村弘氏穂の日経下段 #59(2018.5.26)
くるくると傘を回して飛び散った雨粒みたいに卒業をする
( 東京 やすふじまさひろ)
くるくると回した傘は黄色くて持ち手には名前が書かれてた。いったい最後に傘を回したのはいつだったんだろうと今、ふと思い出してみたら遠く昭和まで雨垂れのように滑り落ちた。ぼくの場合は幼稚園か小学校の低学年だったと思う。まあ、女子高生あたりが肩のうしろでくるくる回してるくらいだったら可愛らしいけど、いい大人になってから傘を回しているひとなんて、そうそうお目にかかれないんじゃないかな。ミュージカル映画の雨に唄えばのジーン・ケリーか、太神楽師の海老一染之助くらいしか知らない。文部科学省の「わたしたちの道徳」(小学校1・2年)でも集団や社会との関わり方の中で、雨上がりの公園などの公共の場で迷惑をかける男の子の話を掲載しているくらいだから、街中で傘を回して雨粒を他人にかける事は、まさに他人にかける迷惑行為そのものだってことは、6歳か7歳で認識してなきゃいけないはずだ。さて、いつも通りにいつもより余計に喋り回して申し訳なかったけど、つまり作者がこの作品の結句で詠うところの卒業は、学業はもちろん飛び散った雨粒の如く周囲に迷惑をかける児童業からの卒業も意味してるのだろう。この飛び散った雨粒という喩えはすごく秀逸で、離れ離れになることだけじゃなくて、無数の中のほんの一部が、やはりたくさんある中の一本の傘の上でたまたま出会った共同体という偶然性をもあらわしてくれている。はからずも同じ学び舎に集った学友たちは実際に、作者が住む東京から進学や就職によって東西南北それぞれの地へ散って行ったのかもしれない。もしかしたら蒸発した者だっているのかもしれない。だけどそんな雨粒たちもいつかは天に召されて全員が再会することだろう。きっとその雨雲のステージではジーン・ケリーや海老一染之助がとびっきりの笑顔で傘を回しているから、久しぶりの全校観劇会を存分に楽しんでほしい。