規定するものがハイコンテクスト的だったり構造的だったり…もしくは独自解釈的というか…カテゴリーとして示されるような単純なものではないという事だと思うのです。
確かPenthouseの浪岡真太郎氏が制約がある場合と無い場合とどちらが作りやすいか質問を受け、「同じ」と答えられていたのですが、まさにそういうことだと思います。
実際には周りから見えないそういう部分に、個性や創造性が最も強く反映しているのではないでしょうか。
「ファーストライン」のネタバレの部分で書いているのでスキップされる方用にここにも書いておきますが、抽象度の高い表現性と意味(あるいは想起されるイメージ)という日本的な構造的表現は、アニメを通じて世界に広がっていったのだろうと考えています。
それがSNS時代のナラティブなコミュニケーションにも影響を与えているだろうということも。。。
●アルバム「Human Universe」
さらに、7/12には10/30発売のアルバム「Human Universe」の情報もオープンになったのですが、抽象から想起させるという意味で「ノクターン」にタイトルが付いていた事が個人的にはとても嬉しかったです。
このジャケット、見た途端に有元利夫(wikipedhia)!と思ってしまいました。笑
月を描いた有名な作品がある訳ではないのですが、よくよく考えてみると…
平面的な月(もしくは星?)のテクスチャーが印象的で、この空間自体が鏡面の床に反射するしているので、空・宇宙を平面的に描く有元のフレスコ画的テクスチャーとその浮遊感に通じたのでしょう。そしてなんといっても空間に漂う静けさに一人佇む人の存在。
とはいえ、見比べても具体的に似ている部分はないのですから、この連想力には自分でも不思議になります。笑
調べたら、つい先日までギャラリーで展示が行われていました!!!
上記wikiより「バロック音楽を好み、自身でリコーダーの演奏もした」ということで、この作品は「サラバンド」というタイトルです。
有元には音楽をテーマにしている絵がたくさんあるのですが、そういう事も急にワッと思い出されました(有元っぽいと思った後の話)。
当時バロック音楽を聴くきかっけは確かにあったのに自分が好きな演奏に辿り着けなかったので、もし今みたいな音楽環境だったら……と思わずにはいられません。
その後さらににスマホ特典用の縦型情報を知ったのですが、縦型の人物センター配置だったので、さらに佇まいも近い感じですね。笑
おまけ1 :「ファーストライン」に関して
※期間限定テキストを削除済
以下ネタバレ
(ネタバレ部を飛ばし「おまけ2」をご覧になる方は冒頭目次からどうぞ)
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<映画「ファーストラインの感想」>
「ファーストライン」の第一印象は、なぜ今頃こんな昭和の描写をしたのか…という疑問でした。
学生時代の夏休み(=昭和)、大泉学園の東映動画(現・東映アニメーションの)の見学会に行った事があるのですが、そのスタジオこそがファーストラインの世界なのです。
東映が日本初の長編フルカラーアニメーションを制作した「白蛇伝」を調べていたところ(後述)、「予告 白蛇伝」(1:25〜)に当時アジアの最先端と言われていた東映動画のスタジオ風景が写っていました。
私が見学した頃にはトレスは機械化していましたが景色はほぼ同じ、デスクの棚は「ファーストライン」とも完全一致しています。
見学時の説明では動画をセルに転写する機械(紙とセルの間にカーボン紙のようなものをはさみバシャっと光か熱を当てて転写する)の関係で、どれほど綺麗な線を描いてもザラザラしてしまう…というお話を聴いた記憶があり、それが「ファーストライン」でも用いられていた「荒れた黒い主線」です。(自分がトレス機について質問したのでとても良く覚えている 笑)
画中で描かれている原画の紙などは赤い線が使われているので、セル画を用いたアナログ手法の制作ではない事がわかる以上、故意にアナログ色を強めた「線の質感」だと思われ、その質感は題字「ファーストライン」にも繋がってきます。
主人公はダボダボしたズボン「ボンタン(死語)」を着用、ベルトの上に大幅にはみ出すズボンのシワは、私の年代でも「巨人の星」や「明日のジョー」などの古いアニメでしか見たことがありません。
襟の形、チョッキの縁、メガネ、爪の描かれ方など、今ではみられない昭和の様式です。
ちな監督が中学生の頃影響を受けた映画とおっしゃった新海誠監督の「秒速5センチメートル」にもそんな描写はありませんし、アナログ制作でしょうがトレース機も精度が高まったのかここで描かれているより美しい線でした。
もちろん、首から下げたストップウォッチと手書きの表によるカット(シーン?)の管理は現代では考えられないでしょう。
