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【眠らない猫と夜の魚】 第17話

「神隠し」②


「小夜、ほい」
「ん、ありがと」
 水鳥の声に我に返って珈琲のペットボトルを受け取る。表面に浮いた水滴に近づきつつある夏を感じた。
「私も珈琲飲みたいなー。けどまだ飲んじゃだめなんだって」
 ベッドに上体を起こした素子さんが唇を尖らせる。
「退院したらアボカド来てよ。店長から送られてきた秘蔵のブラック・アイボリー淹れたげるから」
 水鳥が素子さんに向けて親指を立てた。
「えっ、それ美味しいやつ?」
「前に飲ませてもらったけど、独特の甘みがあってスペシャルな味がした」
 朱音も親指を立てる。
「うそ。すごいそそられる」
「製法は飲み終わるまで教えてくれなかったけど」
「どうやって作るの?」
 水鳥が親指を立てたまま答えた。
「ゾウに珈琲豆食べさせてフンから豆を回収」
「げっ。でも飲んで珈琲経験値高めたい。小夜ちゃんも飲んだ?」
「私は作り方知ってたからパスした。朱音が飲むまでは黙ってたけど」
 私が舌を出すと、素子さんは声を出して笑った。

 親子だけあって、素子さんと波流はよく似ている。小顔の割に大きな目も、すらっと真っ直ぐに伸びた鼻筋も、やや薄めの唇を尖らせるクセも。
 でもキャラ的には朱音に近い。普段はあんまり笑わないから怒っているように見えて、一見クールというかコールドなんだけど、面倒見がよくて情にも厚く、ノリは体育会系だ。最初は敬語で話していたんだけど「やめてよ敬語なんて。年齢思い出す」と言われてこんなノリの会話になった。まだ三十代だから、感覚的にはちょっと年上の友だちって感じだ。

 ここは素子さんの勤務する病院の個室。ベッドに横になった素子さんを、パイプ椅子に座った私と水鳥が両サイドから挟んでいる。朱音は水鳥の隣で窓枠に背を預けて立っていた。朱音がこういうとき座らない。電車の椅子が空いてても滅多に座らない。前に「何で?」と聞いたら「修行」と言っていた。こういう少年ジャンプみたいなところが朱音にはある。

 今日は月に一回、この四人で集まる日だ。いつもはアボカドかサイレントヒルだけど、先週素子さんが過労で体調を崩して入院してしまったため、今回は病院での開催になった。
「まったく不養生よね。看護師なのに。患者に偉そうに言えないわ」
「働き過ぎだよ。有休消化だと思ってゆっくり休んだら?」
 朱音の言葉に素子さんは拗ねた顔をした。
「それ、師長にも言われた。大部屋空いてなくて個室になったけど、なんか師長が手を回してくれたような気がするのよね。波流がお見舞いに来やすいように。この際だから甘えさせてもらうけど。あとで仕事で返すとして」
「波流はよく来てる?」
「毎日来てる。買い物とか洗濯とかしてくれたり。話し相手ってのが一番ありがたいな。だってここ、退屈だから」
 素子さんはそこで言葉を区切って、声のトーンを落とした。
「ありがとね。波流の状態、すごく良くなってる」

 この会合も始まってもうすぐ一年になる。議題は波流だ。波流が不登校になり家に籠もっていたとき、私が素子さんから波流のことを相談されたのが始まりだった。そこに朱音と水鳥が加わって、こうして月に一回、波流の状態をみんなで共有したり今後の方針を話し合ったりしている。
「最近は私たちも何もしてないよ。ただいっしょにご飯食べたり、勉強見てあげたりしてるだけ。勉強はほとんど小夜にお任せだけど」
 朱音が私に視線を寄こす。
「そんなにべったり見てないよ。波流、けっこう自分の力でスイスイ進んじゃうから、学校よりぜんぜん先のことやってる。学校に戻ったときのこと考えて進み過ぎないようにしてるけど。最近は水鳥といっしょに料理してることも多いかな」
 話を振ると、水鳥は抱えたボウルをかき混ぜるようなジェスチャーをした。生クリームを泡立てているところのようだ。
「勉強の合間にちょこちょこね。でも私の知識だけだとカフェメニューに偏っちゃうから、サイレントヒルに行ったときは亜樹くんに教わってる。味付けとか魚のさばき方とかは亜樹くんのほうがしっかりしてるから」
「匠に教わるとは……」
 素子さんはそう言って、サイレントヒルの方向に向かって手を合わせた。

