【眠らない猫と夜の魚】 第19話
「猫と魚」①
「いてっ」
助手席のドアガラスに額をぶつけて目が覚めた。もう三度目だ。ガラスには涙目の私が映っている。その後ろに呆れ顔の亜樹。
「朱音、着いたら起こすから寝てていいよ」
「……いい。帰って波流の隣で寝る」
「じゃあまっすぐ帰るよ」
「あ、コンビニだけ寄りたい。波流にアイス買ってく」
そう返してから窓の外に目を向ける。窓の外に広がる市街地は、すっかり夜の薄闇の中に包みこまれていた。
オカンタイプの看護師長は余計な詮索をせず、「任しときな」と分厚い胸を叩いてくれた。素子さんはこれで心配ない。
心配なのは波流だ。
1年近くかけて積み重ねてきたものが、今日のことがきっかけで崩れてしまうかもしれない。そう考えるとなおさら音也への怒りが込み上げてきた。
「くそっ」
つい悪態が出る。亜樹はちらりと私を見ただけで何も言わなかった。
「……でも、音也がムカつくのは昔からだけど、私も今日はちょっとおかしかったな。うまく怒りを自制ができなかったっていうか」
「誰でもそうなるよ。話を聞いただけで俺も頭に血が上ったから」
「剣道場で頭を蹴るのはやりすぎだった。後悔はしてないけど」
「え、頭を蹴ったの?」
「オホホ」
私の下手なごまかしを、亜樹はありがたくスルーしてくれた。
「……これからどうしよ」
ため息とともに弱音が出る。弱音は基本的に飲み込む主義だから、こうして出てしまうこと自体、弱っている証拠だ。
「できることをやるしかないよ。今まで通り」
「それはそうなんだけど」
「少なくとも、波流ちゃんの前ではいつも通りにしてあげよう。特に朱音は、波流ちゃんが見る世界の中心にいるんだから、どっしりしてて」
「なにそれ大黒柱ってこと?」
「うーん、精神的支柱っていうか。ゴールキーパーが近いかな」
「ゴールキーパー」
変な喩えに思わず繰り返す。それだけで少しだけ元気が出た。
「どうするかはみんなで考えよう。それも今まで通り」
「そうだね……あ、電話。水鳥からだ。着いたのかな」
でも通話ボタンを押すと同時に聞こえてきたのは、普段はあまり聞かないような水鳥の焦り声だった。
*
サイレントヒル横の空き地には水鳥のバイクだけが止まっていた。病院に行く前にあった小夜のRX-7は見当たらない。
車を降りると同時に玄関から水鳥が飛び出してきた。駆け寄りながら電話で聞いたことをもう一度確認する。
「二人がいないって?」
「家の周りも探したけど、やっぱりいない」
近所を探し回ったのか、水鳥は額に汗をかいていた。
「私がサイレントヒルに着いたの、さっき電話した時だから10分前くらいなんだけど、そのときはもう小夜の車がなくって。いるって言ってたのになーって思いながら家に入ってみたんだけど」
「玄関は開いてた?」
「電気がついてて、玄関も開いてた。でも誰もいなかった」
「書き置きとかは?」
「ない。ていうか小夜のトートとスマホが置いたままなんだよ。財布もトートの中にあったし。あと波流のスマホもあった」
「波流、私の部屋で寝てなかった?」
「布団は敷かれてたけど、いなかった。その代わり……ヤバいのがある」
「ヤバいの?」
ヤバいのはどれか、聞かなくてもすぐにわかった。
石だ。
私の部屋の隅っこに、30個ほどの小石が積まれている。ものすごく見覚えがあるキラキラしたその断面は、確認するまでもなくアレだった。
亜樹がそのうちのひとつを摘んで手のひらで転がす。
「……これ、朱音が言ってた猫地蔵の欠片だよね?」
「なんで私の部屋にあるんだよ……」
ボヤいたけど誰も何も返してくれなかったので、ひとまず石は放置して、家の中を調べた。
水鳥の言う通りだ。波流も小夜もいない。敷きっぱなしの布団の上に、波流に着せていたスウェットが脱ぎ捨てられている。部屋の隅で丸まっているのは波流の剣道着で、波流が道場に来るまで着ていたジーンズとパーカーはどこにも見当たらなかった。
