【眠らない猫と夜の魚】 第1話
あらすじ
不登校の小学生、草薙波流は夜の街を歩く。
実際に歩くわけではない。眠っている間に波流の意識だけが体を抜け出して、夜の街を歩くのだ。それを街で怪談を収集する大学生の黒崎朱音は「夜歩き」と呼び、波流が夜歩きで見たものを調べている。
夜歩きを始まったのは、去年の夏祭りの日に波流が「神隠し」にあってからで、朱音は神隠しと夜歩きの間に関係があると考えているからだ。
ある日の夜歩きで、波流は誰かが森の中に死体のようなものを埋めるのを目撃する。朱音はいつものようにその場所を探し始め、その日から朱音の周囲で怪異が起きるようになる。
「埋める」①
気がつくと、夜の森の中に立っていた。
あたりには背の高い木々が等間隔に並んでいる。夜空は天窓のように遥か高いところにあって、そこから覗き込むような満月が見えた。うっすらと霧が立ち込めているせいか、視界は青く煙っている。森というより、湖の底にいるみたいだ。遠くから耳鳴りのように聞こえてくる虫の声は、金属の鱗を持った魚たちが立てる、警告のように聞こえた。
――ザクッ。
そう遠くない場所で、尖った音がした。茂みの向こうにちらりと動くものが見える。木陰からそっと覗き込むと、誰かが地面に穴を掘っていた。暗くて顔はよくわからないけど、ときおり聞こえる浅い息遣いから、どうやら男の人のようだった。
夜・森の中・死体・埋める。
すぐに、そんなことを連想した。だとしたら、あの男の人の足元には死体が転がっていることになる。でもここからだと茂みが邪魔で、男の人の足元がよく見えない。少し近づいてみようと足を踏み出したとき、男の人を挟んで反対側の木陰に誰かが立っていることに気がついた。
思わず息を呑む。
でもよく見るとそれは、人ではなかった。
地蔵だ。
赤い前掛けをした小さな地蔵が、木陰から男の人を覗き込むように立っていた。地蔵と狛犬の中間くらいの形をした、この街では「猫地蔵」と呼ばれる、よく見かける地蔵だ。
男の人は私と地蔵に気づかずに、休みなく穴を掘り続ける。シャベルではなく枝を使って穴を掘っているようで、とても掘りにくそうだ。他に人の気配はない。地蔵と私だけが、穴を掘る男の人を見つめている。
やがて男の人は穴を掘り終えると、足元から何かを持ち上げた。よほど重いものらしく、苦しそうに息を漏らす。持ち上げたものはちょうど、小さな子供くらいの大きさだった。
子供、と想像して嫌な気分になる。でもそれは、なんとなく人の形をしているように見えた。
男の人は持ちあげたものをゆっくりと穴の中に横たえて、棒ではなく手を使って、念入りに穴を土で満たしていった。そして完全に埋め終えてから、穴のあった場所に向かって手を合わせた。
殺してしまった被害者に手を合わせる。それが普通のことなのかどうか、殺した経験も埋めた経験もない私には、よくわからない。
穴を離れて歩き出した男の人を、少し遅れてつけていく。程なく、道路に面した小さな土の広場に出た。隅っこには、月明かりで青白く光った車が、海底に沈んだ鯨の死骸のように横たわっている。広場の端に置かれたバスの時刻表はサビだらけで、何と書いてあるか読めなかった。
男の人は車に乗ってエンジンをかけると、何度か車を切り返して、道路を走っていった。片方が壊れているのか、テールランプは左側しかついていなかった。浮かばれない魂のような赤い光は、淡い残像を残して、ゆっくりとカーブの木々の向こうに消えていった。
あの人は何を埋めたんだろう。
やっぱり、死体なんだろうか。
確かめてみたい気もしたけど、この夜中にひとりで死体と対面する勇気はなかった。しばらく森のほうを見ていると、視界の隅を、ひらり、と魚が舞った。男の人が埋めた穴の上あたりに、数匹の赤い魚が、おぼろげに光りながらひらひらと踊っていた。
