【眠らない猫と夜の魚】 第15話
「地蔵殺し」④
「……どーすんの、これ」
というわけで私の家に、願いが叶う石(×100)はやって来た。工事現場の噂や小学生の話、そしてさっきの実体験から考えて、怪奇現象の原因がこの石である可能性は高い。捨てようかと思ったけど、お地蔵様の欠片をその辺にポイするわけにはいかず、半分ヤケで持ち帰ってきた。
石をサラダ皿に移して何か変化がないか調べたりしてみたけど、目に見える変化はなかった。今はエコバッグに戻して、リビングの隅に置いてある。さっきからナノとクリオがかわりばんこにエコバッグに近づいて、匂いを嗅いだり前足でつついたりしていた。
「……まだ何か起きるかな」
「まあ、起きたら起きたでしょーがない。受けて立とう」
朱音もヤケになっていた。えげつない恐怖体験をしたせいで恐怖の受容体が麻痺しているのかもしれない。今のところ何も起きていないけど、今日はもう疲れたから、起きるにしても明日にして欲しい。
石の件はひとまずいいとして。それよりも私たちには、話をしなければならないことがあった。私も朱音もさっきから、その話題に触れることを避けていた。そのせいで段々と沈黙の時間が増えている。でもいつまでも目を逸らしているわけにはいかない。腹をくくって、口火を切った。
「……あれ、波流だったと思う?」
「……似てたと思う。パッと見でそう思えるくらいには」
朱音の言う通り、あの人影は波流に似ていた。背格好も、相貌も。その顔に張り付いた、赤い目を除けば。
「水鳥は波流だと思う?」
「……一瞬だったし、はっきり言える自信はないけど」
何せ暗闇の中で、しかも私も朱音も怪奇現象を最前列で体感したばかりでちょっとばかり平静でなかった。
だから波流だと言える自信はない。ないけど……
二人黙り込んで、また沈黙が流れる。
「……前に仮説を立てたよね。波流の夜歩きが始まったときに」
今度は朱音が沈黙を破った。
夜歩きについての、最初の仮説。それは、波流の夜歩きが幽体離脱的なものじゃなくて、波流が実際に夜の街を歩き回ってるんじゃないか、という説だった。小夜が提唱したこの仮説を、私も朱音もすんなり受け入れた。なんぼなんでも、すべての事象に超常現象を絡めようとは思っていない。現実的にはそう考えるのが一番しっくり来た。
でも、それでは説明がつかないこともあった。
波流が実際に歩いているとしたら、夜歩きの範囲は波流の家の近所に限定される。でも夜歩きは山の上だったり、海岸だったり、徒歩で行けない場所でも起きた。こないだの森の中もそうだ。波流の家から遠く離れている。
遠いと言ってもみたま市内なので、行けなくはない。けど半覚醒の状態でふらふら何キロも歩いて、誰にも見咎められずにまたベッドに戻るというのは考えづらかった。
だから歩いているのは波流でなく波流の意識なのだと、そう結論づけるしかなかった。でも今日私たちが見たのが波流なら、もう一度その仮説に立ち返る必要がある。
沈黙。
「もし……もしだよ? さっき見たのが波流で、夜歩きだとしたら、波流は意識だけじゃなくて、実際にここに来たことになるよね」
私の言葉に朱音が慎重に頷いた。
夜歩きでなく波流が自分の意志でやって来た可能性もあるけど、時間的に考えてその可能性はいったん省く。
「だったら波流には、夜歩きで林の中を歩いたって記憶があるはずだよね」
「そうなる……でも、だとしたら何で逃げた?」
「それはわからんけど」
「あと……あの目」
「目は……小夜の言うように錯覚かもしれないし、とりあえず置いておこう」
なんだか保留事項ばかりが増えていく。
「できることは、その確認だけか。朝になったら波流にLINEしてみよう。昨日の夜、夜歩きが起きなかったか」
消極的だけど、それが今の私たちにできることだった。
結局、その日は眠らなかった。話してるうちに空が白んできたし、どうせ朝になったらアボカドをオープンしなくちゃいけない。8時には近所の老人たちがやって来る。朱音も寝れなそうだったので、二人でゾゾゾを見たりSIRENをしたりして時間を潰したけど、いまいち集中できなかった。
朝になるのを待って、朱音が波流に昨日夜歩きが起きたかどうか、確認のLINEを送る。濃いめの珈琲を淹れて眠気を追い払いつつ、朱音のリクエストでカリカリのベーコンエッグトーストを作りながら、波流の返事を待った。
やがてカウンターに置いた朱音がスマホが震えた。朱音がスマホの画面を目玉焼きを焼いている私に向ける。画面には、波流の返事が表示されていた。
「どうしてわかったの?」
*
日が昇って日曜日の10時半時。
モーニングの客が退散した頃に、波流がアボカドにやってきた。メッセンジャーバッグから参考書とノートを取り出す波流は、いつもとあまり変わらない様子に見える。少なくとも疲れたり、隈ができていたり、夜遊びしたようには見えない。
「どうしてわかったの? 夜歩きがあったって」
波流が朱音に向かって不思議そうに首を傾けた。
「いや、わかったわけじゃなくて、最近あんまり起きてなかったから、そろそろかなーって」
朱音の苦しい言い訳に、波流は「ふうん」と言っただけだった。
「じゃあ、いつもみたいに聞かせて」
夜歩き用のノートを広げて、いつものように朱音がインタビューを始める。