労働基準法が無視されたような勤務形態に対しても、逃げ道として過去の設定だから問題視されないという事なのかもしれません。
劇中の監督は「君たちはどう生きるか」の青サギのような赤鼻で、監督でありながら原画が一晩で描ける描写技術を持つ設定など、NHKの宮崎駿特集を観た人なら氏のメタファーだと思うでしょう。
※この部分を書いたのは7/3ですが、の7/6にちな監督がこんなポストをされていました
宮崎氏は「白蛇伝」をきっかけに東映動画に入社、アニメーターとしてのキャリアをスタートさせたので、このスタジオに存在する妥当性があります。
また、主人公が渡された台本のタイトルは「ファーストライン」と書かれていて、そこには主人公の肖像がそっくり描かれているのです。
つまり、劇中で主人公が描くカットは、まさにこの(脚本の)「ファーストラインの最終カット」という「閉じられたループ構造」になっているのです。
「君たちは〜」も時間のループになっていますし(新海監督の「すずめの戸締まり」もですが)主人公が夢想するシーンは「君たちは〜」の崩壊シーンを思い起こさせます。
J-wave「TOKYO TATEMONO MUSIC OF THE SPHERES」6/23にちな監督が出演された際、「将来に向けて不安を思ってる若い人たちや、これから頑張っていこうと思ってる人、アニメ業界に入ってこようとしてる人たちや、物作りをしようとしてる人たちの背中を押せるような作品」とおっしゃっていたのですが…それにしては余りにもこの作品は厳しい。。。
昭和的世界の引用にはリスペクトを感じるものの、現代からみると「違和感・異様さ」が残り、ある意味では日本のアニメ史上の「負のループ」として、自虐的なシニカルさすら感じられるほど。
勤務形態や監督からのプレッシャーを考えても、若い方の背中を押している様には思えませんでした。
自虐的・負のループとも受け取れる表現を初監督作品として用いるちな監督の胆力に驚くとともに、ラジオでの前向きな言葉や写真で受けたひょうひょうとした優しい印象が不思議に思われ、最も影響を受けたという「秒速5センチメートル」をYouTubeのレンタルで拝見しました。
すると、おーーー、なるほど。。。
ちな監督の「シニカルさ」とは、周囲と自己との関係性を俯瞰的に捉える客観的な洞察力で、「胆力」と書いたものは「諦念」というか…ペティシズムとして諦めつつ前向きにそれを受け入れる力だと思われます。
「秒速5センチメートル」には、長い時間をかけながらも主人公がそれを獲得していく様子が描かれています。
ちな監督はきっと「秒速5センチメートル」のペティシズム的な感性から前向きな志を受け取られたのでしょう。
「ひょうひょうとした優しい印象」は「だからこそ、この作品を作れた」という言葉に帰結しました。
無用な執着を手放すという意味でも「諦念」は強いですから。
そして、それでも求める事をやめられないという、自虐からのスタートでないと成立しない厳しい世界なのかもしれません。
マイナスもプラスも混沌としているこの作品を観て「背中を押された」と思えるかどうかは、それを受け取る方次第です。
これは、クラシックに対するデスナー氏のクラシック音楽への視点にも通じる気がします(詳しくは後述)。
(もしかすると、角野氏のフラットな表現スタンスにも通じているかもしれませんが、「戦場のピアニスト」での音楽の力に純粋に感動できるのは「神に選ばれし者」だからでもあり、ある意味ノブレス・オブリージュ的な責任を諦念をもって受け入れる「逆説的なフラットさ」の様な気もします)
ここでは「ファーストライン」における「自らの絵」を追求していく感情表現と、それらと一体となった音楽の質感には言及しませんが(皆様がそれぞれご自身で体感されるものなので)、サントラを聴いた時点からビジュアルと音楽が想像できるほど、その一体感は素晴らしいものでした。
けれど「アニメーションと音楽との関係性(一体感)」自体には、新しさは全くありません。
GEMSTONEのサイトのMESSAGEでは、わずか200字程度の中に「新」を9回用い、「GEMNIBUS vol.1」について書かれた記事やニュースのタイトルにはほとんどが「新しい」という」言葉が使われているのですが、前述している通り描かれた情景は昭和です。
そもそも「絵」という非現実な図像が動くアニメーションはデフォルメした抽象寄りの表現であるため、抽象度の高い音楽との組み合わせとの相性が良いと考えられ、「ファンタジア」や「トム・とジェリー」の様な作品が古くから作られていたと考えられるのです。
