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赤いカンナと宮崎信義

夜になっても石のぬくみが残っていて赤いカンナはねむらない
                        宮崎信義

赤いカンナは夜になっても眠らない。その要因として石に残るぬくみを出している。カンナの花は夜露にしぼむことも無く、闇の中で秘かに赤く燃えている。その根元近くには線路の枕木の周囲に並ぶ石が日中に高温となったなごりを残し、夜になっても冷え切らずにいる。

22歳で鉄道局に就職し、55歳で神戸駅長を辞するまでの宮崎は、春夏秋冬、早朝も深夜も時刻通りに列車を走らせる責務を負う日々を過ごした。無数の電車の下に無数の線路と枕木、そこに無数の石が敷かれている。

石は電車の安全な運行を支える土台であり、深夜に線路周りを点検する鉄道員たちは石の大切さをよく知っている。真夏のある夜、その石のひとつに触れてみるとまだ温かく、昼間照りつけた太陽の記憶を残していた。

線路脇に咲く赤いカンナは、その石のぬくみをよく知っている。だから眠らない。

せまい空地あきち向日葵ヒマワリとカンナが咲きカーブを傾いて電車が来る
                              宮崎信義

狭い空地にあえて二種の異なる花、それも背の高い向日葵とカンナを植えたのは宮崎自身だろうか。鮮やかな黄と赤、照りつける太陽で高温になった線路からたちのぼる熱気で遠景が揺らぐ。カーブの向こうから電車が車体を傾かせ、気だるげに近づいてくる。

宮崎には、向日葵を自分自身に喩えているかのような歌がある。

松になったふりをする向日葵になったふりをする もうすぐ飛ぶぞ
                          
宮崎信義

大地にしっかと根を張り風にも揺るがない松は、雄々しく動じない男性の理想像だ。そのような「松になったふりをする」、また、太い茎で真っ直ぐに立ち太陽に向かって大輪の花を誇らしげに開く「向日葵になったふりをする」という。

松のように、向日葵のように、悠然と振る舞いつつ「もうすぐ飛ぶぞ」という宮崎は、いつどこへ飛ぶというのか。この歌を詠んだ後に実際に飛んだのだろうか。

遠目に見てもわかる大きさの松ぼっくりや向日葵の黒々とした立派な種。

次世代に命をつなぐために無数に蓄え、やがて体外に放つ。その精が今にも勢いよくはじけ飛ぼうとする瞬間の気合いを「もうすぐ飛ぶぞ」と歌っているのならば、松も向日葵も男性のイメージと重なる。

「せまい空地に向日葵とカンナ」の向日葵も、男性の象徴として宮崎自身に重ねて読むことも可能だ。上背のある、がっしりと大きな体躯をしていた宮崎は、向日葵に自分を見ている。

では、カンナの方は女なのか。

宮崎が赤いカンナに女性を見ていたのならばどんな女性だろう。せまい空地で向日葵と並んで咲き、夜になっても華やかに咲き続けている。晩年の宮崎は、自分にとって大切な存在となったある女性にカンナの勇壮を見ていた。

彼女は宮崎に寄り添うというよりも宮崎と共に競い咲くというのが相応しい。灼熱の真昼も眠れぬ熱帯夜も、彼女が自分と肩を並べて競い咲くことを宮崎は良しとした。向日葵の種が飛び、新しい地で根付いたからだ。

夜の向日葵は太陽光を失ってどこか場違いのようだが、隣で咲くカンナは石に残るぬくみをすべて吸い上げるかのように陶然と、かつ闇を照らすたいまつのように厳然と立ち、深夜も眠らずに赤々と燃え続ける。

筆者の心の中に、ある女性の名前が浮かぶが、あえて書かないでおこう。

初出:『未来山脈』2016年1月号



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