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表現と、音の情報量

前回、楽器で歌う、ということについて書いてみました。

そこを周辺領域を含めて感じるところを考えてみます。

楽器で歌うことを「表現」と大きく括ることもあると思います。

もっと表現しないと!とレッスンで言われることもあるでしょう。

ここでよく混同しがちなのが「楽曲の表現」と「自己表現」です。

言い換えると「楽曲の表現」は「作曲家の表現」であり、「自己表現」は「演奏者の表現」です。

昨今、アートとは自己表現だ、というような風潮なのですが、歴史を遡るとそんなことはないわけです。宗教的なオーダーで描かれた絵画や音楽、彫刻も沢山あります。あくまで、技術職として作り上げた作品。作品に染みてくる部分はあるとしても、作り手の思想や意見を伝えることを第一義とはしていないわけです。
(鑑賞者の解釈とか評論としては、なにかキーワードでぎゅっとそれらしくまとめたくなるのでしょうが...好き嫌いの理由づけをあとからしていることのほが多い気もします。)

そこの原点に立ち返ってみると、「作曲物である楽譜と演奏家、演奏者の関係」は、「台本と朗読家の関係」に近いのではないかと思います。

台本に書き込まれていく演出家のこだわりが、楽譜で言うところの校訂者や作曲家の指示のようなものでしょう。

作曲家の意図を超えたらいけない、という意見もあれば、作曲家も気づかなかったかもしれない解釈がみつけられた、という意見もあります。

そこは演奏家のスタンスの問題なので、ここでは取りあわないでおきます。

問題にしたいのは、その演奏家が楽譜から読み取って、物理的に音を出す時の「音の情報量」が「表現」と思われがちなのではないか、ということです。
音の情報量と音を出すための処理や作業の量も区別しないといけません。

もっと表現して!、と言われた時「何かを追加しなければいけない!」と受け止めがちではないか?ということです。

音が持つ情報は、音程、音価、揺らぎ、などなど沢山のあるでしょうが、表現しなくちゃ!と追加していくととんでもない量になります。

整理の仕方は他にもあると思いますが、個人的に最近思うことは、表現の方法として「音の情報の引き算」も大事だと言うことです。

わかりやすく言い換えると、

あれもこれもと調味料を足していくのは、素材としての楽曲そのものの味を覆ってしまうのではないか。

演奏家という出汁で、楽曲の味を迎えにいくのが、大事なのではないか。

じゃあ、演奏家というお出汁はなんなのか、次に考えてみたいと思います。


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