【程度問題】、その【裏表】(第3回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ【程度問題】について考えております。
【程度問題】を【考察】する上で、【実例】を【観察】してみますと、その【捉え方】にも【見当】がついてきます。
まずは『【説明】と【描写】』の【性質】から。
【程度問題】を『互いに【対立】する【要素】を【切り替え】て【採用】する、その【境界】の【設定基準】(=【程度】)を巡る【命題】(=【問題】)』と捉えてみます。
この【捉え方】を元として、前回はさらに【程度問題】に【考察】を巡らせてみました。
【程度問題】を『【要素】の【対立】を巡るもの』と捉えた上で、では“【対立】の【深刻さ】”、あるいは“【共存】の難しさ”に眼を向けてみますと。
こと【小説】においてよく【議論】の種になります『【説明】と【描写】』を【実例】としてみるなら、際立つ【対立】は『【直接表現】と【間接表現】』、『【観客】の【心理傾向】(【敬遠】と【歓迎】)』と映ります。
ただここで“【小説】という【物語】”に限っては、『【間接表現】には“【観客】が【受け入れやすい形】”という【コンセプト】が込められている』ことが見えてきます。
つまりここで【着目】すべきは【形式】ではなく、それより『【観客】に【歓迎】されやすい、【受け入れられやすい】よう【寄り添う姿勢】の【有無】』では――というわけですね。
今回はここから【対立】の【焦点】を絞り込んで、【考察】を【発展】させてみましょう。
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○【対立】『(【観客】の)【敬遠】と【歓迎】』
すると【考察】は、もう一つの【対立】である『【観客】の【心理傾向】(【敬遠】と【歓迎】)』へ【合流】することになります。
ここで“【観客】の【心理】”を云々するに当たり、【大前提】として押さえておきたい【認識】があります。
・【大前提・認識】:【観客】は“【小説】という【物語】”を楽しみたいのであって、【資料】や【論文】を読みたいのではない
これについては、【考察】の【題材】として“【小説】という【物語】”を選んでいることから、この【考察】では【自明】のこととして扱います。【説明】が主な【価値】となるのは【資料】や【論文】のような【媒体】でのことであって、少なくとも【物語】でのことではない――という、これは”【観客】としての私”の【認識】です。
さて。
以上の【大前提】『【観客】は“【小説】という【物語】”を楽しみたい』に立つとき、【観客】として【歓迎】するものは【物語】です。“【作者】が【言いたいこと】”そのままの【記述】ではありません。
そう考えるとき、『【説明】と【描写】』の【対立】は、『【観客】に【歓迎】されやすい、【受け入れられ】やすいよう【寄り添う姿勢】の【有無】』の【対立】として【認識】できることになります。
この【認識】を【採用】するなら、です。【程度問題】とは、つまり『どこまで【観客】に【寄り添う姿勢】を取り、どこから【観客】に【寄り添わない姿勢】を取るか』という、“【姿勢】や【行動原理】を【切り替える】、その【境界線】”を探る【命題】――ということになりますね。
○【看板】と【姿勢】、その【背景】
実はこの【命題】、『“【観客】に【寄り添う】【姿勢】を取るか、【寄り添わない】【姿勢】を取るか”、その【姿勢】や【行動原理】を【切り替える】【境界線】を探る』には、またさらに【大前提】があります。
その【大前提】というのは『【観客】は“【小説】という【物語】”として【作者】が掲げた【看板】によって観に来てくれている』ということ。
ここで言う【看板】とは、【作者】が『こういう【作品】をご覧に入れますよ』という【宣言】に【相当】します。【表現形式】(【小説】、【資料】、【論文】、【エッセイ】など)や【ジャンル】など、『【作品】を【アピール】するために使う【自己申告情報】』がこれに当たりますね。
これに対して、【作者】は【選択】を迫られることになります。『【看板】を観て来てくれた【観客】の前で、【作者】として“【看板】に向き合う【姿勢】”』という形で。
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・【看板】(≒【約束】)を【守る】【姿勢】
・【看板】(≒【約束】)を【守らない】【姿勢】
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このとき【作者】が【看板】として掲げるのは、例えば『この【作品】は“【小説】という【物語】”ですよ』ということです。こういった【看板】は、【作者】が【作品】を【観賞】してもらう前に【内容】の【傾向】や【ジャンル】を示す、言わば【約束】に【相当】することになります。
この【看板】、つまり【約束】を信じて【観客】が【作品】を観に来てくれている――という【大前提】を踏まえるなら、さてどうでしょう。以下の【論理】が成立するのではないでしょうか。
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・【作者】から【物語】を【提示】されたら、【観客】としては【約束】を【守られた】ことになる
・【作者】から【物語でないもの】を【提示】されたら、【観客】としては【約束】を【反故にされた】ことになる
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これら【論理】に対して、【観客】からして【約束】を【反故にされた】となれば、さてどうでしょう。
例えば【ジャンル詐欺】や【タイトル詐欺】という【言葉】が表すように、何らかの形で【観客】の【反感】を買うのが【当然】というものです――もちろん、【観客】の【個性】による【方向性】や【強度】の違いはあるとしても。
以上のような【論理】に対して、【作者】が「だから、この【姿勢】をどこで【切り替えるか】の【程度】が【問題】なのであって……」と【主張】する――というのが、私の【認識】する“【程度問題】を巡る【姿勢】”なわけですが。
実は、【看板】を【約束】と捉えるとき、【作者】が迫られる【選択】には、もう一つ別の【評価軸】が【存在】しているのですが、お気付きでしょうか。
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・【自分】の【都合】によらず、【選択】の【基準】や【行動原理】を【一貫】させる【姿勢】
・【自分】の【都合】次第で、【選択】の【基準】や【行動原理】を【切り替える】【姿勢】
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何のことはない、【事実】なら【事実】だけを扱う【姿勢】を【一貫】、つまり貫き通すか、それとも【嘘】と【事実】を【自分】の【都合】で【使い分ける】、つまり【姿勢】を【切り替える】という【掌返し】や【ダブル・スタンダード】を用いるか。
ここで私が【指摘】するのは、そういう“【誠実さ】の【評価軸】”に関わる【選択】です。
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さて、今回は一旦ここまで。
【程度問題】の【対象】として語られる【対立】の中に【観客】の【心理】が覗くからには、つまり【程度問題】を【作者】が【観客】に向き合う【姿勢】の【問題】として扱わないわけにはいかない、ということです。
そう考える時、【作者】が【程度問題】を云々する【作品】を、【観客】へはどのように【紹介】(【自己申告】)しているのか、その【看板】に掲げている内容は何か、という点を見逃すわけにはいきません。この場合は【小説】、言い方を変えると【物語】です。
そして【作者】の【姿勢】は【看板】(=【約束】)の内容『【作品】=【小説】という【物語】』とその扱い方、【一貫】するのか【掌返し】を示すのか、そこに現れます。
この【姿勢】を観る時、実はもう一つの【評価軸】が浮かび上がってきます。
次回はこの【評価軸】についてお話ししましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。