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村弘氏穂の日経下段 #20(2017.8.12)
注いでと妹は笑むグラノーラ掬いし両の手を差し出して
(船橋 細川遥史)
倒置された初句から察することができるのは、何らかの液体を求めていることだけだ。そして妹、グラノーラ。しかし器が出てこない。やっと出てきたのは両手。はいどうぞ、とその両の手に牛乳を注ぐことなんて出来ない。出来ないけれど歌には出来る。充分なほどミネラルや鉄分が含まれている作品だ。笑っている妹がまぶしいほどの輝きに満ち溢れている。もしこれが姉だったら心配になるし、兄だったら気色が悪いし、弟ならば闘魂を注がれてしまうだろう。兄弟姉妹で言えば『妹』でなくては成り立たない。汚れなき天使のような妹の手だからこそ、読後に微笑ましいシーンを想起できるのだ。幸せな食卓でおどけている妹の愛らしいその手へと注がれたのは、やさしい朝の光だったのかもしれない。
いましたと眼を輝かす看護師さん爪水虫の菌を見つけて
(さいたま 平木たんま)
倒置された初句から察することができるものは、何ひとつない。そして眼、看護師さん。やっと出てきたのは、爪水虫の菌。しかし菌だって歌には出来る。充分なほどケラチンが含まれている作品だ。眼を輝かせている看護師さんがユーモアに満ち溢れている。もし白癬菌を発見したのが医師だったら味わいが浅くなってしまう。『看護師さん』でなくては、可笑しみを含有した空気感が生まれない。白衣の天使のような看護師さんの発言だからこそ、読後に奇妙な味わいを堪能できるのだ。静閑な病院の一室で看護師さんが見つけてくれたのは、爪弾くように世に放つ至上の詩の欠片だったのかもしれない。