見出し画像

【眠らない猫と夜の魚】 第6話

「神様が眠る時間」②


 翌朝は6時に起きて、いつも通り日課のランニングにでかけた。

 高校の頃は剣道部で、それなりにハードに運動していたけど、大学生になってめっきり運動の時間が減った。それで何が変わるって、食事の美味しさが全然違う。せっかくの亜樹の料理を最高の状態で味わうために、日々の運動は欠かせない。
 家を出て田園地帯を抜けて、海岸まで走って戻ってくるというのがいつものランニングコースだ。今日はその帰りに爺ちゃんのところに寄るつもりだったけど、途中で例の神社に寄ることにした。爺ちゃんに話を聞く前に、現地を見ておいたほうがいいと思ったのだ。

 丘の下に到着して、鳥居の掠れた額束を読むと、『夜見神社』と書かれていた。子どもの頃からこの街に住んでるけど、神社の名前を初めて知った。ホラーゲームのSIRENを思い起こさせる、よい名前だ。

 息を整えながら狭い石段を登る。石段はところどころ崩れかけていて歩きにくかった。両側から木が覆いかぶさっていて薄暗いけど、朝ということもあって、おどろおどろしい雰囲気はない。夜に来たら、また雰囲気が違うだろうけど。
 石段は全部で九十九段あった。登りきったところに小学校の教室くらいの敷地があり、中央に古い社殿があった。右手には枯れた手水舎がある。
 社殿は古くて柱や板壁はかなり黒ずんでいたけど、誰かが管理しているのか、荒れている感じはなかった。まず社殿に参拝してから、その周りをぐるっと歩いてみる。周囲は背の高い木が茂っていたが、裏に木が途切れている箇所があって、そこからみたま市の西半分が見渡せた。

 右手には果てしなく田園地帯が広がっていて、水を張った水田がきらきらと輝いている。その最奥の山際に、小さな平屋が豆粒のように見えた。私の住む家、通称サイレントヒルだ。そろそろ亜樹が起きてきて、大学に持っていくおにぎりを握っている頃だろう。
 左手の奥の高台には、あんまり見たくないけど私の実家が見えた。サイレントヒルはもともと爺ちゃんの所有する物件だったけど、実家が大嫌いな私は、大学に入るとすぐに爺ちゃんから強引にサイレントヒルを借りて、ひとり暮らしを始めた。亜樹と暮らすようになったのはその半年後、一年生の秋だ。

 私は実家から目を逸らすと、振り返って神社を見た。おどろおどろしくもない、パワースポット的でもない、ごく普通の古神社だった。少なくとも、おまじないの舞台という感じはあまりしない。

 そろそろ帰ろうと石段のほうに向かうと、白いワンピースの女の子が石段を降りていくところだった。場違いな人影にぎょっとする。ワンピースという服装も、まだ肌寒い季節には合っていない気がした。
 近寄って石段を見下ろすと、小走りに降りていく後ろ姿がちゃんと見えた。よかった。幽霊じゃない、ただの人間だ。こんな神社でも来る人が来るらしい。

 まさか、おまじないをしていたわけじゃないだろうな。

 そう思って念のため境内をざっと見て回ったけど、何かが埋められた跡も、木に打ち付けられた藁人形もなかった。

    *

 神社を出た私は、黒崎不動産ではなく、喫茶アボカドに向かった。時刻は7時過ぎ。この時間だったら、爺ちゃんはアボカドにいるはずだ。
 アボカドに入ると、カウンターの端っこの席に、案の定、爺ちゃんが座っていた。店内には老人ばかりが10人ほど散らばって元気に喋っている。朝のアボカドは、近所の老人のたまり場なのだ。