それに対し、手塚治虫などの日本のアニメが世界に先駆けてリアルな人間ドラマを表現し始めた(リミテッドアニメのテレビ放映の制約という必然性も理由の一つのため、それに対して動きの要素を再度取り戻そうとしていたのがジブリより前の現役アニメーター時代の宮崎氏とか)というのを、昔に読んだ気がするのですが…出典はちょっと不確かです。。。
まあ、度々書いているように日本文化は構造的なので、デフォルメされたアニメーションにシリアスなドラマやイメージを投影する表現、それを受容する側の感性も相性がよかったと言えるでしょう。それはもちろん漫画も同じくです。
近松門左衛門の場合、人形浄瑠璃だからこそリアルな生々しいドラマを戯作にできたとも言われている位ですから。
もちろん、この「リアルなドラマ」と「デフォルメされた表象」の関係は、平八郎の項で書いた「写実と抽象」の関係と同形です。
「GEMNIBUS vol.1」の企画全体として考えてみると、「新しい」と連呼しておきながら、オムニバスとしてつなげるテーマは「ファーストライン」も含めて全て「昔(昭和)へのオマージュ」になっていることに、大きな落胆を覚えました。
この設定のせいで作品のクオリティが下がったとは思いませんが、全体を通して全く新しさを感じないのです。
うがった見方をすると、昭和世代の上層部が配給第一優先の偏った現行制度からみたインディペンデントスタイルの配給を「新しい」とする自己満足の様に感じる程です(言葉が悪くてすみません)。
「新しい」とあれだけ書いておきながら、なぜ「Knot」も「フレール」も父親がテーマになっているのでしょう。
しかも、「ゴジラVSメガロ」以外は手法は異なるものの現実と過去がループ的につながり、閉じた世界になっています。
内容から考えると父親を中心としたエピソードにする必然性はありませんし、世界を閉じる必要もありません。
単体であれば気にならなかったかもしれませんが、東宝が手掛けているオムニバスである以上、「ゴジラ」も「ファーストライン」も「Knot」も「フレール」も「昭和=東宝全盛期」へのオマージュに見えてしまうのです。。。
この様な閉じられた古いループ世界の中で唯一独立していると感じられたのが「ファーストライン」の主人公がプロになる前に描いた「スケッチブックの絵」です。
これだけが、現代のアニメのスタイルとして他とは異なる光を放っていました。
「この後の続きが観たい」とポストされていた方も多かった様ですが、ループ内の出来事(二つの鏡を合わせてその中に見える世界が永遠に続いているようなループ)なので、この作品の続きは主人公が描いた最初のシーンに戻るだけです。
この苦しいループから唯一切り離され、過去も未来も照らす存在はあのスケッチブックただ一つだけなのです。
ここから書く事は全くの想像でしかないのですが…
もしかしたら、あのスケッチブックの絵はちな監督がプロのアニメーターになる前に描いた本当の絵?
もしくは…ちな監督は8月公開の東宝アニメ「きみの色」にも関わっていらっしゃる様なので(関連ポストを多数RP)、そちらに関係する絵だったりして、、、
もしそうだとすると、真の「新しさ」とは「GEMNIBUS vol.1」の作品外との関係性にあると考えられ、マッシュアップを前提とした作曲も現実味を帯びてくるのです。
とはいえ、現時点では私の勝手な妄想ということでご了承ください。
この短編のオムニバス「GEMNIBUS vol.1」に対しても「ナラティブなアンソロジーが還元する抽象性!」と言いたかったのですが、個々の作品には写実性と抽象性(デフォルメ)の面白みが感じられるのに対し、アンソロジーとして昭和の世界観に飲み込まれているように感じてしまったのがとても残念でした。
いずれにしても、今後の「GEMNIBUS」のシリーズが、サイトに書かれている通りに新たな才能を自由に発揮できる場となる事を願っています。
おまけ2 :ハイカルチャーのサブカルチャー化
コンサート前に多くの方がポストしていたデスナー氏の下記のインタビュー、2月に見つけ「昔から変わらない音楽の好み 〜」にも記載して以降、色々と考えるところがありました。
多くの方がデスナー氏のロックギタリストとクラシック作曲家としての活動に興味を持たれていているのですが、タイトルになっている「インディ化するクラシック」の重要性に気づいていらっしゃらない様なのが残念です。
クラシックが今後も続いていく可能性として、「インディー化=サブカルチャー化」が一つの鍵となることは疑いないでしょう。
この読響コンサートの直後、「角野隼斗はこれまでのクラシックの音楽シーンを確実に変え始めている」というポストに多くの角野氏ファンがいいねやRPされていたのですが、この方が期待されているだろう「クラシックの音楽シーン」とは、数十年前の活況ある状態だと思われ、そこまでではなくても現在のような危機から脱する状態を期待されていると思われます。
