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【眠らない猫と夜の魚】第10話

「落下と移動」②


 爺ちゃんはウキウキしながら釣り竿を磨いていた。

「釣りに行くの? また亜樹と?」
「ああ」
「亜樹は私の彼氏なんだけど」
「心配するな、夕まずめ狙いだから夜には帰す」
「別にいいけど……で、今日は何やればいい?」
「先月分の帳簿の入力を頼む」

 目が弱くなってきた爺ちゃんは、データの入力を孫娘の私に頼む。それで空いた時間は、たいてい釣りに出かける。相方はもっぱら亜樹だ。亜樹、最近は私とデートするより爺ちゃんと釣りに出かけることのほうが多いんじゃないだろうか。

「あ、ついでに聞きたいことがあるんだけど」
「時間がないから手短にな」
「みたま市の事故物件の記録とかって持ってない?」
「そんな趣味の悪い資料があるか」
 爺ちゃんが呆れた目を向ける。
「でも、表向きには隠されてるような情報とか爺ちゃんのとこに流れてきたりするでしょ」
「ないない。今どき事故情報を隠したりできんだろ」
「だよね。じゃあ、最近飛び降り自殺があったって話は聞かない?」
「聞かんな。そもそもみたま市は高い建物が少ないから飛び降りも少ない。あればすぐに噂になる。随分昔にあったことはあったが」
「ときわビルのことでしょ? 自殺者の幽霊が出るって話を聞いた」
「そんな話もあったな。あれもおかしな話だったが」

 おかしな話?

「どういうこと?」
「あれはな……おっと時間切れだ」
 爺ちゃんは会話を切り上げてクーラーボックスを担いた。
「え、ちょっと待って。最後まで教えてってよ」
 爺ちゃんは面倒そうな顔をして、棚から分厚いキングファイルを2冊取り出してデスクに投げた。
「じゃあ、帳簿じゃなくてこれを入力しておけ。フォーマットはないから、適当に作ってくれればいい」
「これやったら教えてくれるの?」
「頼んだぞ」
「え、ちょっと!」
 爺ちゃんは孫娘の声を軽やかに無視して出ていった。

 残された私は、デスク前の安楽椅子に沈み込んでため息をつく。あてが外れた。あわよくば自殺の有無を確認できると思ったのに。近道はできなくなった以上、地道に聞き込みで探すしかない。でも爺ちゃんがないと言ってる以上、ないんだろうな。そう思うとやる気が削がれる。
 仕方なく、自殺の話はいったん棚上げして、日銭を稼ぐために頼まれた作業を片付けることにした。パソコンを起動しながらキングファイルを斜め読みすると、ファイルのうち1冊は退去の手続き書類、もう1冊は居住者から届いた苦情の書類だった。

「苦情って……読んでてストレス溜まりそうだな」

 でもちょっと面白そうでもある。苦情のリストから取り掛かかることにした。

 書類は昭和中期のものからあって、書式もバラバラだった。言うまでもなく、ほとんど手書きだ。苦情の内容は隣室からの騒音と駐車場の無断使用が多い。苦情の内容は現代とあまり変化がないようだ。

 エクセルで適当なフォーマットを作って、順番に苦情の内容を転記していく。1時間ほど作業していると、気になる苦情を見つけた。
 「夜になると、隣の家の声がうるさい」というありふれた苦情だ。しかし、欄外に爺ちゃんの字と思われるメモがある。

「隣室の203に、居住者なし」

 苦情はそれ1枚だけだったが、退去手続きのファイルを探すと、苦情の主はそれから2週間後に部屋を退去していた。

「隣がいないのに騒音? もしかして、幽霊話?」

 がぜん興味が出てきた私は、入力そっちのけで似たような話を探した。ひょっとしたら怪異蒐集の金脈になるかもしれない。案の定、怪異が関わっていそうな苦情が、他にもいくつか見つかった。

  • 毎晩、深夜にドアをノックされる。

  • 夜中に勝手に家電が動く。

  • 天井裏から人の歩くような音がする。

  • 夜に家の外から何かを叩きつける音がする。

  • 壁のシミが夜になると動き回る。

  • 窓から知らない女が覗く。

 微妙なものもあれば、明らかに怪異っぽいものもある。続けて探していると、「赤い服」というキーワードが目に入った。

  • 赤い服の女が、窓の外を落ちていく

 住所を確認すると、ときわビルの2階の部屋だった。苦情の日付は20年ちょっと前。間違いない、蒐集した話だ。この時点では部屋は賃貸されていたらしい。しかし、そこにも爺ちゃんのメモがあった。

