見出し画像

【程度問題】、その【裏表】(第8回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、このところ【程度問題】について考えております。

 【程度問題】を【考察】する上で、【実例】を【観察】してみますと、その【捉え方】にも【見当】がついてきます。

 例えば『【説明】と【描写】』の【性質】から。
 【程度問題】を『互いに【対立】する【要素】を【切り替え】て【採用】する、その【境界】の【設定基準】(=【程度】)を巡る【命題】(=【問題】)』と捉えてみます。

 ここで、【程度問題】を『【要素】の【対立】を巡るもの』と捉えた上で、では“【対立】の【深刻さ】”、あるいは“【共存】の難しさ”に眼を向けてみますと。

 こと【小説】においてよく【議論】の種になります『【説明】と【描写】』を【実例】としてみるなら、際立つ【対立】は『【直接表現】と【間接表現】』、『【観客】の【心理傾向】(【敬遠】と【歓迎】)』と映ります。
 ただここで“【小説】という【物語】”に限っては、『【間接表現】には“【観客】が【受け入れやすい形】”という【コンセプト】が込められている』ことが見えてきます。

 つまりここで【着目】すべきは【形式】ではなく、それより『【観客】に【歓迎】されやすい、【受け入れられやすい】よう【寄り添う姿勢】の【有無】』では――というわけですね。

 【程度問題】の【対象】として語られる【対立】の中に【観客】の【心理】が覗くからには、つまり【程度問題】を【作者】が【観客】に向き合う【姿勢】の【問題】として扱わないわけにはいかない、ということです。

 そう考える時、【作者】が【程度問題】を云々する【作品】を、【観客】へはどのように【紹介】(【自己申告】)しているのか、その【看板】に掲げている内容は何か、という点を見逃すわけにはいきません。この場合は【小説】、言い方を変えると【物語】です。
 そして【作者】の【姿勢】は【看板】(=【約束】)の内容『【作品】=【小説】という【物語】』とその扱い方、【一貫】するのか【掌返し】を示すのか、そこに現れます。
 この【姿勢】を観る時、実はもう一つの【評価軸】が浮かび上がってきます。

 この【評価軸】についてお話ししますと。

 『“【小説】という【物語】”としての【看板】を守るか否か』は“【正直さ】の【評価軸】”の上にあります。
 ですがもう一つ、『【姿勢】を【一貫する】か、【切り替え】て【掌を返す】か』という“【誠実さ】の【評価軸】”が【存在】するわけです。

 『一見して【正直】でも、【自分】の【都合次第】で【掌を返し】て【嘘】をつく』となったら、『いつ【裏切る】か解らない【不誠実】』ということになりますね。
 この【場合】、【正直】なのか【嘘】なのか、あるいはいつ【掌を返す】かは、【観客】からは【判別】できないわけです。

 であるからには『【掌返し】始め【不誠実】には、一切の【論理的正当性】は宿らない』ことになります。
 これは【掌返し】を【前提】とする【程度問題】も【同様】です。つまり【程度問題】を云々した時点で『【解決】には至らないことが【確定】する』わけです。

 【程度問題】が抱える【問題】の【根本】は、『“互いに【対立】する【要素】”を一つところへ【配置】すること』です。

 ならば“互いに【対立】する【要素】”を【隔離】、つまり【棲み分け】こそが【解決策】ということになります。「【程度】で【切り替え】しよう」などと欲をかくのは【不誠実】ですから。

 と、【解決策】が厳しい話になるのは致し方ありません。
 ただ【考え方】の点で、私としては【指摘】しておきたい【方向性】があります。

 私がお伝えしたいのは、『【解決】を【模索】するために【問題】の【事実関係】を【整理】し【検証】すれば、向かうべき【方向性】は見えてくる』ということです。
 この場合は『【小説】という【物語】で本当に【必要】なのは、『【物語】(≒【小説】)という【看板】(=【約束】)を守ること』、もっと申せば『【観客】が【受け入れやすい形】であろうとすること』ということになりますね。
 よく語られる『【描写】か【説明】か』などという【議論】は、必ずしもこの【方向性】を正しく捉えているとは限らないわけです。

