アロマンティックとして生きる私に
私は生まれてから現在にかけて、他者に恋愛感情を向けたことも感じたこともないので、恋愛も結婚もする予定はない。
これまで生きてきて、私は特に直接的に嫌なことをされてなくても、身近に恋愛を感じるだけで嫌悪感を抱いていた。
誰が誰のことを好きだとか、実はあそこは付き合っていたとか、会話の中に自然に「彼氏が〜」という言葉が出てくる友人とか。
なんで、人は恋愛感情を感じられるのだろうと思っていた。
何をもって、人は「恋愛感情」と認識するのか。
こうして私は恋愛の話に対して、恋愛そのものに対して、厭世的になっていた。
中学生の時に、一番仲が良かった友人に彼氏ができた時、男性に対して嫉妬で狂いそうになったことも原因の一つではある。
毎日あなたと遊んでいたのはこの私だというのに。
この話はまたいつか。
ところで、私は男性のことが苦手で、恋愛感情も湧かない。
でも、音楽の中で性的な美しさが語られているのはとても好き。
この音楽を聴くと、なんて美しい描写だろうと思う。
私は、この音楽の女性になりたいと思う。
美しさ、そのものになりたいと思う。
しかし、状況的に男性に抱かれている。
でも、これには不思議と嫌悪感は抱かない。
では、私は男性に恋をしたいのか。
いいえ、私は男性に恋愛感情を抱いたことはないし、性的魅力も感じたことはない。何なら男性ではなく、女性に性的魅力を感じる。
たくさん考えたのち、私が出した答えは、
私は、私の肉体としてこの場面にいたいのではなく、
ヘテロセクシャルの女性として、男性に愛される女性として
この音楽に存在していたい。
ということ。
近い感覚として、「大きな鳥になって、あの空を自由に飛んでみたい」という、空想、フィクションと同じである。
昨日、こんな詩を書いた。
恋愛感情が私にも感じられたのなら、恋愛してみたかったな。
事実として恋愛感情がないのだけど。
恋愛の嫌悪感の話に戻る。
今も私は女性であるし、社会に生きる一人の人間である。
恋愛に憧れているなら一回経験してみなよ、と思うかもしれない。
しかし、これは、できる、できない、というような話ではない。
感じるか、感じないかの話である。
食べ物をおいしいと思うか、思わないか。
恋愛感情を感じるようになるために、恋愛をしてみることは、口の中に美味しいと思えないものを突っ込み、舌全体で味わってみることと同じではないか。
私はそこまでして恋愛感情を感じたいと思わないし、恋愛をしようと思わないし、恋愛感情を感じないこの私を生きていく予定である。
でもこの世には私が美味しいと思えない食べ物を美味しいと思う人もいる。
例えば、私はレバーが苦手だけど、友人らが私の苦手なレバーの話で、えっ!どこの店のレバーが好き?!今度一緒に食べに行こ?!とかで盛り上がったら疎外感を得る。少し悲しい。でも仕方ないじゃん。おいしいと思えないのだから。おいしいと思えるまで食べてみる!って、自分がキツイだけじゃん。だから私はレバーの話以外で人と仲良くなりたいし、この人この店のレバー好きなんだな、これからもたくさん食べられるといいねって思う。
それは、この人、あの人のこと好きなんだな、この先も仲良くいれたらうれしいねって思うことと同じような気がして。
そうしたら、恋愛の応援をするということは、その人の好きを応援することであって。積極的な応援ではなくても、その人の幸せを願うこと、それも応援であって。
今日、男性の友人が好きな女の子にお菓子を渡そうとして、受け取りを拒否されている状況を目撃した。ちょっと笑った。
愛じゃん、そう思った。
好きな子のために、思考を巡らせて買ってきたんでしょう。
健気じゃん。好きだから、愛してるから、渡したかったんだよね。
恋愛、案外可愛らしいなって思った自分がいた。
微笑ましかった。うまくいけるといいね。
今雪溶けは始まっているのかもしれない。
私が10年も抱いていた、恋愛に対する嫌悪感。
溶けて流れておゆき。そして、さようなら。