見出し画像

我がふるさと「延岡」の心象風景

 「文化的景観」(Caltural landscape)とは、人間と自然との相互作用によって生み出された景観を言う。それは、歴史的景観と表裏一体となっており、庭園等のように人間が自然の中に作り出した景色、田園や牧場のように産業と深く結びついた景観、自然それ自体にはほとんど手を加えていなくても、人間がそこに文化的意義を付与したもの(宗教上の聖地としての山)が含まれる、と定義されている。
 となると「人間は皆、文化的景観の中に生まれ、文化的景観の中で生き、文化的景観の中でその人生を終える」ということになろう。「文化的景観」とは、私たちにとって決して物珍しいものではなく、常に身近に存在するものである。私たちが目にする日常の景色は、人々の歴史の積み重ねの結果であり、私たちがそこに生きるということは、私たち自身も、その景色の中に自分の人生を刻み、次の世代の人たちに引き継ぐことになるのだろう。
 しかしその中でも、とりわけその土地の気候風土が感じられ、古き良き時代を偲ぶことができるような景観があり、それがいわゆる近代化、工業化の波に押し流され、消え去ろうとする状況にあるとすれば、それをできるだけ昔のままの形で、しかも生きている状態で残したいと思うのは、そこに住む人たちの自然な情(なさけ)であろう。
 人は遠く離れてふるさとを思う。幼いころ何気なく見ていた景色は、それまでの歴史の上に培われた文化的な景観であり、そのなかで生まれ育った私たちは、折に触れ心の中にその風景を映し出すのである。ふるさとが私たちにとって切り離しがたく今でも存在するのは、それが自分の心の中に存在しているからに他ならない。「延岡」は私にとってそういうところなのである。
 東は日向灘に面し、周囲を山に囲まれ、五ヶ瀬川・大瀬川・祝子川(ほおりがわ)・北川・沖田川・浜川など多くの河川が市内を流れ、豊かな水郷としての性格を持っている。そしてその景観は、河口に近い平野に旭化成の工場が立ち並び、それを取り巻くように住宅地が形成されている。更に川上のほうにさかのぼっていくと、水田が広がり、山のすそ野には棚田がみられる。そして、白いカンバスに絵を描こうとすれば、その背景には青い山々が連なっているのである。
 歴史的にみると、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐により高橋元種が5万3千石で入封、その後、延岡城を築城して、近世城下町としての町割りが整ったようである。明治期になり、延岡は県庁からもっとも離れた旧城下町となった。これを近代化の遅れの予兆として受け止めた危機感が、後の工業都市としての発展の一因となる。1923年に野口遵が日本窒素肥料(現チッソ)の工場を建設したのを機に、延岡は県内屈指の工業都市として発展し、昭和14年(1939年)には9万1千人を数え、県内最大の人口を有する都市となった。
 第二次世界大戦後の財閥解体により日窒コンツェルンは解体され、延岡にある工場は旭化成として再出発した。1951年頃は人口の約半数・市税納入額の3分の2・市議会議員の3分の1が旭化成関係であり、文字通り「企業城下町」として栄えた。しかし、旭化成の経営戦略により延岡の比重は次第に小さくなり、大消費地からも遠く、化学工業が石油中心になったこともあり、人口も1982年を境に減少し現在に至っている。
 郷土の歌人若山牧水は明治29年(1896年)から高等小学校時代、中学校時代の8年間をこの延岡で過ごしている。
 彼の延岡にちなんだ歌二首を披露したい。

 なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ
     をさなかりし日聞きしごとくに

 釣り暮しかえれば母に叱られき
     叱れる母に渡しき鮎を

 この歌は共に延岡の文化的景観を捉えていて、象徴的である。城山は市の平野部の北西に位置する市役所の、すぐ西隣の延岡城址のある小さな山で、春は桜の花見でにぎわうところである。わたしなども、小学校のころお正月にお年玉をもらい、城山に登ったことを、今でも憶えている。城山の中腹に大きな広場があり、そこには猿山や小さな動物園、電気自動車のコースなどがあり、ちょっとした子供の遊び場なっていたからである。その城山の頂に牧水が歌にした鐘撞き堂がある。
 鮎やなも延岡の名物になっている。私も小さいころ何度か行ったことがある。川を横断するように木杭を打って、簾を流れに対し直角に配置し、川底まで斜めに仕掛ける。そこに産卵のために川下りをするいわゆる落ち鮎が、飛び跳ねて乗っかるのである。塩焼きにすることが多く、その季節になると河原に臨時の鮎レストランができ繁盛するのである。清流の香りとでも言えばよいのか、独特の香ばしさがあり、美味である。私も牧水のように釣りに夢中になり、帰宅が遅れ母に叱られたことが思い出される。
 鮎といえばその昔、私の父は鮎解禁になると、大瀬川や北川に出かけて行った。友釣りと言って生きた鮎を針で釣り糸につないで、そのすぐ後ろに三つ又の針をつけて川の中を泳がせる。鮎にはそれぞれ自分の縄張りがあり、そこに入ってくるほかの鮎を追い出そうとする習性がある。その習性をうまく利用して、鮎を引っ掛けて釣り上げるのである。人と鮎の知恵比べというところであろう。
 牧水の歌は、延岡の古き良き時代に歌ったものである。私が生まれ育ったころは、すでに旭化成による工業化が進んでいて、日本はいわゆる戦後の高度成長期の只中にあった。水俣病や四日市喘息などの公害病が問題になり、毎日のように新聞紙上をにぎわせていた。延岡でも旭化成の工場群による大気汚染や、海水の汚濁が問題になっていた。今では公害問題が環境問題にまで発展し、国や企業もこの環境問題を重く受け止め、法規制や自主規制等で対処してきたために、ずいぶんよくなってきているように感じられる。
 いずれにても、私の延岡は旭化成の町であった。牧水が歌ったように、人々が農、林、漁業を生業として自然と調和して暮らしていた時代ではないのである。それでも城山の鐘は相変わらず聞こえてきたし、季節が来れば鮎やなを観ることができ、鮎の味を楽しむこともできた。そしてその背景には、今も変わらず青い山々が連なっているのである。
 延岡は文化的景観をふんだんに有する日本の地方都市なのである。そして私は、この景観が生きたまま後世に受け継がれることを願っている。
 旭化成のお化け煙突のある風景に郷愁を感じ、最後に私の歌を一首披露して、このレポートを締めくくりたい。

 あかしろの古き煙突そびえたつ
     我がふるさとの山を背負いて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?