「リュックは? 道着は波流のリュックに入ってたはずだけど」
「家中見て回ったけどなかったと思う」
布団の枕元にはエリア51のキーホルダーがついたスマホが転がっていた。このキーホルダーは私があげたやつ。波流のスマホだ。
キッチンテーブルにはパールホワイトの小夜のスマホとトートバッグが置かれていて、開いた口から財布と化粧ポーチが覗いていた。
「最初は小夜が波流を連れて出かけたのかなって思った。スマホを忘れるのは小夜らしくないけど、なくはないし……でも……」
水鳥が心底嫌そうな顔で私の部屋のほうを見た。
心底嫌なのは、言うまでもなく石の存在だ。石と波流の組み合わせは、否応なく先日のことを思い出させる。
先日、赤い目の波流と遭遇したことは、まだ亜樹と小夜に話していない。あまりにも突飛すぎる話だし、私たち自身、まだちゃんと飲み込めていないから、情報を整理してから言おうということになったのだ。
でも、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
頭の中で言葉を整理しながら、亜樹に向き直る。
「……今から私が言うことを聞いて、そのうえで亜樹の意見を聞かせて欲しいんだけど。いい?」
「急だね。何の話?」
「波流の夜歩きの話」
「いいけど……何で今?」
亜樹の疑問を無視して一方的に説明を始めた。
「波流の夜歩きが始まったとき、色んな可能性を考えたよね? んで結局、波流の意識だけが歩いてるってことになったよね?」
「うん」
「でもやっぱり、意識だけじゃなくて波流の体も動いてるみたいで」
「え? それは……今起きてることと関係がある話?」
「たぶん、おそらく」
亜樹はしばらく私の目を見てから、仕方なさそうに頷いた。
「わかった……それは夢遊病みたいな話? 半覚醒でふらふらと歩くとか」
「違う。正確には波流の意識が体から抜け出して夜歩きをしてるとき、波流の体は波流の意思とは無関係に動き回ってる」
「……まるで見たような言い方だけど」
「実は会ったんだ。そうなったときの波流と」
「は?」
「でも波流はそのことを覚えてなかった。そのときに別の場所で夜歩きしてた記憶はあったけど。だから夜歩きのときに動き回ってる波流の体は、波流だけど波流じゃない……これ、うまく伝わってる? 自信なくなってきた」
「いや、私はわかるよ」
「そりゃ水鳥はわかるだろうけど」
亜樹が私と水鳥の真ん中に向かって両手をあげた。
「待って待って。それは例えば……何かに憑依されてるとか、そういうことを言ってる?」
「わからないけど、うん、それが近い気がする」
亜樹が小さく唸った。
「あと、見間違いかもしれないから参考程度に聞いて欲しいんだけど」
「まだあるんだ……」
「……そのときの波流の目、赤く光ってたんだよね」
「……ちょっと、考えさせて」
亜樹は絞り出すようにそう言うと、後ろを向いて長考に入った。
「……今聞いたように、夜歩きの間の波流ちゃんの体が勝手に動いてるとしたらだけど」
たっぷり1分は考えてから、振り返った亜樹が口を開いた。
「……目的はなんなんだろう?」
「目的はわからない……けど、手がかりはある」
「手がかり?」
「最近、怖い話を集めてると、『赤い目の女の子』がよく出てきたよね。工事現場でも目撃されてたし、小学生が追いかけられたって話もあった。そのどっちにも猫地蔵の欠片が登場してる」
工事現場には割れた猫地蔵の欠片があったし、小学生は『願いが叶う石』として猫地蔵の欠片を持ち歩いていた。手がかりと言うには心もとないけど、無視するにしてはインパクトが大きな共通点だ。
「……猫地蔵の欠片があるところに赤い目の女の子が現れるってこと?」
亜樹が慎重に答える。
言葉にするとまんま都市伝説みたいだ。
「そう。もっと言えば、赤い目の女の子……つまり波流は、猫地蔵の欠片を集めてるんじゃないかってこと」
亜樹が何も言わないのを確認して、言葉を続ける。
