【程度問題】、その【裏表】(第6回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ【程度問題】について考えております。
【程度問題】を【考察】する上で、【実例】を【観察】してみますと、その【捉え方】にも【見当】がついてきます。
例えば『【説明】と【描写】』の【性質】から。
【程度問題】を『互いに【対立】する【要素】を【切り替え】て【採用】する、その【境界】の【設定基準】(=【程度】)を巡る【命題】(=【問題】)』と捉えてみます。
ここで、【程度問題】を『【要素】の【対立】を巡るもの』と捉えた上で、では“【対立】の【深刻さ】”、あるいは“【共存】の難しさ”に眼を向けてみますと。
こと【小説】においてよく【議論】の種になります『【説明】と【描写】』を【実例】としてみるなら、際立つ【対立】は『【直接表現】と【間接表現】』、『【観客】の【心理傾向】(【敬遠】と【歓迎】)』と映ります。
ただここで“【小説】という【物語】”に限っては、『【間接表現】には“【観客】が【受け入れやすい形】”という【コンセプト】が込められている』ことが見えてきます。
つまりここで【着目】すべきは【形式】ではなく、それより『【観客】に【歓迎】されやすい、【受け入れられやすい】よう【寄り添う姿勢】の【有無】』では――というわけですね。
【程度問題】の【対象】として語られる【対立】の中に【観客】の【心理】が覗くからには、つまり【程度問題】を【作者】が【観客】に向き合う【姿勢】の【問題】として扱わないわけにはいかない、ということです。
そう考える時、【作者】が【程度問題】を云々する【作品】を、【観客】へはどのように【紹介】(【自己申告】)しているのか、その【看板】に掲げている内容は何か、という点を見逃すわけにはいきません。この場合は【小説】、言い方を変えると【物語】です。
そして【作者】の【姿勢】は【看板】(=【約束】)の内容『【作品】=【小説】という【物語】』とその扱い方、【一貫】するのか【掌返し】を示すのか、そこに現れます。
この【姿勢】を観る時、実はもう一つの【評価軸】が浮かび上がってきます。
この【評価軸】についてお話ししますと。
『“【小説】という【物語】”としての【看板】を守るか否か』は“【正直さ】の【評価軸】”の上にあります。
ですがもう一つ、『【姿勢】を【一貫する】か、【切り替え】て【掌を返す】か』という“【誠実さ】の【評価軸】”が【存在】するわけです。
『一見して【正直】でも、【自分】の【都合次第】で【掌を返し】て【嘘】をつく』となったら、『いつ【裏切る】か解らない【不誠実】』ということになりますね。
この【場合】、【正直】なのか【嘘】なのか、あるいはいつ【掌を返す】かは、【観客】からは【判別】できないわけです。
であるからには『【掌返し】始め【不誠実】には、一切の【論理的正当性】は宿らない』ことになります。【掌返し】を【前提】とする【程度問題】も【同様】です。
そこで前回は、【程度問題】以外の【考え方】について【考察】してみました。
【程度問題】が抱える【問題】の【根本】は、『“互いに【対立】する【要素】”を一つところへ【配置】すること』です。
ならば“互いに【対立】する【要素】”を【隔離】、つまり【棲み分け】こそが【解決策】ということになります。「【程度】で【切り替え】しよう」などと欲をかくのは【不誠実】ですから。
と、【解決策】が厳しい話になるのは致し方ありません。
ただ【考え方】の点で、私としては【指摘】しておきたい【方向性】があります。
今回はこの【方向性】についてお話ししてみましょう。
◇
○【検証】:“【小説】という【物語】”と【対立】『【説明】と【描写】』
と、ここまでお話しした時点で。
「そんなの厳しすぎる!」という【反応】は、私としても【予測】のうちです。「それじゃ【説明】は全く入れられないじゃないか!」と。
ですが、ここで私としては【指摘】しておきたいことがあります。
まず大切なのは『【作者】として“互いに【対立】する【要素】”を【棲み分け】させ、なおかつ【誠実】な【姿勢】を保つこと』です。
次に【看板】(≒【約束】)として“【小説】という【物語】”を掲げた以上、【物語でないもの】を【提示】するのは【嘘をつく】ことになります。
ですが【嘘】になるのは『【物語でないもの】を【提示】すること』であって、『【説明】が100%【物語でないもの】である』とは誰も言っていないのです。
さて。
