【斎島】90歳の島民の昭和史(広島県呉市)
(2020/11/23)
次の便で戻ると船員に言って斎島の港で船を降りた。さて何をしようかと迷う間もなく「どこに行くんや」と島民のおじいさんが声をかけてきた。
あいまいな返事をしながら付いて行く。昭和7年に島に生まれて、若い頃に神戸に出て港湾作業をしていたが、歳をとったので島に戻ってきたとのこと(なら88歳か)。
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港には平成時代に”かんぽ”が建てた立派な宿泊施設が有るが、数年前に閉鎖されている。この僻地では無理だろう...日曜日の昼下がり、天気は良い。
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集落横の小高い丘の上に有る神社へ導かれるままに赴き、拝殿に入って話を聴く。だんじりも担ぎ手が居なくなったので、もう祭りは行われていない。昭和後半で200人居た住民は今は15人。この10年で半分になったと言うから、かなりの限界集落だ。
「買い物とかはどうしているんですか」と尋ねたら答えは「若いもんがそんなこと心配せんでええ」だった(笑)。
昭和7年生まれだと太平洋戦争中は小学校高学年から中学に入るくらいだ。戦争中は「島に住んでるぶんにはそこまで困らんかった」ようだ。島の上には呉に向かう敵機がたくさん飛んでいたが「ここに落としてもタマの無駄やからな」と。
島の南側には浜が有るようで、集落の裏手の山を登る。おじいさんは90歳近くとは思えないくらいの健脚だ。そう言えば会話も普通にしているので、耳も遠くなく頭の回転も速い。
「上まで登ったら浜が見える」とのことだったが、草木が多い茂っていて全く眺望は無かった。前回登った時にはきっと見えたのだろうが、それは10年以上前の話なのだろう。おじいさんが自治会長だった時に道を整備したらしい。「跡を継いだ自治会長が仕事しないからや」と呟いたのは聞き逃さなかった。
山を居りて小さな集落を歩くとおじいさんの家が有った。きれいな建物だ。勝手に一人暮らしかと思っていたが奥さんと二人で暮らしていると言う。隣の家は立派だが雨戸の閉まっている。関西で事業をしていて正月くらいしか帰ってこない。
神戸に居た頃の話は聞く時間がなかったが、高度成長期に港湾で働いていたのなら、当時の所得は多く今もかなり年金をもらっているだろう。そもそも島ではお金を使うところが無い。
道すがらにおじいさんの畑が有った。じゃが芋や葉物野菜がきれいに植えられている。米は(理由は尋ねていないが)滋賀から送られてきているので、今度はうちに泊まりに来なさいと言ってくれた。
一緒に写真を撮った。「現像して送ってくれ」と聞いた住所は「呉市豊町斎島 XX光男」。番地が無かった。
帰りの船が留まっている桟橋に網がかかっていておじいさんが引き上げた。「あぁ、はまちが死んどる」。もしかしてくれるつもりだったのか。
次に来るとしたら釣りか、夏に泳ぎにか。