見出し画像

【程度問題】、その【裏表】(第9回・完結)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、このところ【程度問題】について考えております。

 【程度問題】を【考察】する上で、【実例】を【観察】してみますと、その【捉え方】にも【見当】がついてきます。

 例えば『【説明】と【描写】』の【性質】から。
 【程度問題】を『互いに【対立】する【要素】を【切り替え】て【採用】する、その【境界】の【設定基準】(=【程度】)を巡る【命題】(=【問題】)』と捉えてみます。

 ここで、【程度問題】を『【要素】の【対立】を巡るもの』と捉えた上で、では“【対立】の【深刻さ】”、あるいは“【共存】の難しさ”に眼を向けてみますと。

 こと【小説】においてよく【議論】の種になります『【説明】と【描写】』を【実例】としてみるなら、際立つ【対立】は『【直接表現】と【間接表現】』、『【観客】の【心理傾向】(【敬遠】と【歓迎】)』と映ります。
 ただここで“【小説】という【物語】”に限っては、『【間接表現】には“【観客】が【受け入れやすい形】”という【コンセプト】が込められている』ことが見えてきます。

 つまりここで【着目】すべきは【形式】ではなく、それより『【観客】に【歓迎】されやすい、【受け入れられやすい】よう【寄り添う姿勢】の【有無】』では――というわけですね。

 【程度問題】の【対象】として語られる【対立】の中に【観客】の【心理】が覗くからには、つまり【程度問題】を【作者】が【観客】に向き合う【姿勢】の【問題】として扱わないわけにはいかない、ということです。

 そう考える時、【作者】が【程度問題】を云々する【作品】を、【観客】へはどのように【紹介】(【自己申告】)しているのか、その【看板】に掲げている内容は何か、という点を見逃すわけにはいきません。この場合は【小説】、言い方を変えると【物語】です。
 そして【作者】の【姿勢】は【看板】(=【約束】)の内容『【作品】=【小説】という【物語】』とその扱い方、【一貫】するのか【掌返し】を示すのか、そこに現れます。
 この【姿勢】を観る時、実はもう一つの【評価軸】が浮かび上がってきます。

 この【評価軸】についてお話ししますと。

 『“【小説】という【物語】”としての【看板】を守るか否か』は“【正直さ】の【評価軸】”の上にあります。
 ですがもう一つ、『【姿勢】を【一貫する】か、【切り替え】て【掌を返す】か』という“【誠実さ】の【評価軸】”が【存在】するわけです。

 『一見して【正直】でも、【自分】の【都合次第】で【掌を返し】て【嘘】をつく』となったら、『いつ【裏切る】か解らない【不誠実】』ということになりますね。
 この【場合】、【正直】なのか【嘘】なのか、あるいはいつ【掌を返す】かは、【観客】からは【判別】できないわけです。

 であるからには『【掌返し】始め【不誠実】には、一切の【論理的正当性】は宿らない』ことになります。
 これは【掌返し】を【前提】とする【程度問題】も【同様】です。つまり【程度問題】を云々した時点で『【解決】には至らないことが【確定】する』わけです。

 【程度問題】が抱える【問題】の【根本】は、『“互いに【対立】する【要素】”を一つところへ【配置】すること』です。

 ならば“互いに【対立】する【要素】”を【隔離】、つまり【棲み分け】こそが【解決策】ということになります。「【程度】で【切り替え】しよう」などと欲をかくのは【不誠実】ですから。

 と、【解決策】が厳しい話になるのは致し方ありません。
 ただ【考え方】の点で、私としては【指摘】しておきたい【方向性】があります。

 私がお伝えしたいのは、『【解決】を【模索】するために【問題】の【事実関係】を【整理】し【検証】すれば、向かうべき【方向性】は見えてくる』ということです。
 この場合は『【小説】という【物語】で本当に【必要】なのは、『【物語】(≒【小説】)という【看板】(=【約束】)を守ること』、もっと申せば『【観客】が【受け入れやすい形】であろうとすること』ということになりますね。
 よく語られる『【描写】か【説明】か』などという【議論】は、必ずしもこの【方向性】を正しく捉えているとは限らないわけです。

 ここで『【物語】(≒【小説】)という【看板】(=【約束】)を守ること』という【方向性】を持って、例えば【対立】『【直接表現】と【間接表現】』を考えてみるならば。

 【テーマ】や【表現意図】は、【間接表現】と【好相性】です。逆に【直接表現】では身も蓋もありませんから。
 では【テーマ】や【表現意図】の上に乗せるべき【直接表現】はというと、【我流】では【現象】を挙げるところです。しかも【小現象】を連ねる形で。すると【小現象】の連なりで【中現象】が、【中現象】の連なりで【大現象】が描かれることになります。もちろんこの【流れ】は【テーマ】や【表現意図】に沿ったものにします。
 この時、【小現象】群による【間接表現】として【中現象】が、【中現象】群による【間接表現】として【大現象】が、さらに【大現象】群による【間接表現】として【テーマ】や【表現意図】が描かれることになります。【間接表現】の【フラクタル】な【重層構造】ですね。
 これで『【観客】はそれぞれの【読解力】に応じて、より【深層】にある【間接表現】を読み取れる』ようになるわけです。しかも【表層】の【小現象】で【小物語】、という具合に層ごとの【物語】を用意すれば、【観客】に寄り添いつつ、同時に深い【意味付け】も仕込めることになります。