やっぱり、埋めたんだ。
魚が湧くということは、きっと。
何か、普通じゃないものを。
明日、朱音さんに相談してみよう。水曜日だから、夕方はアボカドにいるはずだ。明日朱音さんに会えると思うと、少しだけ気分がよくなった。
魚を見つめているうちに、ぼんやりと眠気の波がやってきた。そろそろ戻れそうだ。眠気に身を任せてゆっくりと目を閉じる。
閉じる直前、また地蔵が目に入った。
心なしか、目があったような気がした。
*
朱音さんはいつも通りカウンターの一番奥の席に陣取って、片肘をついた姿勢で本のページを捲っていた。こちらを向いている表紙には、ワカメのような書体で「恐怖の心霊写真集」と書かれていた。
膝が擦り切れた細身のジーンズに、背中に幾何学模様の描かれた黒いパーカー。足元はいつものスタンスミス。男の子みたいに短い髪を、無意識に指先でいじっている。二重の切れ長の目に長いまつげが影を落として、少し眠そうに見えた。朱音さんは店内に入ってきた私に目を向けると、本を閉じて手招きをした。
「お、そろそろ来ると思ってた。水鳥、お客さん」
「客って、どうせ波流でしょ? ちょいと待ってな。いま届きたての豆で珈琲淹れてやっから」
エプロン姿の水鳥さんが、珈琲豆の布袋をえっちらおっちらと抱えて店の奥から出てきた。エプロンの下はロールアップしたジーンズと洗い込まれた緑色のシャツで、足元はコンバースのハイカット。今日は髪の毛を束ねて、馬の尻尾みたいに高い位置でポニーテールにしていた。水鳥さんは見る度に違う髪型をしているのだ。
ここは朱音さんたちのたまり場になっている、喫茶アボカド。
水鳥さんはアボカド唯一のアルバイトで、この店はいつ来ても水鳥さんしかいない。店長は至高の珈琲豆を求めて海外を放浪中だとかで、日本にいないからだ。だからこの店は、水鳥さんがバイトできる時間にしか開かない。実質、水鳥さんの店みたいなものだ。
朱音さんと水鳥さんは、隣町にある『まほろば大学』に通う大学生で、そこで民俗学を学んでいる。二人とも無類の怖い話好きで、暇さえあれば、怖い話だけは尽きることがないここ、みたま市の、怖い話を収集している。だから私の話も馬鹿にせずちゃんと聞いてくれる。
朱音さんの隣の椅子に腰掛けて、言葉を発する前に水をひと口飲んだ。今日も小学校には行っていない。朝に仕事に出かけるお母さんに「いってらっしゃい」と言ったきり、誰とも話をしていなかった。喉の調子を整えてから、朱音さんのほうに向き直る。
「あのね、昨日の夜、変なの見た」
「夜歩きで?」
「うん」
「ちょっと待って。ノート出す」
朱音さんは足元のリュックからノートを取り出した。
これは私の「夜歩き」を記録したノートで、私が見たものを事細かに記してある。私が夜の街を、歩き回って見たものを。
私は、夜を歩く。
寝静まった夜の街を、ひとりで。
でも実際に歩いているわけじゃない。歩いているのはどうやら、私の意識だけだからだ。そしてそのことを信じてくれるのは、朱音さんたちだけだ。
普通に考えれば夢なのだろうけど、どうも夢ではないらしい。私が見たものを記録して、ひとつひとつ検証した結果、私が夜歩きの間に目撃したものが実際に見た場所にあったりとか、実際に夜を歩いていないと知り得ない情報を、私が知っていたことがわかったからだ。
というわけで、私の意識は、どうも本当に夜の街を歩いているらしい。そう考えないと、説明がつかないのだそうだ。
水鳥さんが、朱音さんの前に淹れたての珈琲、私の前にフラットホワイトを置いて、カウンターの中のスツールに腰掛けた。朱音さんに促されて、私は昨日の夜に見た出来事を二人に話した。