「いらっしゃ〜い……なんだ、朱音か」
 カウンターの中の水鳥が、爺ちゃんの席の隣に水が入ったコップを置く。立ったまま一気に飲み干すと、うなじに汗が浮いた。
「朝に来るなんて珍しいじゃないか」
 爺ちゃんが私の顔を見て、ぶっきらぼうに言った。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「あ、もしかして小夜のおまじないの話?」
 水鳥の言葉に、タオルで汗を拭きながら頷く。目の前には、いつの間にか珈琲が置かれていた。
「そう。爺ちゃんだったら、何か知ってるかもって」
 私は小夜から聞いた話と、昨日の亜樹の話をざっと爺ちゃんに話した。話を聞き終えた爺ちゃんは、たいして面白くもなさそうに言った。
「あの神社か。確かにあそこは、昔からそんな噂がある場所だな」
「あの神社、何かあるの? そういう、願いを叶えてくれるって伝承とか」
「そんなものはない。ただ、あそこは御山と向かい合える場所だからな」
 御山というのは、みたま市の北西にある三珠山のことだ。霊山と呼ばれていたり、過去に禁足地であったりして、霊系の噂の絶えない場所だ。
「表立って言えない願いでも、あの場所からならこっそり言えそうだって思えるんじゃないか」
「そんな理由? あの神社の神様は関係ないの?」
「あそこの御神体は三珠山だぞ」
「そうなの?」
「この街にある神社は多かれ少なかれ、どれも御山に結びついてるよ」
「そうなんだ。ねえ、あそこの神社でおまじないの噂が出たことってある? おまじないっていうか、呪いっていうか、例えば丑の刻参りみたいな」
「ずいぶん昔に、釘を木に打ち付ける音が聞こえる、とかあったな。実際に丑の刻参りみたいなことをやったやつもいたんじゃないか。探せば釘の穴も残ってるかもしれんぞ」
「まじで?」
「他にも、憎い相手の髪や爪を境内に埋めるとか、そういう噂が流れたこともあったな。掘り返してみたらいろいろ出るだろう」
「へえ、埋める……ね。そういうおまじないって、どうやって生まれるもんなの?」
「まじないをやる奴が勝手に作るんだよ。呪禁道、陰陽道、密教系……それ系の本を読み漁って、できそうなやつを組み合わせてな」
「亜樹も似たようなこと言ってたな」

 なんか、思ったより雑な話だ。宗教に無頓着な日本人らしいと言えなくもないけど。

「そういうのが流行る時期があるんだよ。流行って、すぐ廃れる。一過性のもんだ。次に流行るときは、まじないの形式が少し変わってる」
「へぇ……ってことは、別にあの神社に特別な力があるってわけじゃないってこと?」
「まあ、そうだな。少なくとも神社には変な謂れはない。お前、あそこを調べるつもりか」
 爺ちゃんは私のほうを睨みながら言った。別に睨んでいるわけじゃないだろうけど、目つきが怖いのだ。剣道の師範をやってるときの爺ちゃんは、さらに怖くなる。
「まあ、ちょうど暇だったし」
「神社自体に何もなくても、人の願いに触れる場所には念が溜まる。念が溜まれば場所としての力を持つもんだ。いい願いばかりじゃなければ、なおさらな」
「あんまりよくない場所ってこと?」
「場合によってはそういう状態にもなる。調べるんだったら、そういう気に当てられないように気をつけろ。お前は無神経だから大丈夫だと思うが、迂闊なところもあるからな」
「孫に向かって無神経ってひどくない?」
「無神経は悪いことじゃない。無神経にしてれば、呪いは効かねえよ」

 爺ちゃんは意地悪そうに言って、私の分の珈琲代を払ってくれた。

    *

 いったん家に帰って、シャワーで汗を流した。亜樹は先に大学に行ったようで、テーブルの上に私の分のおにぎりが置かれていた。それをリュックに入れてロードバイクで大学に向かう。
 向かっている途中で、今日は小夜といっしょにお昼を食べる約束をしていたことを思い出した。

 大学に着いたのはちょうど授業の間の時間で、中庭は生徒でごった返していた。小夜とは中庭で待ち合わせていたけど、右も左も人だらけで、どこにいるかわからない。しばらくキョロキョロしていると、芝生のほうで小夜が手を振っているのが見えた。
 手を振り返して、ばらばらの方向に流れる人波を掻き分けながら、小夜のほうに向かう。途中、手の甲に引っかかれたような痛みが走った。 誰かのバッグのキーホルダーにでも引っかかったのだろうか。舌打ちしながら、ようやく小夜のところに到着する。

「おまたせ。どうする? このまま芝生で食べる?」
「うーん、ちょっと混んでるし、喫茶にでも……朱音、それどうしたの!?」

 小夜が私を見て急に甲高い声をあげた。視線を追って自分の手を見ると、手の甲にナイフで切ったみたいな真っ直ぐな傷が走っていて、そこから流れた血が指先からぽたぽたと地面に垂れ落ちていた。

「おわあっ!?」

 びっくりして小夜よりでっかい声が出る。
「たぶん、誰かのバッグか何かが引っかかったんだと思うけど……こんなんなってるって思わなかった。小夜、ティッシュ持ってない?」
「え? ティッシュ? ええと、ティッシュ、ティッシュ……は、さっき使っちゃったんだった。あ、待って、絆創膏あるはずだから! 絆創膏、絆創膏……」
 小夜がバッグの中を引っ掻き回す。普段は冷静な小夜だけど、焦ると高速で空回りする。トイレまで走ったほうが早いかも……と迷っていると、背後から甲高い声がした。

