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見返りを求めないことが真の優しさ?

他人に優しくするのが好きだ。見ず知らずの人の悩みを聞いたり話し相手になったりするのが好きだ。それゆえに周りにも「優しい人」と言われることが多いけれど、これは自慢することでもなくて、はたまたそこしか褒められるところがないみたいな卑下でもなくて、好きなことは好きにやるからある意味当たり前のことだと思っている。
そのことを僕自身は漠然と、自分はそういう人間なんだ、というふうにしか捉えていなかった。だから、前に「どうしたら優しい人間になれるのか」ということを聞かれたときに少し悩んでしまった。その答えになるかはわからないけれど、僕がそのあたりどう考えてるかというの自分でも整理するためにここに書いておきたい。
一つだけ弁明というか、変な誤解をさせたくないのは、僕が誰かに優しくしているのは別に聖人として生きたいからじゃないということだ。そういうことをしている自分に酔いたいだけかもしれないし、見返りとして何か別のものを欲しがってしまっているときもあると思う。自慢じゃないなんて言ったけど、なんだかんだ周りに「優しい人」と言われて僕は嬉しいと思っている。そういう形の優しさでしかない。僕は誰かに優しくするために自己犠牲なんて払ってない。

それを人は偽善だという。
それ、僕もそう思う。こんなの偽の優しさだ。

でも屁理屈を言わせてください。
僕のやってることは僕にとっての「善」なので、世の中にとっての「善」じゃない。そんなの当たり前だと思う。相手にとっては余計なお節介だったら、第三者から見たら優しさというにはあまりに些細なことだったら、それはそれでいいんじゃないですかね。

もし誰かがその人の精神力や体力を極限に削って苦しくなってまですることが「真の優しさ」だったとして、僕はそんなの全然欲しくない。他人に優しくすることが自分にとって何の利益にもなってはいけなかったら、みんな心がすり減ってしまって、誰も健やかに生きていけない。それって何も良いことじゃない。

だからきっと、むしろ、聖人でいようとしちゃダメなんだと思う。他人に優しくすることによって、満足感や、名声や、お金など、どんな形でもいいから見返りがちゃんとあるかどうかを分かっていた方が良い。そして見返りがあるという事実を嫌悪するわけでもなく、見返りを貪欲に求めるわけでもなく、ただそういう状態であると認識しながら何かをすることが、人に優しくできるコツなのかなと思う。

自分を失くさないように、ちゃんと見返りを求めてください。そのうえでしか成り立たない優しさだって、ちゃんと誰かにとっての幸せになりうるはずです。

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瀬戸
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