 ここから前回は、この【方向性】が至る【具体的】な【形】について、【考察】を巡らせてみました。

 『【物語】(≒【小説】)という【看板】(=【約束】)を守ること』という【方向性】を持って、例えば【対立】『【直接表現】と【間接表現】』を考えてみるならば。

 【テーマ】や【表現意図】は、【間接表現】と【好相性】です。逆に【直接表現】では身も蓋もありませんから。
 では【テーマ】や【表現意図】の上に乗せるべき【直接表現】はというと、【我流】では【現象】を挙げるところです。しかも【小現象】を連ねる形で。すると【小現象】の連なりで【中現象】が、【中現象】の連なりで【大現象】が描かれることになります。もちろんこの【流れ】は【テーマ】や【表現意図】に沿ったものにします。
 この時、【小現象】群による【間接表現】として【中現象】が、【中現象】群による【間接表現】として【大現象】が、さらに【大現象】群による【間接表現】として【テーマ】や【表現意図】が描かれることになります。【間接表現】の【フラクタル】な【重層構造】ですね。
 これで『【観客】はそれぞれの【読解力】に応じて、より【深層】にある【間接表現】を読み取れる』ようになるわけです。しかも【表層】の【小現象】で【小物語】、という具合に層ごとの【物語】を用意すれば、【観客】に寄り添いつつ、同時に深い【意味付け】も仕込めることになります。

 すると、【物語的】な【表現】というものが【想像】しやすくなるはずです。

 今回はこの【物語的】な【表現】について掘り下げてみましょう。

 ◇

○【考察】:【物語的】な【表現】

 さて、ここまでの【考察】を通して見えてきたことがあります。

・【作者】が【看板】(≒【約束】)として掲げるものが“【小説】という【物語】”であるならば、『【表現】を【物語的】に整えること』が“【約束】を【守る】”【姿勢】に繋がる

 いかがでしょうか。【看板】(≒【約束】)として掲げているのは“【小説】という【物語】”なのですから、【対立構造】として捉えるなら『【物語的】か否か』というわけです。『【説明】と【描写】』でもなく、『【直接表現】と【間接表現】』でもなく、『“【物語的】な【表現】”か否か』で【判断】すればいいのです。
 “【物語的】な【表現】”を嫌うなら、そのときは【看板】として“【物語】でないもの”、例えば【資料】だとか【論文】だとかを掲げれば済む話。そうすれば【観客】に【嘘】をついてしまう【心配】はありません。

 なので“【小説】という【物語】”で【大切】なのは、『“【作者】が【言いたいこと】”の数々を【物語】や“【物語的】な【表現】”に整えるよう【エンコード】する、あるいは【変換】する、そういう【姿勢】』というわけです。

 もう少し【一般的】な【表現】を試みるなら、『“【作者】が【言いたいこと】”は【エピソード】で表せ』というのが近いでしょうか。【エピソード】一つ一つは小なりといえど【物語】ですし、そういった大中小の【エピソード】の【フラクタル】な【集合体】もまた【物語】なわけですから。

 【エピソード】の持つ【力】というのは、目の当たりにした方も多いことと【推察】します。
 中でも【例】として解りやすいのは【歴史】の【講義】でありましょうね。

 例えば【単純】に【歴史的事実】を【羅列】していくだけの【説明】であったとしたら、さてどうでしょう。【歴史】の【講義】としては【退屈】極まりないものになりそうですね。
 が、【歴史的事実】同士を【事実関係】となる【エピソード】で連ね、【一連】の【物語】、例えば【歴史小説】のような【物語】として【講義】を【展開】したなら、さてどうでしょう。【語り口】の【巧拙】はあるにしても、少なくともその【ポテンシャル】は【ご想像】に難くないものと考えます。【歴史】にハマった方々を【観察】するに、【歴史】を“大中小様々な【エピソード】からなる【巨大】な【物語】”として捉えておいでの方々の【割合】は、【圧倒的多数】であるように窺えます。

 では、“【作者】が【言いたいこと】”を【エピソード】、あるいは“【物語的】な【表現】”の【形】に整えるには、どういう【やり方】で臨めばいいのか――そういう【疑問】も、私は【予測】するところです。

 ここで【参考】になりそうなのは、【シリーズ構成】という【考え方】。【アニメーション】の【長編シリーズ】でよくお見かけしますが、【物語】の【構成】と【演出】に関わるものです。

 “【作者】が【言いたいこと】”も大中小様々あり、これもまた【フラクタル構造】を【形成】します。これらは【スケール】で分けると【作品テーマ】、【章テーマ】、【話テーマ】、【シーン・テーマ】、【カット・テーマ】、という具合に【階層構造】を【形成】することになります。