「だからこう思ってる。ここで寝てた波流が夜歩きを始めて、波流の体が勝手に動き出したんじゃないかって。小夜は動き出した波流についていくなり追っかけていくなりしたんじゃないかって。そして波流は地蔵の欠片を集めてる。つまり」
「……猫地蔵の欠片のある場所に二人はいるかもしれない、ってこと?」
亜樹の言葉に、私は大きく頷いた。
亜樹は二回目の長考に入ってしばらく黙っていたけど、やがて自分の部屋に戻って丸められた巨大な紙を持ってきた。
「今の話がどこまで正しいかは判断できないけど……でも、どのみち二人を探さなくちゃいけないし、あてもなく探し回るより取っ掛かりがあったほうがいいと思う。朱音の仮説だと、地蔵の欠片がありそうなところを探せば二人に会える可能性があるってことだよね?」
「たぶん……としか言えないけど」
亜樹は頷いて持ってきた紙を床に広げた。
「なにこれ?」
水鳥がしゃがみこんで紙に目を落とす。
「前に猫地蔵の場所を探したよね。波流ちゃんが地蔵に追いかけられた時に。そのときに教授に借りた猫地蔵の調査資料。つまり猫地蔵マップ」
「猫地蔵マップ?」
床に座り込んで三人で地図を囲む。たぶん何人もの研究者が幾度も実地調査を行ったその結晶なんだろう。広域地図のコピーの上に手書きで書かれた地蔵の印は、長い年月と手間を感じさせた。
「うっわ、こんなにあるんだ……」
水鳥がぼやく。わかってはいたけど数が多い。把握できているだけでこの街には数百個からの猫地蔵があるのだ。もちろんそれでも全部じゃない。
「数は多いけど、破片がありそうなポイントは限られると思う。まずは」
亜樹が山奥の森の中を指さした。
「ここが前に地蔵を掘り出したとこ。あそこにある猫地蔵は割れてるよね。みんなで簡易的に直したけど。でも破片がある可能性は高い」
続いて水鳥が海岸沿いの丘に指で叩いた。
「あと私の家。小学生から回収した猫地蔵の破片、エコバッグに入れて玄関に置いたまんまなんだよね……」
最後に私が旧市街地に指を置いた。
「あとはスーパー跡地の工事現場。割れた猫地蔵と、その破片があるはず。とりあえずこの三箇所は確認するとして……あとは?」
結局、それ以外に猫地蔵の破片がありそうな場所は思い当たらず、マップを大きく三分割して、猫地蔵がある場所を端から探すことにした。作戦としてはシンプルだけど、シンプルなことはたいてい重労働だ。本当は三人いっしょに周りたいところだけど、今はとにかく時間が惜しい。
亜樹は森を確認して、山間部を中心に。
水鳥は自宅を確認して、海岸地区を中心に。
私は工事現場を確認して、市街地を中心に。
「何か見つかったらLINEグループに連絡。連絡がつかなくなったら集合場所はここってことで」
「あい!!」
腹をくくったのかやたら元気になった水鳥が、真っ先にバイクで出ていった。私も地図の写真を撮ってロードバイクにまたがる。原付くらい買っておけばよかったと後悔したけど、市街地だったら自転車のほうが回りやすいかもしれない。
地面を蹴って漕ぎ出そうとしたときに、背後から声がかかった。振り返ると、亜樹が車のドアに手をかけて私を見ていた。
「この状況で無理な注文かもしれないけど、無茶はしないようにね」
「……心配してくれてる?」
「こないだも変なことに巻き込まれたばっかりだし」
「気をつけるよ。ゴールキーパーがいないと試合にならないでしょ」
亜樹は私の言葉に軽く吹き出すと、片手をあげて車に乗りこんだ。
*
工事現場のブルーシートを捲ると、前に見たときと同じように猫地蔵が積み重なっていた。でも一番上に乗せられていたはずの割れた地蔵がない。私と水鳥が集めておいた破片もなくなっていた。
念のため現場写真を撮ってからブルーシートを戻していると、水鳥と亜樹から続け様にLINEが届いた。
【midori_summer】
家に置いてた石がなくなってる。玄関は鍵をかけてたけど開いてた。鍵の隠し場所を知ってるのは私と朱音と小夜。小夜が来たのかも?