『【説明】と【描写】』は、互いに【対立】する【性質】を多く持つことは【事実】です。ですが、全く相容れない【二項対立】なのかと申せば、そこには私は【疑問】を提するところです。
ここで【確認】してみましょう。【再掲】ですが、私なりに【認識】する『【説明】と【描写】』の【捉えられ方】は、おおよそ以下の通りです。
◇
○【説明】:
・【形態】としては、“【作者】が【言いたいこと】”をほぼそのまま【記述】したもの
・“【作者】が【言いたいこと】”は【直接表現】で【記述】されている
・【作者】としては、【観客】へ【表現】を届ける上で、【技巧】上の【ハードル】は比較的高くない
・【観客】の【反応】としては「【物語】を楽しみたいのであって、【説明】や【資料】を読みたいのではない」として【敬遠】する【傾向】がある
○【描写】:
・【形態】としては【物語】として“【作品世界】で起こっている【現象】”を表したもの
・“【作者】が【言いたいこと】”は【間接表現】として、【演出】や“広義の【芝居】”などに【変換】、【エンコード】されている
・【作者】としては、【観客】へ【表現】を届ける上で、【技巧】上の【ハードル】は比較的高い
・【観客】の【反応】としては、楽しみやすい【物語】の形になりやすいので、【歓迎】する【傾向】がある
◇
確かに【観客】は【説明】を【物語的でないもの】として【敬遠】する【傾向】は【否定】できません。ですが【傾向】であって、『“【物語的】な【説明】”が【存在】しない、とは誰も【証明】していない』のです。
ここでもう一組、【再掲】したい【対立構造】があります。ただし今度は【物語的であること】か否かに【着眼】してご覧下さい。
◇
・【直接表現】:“【作者】の【言いたいこと】”そのまま
・【間接表現】:“【観客】が【受け入れやすい形】”(=【物語】)に、“【作者】の【言いたいこと】”を【エンコード】(または【変換】)したもの
◇
いかがでしょうか。
【間接表現】は、『“【作者】の【言いたいこと】”を【物語】に【エンコード】したもの』です。では【説明】も、“【作者】の【言いたいこと】”そのままではなく【物語】として【エンコード】した形であれば、“【観客】が【受け入れやすい形】”(=【物語】)として受け入れられやすくなるわけです。そもそも【作者】として掲げた【看板】(≒【約束】)は“【小説】という【物語】”であって“【作者】の【言いたいこと】の【垂れ流し】”ではありませんが、同時に“【描写】だけの【内容】”に限ったわけでもないのですから。
そう考えてみれば、例えば【説明】であっても“【作者】の【言いたいこと】”に【工夫】、【エンコード】を施して“【物語的】な【説明】”に【変換】すれば、“【観客】が【受け入れやすい形】”とすることも【不可能】ではないはずです。
つまり、『【短絡】して【二項対立】と決め付けず、“【観客】が【受け入れやすい形】”を【検証】し【模索】すればいい』ということです。言い換えれば、『“【観客】が【受け入れやすい形】”を【無視】するなら、【作者】が【描写】と言い張るものでも【物語】として【受け入れられない】【危険性】を帯びる』ということでもあります。もちろんこの場合、【観客】は【作者】に“【不誠実】な【姿勢】”を見出すことでしょうね。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【誠実】を【一貫】させるのは【簡単】ではありません。それは【事実】ですが、【短絡的】に信じ込まれがちな【二項対立】が正しいとも限りません。
私がお伝えしたいのは、『【解決】を【模索】するために【問題】の【事実関係】を【整理】し【検証】すれば、向かうべき【方向性】は見えてくる』ということです。この場合は『【小説】という【物語】で本当に【必要】なのは、『【物語】(≒【小説】)という【看板】(=【約束】)を守ること』、もっと申せば『【観客】が【受け入れやすい形】であろうとすること』ということになりますね。よく語られる『【描写】か【説明】か』などという【議論】は、必ずしもこの【方向性】を正しく捉えているとは限らないわけです。
ここから次回は、この【方向性】が至る【具体的】な【形】について、【考察】を巡らせてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
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