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パンが人間になるまで

自分の身の回りのことで毎日ブログなんかを書ける人はすごいと思う。
私は自分について、それほど書くことが無いのでさしあたって甥のことを書く。

先日4歳になった甥だが、彼は、多くの子供たちの例にもれず、アンパンマンが非常に好きだ。
アンパンマンは本当にすごい、一緒に観ることが多かったので知ったのだが、話も面白いし、小さい子にもわかりやすく楽しめるようになっている。
1歳半ほどの、先の甥の弟も、アンパンマンに夢中だというから、我々はもう本能的にアンパンマンを求めているのかもしれない。

育児中の方が、アンパンマンと、『いないいないばあ』のワンワンに救われたという話をよく耳にする。
子供の機嫌が悪かったり、かまってあげられない時でも、アンパンマンかワンワンを見せると、ぴたっと泣き止み、楽しそうに番組を眺める、といった具合だそうだ。
彼らはここ数十年にわたって、ちびどもの2大スターなのである。

さて、話は甥がアンパンマンの大ファンであるという話に戻る。
彼が初めてアンパンマンと出会った、もしく認識したのは、言葉を使い始めて間もない頃であったと思う。
彼はアンパンマンを楽しみにいつも眺めていた。
しかし、彼は、アンパンマンのことをアンパンマンと呼ぶことはなかった。

それではアンパンマンを何と呼んでいたのか。
それは“パンマン”である。
これは非常に興味深いことで、つまり彼は、アンパンマンの特徴の中でも、「パンなのに人間のような所作をしている」ことに注目したのだ。


これは我々でも大いに理解できることで、人間ではないのに人間のように振舞うもの、例えば映画『ザ・フライ』のようにハエと合体した人間に対しては、「ハエ男」もしく「ハエ人間」と呼ぶであろうし、宇宙から来た知的生命体に対しても厳密にはヒトでは無いのに「宇宙人」という言葉を使うだろう。

これは、人間ではないが人間のような生き物に対して、とりあえず「〇〇人間」や「〇〇男」、「〇〇人」というように人間というカテゴリに入れることによって、彼らが人と同じような知的生命体であると認識するのを手助けしているのではないだろうか。
また、我々と同じ「人間」とすることで、人間ではないものが人間のように振舞っているという目の前の奇怪な現象に一つの解答を作り、安心感を得るという効果もあるのではないかと考える。

そう考えると先の甥の「パンマン」というアンパンマンの認識の仕方も当然のことと理解できる。
アンパンマンを観れば最初は多くの人が「パンがしゃべってる!」「パンが2足歩行をしている!」という点に驚くであろうし、その驚異からすれば、アンパンマンが非常にパワフルであることや、空を飛ぶことなど、たいした特徴ではないだろう。

そんな甥のアンパンマンに対する認識が変わったのは2歳になるころだったと記憶している。
彼はアンパンマンのことを「パンマン」ではなく「アンパン」と呼ぶようになっていた。
私は思わず、「なるほど、そう来たか」と感心してしまった。

これがどういうことかというと、察しの良い方ならお気づきかもしれないが、「パンが人間のように振舞うこと」が彼の中で驚くに値しない、当然のことに変化したのだということである。
彼は『アンパンマン』を見ていくうちに、この世界ではパンが動き、人間のように扱われることは、普通のことであると、理解したのだ。

そうなれば、次に名前を呼ぶ際に必要なのは、「識別」することである。 
そもそも、名前とは他のモノと識別するために存在する。
「パンマン」ではアンパンマンワールドにおいては大した識別の意味を果たさない。
甥はおそらくそこに気づいたのだろう、パンが人間のようである状態を受け入れるとともに、今まで見えてこなかった、「しょくパンマン」や「カレーパンマン」といった他の「パンマン」の存在を認識する。
それまでは彼の中では、何パンマンであろうが、動くパンであることが重要であり、細かな見極めは必要がなかった。

しかし、ここで、「パンマン」の見極めが必要になる。
そこで彼はアンパンマンを「アンパン」と呼ぶことにしたのだろう。
「パンマン」は他にいても「アンパン」は基本的にアンパンマンのみなのだから極めて合理的な判断である。
また、「マン」が消え去ったのも、パンやその他の食物が動き、「マン」のように振舞うことを受け入れたのであれば、当然である。
アンパンマン世界において、「マン」による識別効果は皆無に等しいためだ。
こうして甥は、2歳にしてネーミングにおける必要な点、不必要な点を理解し、実践するようになっていた。このときは私も、幼児の成長の早さに驚かされたものであった。


さて、そんな合理性を見せた甥であったが、驚くべきことに、2歳半になるころには、アンパンマンのことを、そのまま「アンパンマン」と呼ぶようになってしまっていた。

これはなかなかにショックであった。
つまり彼は、アンパンマンの世界を完全に受け入れ、人間のようなあんぱんのことを完全にひとつの「アンパンマン」というキャラクターとして完結させてしまったのだ。

正式な名前で呼べるようになり、そうなるほど『アンパンマン』に夢中になっていたことは喜ばしいことであったが、私には衝撃であった。

彼は自分で未知の対象を分析・定義することをやめ、与えられているキャラクターというものを咀嚼せず、ただ与えられるままに消費するようになってしまったのかと思ったためだ。

もちろん、世界に迎合していくことは、成長の上で仕方のないこと、むしろ幼児にとっては喜ばしいことなのであろうが、彼の『アンパンマン』に関しての成長はもう見ることができないのかと、当時は悲観的になってしまった。

おそらく、甥はこれから多くのモノに出会い、多くの知識を得ることだろう。しかし、その中で、与えられたものをそのまま飲み込むのではなく、是非、「パンマン」スピリットを忘れずに、自分でよく考え、分析し、自らのモノとして吸収していって欲しい。

それが叔父からの今の願いである。


余談であるが、彼はかつて「バイキンマン」のことを「バッキ!」と呼んでいた。
しかし、いま彼の前で「バッキ!」というとものすごい剣幕で「ちがーーーーう!! ば!い!き!ん!マ!ン!」と怒りながら修正を要求してくる。
思うに、「バッキ!」は彼の中で黒歴史となってしまったのだろう。

格好いいのにな、「バッキ!」

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