ねぎしのご飯おかわり番号研究会研究レポその1
ねぎしという牛タン屋がある。東京でよく見かけて、だいたい2000円くらい持っていけば美味しい牛タンが食べられて、ご飯のおかわり無料で胃袋の許す限りおかわりができる。ありがたい定食屋である。
ところが、一つだけぼくはそこに新しい視点を投げかけないといけなくなった。ご飯のおかわりの番号である。
ねぎしでご飯のおかわりをすると、「一番入りました!」と店員は言う。ご飯は一番ではないから、そうなると都合一番という言葉を隠れ蓑にしている。日にちを変えて、ご飯のおかわりを大盛りでしてみると、「七番入りました!」こうなるとご飯の量の塩梅を番号を使って表現しているに違いない。ひょっとすると二番から六番までもおかわりの塩梅があるのかしらん、と思って本研究会は発足した(会員1人)。
いま、普通盛りは1番で、大盛りは7番だったから、間違いなく小盛りが存在するわけだ。頼んでみると3番だった。これは話が変わってくるかもしれない。ともすれば偶数番号はなくて、奇数番号だけで済ませているのかもしれない。奇数番号だけに済ませているのはお茶碗が割れないようにしているのだろうか?たしかに、1番はともかく、3も7も素数だから結婚式にもどこにも持って行っても完璧な割れなさ加減だ。しかし5番に何が入るのかわからない。もしかしたらこれで終わりなのだろうか?そこで店員に恥を忍んでおかわりのバリエーションを聞いてみた。「あの、おかわりお願いします。少なめがいいんですけどどんな感じで分量ありますか?」「はあ、少な目でしたら半分、三分の一等がありますが。」え?半分?三分の一?参った。新機軸である。大盛り、小盛りなんて目じゃない。まさかねぎしでここまで近代化論的おかわりが進んでいるとは思わなかった。おかわりは物差しがつく程度まで相対化されていたとは。最早ねぎしはただの定食屋ではない。米国近代化論的思考の最先端を行く相対主義によって細分化された物差しを持っている。近代化論というのは便利なツールで、ごはんのおかわりという漠然としたものにだって統一的規格を与えてくれるんだから恐ろしいものである。加えてこの理論を持ち込んだのが米国というのも自身の脳裏にナイフを突き立てる。世の中のすべてに物差しを使うことが必ずしも良いとは限らないが、ごはんのおかわりに物差しを置いたって困る輩はとかく生きにくい令和の世においてもいないと思う。metooをもじって#Okawaritooなんてハッシュタグが出てきたら、それはお手上げ。
ともかくただの定食屋と高を括って入った定食屋が近代化論的物差しを持っていたことで冷や汗が止まらぬ止まらぬ、顔面蒼白と以外形容のできないものになったし、店員は何を不思議なことかとこちらの出方を伺っている。そちらがそうケロっとしているのであれば、こちらも近代化論的おかわりを取り入れて我が家の炊飯器にも説教してやろうと決心した。「半分で。」(続く)