「ホントありがとね。いっしょにいてくれるだけですごく助かってるのに、家庭教師みたいなことまでお願いしちゃって」
「ううん、それに全部波流が自分からやりたいって言ってるんだよ」
 朱音が代表して答える。
「それがびっくり。波流、あんまりこれがやりたいあれがやりたいって言わない子だったから。それに……まさか剣道まで始めるなんて」
 素子さんが肩を竦める。それは私も意外だった。
 波流は先月から剣道を始めたのだ。
 高校まで剣道部に所属していた朱音は、今でも市内の剣道道場に定期的に稽古に出向いている。サイレントヒルでも型の稽古や素振りをしていて、それを見た波流がやりたいと言い出した。
「波流、剣道できてる? なんか、うまくイメージできないな」
「波流は筋が良いよ。礼儀も正しいし、所作が丁寧だから剣道に向いてる。まだ始めたばっかりで試合とかはやってないけど」
 朱音の説明に、素子さんは「へぇ……」と目を丸くした。

 波流は朱音に憧れているのだ。だから朱音と同じことをやりたがる。波流のことを前から知っている私はちょっと妬ましく思ってしまうけど、波流が何かに憧れて自分を変えていきたいと思っていることが、自分のことのように嬉しく感じる。
 剣道道場は朱音のお爺さんである吾妻さんが師範をしている道場で、波流が行くときは朱音が道場に出てマンツーマンで指導をしている。その点は安心しているんだけど、道場には波流と同じクラスだった男子生徒が数名いる。
 例の一件があったときに、その場にいた生徒だ。
 でも波流はそれを知っていて、そのうえでやりたいと言ったのだ。そういうことも含めて、強くなったと思う。

 ふと、素子さんが憂いを帯びた表情になった。
「……こないだ波流のスニーカーを洗ったんだけど、だいぶくたびれてたのね」
 視線をやや下げて、しみじみと続ける。
「昔はずっと家に籠もってて、スニーカーが真っ白なままだったからさぁ。底についた赤土を洗いながら、外に出るようになったんだなって、ちょっとグッときちゃった。柄にもなく」
 軽い口調で言おうとしている素子さんの表情が、涙を堪えるようにこわばっていて、つられて泣きそうになった。
 さりげなく顔をあげると、朱音と水鳥が一瞬だけ視線を合わせるのが見えた。

 *

 次の土曜日、剣道場に顔を出した。波流の稽古を見学するためだ。
 板張りの床に正座をして、隅っこのほうで稽古をしている波流を見ていると、高校のときに朱音の剣道の試合を応援したときのことを思い出した。
 道場の中央では男子が声を張り上げながら地稽古をやっている。今日は小学生の部だが、地域の運動イベントと重なっているため、いるのは男子が10名程度と少人数だった。

 波流は素子さんが入院している間は稽古を休むかと思ったけど、休まずに出続けている。昼間は素子さんの看病をして、家で家事をして、週の半分はアボカドで勉強して、保健室登校をして、こうして稽古にも顔を出して。
 波流はよくやっている。波流を見ていると、自分の大学生活ももっと密度を濃くできるんじゃないかって思う。

 波流が自発的に色んなことをやりだしたのは朱音の影響が大きい。水鳥も亜樹くんも、波流の興味をさりげなく引き出してあげたり、よい影響を与えていると思う。
 私も波流に何か影響を与えられているだろうか。勉強くらいは見てあげられているけど、そんなのアプリでもできるし。もっと波流を導くような、心の支えになれるようなことをしてあげられないかって、たまに考える。教師になりたいとは言ってるけど、私はまだ、人を導くことがどういうことかよくわかっていないのだと思う。

「もっと脇を締めて」
「……こう?」
「視線はそのままで。そうそう、その形」
 波流は真剣な表情で朱音から型の指導を受けている。指導はほとんど朱音からだけど、たまに吾妻さんも見てくれている。鬼師範として有名だった吾妻さんも、波流の指導をするときは完全に孫娘を見守る好々爺の目になる。「孫娘は私なんだけど」と朱音が苦笑しながらぼやいていた。
 吾妻さんは指導をほぼ退いていて滅多に道場に出てこないけど、波流が来るときは毎回来てくれている。