波流の夜歩きの記憶が、林の中を歩いたものだったなら、昨日、私たちが見たのは波流で、波流は夜歩きの間、実際に歩いていることになる。
波流が嘘をつかなければだけど。
「昨日はお母さんに会いに病院に行ったから疲れちゃって、夜の10時くらいにはお布団に入って……」
波流の説明を聞きながら、私たちの昨日の行動を思い出す。ファミレスを出たのが22時頃。それからだらだらコンビニで買い物して、家に向かって、怪異に巻き込まれたのはたぶん23時くらいだ。波流が眠ってすぐに夜歩きをしたんだとしたら、時間は合う。
「夜歩きの場所だけど、どこだったかわかる?」
「えっと……みたま川沿いの、ちょうど亜樹さんがバイトしてるコンビニの手前あたりで始まった」
「……みたま川?」
朱音のメモを取る手が止まる。
「うん。そのまま川に沿って歩いて。そうしたらコンビニの前あたりで、車が川のガードレールにぶつかって止まってるのが見えた。車から人が出てきて、コンビニからも何人か人が来て、その中に亜樹さんもいた。ちょっと離れてたからわからないけど、電話をかけてたように見えた」
「ちょっと待ってて」
朱音がスマホを取り出して耳に当てた。聞くまでもなく、亜樹くんに電話しているのだろう。朱音は何度か言葉を交わしてから電話を切った。
「亜樹に確認した。夜に酒気帯びの自損事故があって、亜樹が警察を呼んだって。夜勤始まってしばらくしてからだから、23時くらい」
ちょうど私たちが林の中をさまよってた時間だ。仮に事故のことを新聞か何かで知ったとしても、亜樹くんが通報したのを知ってるのは、その場にいた人間だけだ。波流の言葉は嘘ではない。
「……それから?」
「それから川沿いを歩いて、六地蔵のあるあたりまで行ったら、だんだん眠くなって……昨日は、それで終わった」
「時間はどれくらい?」
「たぶん、始まって終わるまで1時間くらいだと思う」
「別の場所に行ったりは?」
「してないよ。ずっと川沿いを歩いてた」
「夜歩きが終わったあとに、もう一回夜歩きは起きたりしてない?」
「ううん、なかった」
それ以上聞けることはなく、インタビューは終わって、波流は算数のドリルを始めた。朱音が何問か問題の解き方を教えてあげた後、波流はスマホのアラームをセットして確認テストを始めた。
さりげなく波流から距離をおいた場所に移動して、朱音に小声で尋ねる。
「……波流じゃなかったってことだよね?」
謎は謎として残ったままだが、その反面ホッとした気持ちもあった。朱音を見ると、怒ったような顔で考え込んでいる。
「朱音?」
「可能性が、もうひとつある」
「もうひとつ?」
「……波流の夜歩きは、今まで考えてた通り波流の意識だけが歩いている。波流の意識は昨日、川沿いを歩いてた。ここまではOK?」
「OK」
「だから丘には来なかった」
「それもOK」
「でもそれが間違いで、丘にも来たとしたら?」
「……どういうこと?」
朱音は私に顔を近づけて、声をもう一段階落とした。
「波流の意識は夜歩きで川沿いに行った。波流は同時に丘にも来た」
「いや、それは矛盾でしょ」
「でも、あることを前提にすると、矛盾はしなくなる」
「あること?」
カリカリという波流が数式を解く音を背景に、朱音の言う「あること」を考える。発生時間と波流から聞いた記憶の内容、その両方が、波流が夜歩きで川沿いを歩いていたことを示している。いくら考えても、ここに来たということを証明できない。
何か見落としはないかと考えながら、朱音が言った言葉を口の中で繰り返し呟いていると、朱音の言葉の微妙な違いに気づいた。
「波流の意識は夜歩きで川沿いに行った」
「波流は同時に丘にも来た」
無意識に出そうになった声を、慌てて飲み込んだ。
二つの言葉を頭の中で並べて、やっと朱音の考えがわかった。
波流の夜歩きは幽体離脱みたいなものだと、だから夜歩きが起きているとき、波流は眠っているものだと、そう決めつけていた。
でも、その前提が違っていたとしたら。
波流の意識が夜歩きをしている間、波流の体は動いている。
そして波流は、そのことに気づいていない。
思わず波流を見る。波流は私の視線には気づかず、真剣な顔でドリルに向かっていた。
やがて問題を解き終えた波流がペンを置くのと同時に、スマホのアラームが耳障りな音を立てた。
子供はちょっと脅しただけで石を手放した。
昔からそうだ。子供が相手だと楽でいい。
面倒なのは、あいつらだ。
あんなものを集めて持ち歩くなんて、誰が考える?
そのせいで瞬間的にだけど、穴が空いてしまい、出したくもない手を出す羽目になった。
おまけに姿を見られるなんて。
あいつらは私をあの子供の名前で呼んだ。
確証があったわけじゃないだろう。
でも、疑念を持ったはずだ。
今、あいつらに邪魔されるわけにはいかない。
欠片はまだ全部見つかっていないのだ。
神社の床下の欠片は見つけた。
工事現場の欠片はあの家にある。
どこかにまだ、まとまった欠片があるはずだ。
そこを探すまでは。
カーテンの隙間の空が、いつの間にか白み始めていた。
そろそろ子供が目を覚ます。
忌々しい朝の気配に目を細めて、ベッドに横になった。
瞼を閉じる直前、ベッド脇に置かれた机が目に入る。
机には、算数のドリルが広げたままになっていた。
(第16話に続く)