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村弘氏穂の日経下段 #58(2018.5.19)

ああ壁よ扉よ床よ天井よ 今日もひとりっきりをありがとう
(名古屋 古瀬葉月)

 この作品は、ひとり暮らしの小さな部屋で何もしなかった一日という読み方もできるんだけど、何かをした、もしくは何かをしようとした、という読解も可能だ。そのどちらだったとしても、結果として、何もふれあいがなかった一日ということだ。壁、扉、床、天井は部屋を出た先の建物にだって存在する。この一日に主体が何をしたのかは全く書かれていないんだけど、間違いなく生きた証が対峙した対象を順に並べることによって切なく描かれているようだ。『壁』とは主体が起き上がっている朝であるということの証明で、『扉』は進んでいる、または進もうとしている午前中、『床』はうつむいている午後、『天井』は寝ようとしている夜をそれぞれ表しているのだろう。上の句だけで登場しない主体の一日の動向が解り得る構図だ。次の一字空けには躊躇いが潜んでいる。「ふー」という溜息かもしれない。呼びかけた壁や扉たちに対して何を発するべきか一考している余地のひとマスようだ。そして最後には『ありがとう』で結ばれているんだけど、一字空けの一考がなかったら『ばかやろう』とか『このやろう』で終わっていた歌なのかもしれない。その前の語を『ひとりきり』とすれば字数が丁度になるんだけど、あえて促音を入れて字余りにした『ひとりっきり』が、やるせない孤独感を強調しているからだ。そうして謝意を受け取った壁たちはきっと、逆に重いんだろうなと思うとちょっと愉快だ。この一枚の絵日記には、鮮やかな色彩も華やかな景色もない。いわばモノクロのデッサンだ。ただしその輪郭線の強弱も、心象を表すような陰影も巧みで、相当な価値のある素描だ。



マトリョーシカを閉じゆくように眠るひと つぎつぎ開けて夢を追うひと
(栃木 早乙女 蓮)

 助詞で繋がれていない上下の句の人物は別人ということだろうか。この一字空けのスペースには自由な助詞をマトリョーシカのように入れ込ませてもらおう。そのカタチは共同の相手を示す格助詞の『と』だ。すると上の句のひとと下の句のひとの関係性に強く興味を惹かれる。実際のところ、どういった状況なのかは推測しきれないんだけど、『夢』が大きなキーワードなんだろう。眠る前者も見るであろうし、後者はそれを追いかけている。かといって、眠っているひとの見ている夢を何とかして覗き込もうとしているわけではないだろう。マトリョーシカを閉じるということは実際には、実体がだんだん大きくなることだ。そしてそれを開けることはだんだん小さくなること。やはり、膨らみすぎても萎んでもいけない、人生で持つべき適格なサイズの夢のようだ。ロシアでは、願い事を念じた後で、最内にしまい込むマトリョーシカに息を吹き込んで蓋を閉じると、いつか願いが叶うといわれている。つまり、いちばん小さい人形は具現化された夢といえよう。そしてその夢を実現化するためには、ひとつひとつ殻を破っていかなくてはならないのだろう。幸運なことに、この作品にはマトリョーシカを閉じるひとと開けるひとが存在する。それが同じ夢を追いかける者同士ならば、きっと叶う日も近いのだろう。

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