「……死体?」
「見たわけじゃないから、わからないけど」
「なるほど。あ、その広場から月は見えた?」
「見えた。真上に」
「車ってどっちの方向に帰った?」
「広場から見て、左」
「どんな車かわかる?」
「よくわからないけど、なんか丸くて……小夜ちゃんの車みたいだった。あ、ランプがひとつ壊れてた」
「ヘッドライト?」
「ううん、後ろの、テールランプ」
「どっち側が壊れてた?」
「私から見て、右」
朱音さんは私が答えた内容をノートに書き込んでいく。でも森の中ということもあって、場所を特定できそうな情報は少なかった。夜歩きはいつも、この街のどこかで起きる。だから昨日の場所もみたま市のどこかなんだろうけど、今までのサンプルから考えてその可能性が高いというだけで、他の場所である可能性もなくはない。
「何か目印になるようなものなかった?」
「特に何も……あ、バス停があった。サビだらけでバス停の名前は読めなかったけど」
「……廃止になった路線かな? その線から探せるかも。小夜来たら車出してもらおうかな」
「え? それだけのヒントで探しに行くの? ていうか小夜、来たっぽい」
水鳥さんの言葉に耳を澄ますと、猫が喉を鳴らすような低い排気音が近づいてくるのが聞こえた。水鳥さんが立ち上がって珈琲をドリップし始める。排気音はだんだん大きくなって、店の横にある駐車スペースのあたりで止まった。
「車出してもらってどこ調べんの?」
「まあ、適当に山のほうでも。水鳥もいこうよ」
「知ってる? 実は私、今バイト中なんだ」
「客いないじゃん」
「確かに君らは客っぽくないけど」
漫才みたいな朱音さんと水鳥さんの会話を聞いていると、ドアが開いて、首をコキコキ鳴らしながら小夜ちゃんが入ってきた。
細い銀縁眼鏡に、ストレートの長い黒髪。濃いブルーのカーディガンに黒のロングスカートは、まるで学校の先生のようだ。実際、大学で数学の教師になるために勉強している。
小夜ちゃんも朱音さんたちと同じ大学に通う大学生だ。専攻は数学科で、朱音さんや水鳥さんとは違うけど、三人は高校生の時からの親友で、今でもたいていいっしょにいる。水曜の夕方は、全員がアボカドに集まる時間なのだ。
「あー、疲れた……あら、波流。ひさしぶり」
小夜ちゃんは私の頭をポンと叩くと、私の隣の椅子に腰掛けながら、朱音さんの前に置かれた夜歩きノートに目を向けた。
「波流、また何か見たの?」
「うん」
「ふうん」
小夜ちゃんは理系でとても現実的な考え方をするけど、私の夜歩きのことは信じてくれている。そもそも、夜歩きが本当にあったことだと証明したのが小夜ちゃんだった。本人はたぶん、夢であることを証明しようとしたんだと思うけど。
水鳥さんが小夜ちゃんの前にグラスに入った水を置く。
「おつ。こんな時間まで講義? 相変わらずギッチギチに詰め込んでんな」
「ううん、今日は家の手伝い。この時期って忙しいのよね、ほら、大学入って車買ってもらったボンボンがあちこちぶつけまくるから」
小夜ちゃんの家は「小野寺モータース」という自動車の修理工場をしている。そのせいか本人も車好きで、丸っこい、速そうな車に乗っている。
「お疲れのとこ悪いんだけど、波流が夜歩きで見たものを探しにいってみようと思って。小夜、これから車出してくれない?」
言いながら、もう朱音さんは立ち上がってリュックを背負いかけている。
「え、待って。私まだ珈琲飲んでないんだけど」
「そう思ってサーモに入れといたぜ」
水鳥さんが小夜ちゃんの前に無慈悲にサーモを置いた。
「えー。まあ、いいけど……で、探すって何を?」
小夜ちゃんの質問に、朱音さんが簡潔に答えた。
「死体」
(第2話に続く)