 すると、【物語的】な【表現】というものが【想像】しやすくなるはずです。

 前回はこの【物語的】な【表現】について、掘り下げてみました。

 “【小説】という【物語】”を【看板】に掲げるからには、【作者】の【言いたいこと】をそのまま書き連ねるのは【得策】とは言えません。
 例えば【歴史】の【講義】のように。【歴史的事実】を【羅列】するより、【歴史小説】のように【エピソード】の【集合体】として語る方が【理解】されやすい、というわけです。

 となれば【作者】は【言いたいこと】を【表現】するのに、【物語】つまり大中小の【エピソード】に【エンコード】し、しかも【フラクタル】な【構造】を持たせていくのが望ましい――と申せましょう。
 申してみるなら、【物語全体】の【シリーズ構成】から極小の【エピソード】まで、【言いたいこと】を【分解】し【物語】の中へ【分散配置】していく、ということになりますね。
 【作者】として【言いたいこと】も大中小ありましょうから、【表現意図】でお伝えした【内容】にも似て、【フラクタル】な【物語】の【構造】に【エンコード】して伝えていくというわけです。

 となると、【技術】以前のところで【作者】には必ず求められるものが見えてきます。

 今回は、この点についてお話ししましょう。

 ◇

○『【言いたいこと】を【分解】する』ための【自制】

 さて、“【物語的】な【表現】”というものの【作り方】、少なくともその【一例】が見えてきたところで、私としては【注意】を促しておきたいことがあります。

 ここまでで挙げた『“【作者】が【言いたいこと】を”【分解】して【分散配置】する』という【行為】には、【作者】の【自制】が【必須】なのです。

 【言いたいこと】を【分解】して【分散配置】するには、【言いたいこと】を【整理】して【細分化】しなければなりません。
 これが【未整理】では、そもそも【分解】のしようがなくなります。よしんば【分解】したとして、『どのように【分散配置】すれば、【言いたいこと】を【再構築】したことになるのか』が【設計】できない【道理】です。

 「【分解】とか【整理】なんかしなくとも、【言いたいこと】は【全部】書けばいいじゃないか!」という【反感】も、私は【予測】しておりますが。

 そもそも【分解】しないでは、“【作者】が【言いたいこと】”を【シリーズ構成】、あるいは【流れ】や【構成】といったものに【エンコード】も【変換】もできないことになります。それこそ【主人公】が【ヒロイン】と眼を合わせるだけの【表現】に【文庫本】一冊分の【情報量】が費やされる、などという【事態】すらあり得るのです。
 それは単に『“【作者】が【言いたいこと】”を【直接表現】で【記述】したもの』にしかならず、それでは【物語】にはなり得ません。この場合、下手をすると『【表現】としては“【小説】という【物語】”ではなく、【資料】や【論文】の方が【相性】がいい』ということすらあり得るわけです。
 もっとも、【資料】や【論文】にしても適した【構成】というものがありますので、【言いたいこと】を【全部】そのまま【記述】する【スタイル】に向いているとは限りませんが。

 こういった【背景】は、“【小説】という【物語】”においては【一言要約】や【千文字要約】といった【鍛錬】に【反映】されている――と、私は観ています。

 “【作者】が【言いたいこと】”を細かく【分解】できねば、【一言】になど収まるはずもありません。また【分解】したものに【優先順位】を付け、【取捨選択】して、さらにその上で【構成】を与えてこそ【要約】は成り立ちます。
 なのでこれら【要約】で養われるものは、そのまま“【物語的】な【表現】”で【必要】になるもの、というわけです。

 ここで【必要】になるのが【作者】の【自制】というわけです。
 「【言いたいこと】を【全部】【この場で】書き出したい!」という【感情】は、“【作者】としての私”としても【理解】できます。ただそこで【自制】しなければ、書いたものは“悪い【意味】での【オタク語り】”にしかなりません。
 【物語】としての【質】を【優先】して【自制】するか、【作者自身】の【感情】を【優先】して【物語】としての【質】を【放棄】するか。選ぶのは【作者自身】ですが、【作品】をどう【評価】するかを決めるのは【観客】一人一人です。この【事実】は忘れずにおきたいですね。

 かくして【自制】に【成功】したなら、“【物語的】な【表現】”の【可能性】は【飛躍的】に高まることになります。
 “【物語的】な【説明】”を挟むことも【可能】になりますし、“【深層】の【表現】”を用いた【間接表現】として【言いたいこと】を【物語的】に【表現】する【道】も拓けます。その場その場で【言いたいこと】を【分解】して【取捨選択】しても、【残り】をどこで活かすか【見当】を付けていきやすいわけですから、【ストレス】軽く【構成】を考えられます。何より【表現】が【物語的】ですから、【観客】に対する【姿勢】として【約束】と【誠実さ】を共に重んじることができます。

 もちろん【簡単】とは申しません。【一朝一夕】でできることでもないでしょう。
 ただ【程度問題】などという、【解決不可能】かつ【不誠実】な【命題】に頭を悩ませるよりは、よほど【建設的】――と、私なら考えるところです。

 ご参考になれば幸いです。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!