思わせぶりでいてもいいですか
誰に対しても優しくありたいと思っている。これは僕の心がけだ。別に世界を平和にするとかそんな大逸れたことじゃなくていいけど、世の中が何もかも優しければいいのにと思う。しかし現実とは不便なもので、男と女とその他諸々の分類があるからなのか、たまに「思わせぶりな態度をとっちゃだめだよ」とチクリと刺される。彼らの謂うところだと、曖昧な愛は良くないとされている。特にそれを不特定多数に振り撒くのはことさら不誠実なことだと。もちろんそういう好意によって誰かを傷つけることは間違っていると思う。
ただ正直なところ、僕はたまに「は〜そんなのどっちでもよくない?」なんて思っちゃうのだ。だって人の心はいつだって曖昧だ。僕らは自分が流されてるのか自ら流れているのかなんて判別できていない。
だからきっと、言ってしまえばきっとこの世の全てのことは「わざと」なのだ。
僕らのすることに「意味」は無いかもしれない。なんなら無くたっていい。でも何かの「意志」はきっと存在していると信じている。それは、もしかすると僕らが到底認知できない、天啓のようなものかもしれない。
僕が「わざと」の話で思い出すのは、いつだったか、その時はまだそこまで親しい関係になかった人と2人で並んで道路を歩いていたときのことだ。ちょうど曲がり角にさしかかったところで、僕とその人の物理的距離が一瞬縮まって、そのときふと、2人の手の甲どうしがわずかに触れたのだった。体温を感じたか感じなかったかぐらいのほんの一瞬だったけど、その接点から何かが変わって、別の何かが始まるような感覚がした。
それを後になって2人で「あれってなんだったんだろうね」なんて話をした。あの時のことを結局僕は意識的だったのか無意識的だったのか未だに判別ができていない。けれど、僕だってその人だってきっと距離を保ったまま曲がることはできたはずだった。だから、こんなことを言うと無敵の論法みたいになってしまうけれど、好意とは呼べないぐらいの好意があったのかななんて答えを出すことにした。それって、始まってみないとわからないことだと思う。
結果論だよ、正当化だよ、と人は言うけど。それでいいんだと思う、本人に好意があるのかないのかなんてどっちでも良くて、どっちにしろ分からなくて、どんどん都合の良い解釈をしていいのだと思う。だから僕はきっとあなたたちが何も考えずに行った(と本人は思っている)全てのことを深読みして、何を考えたのだろうかと意志を見出して生きていくと思います。
あまりこのことについて恋だとか性だとか難しいように考えたくない。僕がやっているのはそこは荒れ地だよと他の人が口を揃えるところにも「これ水あげたら花咲くのかな?」なんて思ってちゃんと水をあげてみる、光を照らしてみる、それだけのことだと思っている。それでみんながみんな各々の土地に水をやって世界が花畑になればいいんじゃないかなんて吐き気がするほどメルヘンチックなことを本気で考えている。いいじゃないですか、夢物語でも。