【aki】
山の猫地蔵は前と変わらない。破片があるかどうかはわからなかった。山道で石だらけだし。
【akaneko】
工事現場の破片はなくなってた。割れてた地蔵も。波流が回収した?
私も自分の状況を書き込んで、ロードバイクで自分に割り当てられた場所の確認に向かった。
でもみたま市は山に囲まれているせいで起伏が多い。数箇所見てまわっただけで滝のように汗が溢れてきた。割れた地蔵は見つからず、疲労が増しただけだ。確認しなくちゃいけないところは、まだ何十箇所もあるのに。
立ち漕ぎして坂を登りながら、ふと自分が正しいことをしているのかが気になった。もっと絞り込める何かがあるのに、気づかず見落としているような、そんなモヤモヤとした思いがずっと胸に残っている。
移動しながらもう一度、頭の中で状況を整理することにした。
波流(赤い目)は地蔵の欠片を集めている。
だから地蔵の欠片のあるところに出没する可能性がある。
これが前提となる仮説だ。今はそれを信じるしかない。
波流(赤い目)が地蔵の欠片を探す目的は?
それはさっきもでたけど、現時点では不明。
地蔵の欠片があるところには何がある?
もちろん猫地蔵がある。当たり前だ。
欠片がある場所では何が起きる?
これはどうだろう。工事現場では幾つかの怪異の噂が流れた。石を持っていた小学生は怪我をした。でも小学生は赤い目の女の子に追いかけられたから怪我をしたわけで、怪異に遭遇したわけではない。だから必ず怪異が起きるとは言えない。
いや……どうして追いかけられた?
それは石を持っていたから。持っていたから怖がらせて、石を手放すように仕向けたとか? 結果、その思惑の通りに小学生は石を手放した。それが目的だとしたら、どうして手放させた?
手放さないと……怪異が起きるから?
そうか、割れた地蔵の石が集まると怪異が起きる。
少なくともその可能性は無視できない。私と水鳥だって、集めた欠片を持っているときに弩級の怪異に遭遇したじゃないか。
そう考えると、もっと場所を絞り込めないか。
この町で怪異が起きる場所。
怖い話だけは尽きることがないこの街だけど、その中で実際に、現象としての怪異が発生したと断言できる場所は。
「そんなの……………………あった」
夜見神社。
あの場所で発生した怪異に、他ならない私自身が巻き込まれた。それが、あの場所に地蔵の欠片があるせいだとしたら?
迷ってる時間が惜しい。相談する時間も。夜見神社がある丘のほうへ、後輪をスライドさせながらロードバイクの向きを変える。
亜樹の忠告がちらっと頭をよぎったけど、頭の中で亜樹に手を合わせて、頭の片隅に追いやった。
*
神社に続く階段には街灯なんてなく、深く濃い闇が垂れ込めていた。
僅かな月明かりを頼りに、這うように階段を登る。
途中、階段脇の藪に赤い瞳を見つけて心臓が跳ねた。
でも、波流じゃない。
猫だ。
「……脅かすなよ」
猫の赤い瞳は、藪の中に幾つもあった。
そう言えば、ここは猫のたまり場なのだった。
神様としての猫が棲む、夜の聖域。
長い階段を、息を切らしながらようやく登りきる。
長い息をついてから境内を見回した私は、思わず吐いたばかりの息を吸い込んで、二・三歩後ずさった。
「ちょっと……なんなんだよ……」
夥しい数の赤い目が私を取り囲んでいた。
猫だ。
遠巻きに私を威嚇する、赤い猫の瞳。
昼間のような愛想の良さは微塵もない。
猫たちは聖域を汚す異物を威嚇するように、赤い、攻撃的な瞳でじっと私を睨んでいた。
その中央、拝殿の板間の上に、ひときわ大きな赤い瞳。
瞳の主が立ち上がる。
それは小学生のような小さな身体に、
見慣れたカーキのリュックを背負って、
私が選んであげた白いアディダスのスニーカーを履いていた。
「……なんだ、またお前か」
波流の赤い瞳が、夜空に張り付いた三日月のように、すっと細くなった。
(第20話に続く)