この「期待」は「GEMNIBUS 」が語る「新しさ」と類型と呼べるもので、正直私には的外れのようなものに感じられました。
角野氏の存在はもしかしたら全く逆の「現行のクラシック音楽シーンを破壊させる」可能性すらあるのです。
ただし、そのお陰で?クラシック音楽のカルチャーは続いていくでしょう。
日本の人口が減少し経済も縮小している以上、どれだけのスーパースターが現れようとも、高度成長期のような愛好者数には至りません。
クラシック音楽には「時代遅れ」というもう一つの衰退要素があり、さらなる趣味人口の低下に歯止めをかける為にもスターを必要としていることはわかります。
しかし、どれほどのスターが現れても前述の縮小傾向は避けようがなく、人口や経済に比例しすべての文化活動も縮小していくでしょう。
クラシックは「敷居が高い」「チケット代が高い」「マナーがうるさそう」という「ハイカルチャー」のイメージを持っています。
ヨーロッパにおいては確かにハイソサエティの方々による文化としての歴史があるのですが、日本ではそうではないにも関わらずイメージとして定着しています。
この「ハイ」はあくまでもその文化の受容階級・社会的ステイタスを示しているだけで、文化としての高尚な価値がある訳ではありません。
また、社会全体の文化において、クラシック音楽を嗜む層が主流・多数という意味でもないのです。
日本の保守的な一部のクラシックファンの方はそこを誤って捉えている様で、高圧的で排他的な態度に結びつく要因になっている気がします。
この勘違いの状態でクラシック音楽の垣根をフラットにする角野氏の様なスター的存在があらわれたらどうなるでしょうか。。。
愛好者数がマイノリティであるにも関わらず、文化における主役級の扱いを受けられたのはハイカルチャーという認知が一般化されていたからです。
この「ハイ」の認知がフラット化により外れたらどうなるか。そう、単にマイノリティ文化になるだけです。
RPされた方が期待する様に、もし角野氏がクラシック音楽の敷居を取り払ってしまったら、そこに残るのは歴史あるマイノリティの音楽文化でしかなく、たぶん投稿された方が最も求めていない結果にしかならないのです。
(能の場合は愛好者の急激な減少によりハイカルチャーとしての社会周知が自然淘汰されましたが、状況としては似た様な事になる可能性がある)
デスナー氏がインディ・クラシックについて「音楽的な説明ではなく、むしろビジネス上のターム」「ポストパンクなアティチュード」としているのはそういう意味で、このムーブメントがラシック音楽の表現性に及ぶ変化ではないことを物語っています。
そして「音楽の幅を狭くしてしまう可能性」というマイナス要因とともに、「若いオーディエンスの入りやすさ」「助け合う環境」というプラス要因も同時に語っており、この時点で氏がレヴィ=ストロースの思想を通っている事がわかります。
詳しくは「私観:二項対立を超えたポストトゥルースへ」に記載済ですが、小田亮著「レヴィ=ストロース入門」では、レヴィ=ストロースが当時台頭した若者のサブカルチャーに対し、自分たちの文化を差異化する動き(=マス・コミュニケーションにる均質化からの差異化)を、<顔>のみえる関係においてなされる野生的な本来のコミュニケーションと同類として扱っているのです。ペシミズムのなかから生まれた楽観として。(ココが前述した「ファーストライン」に近いと書いたところ)
このことを具体的に当てはめてみると、コミュニティが小さくなることは共有する嗜好性の幅を狭めることになりますが、一方ではより親密な関係性(<顔>が見える真正のコミュニケーション)を築ける事になります。
だからこそ、そこからクラシックコンサートに若い客層が増える結果が導きだされるのですが、マスを対象にしているクラシックコンサートの観客数がその程度で増えるという訳ではありません。増えた人数はインディー・クラシック(=ミニコミ)のさらに一部でしかないからです。
また、レヴィ=ストロースの時代においては、「<顔>のみえる関係」はマス・コミュニケーションと相反する「実際に会える小規模な距離感」でしかなかったのに対し、現在はインターネットやSNSの普及によって、大規模でありながらもマス・コミュニケーションとは異なる個人の関係性、擬似的な<顔>の見える関係性が成立します。
それが、ポストトゥルース時代における個人のナラティブを背負った関係性だと私は考えているのです。もし今後の可能性があるとするならば…たぶんその部分なのです。
なぜなら、そのコミュニティにはミニコミとは異なる絶対数が存在するので「一部の流入」でも大きな影響になると思われるからです。
日本のアニメはサブカル扱いされていますが、クラシック音楽愛好者数より圧倒的に多いはずです。
