【程度問題】、その【裏表】(第4回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ【程度問題】について考えております。
【程度問題】を【考察】する上で、【実例】を【観察】してみますと、その【捉え方】にも【見当】がついてきます。
例えば『【説明】と【描写】』の【性質】から。
【程度問題】を『互いに【対立】する【要素】を【切り替え】て【採用】する、その【境界】の【設定基準】(=【程度】)を巡る【命題】(=【問題】)』と捉えてみます。
ここで、【程度問題】を『【要素】の【対立】を巡るもの』と捉えた上で、では“【対立】の【深刻さ】”、あるいは“【共存】の難しさ”に眼を向けてみますと。
こと【小説】においてよく【議論】の種になります『【説明】と【描写】』を【実例】としてみるなら、際立つ【対立】は『【直接表現】と【間接表現】』、『【観客】の【心理傾向】(【敬遠】と【歓迎】)』と映ります。
ただここで“【小説】という【物語】”に限っては、『【間接表現】には“【観客】が【受け入れやすい形】”という【コンセプト】が込められている』ことが見えてきます。
つまりここで【着目】すべきは【形式】ではなく、それより『【観客】に【歓迎】されやすい、【受け入れられやすい】よう【寄り添う姿勢】の【有無】』では――というわけですね。
前回はここから【対立】の【焦点】を絞り込んで、【考察】を【発展】させてみました。
【程度問題】の【対象】として語られる【対立】の中に【観客】の【心理】が覗くからには、つまり【程度問題】を【作者】が【観客】に向き合う【姿勢】の【問題】として扱わないわけにはいかない、ということです。
そう考える時、【作者】が【程度問題】を云々する【作品】を、【観客】へはどのように【紹介】(【自己申告】)しているのか、その【看板】に掲げている内容は何か、という点を見逃すわけにはいきません。この場合は【小説】、言い方を変えると【物語】です。
そして【作者】の【姿勢】は【看板】(=【約束】)の内容『【作品】=【小説】という【物語】』とその扱い方、【一貫】するのか【掌返し】を示すのか、そこに現れます。
この【姿勢】を観る時、実はもう一つの【評価軸】が浮かび上がってきます。
今回はこの【評価軸】についてお話ししましょう。
◇
○『【事実】と【嘘】』、『【誠実】と【不誠実】』
ここで【整理】を。
人の“【約束】に向き合う【姿勢】”を【識別】するとき、【評価軸】は一つとは限りません。
ここまでの【考察】では、少なくとも私の【価値観】においては、この【評価軸】は二つ【存在】しています。
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・“【正直さ】の【評価軸】”:『【約束】を【守る】/【守らない】』
・“【誠実さ】の【評価軸】”『【姿勢】を【一貫する】/【切り替える】』
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さて。
このとき、『【作者】が【一貫】して【約束】を【守る】』ならば、さてどうでしょう。【観客】はそこに【安心】して【信用】や【信頼】を抱けるはずです。
【理由】は【単純】、『【観客自身】の【対応】として、【シンプル】に「【約束】を信じればいいから」』です。『【作者】に【想定外】の(特に【害】となる)【行動】を【予測】したり【警戒】したりしなくていい』となれば、あとは【約束】にだけ耳を傾けておけばいい話です。そうすれば【価値観】の近しいところでだけ【心】を許せばいいわけですから。
ですが、『【作者】が【自分】の【都合】で【約束】を【守ったり】【反故にしたり】する、言い換えれば【姿勢】を【切り替える】』となったら、【観客】はどのように受け止めるでしょうか。
その【姿勢】を、“【観客】としての私”なら【ダブル・スタンダード】、あるいは【掌返し】と【認識】します。さらに、【事実】と【嘘】を使い分けるような【相手】に対しては、『【信用】にも【信頼】にも値しない、“【不誠実】な【行動原理】”』というものを見出さざるを得ません。
ここで【ダブル・スタンダード】や【掌返し】をなぜ私が【不誠実】と【認識】するのか――という点に触れておきます。
【作者】が【約束】を【守っている】うちは、もちろん【問題】はありません。ただ【作者】が【姿勢】を【切り替えた】直後は、さてどういうことになるでしょうか。
【観客】としては、『それまで【作者】に対して抱いていた【信用】【信頼】を【裏切られた】ことになる』わけです。この場合、【信用】も【信頼】も『【過去】の積み重ねから、【現在】と【未来】の【言動】に対して抱く【先入観】』ではあります。ですが、【信用】や【信頼】として抱いていた【先入観】を【裏切られる】とき、【観客】としての【精神的ダメージ】は最も【深刻】なことになります。実際、【詐欺師】や【嘘つき】はここで【現実的ダメージ】、【経済】や【物理】の上での【ダメージ】を【最大化】して与えてくるわけです。そして【詐欺師】も【嘘つき】も、この(ここでは【観客】の)【現実的ダメージ】を【自分】の【利益】とします。
要は、【ダブル・スタンダード】や【掌返し】は、『あなたを【裏切りますよ】』という【メッセージ】なのです。【不誠実】を表す【目印】でもあります。
もちろん、以後は【作者】に対する【信用】も【信頼】も、【観客】の中では消し飛びます。それどころか、それ以前に【ダブル・スタンダード】や【掌返し】の【兆候】を【観測】した時点で、【観客】によっては【裏切り】を【予測】して【作者】に対する【信用】も【信頼】も【ゼロ】にしてしまいます。
この場合、『【作者】が【約束】を一時的に【守っている】』というのは、【観客】にしてみれば【信用】にも【信頼】にも何ら値するものではありません。【観客】の身からすれば「でも【裏切る】んでしょ?」の一言で、全てが覆る道理です。
【作者】の【言動】に【裏切った】【実績】というものがあるなら、それこそ【申し開き】の余地などありません。なぜなら『【掌返し】を【実行】した後では、どんなに“【約束】を【守る】【姿勢】”を示そうとも、【掌返し】の【警戒】を解く【理由】にならないから』です。
なぜなら、『【約束】を【守る】/【守らない】』という“【正直さ】の【評価軸】”と、『【姿勢】を【一貫する】/【切り替える】』という“【誠実さ】の【評価軸】”はそもそも【別物】なのですから。
つまりは“【誠実さ】の【評価軸】”に関して言えば、『“【約束】を【守る】【姿勢】”を【総量】としていくら示すか、ということは、そこに“【姿勢】を【切り替える】”という【掌返し】を混ぜるか否か、という“【誠実さ】の【評価軸】”に関しては何ら【影響】を与えない』ということになるのです。
ここで私が申し上げたいのは、つまりこういうことです――『【ダブル・スタンダード】も含め、【掌返し】は【不誠実】に【相当】するもので、そこに【論理的正当性】は宿らない』と。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【看板】を守るか否か、ここでは“【小説】という【物語】”としての【看板】を守るか否かは“【正直さ】の【評価軸】”の上にあります。
ですがもう一つ、『【姿勢】を【一貫する】か、【切り替え】て【掌を返す】か』という“【誠実さ】の【評価軸】”が【存在】するのです。
『一見して【正直】でも、【自分】の【都合次第】で【掌を返し】て【嘘】をつく』となったら、『いつ【裏切る】か解らない【不誠実】』というわけですね。この【場合】、【正直】なのか【嘘】なのか、あるいはいつ【掌を返す】かは、【相手】からは【判別】できないわけです。
であるからには『【掌返し】始め【不誠実】には、一切の【論理的正当性】は宿らない』ことになります。【掌返し】を【前提】とする【程度問題】も【同様】です。
そこで、次回は【程度問題】以外の【考え方】について【考察】してみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
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