鳥取の患者

患者の顔と名前を覚えない。もともと記憶力が悪いせいもあるが(笑)、あえて覚えないようにしているところもある。
精神科を標榜している。患者は胸張って通院しているわけではない。回復して社会復帰するまでの、"世を忍ぶ仮の姿"である。
町を歩いていると、ときどきばったり患者と出くわすことがある。あまり露骨に目が合えば、さすがに無視はできない。軽く会釈を交わしてすれ違う。でもたいていの場合、気付かないふりをする。医師-患者関係は、診察室の中だけで充分である。白衣を脱げば僕は医者ではなく、目の前のこの人は患者ではない。だから、基本、無視である。

ただ、もちろん、僕らは医者や患者である前に人間である。「お互い知った間柄なのに無視を決め込むのは、マナーとしてどうなの」という思いがある。良心の呵責、とまでは言わないけれど、心に小さな棘が刺さる気持ち悪さがある。そこでいつの頃からか、僕は患者の顔と名前を努めて覚えなくなった。覚えていなければ、無視する必要がない。相手をそもそも認識できないのだから、こんなに自然なすれ違い方はない。僕も相手も、気持ちよくやり過ごすことができる。

鳥取で勤務医をしていたことがある。狭い町で、スーパーマーケットの数も限られている。買い物に行けば患者に出くわすことはしょっちゅうである。まさかそのたびに「お加減どうですか?」とは聞けない。" How are you ?"は普通の人にとっては挨拶だろうが、医者が言えば問診である。鮮魚コーナーの前で「いや、この前処方された薬ね、正直全然合いませんでした。今寝れなくて大変なんです」とか言われても困る。必然、お互い無視することになる。
患者の顔と名前を覚えない習慣は、鳥取で身についたものと思われる。
だから今日鳥取から来院された患者のことを、非常に申し訳ないのだけれど、僕は全然覚えていなかった。

30代女性。夫と子供を連れて来院。
8歳の子供が「やや多動の傾向があるから」とのことで来られたが、本題に入る前に、女性がこのような話をされた。
「マスク外してもいいですか。先生、私のこと、分かりますか?
そうですか、分からなくても仕方ないですね。
4年前のことです。私、精神科救急を受診したんですね。そのとき当直をしていたのが中村先生でした。そのとき初めて、精神症状を改善するには栄養が重要だということを聞きました。直感で「この先生がいい!」と思って、主治医を別の先生から中村先生に変えてもらいました。
あのまま主治医が代わってなかったら、私は今でも薬漬けだったと思います。先生が栄養のことを教えてくれたからこそ、今があると思っています。
先生が主治医になってから、食事を意識してサプリなんかも飲み始めて、ちょっとずつ薬を減らせるようになりました。
先生が病院をやめて開業するという話を耳にして、ショックでした。「先生がいなくなったらどうしよう」と思いました。他に減薬指導のできる先生なんていませんから。
最後の診察のとき「フルニトラゼパムをやめたい」と言ったら、先生、「急にやめるのは無理。あせらず、しっかり体と心を作ってから」ということでしたが、先生がいなくなってから、私、病院に通うのをやめたんです。薬を無理やりやめました。絶対やめようと思って。副作用が大変だったけど、今ではきっぱりやめれました。

先生、覚えていますか?
母が私を心配して、私に黙って先生のところを受診して、私のことで相談したんです。それも1回だけではなくて何度か。
私、当時は子育てもろくにできなくて、夫ともうまくいっていなくて、離婚の危機でした。夫が助けの手を差し伸べてくれてるのに、私が周りを冷静に見れなくなっていて。
でも今、家族全員仲がいいです。先生は、私だけではなくて、家族を救ってくれたんですよ。
今日神戸の中村先生のところに行くと言ったら、母が「元気な姿を見せておいで」と言いました。母も先生に会いたがっていました。
私、今でも思うんです。私の人生で最高の決断は、「主治医を中村先生にしてください」って事務方に直訴しに行ったことだなって。うつ病で動くのもえらかったのに、よくあの言葉が言えたなって。あの勇気がなかったら、今の回復はなかった」

文章上、標準語表記にしているが、実際は言葉の端々に鳥取弁がある。久しぶりに聞いた、なつかしい方言。話に旦那さんや子供も加わると、診察室がすっかり"鳥取"になる。

残念なのは、女性がここまで話をしたにもかかわらず、僕のほうでは女性の話に対応する記憶がほとんど戻って来なかったことである。
当時の僕は、疲労困憊してムチャクチャな精神状態だった。平日は病棟業務や外来患者の大群、深夜当直などで忙殺され、週末には神戸に帰って物件選びなどの開業準備、さらに時間の隙間を見つけては"Orthomolecular Medicine for Everyone"の翻訳をするなど、この上なく多忙だった。
一人一人の患者には真剣に向き合っていた。「薬はあくまで症状を抑えているだけで、薬の服用を続けている限り真の回復は得られないこと」、「薬よりも何よりも、毎日の食事が最も重要であること」などは、どの患者にも伝えていたと思う。
ただ、今当時を振り返ると、ほとんどの患者には"顔がない"。多忙ゆえに顔と名前を記憶する余裕もなかったか、あえて覚えまいと努めた成果か。
あるいは僕は、鳥取時代の記憶そのものを、鍵をかけて封印しているようなところがある。
「こんな薬を飲んでも治らないのに」そういう思いを持ったまま、黙って抗精神病薬を投与し続けた記憶。20年30年抗精神病薬を飲み続けて半ば廃人となり隔離病棟で死を待つだけになった患者の記憶。製薬会社の手先となって、感情を無にして薬を投与し続けた記憶。
消したい記憶が山のようにある。これこそ、良心の呵責である。しらふでは耐えられない。
心機一転、神戸で開業。本当に自分のやりたかったスタイルで、医療をやろう。
もはや鳥取の苦い記憶は、心の奥深くに抑圧していた。
そんなときに、突然、鳥取からの来客である。しかも、僕への感謝を伝えに来られた。「こんなに元気になった私を見てください」と。
僕はたまらない。泣くべきか笑うべきか、表情の作り方も分からない。否定と肯定の間で、僕は千切れてしまいそうだった。
僕はこの女性に、かろうじてこう言った。
「いえ、僕は何もしていません。確かに、回復のきっかけとなる種をまいたのは僕かもしれません。しかしその種が芽吹いて成長し、花が咲いたのは、間違いなくご自身の努力ですよ」