なぜアニメがいまだにサブカル扱いなのかと言えば、社会において文化の主流か傍流かという判断には、数だけではなく社会的な扱われ方(ハイカルチャーの「ハイ」に該当する部分)に大きく影響を受けている為です。
また、アニメ愛好者は各々の嗜好性の幅が狭く多様性があり、その分個々の結びつきが強いサブカル的文化特徴が数が増えても残っている為とも言えるでしょう。
このことは、垣根を取り払った事でクラシック音楽が文化のメインストリームから脱落しても、仏像ブームや刀剣ブームの様にサブカルだからこそ活性化するという別の可能性が発生する事を示しています。
ただし、仏像や刀剣と大きく異なるのは、それが上演芸術であり芸術として表出するためのオーケストラ団体や演奏家の維持に莫大なお金がかかるという事です。
残念ながらある程度の淘汰は免れないと思われますが、サブカルチャーの愛好家は趣味に対する入れ込み方(熱心度)が違っていますし、レヴィ=ストロースが今のインターネットによるコミュニティを想像できていなかった様に、もしかしたら何かしら新しい方法論が生まれる可能性に期待したいと思います。
また、別軸で考えてみるとクラシックもジャズもPOPSも出自や様式が異なるままに共感し、その音楽を楽しむコミュニティが発展する可能性が考えられます。
これは、様式をミックスしたり引用するような手法ではなく、デスナー氏が語られていた様な「ポップ音楽への愛情を隠さないこと」「シリアスなクラシックと不真面目なポップスといった対立軸が無効になった」という部分です。
そう、バウンダリーを越えるのではなく、背景にそのイメージを持つ様になるということです。
実際にインディー・クラシックを聴いた訳ではないのですが、「ポップ音楽への愛情」という書き方から想像すると、ガーシュウィンが行った様なクラシックの様式にポップス音楽の要素を直接引用する手法とは異なる展開を感じます。
もっとナチュラルに自身の音楽表現の中にとり込まれているような質感やバランス感覚ではないかと想像するのです(私の勝手な「そうあって欲しい」という想像ですが…)。
クラシック界における角野氏の立ち位置は、過去から続く多くの音楽家とそれほど変わりがない様に思っています。
衰退への危機が高まる時に外的刺激で次のタームに繋げる事ができた文化だけが伝統をつなぐ事ができ現在も残っていると言え、その「外部的刺激」に角野氏が該当する可能性があるからです。(日本では外部からの刺激を周期的に取り入れるシステム自体を「祭」としているほど)
以前「音楽の関連性・影響とは?〜」で書いたように、電子楽器使用のフュージョン化が著しかったNYジャスシーンにおいて、アナログ的な純ジャズ復古へのムーブメントはフランス人のミッシェル・ペトルチアーニの存在が欠かせなかった様です(もちろん、新しいフュージョン化の発展・展開があってのもので、そこに意味があり単なる復古ではない)。
クラシック音楽の歴史には疎いにですが、そもそもショパンは異邦人だったはずですし、ラヴェルも「ボレロ」はスペインの影響があると語っています(映画「ボレロ」関連のポスト)。
これらをこじつけるならば、日曜美術館の項に書いた高階氏の「別の出自から見出す文化・芸術の共通性・共感性」によるものと考えられるのではないでしょうか。
それらが受け入れられるには、重なる共通項と異なる刺激のバランスが重要ですが、世界が構造的な認知に向かっているなかでは表現様式にのみ共通性が存在する訳ではありません。
様式の引用ではなく、様式として現れないものを尊重する平八郎的な共通感覚が鍵になるのではないでしょうか。
日本のアニメーションの世界的広がりのお陰で、平八郎的な「構造的表現の鑑賞」が世界中でナチュラルに共感を呼び起こす土台が整ったと言えるかもしれません。
クラシック音楽の様式を破壊することなく、西洋世界の中では異質性を持つ角野氏の表現は、単なるエキゾティズムで語れるものではないはずです(西洋人ではないので勝手な希望的想像ですが)。
核になるのは「(本来は原始的文化に共通してあったはずの)日本的構造性をもったミクロとマクロを同時に成立させる表現性」、様式のバウンダリーを超えるのでも脱ジャンル化でもない「現状の分類を無効化する(あるいは未分化に還元する)ナラティブに共感させる統合性・バランス」だと、勝手に思っています。
私的にはどちらも「中間領域」なので、角野氏にはそれ以外の素晴らしい芸術表現はたくさんあると思われますが、どうしてもそこに視線が集中してしまうということです。笑
※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
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