 朱音の言っていた通り、波流はまだ試合をしてない。朱音と掛かり稽古をすることはあるけど、素振りとか型の稽古が中心だ。でも筋が良いという朱音の評価通り、波流の型は綺麗だった。
 私は剣道については完全に素人だけど、他の生徒に比べて、波流の動きは澱みがなく流れるようで美しかった。参考にしているのが朱音だからだろう。型だけでなく、道具の扱い方や座り方などの所作も丁寧で、礼儀も正しく、周囲に敬意を払っているのが伝わってきた。

 それに比べて今日いる男子たちはあからさまに集中力がなく、動きも雑に見えた。チラチラと波流の方を見ながら小声で言葉を交わし、波流が近づいてきたら嫌な顔をして大げさに避ける。たぶんあれが同じクラスにいた生徒だろう。波流も気づいているけど、反応せずにやりすごしている。
 男子の行動は頭にくるけど、その背景にいるのは大人たちだ。奉納演劇の最中に変事があったことで、「山の怒りに触れた」と口さがなく言っている一派がいることは、私も知っている。そしてそういう空気は子供たちにも伝染する。

 この街はそうした古い価値観や噂が未だに強い力を持つ。そしてそういう勢力を辿っていくと、黒崎家に行き当たる。
 だから朱音は、家を出た。

「オイ、よそ見するな」
 師範代である黒崎音也が、低い声で怒鳴った。切れ長の冷たい目は感情に欠けていて、爬虫類の目を思わせた。
 音也は朱音の4つ上の兄だ。普段は市内で父親が経営する建設会社の要職に就いているが、この道場で師範代として稽古をつけている。
 朱音が実家を嫌う、理由のひとつ。

 兄妹だから朱音と音也は顔が似ている。でも性格はまったく逆だ。典型的な田舎の権力者の息子である音也は、家が持つ権力を自分のものとして当たり前に受け入れ、何も疑わずに周囲に振るう。それが父親にそっくりなのだと、以前朱音が吐き捨てるように言っていた。

 朱音の実家である黒崎家は、みたま市で最も大きな神社である三珠神社の氏子総代を代々務めている。市内で黒崎建設という地場の建設のほぼ全てに関与する大きな建設会社を経営し、市議会や街の開発計画にも強い影響を持っている。
 土地と信仰。
 田舎で大きな力を持つその両方を握っている黒崎家には表立って意見をする者はほとんどいない。

 朱音はそういうものをひっくるめて黒崎家を嫌い、高校卒業と同時に家を出た。出て良かったと思う。高校のときの朱音は、もっと殺伐としていた。始終見えない何かと戦っているようにイラついていて、それが自分自身に対しても向けられているように見えた。

 威圧的な音に顔をあげると、音也が床板を踏み鳴らしながら近づいてくるのが見えた。
「母親が入院中なんだってな。それでも出てくるなんて偉いじゃないか」
 波流の目に薄く怯えが浮かんだ。朱音が音也と波流の間に割って入る。
「波流は私が見てる。何か用か」
「そう邪険にするなよ。俺はここの師範代だぞ」
 敵意むき出しの朱音に、音也は余裕めいた笑いを返した。
「何の用だって聞いてる」
「そろそろ試合でもやってみないか。いつまでも型の稽古ばかりしててもつまらないだろう」
 音也の言葉に朱音の目が細くなる。音也が考えていることは私にもわかった。

 たぶん、ぶつけたがっているのだ。
 波流と、波流のクラスにいた男子生徒を。

 音也にはそういうところがある。虫を同じ籠に入れて戦わせるように、人をけしかけて上から眺めて悦に浸るようなところが。
 朱音も意図を察したようで首を横に振った。
「まだ早い」
「こんな基礎ばっかりやってても成長しないぞ」
「それは私が決める」
 朱音が突っぱねる限り試合はないと、私は安心していた。しかし。
 波流が朱音の袴を引っ張った。
「……朱音さん、私、やってみたい」
「波流?」
「勝てるとは思ってないけど、いずれやるんだったら、試合がどういうものかとか、流れとかを今のうちに知っておきたい」
 朱音が波流をじっと見て考え込む。
 音也が、「決まりだ」と手を叩いた。
「いい心がけだね。心配することないよ。ただの練習試合だから。じゃあ、十分後に開始で」
 そう言って引き返していく音也の背中を、朱音が無言で睨みつけた。

 私はどうしても気になって、胸がざわざわと落ち着かなかった。

 引き返す直前にちらりと見えた音也の横顔が、どこか笑いを噛み殺しているような、歪つなものに見えたから。

(第18話に続く)


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