「過去、物件に投身自殺者はなし」

「……自殺者なし?」

 手を止めて考え込む。今回と同じだ。投身自殺する幽霊が目撃される。でも、その場所には自殺者はいない。

 都市伝説みたいにまったくの噂であれば、噂が広まる過程で舞台が別の場所に移ることは珍しくない。しかし、ときわビルでは実際に苦情が残っているし、その後、賃貸が外されていることから考えて、複数の目撃があったと考えられる。

 ヴィラ・みたまの女の子の目撃譚が本当であれば、ときわビルとヴィラ・みたまの両方で、住人はいるはずがない自殺者の幽霊を目撃したことになる。しかもその幽霊は、どちらも赤い服に身を包んでいる。

 この幽霊の話は、いったいどこからやって来た?

     *

 結局、資料ばかり読み漁って頼まれたことはほとんど進まなかったので、爺ちゃんにメールして資料を持ち出す許可をもらい、続きは家でやることにした。

 家に帰ると、亜樹が台所で釣ってきた魚を捌いていた。シンクにはカサゴとメバルとアジが何匹か。まな板には特大のアオリイカが乗っている。

「でっか! エギングもやったんだ」
「アジとイカは刺し身にして、根魚は煮る予定」
「おっけー。日本酒出しとく」
「もうすぐできるから、先に飲んでて」

 春鹿の生酒を冷蔵庫から出して、持ち帰った資料を読みながらちびちびやっていると、程なく刺し身と煮魚がやってきた。亜樹が釣りに行った日は、釣果で晩酌するのがいつもの流れだ。

 アオリイカの刺し身をつまみながら、小夜から聞いた話と、黒崎不動産で調べた話を亜樹に聞かせる。亜樹も私と同じ民俗学のゼミに属していて、怪異蒐集のメンバーでもある。こういう話には食指が動くはずだ。案の定、亜樹はこの話に強い興味を示した。

「おもしろいね。確かに特徴が同じだし、何か関連があるのかも」
「たぶん、どこかの自殺の話が元になって、ときわビルとヴィラみたまの話ができたんだと思うけど」
「でも噂レベルじゃなくて、両方で目撃譚があるのが気になる」
「そこなんだよね」

 これが噂という語り口であれば「都市伝説の伝播」で片をつけられそうだけど、両方の場所でしっかりと幽霊が目撃されている。

「飛び降り自殺の話って、他にはなかった?」
「そう思って探したよ。元の話があるかもって。けど見つからなかった」
「みたま市、そもそも飛び降り少なそうだしね」
「爺ちゃんもそう言ってた。あ、でも他にも幽霊絡みっぽい苦情がいくつかあったよ。ファイルの付箋挟んであるやつ」

 借りてきたキングファイルを亜樹に渡す。亜樹は切子グラス片手にファイルをめくっていたが、やがてその手が止まった。

「ちょっと気になるのがある」
「どれ?」
「これ」

  • 夜に家の外から何かを叩きつける音がする。

「これが?」
「これって、飛び降りの音っぽくない?」
「ああ……言われてみれば」

 そういえば、爺ちゃんはずいぶん昔にみたま市で飛び降りがあったと言っていた。ときわビルに自殺者がいなかったとすると、この音の場所がそうなのかもしれない。

 苦情があったのは三島ビルという雑居ビルで、時期はおよそ30年前だった。ときわビルの話よりも古い。事故物件サイトで調べたけど、時期が古いせいか情報は載っていなかった。同じ理由で、ニュースも見つからない。 

「自殺の有無は爺ちゃんに聞けばわかると思うけど、仮にここで投身自殺があったとすると、ここで幽霊が目撃されて、その話が元になって他の2つの話が生まれたってこと?」
「でも、この場所での幽霊の目撃譚はないんだよね」
「あるのは飛び降りっぽい音だけか」
「それにときわビルの話って20年前だよね。三島ビルが30年前だから、間が10年空いてるのも気になる」
「確かに。ときわビルからヴィラ・みたまも20年空いてるし」
「地図で位置関係を見てみようか」

 地図アプリを開いて話に出た場所にピンを刺す。3つの場所は、近所というわけでもないけど、そんなに離れてもいない。そもそもみたま市はそんなに広くない。しばらく眺めたけど、位置関係からわかることはなさそうだった。

「時期と場所だけじゃ何もわかんないな」
「じゃあ、明日行ってみようか」
「どこに?」
「現地に」

 まるで釣りに出かけるみたいな軽い口調で、亜樹は言った。

(第11話に続く)


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