「大丈夫ですか!?」

 振り返ると、おさげ髪の女の子が泣きそうな顔で立っていた。いつも私のことを見ている、あの女の子だ。
「あ、えーと……へーき、へーき。ちょっと切れちゃっただけだから」
 女の子はぶんぶんと首を横に振ると、バッグから素早くティッシュを取り出して、私の傷口に押し当てた。
「あ、ありがと」
 お礼を言うと、女の子は顔を隠すように下を向く。
「あ、あった! 絆創膏あった! ね、ちょっとティシュどけて」
 小夜に言われて、女の子がティッシュをどける。小夜は傷口に、手早く2枚の絆創膏を貼り付けた。
「とりあえずこれで……さ、ホケカン行くわよ。ちゃんと消毒してもらわなきゃ」
「えー、消毒? 大げさだな」
「だめだっつの。ちゃんとプロに診てもらわなきゃ」
「わかったよ。あ、ありがとね、助かったよ」
 改めて女の子にお礼を言うと、女の子は掠れた声で「いえ」と呟いて、逃げるように走っていった。
「……すごいね。もはや親衛隊じゃん」
 小夜が感心したように言う。
「なんか、お礼でもしたほうがいいかな」
「そうね、喜ぶんじゃない? あっ、ほら。ホケカン行くわよ」
「へいへい」

 小夜に引っ張られて行った大学の保健管理センターは混雑していて、治療が終わった頃には午後の授業が半分くらい終わっていた。私はめんどくさくなって、残りの授業をキャンセルしてアボカドに向かった。

    *

 アボカドには波流がいて、私を見るなり駆け寄ってきた。カウンターにはノートと教科書が広げられている。ホケカンで待ってる間、波流とLINEのやり取りをして怪我をしたことを伝えたんだけど、アボカドで勉強をしているというので、報告がてらやってきたのだ。
 波流は相変わらず小学校に行っていないけど、私たちが怪談を蒐集したり分析したりする様子を見て思うところがあったらしく、自発的に勉強をする時間が増えた。大学に入って、私たちと同じように民俗学を勉強したいのだそうだ。怪異蒐集は民俗学とはちょっとずれている気もするけど、波流のモチベーションの向上に繋がるのは喜ばしいことだ。

「朱音、怪我したって?」
 水鳥がカウンターの向こうでグラスを拭きながら聞いてくる。
「うん、でもまあ、大したことなかった。ちゃんと消毒してもらったし、かさぶた剥がしたりしなければそのうち治るって」
「小学生かよ」
「……気をつけてね」
 波流は手の甲に巻かれた包帯を見て、まるで自分の責任みたいに意気消沈している。しゅんとしたままの波流を元気づけるため、小夜に聞いた神社のおまじないの話をしてあげた。波流は私がやっている怪異蒐集の話をしてやると喜ぶのだ。

「……ていう噂があるんだって。波流、あそこに行ったことある?」
「ううん、入ったことはない。近づくの、ちょっと怖くて……」
「怖い?」
「夜歩きのときに、神社がある丘の上に、魚がたくさん集まってるのを見たから」
「魚か……」

 波流は夜の街を歩く。
 でも実際に歩いているわけでなくて、歩いているのは波流の意識だけだ。そのことを私たちは『夜歩き』と呼んでいる。
 そして魚というのは、波流が夜歩きのときにたまに目撃するもので、夜の空を人魂のように、淡く光りながらふわふわと泳いでいるものだ。
 形はとくに決まっていなくて、ぼんやりと赤い光を帯びている。それが何なのかは、波流にもわからないらしい。

 ただ魚がいる場所には、何かがあることが多い。その場所に過去、事件があったり、事故があったり。もしくは何か、普通じゃないものがあったり。波流が魚を見たということは、あの場所はあまりよい場所ではないのかもしれない。爺ちゃんが言っていた『念が溜まる』という言葉を思い出した。

「……あんまり行かないほうがいいと思う」
「そっか。爺ちゃんにも似たようなこと言われたし……あんまり近寄らないようにしとこうかな。波流に心配かけると、また怒られちゃうから」
 そう言うと、波流はやっと笑顔になった。

(第7話に続く)


いいなと思ったら応援しよう!