 ですが、これだけではありません。
 例えば【主人公】が【逆境】に陥ったりするような【展開】というものも【存在】します。こういった【中小スケール】の【展開】や【状態】そのものは【大スケール】の【テーマ】に【合致】しない場合もあるわけですが、それは往々にしてより【大スケール】の【テーマ】を【強調】することを【目的】として【配置】された【アンチテーゼ】であったりします。
 この場合は【前後関係】まで【視野】を拡げると『【困難】→【克服】』という【構成】が見えてきたりするもので。要は『【ミクロ】な【視点】や【構成要素単体】だけでは語れない、【前後関係】まで含めた【流れ】や【構成】』が【存在】するわけです。
 もちろん【流れ】であるからには【順序】にも【意味】や【演出意図】が込められますし、【構成】としては込めるものの【強度】にも【配慮】することになります。
 こういった【工夫】を積み重ねた【結果】、より【大スケール】の【テーマ】を【強調】するための【エピソード】(≒【物語】)の数々というものが、【流れ】や【構成】の【集合体】として現れてくるわけです。

 これら【流れ】や【構成】は、要は【テーマ】を【エピソード】(≒【物語】)に【変換】あるいは【エンコード】するための【パーツ】とも観ることができます。

 では、これを【作品全体】から【カット】あるいは【一文】に至るまでの各【スケール】で観るならば。
 “【作者】が【言いたいこと】”の最たるものである【作品テーマ】を【表現】するために、【エピソード】として“【章テーマ】の【流れ】や【構成】”に(【演出意図】を込めて)【分解】していく――という【作業】の【存在】が見えてきます。
 もちろんこれは【フラクタル】な【作業】です。【章テーマ】を【分解】して【話テーマ】の【流れ】や【構成】に、また【話テーマ】を【分解】して【シーン・テーマ】の【流れ】や【構成】に……という具合に。

 見方を変えれば、“【物語的】な【表現】”というものは、以下のような【作業】で出来上がっていくもの、とも捉えることができそうです。

 ◇

・“【作者】が【言いたいこと】”を大中小各【スケール】の【演出意図】に【分解】し【分散配置】する
・【分解】し【分散配置】した【演出意図】を、【エピソード】(≒【物語】)の元となる【流れ】や【構成】といった【構成要素】の数々に【エンコード】あるいは【変換】する
・出来上がった【構成要素】の数々を、【エピソード】(≒【物語】)という【形】に【再構築】する

 ◇

 こう考えると、【シリーズ構成】で【作品テーマ】を【章テーマ】の【演出意図】に【分解】し【分散配置】して、これら【演出意図】を【流れ】や【構成】からなる大【エピソード】として【再構築】するのが【第一段階】。こうやって大【エピソード】に乗せた【章テーマ】一つ一つをまた【話テーマ】の【演出意図】に【分解】し【分散配置】して……という具合に【段階】を進め、【一文】を【構成】する【極小エピソード】にまで【細分化】していく――という【工程】にも【思い】を馳せることができますね。

 こういった【工程】の数々を経るからこそ、【技巧】や【工夫】を込める【余地】もあろうというもの。“【作者】が【言いたいこと】”そのままの【記述】と見比べてみれば、【表現】の【質】における【ポテンシャル】は大いにありそうです。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 “【小説】という【物語】”を【看板】に掲げるからには、【作者】の【言いたいこと】をそのまま書き連ねるのは【得策】とは言えません。
 例えば【歴史】の【講義】のように。【歴史的事実】を【羅列】するより、【歴史小説】のように【エピソード】の【集合体】として語る方が【理解】されやすい、というわけです。

 となれば【作者】は【言いたいこと】を【表現】するのに、【物語】つまり大中小の【エピソード】に【エンコード】し、しかも【フラクタル】な【構造】を持たせていくのが望ましい――と申せましょう。
 申してみるなら、【物語全体】の【シリーズ構成】から極小の【エピソード】まで、【言いたいこと】を【分解】し【物語】の中へ【分散配置】していく、ということになりますね。
 【作者】として【言いたいこと】も大中小ありましょうから、【表現意図】でお伝えした【内容】にも似て、【フラクタル】な【物語】の【構造】に【エンコード】して伝えていくというわけです。

 となると、【技術】以前のところで【作者】には必ず求められるものが見えてきます。

 次回は、この点についてお話ししましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


いいなと思ったら応援しよう!