自分の好きを自分で疑ってしまう
自分の好きなものを「好きである」と自覚しているとき、その対象を信じている自分と疑っている自分が常に半分ずつ存在している。好きなブランドや、好きな映画、好きなアーティスト、好きな友人、どんなモノ・ヒトについてもそうだ。
何かを「好きだ」と明言することは思っているよりもずっと勇気が要る。
これは完全に僕の悪い癖であり、コンプレックスでもあるのだけれど、たまにそういう人たちの一部が信者のように見えてしまってこわいのだ。「あのブランドの製品だから絶対におしゃれ」だとか、「あの人が言っている意見だから絶対正しい」だとか、彼らが盲目的にそういう考え方をしているんじゃないかと思ってしまう自分がいて、そうなりたくないという気持ちで好きを表明するのを躊躇ってしまう。
実際には、好きでいることは直接的に狂信することや崇拝することに繋がっているわけではない。好きでいるということは本来的には自分の受け皿を広くすることなのであって、自分の視界を狭くすることではないはずだ。けれど、好きのあり方というか、その方向性を誤ってしまうと、それは途端に唯一神への信仰のような感情へと変貌する。そうなってしまうと好きなものによって心は救われるかもしれないが、他のものはどんどん曇っていき、しまいに何も見えなくなるだろう。
全員にとって完璧なものはどこにもない。この世には真っ黒と真っ白はなくて全てが濃淡のあるグレーで成り立っている。
自分の好きなものには、それを好ましくないと思っている人が常にいる。
自分の好きな人には、不完全な瞬間がきっとある。
それを一歩立ち止まって、その都度別の何かと比較して、そのうえでやっぱり「僕は好きだ」という感情を確かめる。そうやって生きないと不安になってしまうのだ。
僕の好きな人たちよ、これからも臆病で傲慢な僕のコンプレックスのために比較をされ続け、選ばれ続けてください。そして更なるわがままを言うのなら、僕のことも誰かと比較して、それから好いてください。