『イロアセル』にあれこれ考えさせられた話
『イロアセル』@新国立劇場、観てきました。
作・演出は倉持裕さん。
とある小さな島のお話。
この島の住人には不思議なことに、一人ひとりみんな違う色がついている。
言葉を発すると、その色も発せられる。しかも、その色をキャッチする機械をみんな持っていて、誰が何を言ったかが立ちどころにわかってしまうという、そんな島。
ところが、島の丘の上に監獄が建てられ、そこに一人の囚人と一人の看守が本土からやってきたときから、島の状況が変わり始める。なぜなら、その囚人と話すときだけ、島の人たちの言葉から「色」が消えてしまうから。つまり、囚人と話す時だけは自分が話したことを誰にも知られずに済むということだ。
島の人たちは、次から次へと囚人の元に面会に訪れては好きなことを話し、スッキリして帰っていった。すっかり事情通となった囚人から「言葉」が発せられ始めた時、島は揺らぎ始める…。
と、これだけ読んでいただいてもわかるかも知れないように、今の世の中と照らし合わせてあれこれ考えたくなる物語である。
当然、私も私なりに解釈したくなったので、以下めっちゃネタバレご注意ください。
最初、言葉に色がついてしまう島というのは、プライバシーも何もないムラ社会の象徴なのかなと思っていたのだけど、途中「この島の人たちは、自分の言葉に責任を持って生きてきた」といった台詞を耳にしたときにハッとした。
なるほど、この島は息苦しいムラ社会のようでもあるけれど、誰もが自分の言うことに責任を持っているという心地良さもあるわけだ。
そこにやってきた囚人は・・・そう、SNSだ。
最初、閉鎖的なムラ社会が開かれたものとなり、島の人たちは「色」なしで(つまり匿名で)自由に発言できる喜びを堪能する。
囚人を見張る看守は・・・SNSにおける「良心」のようなものかも知れない。
その良心が失われたとき、「色」のない発言の暴走は歯止めが効かなくなってしまうのだ。
島の人たちの「色」にも、それぞれ明度や彩度に違いがあること。
島にひとりだけいる、スケープゴートのような存在のナラ。
言葉に「色」のある世界で毅然と生きていこうとするアズル。
そして、SNSに例えられる囚人もまた、不自由な囚われの身であること、などなど。
考えれば考えるほど、巧みな例えになっていることに唸らされる。
ふと思ったのが、実名でSNSはやっている私は、実は島の住人のように生きているのかも知れないな、ということ。
別に不自由はしていないつもりだが、じつは無意識のうちにも自分の発言には統制をかけているのかも。そして、どこかで囚人さんのような存在に出逢ったら、たがが外れて思いっきりストレス解消しちゃったりして(笑)
フルオーディション企画とのことだが、キャストの中では囚人さん(箱田暁史)&看守さん(伊藤正之)コンビがとても好きだった。お二人のキャラとコンビネーションが、この作品自体の「色」を左右していたように思う。
それにしてもタイトルが『イロアセル』となっているように、そして、物語の結末が示すように、この世界の言葉も「色」を失いつつある、ということなのか…。
それは淋しい、やっぱり淋しいよ。