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村弘氏穂の日経下段 #48(2018.3.10)

ハンケチは週に三回かえろと言う百六十度違う考え
(東京 川良 傑)

 百六十度の差異とははたしてどのくらいなのだろうか。時計の針の六時を百八十度としたならば、五時五十五分くらいの位置だ。つまりは真逆にかなり近い考え方ということになる。しかし、ハンケチの交換サイクルに関してそんなにも違う考えなどあるのだろうか。週三回とは大きくかけ離れたハンケチの交換回数となると、三ヶ月に一回程度になってしまう。仮に一日おきだった場合には週単位で考えると、ハンケチの交換が、三回になる週と四回になる週があるが、それでは十度も変わらない考え方だ。毎日交換と週三交換で比較したとしても、どちらも月に二桁になるから、やはりハンケチの交換回数に関しての大きな差異とは言い難い。読むほどに読み解けなくなる不思議な作品だ。その不思議な魅力の一つは冒頭に述べた「百六十度」という絶妙な差異の値の設定に他ならないのだが、もう一つは初句に置かれた「ハンケチ」だろう。作者の創作意図や本意とは百六十度かけ離れてしまうのは承知の上で云わせていただくが、もしかしたら大きな差異とは「ハンケチ」と呼ぶ考え方と「ハンカチ」と呼ぶ考え方の違いなのではなかろうか。その差は例えば文化や世代などの相違によるものだろう。それならば違いはたった一文字だが、私にとっては聞いたときの語感から受ける印象が百六十度くらい違う気がする。まるでハンカチ落としの際に、まだ目を閉じる前に好意を抱いていた鬼から唐突に真後ろに落とされたような衝撃があって翌朝まで気にせずにはいられない初句の「ハンケチ」だった。百年ほど前に中央公論にて発表された芥川龍之介の短編の一つに『手巾』という秀作があるがそれを「ハンカチ」と読まずに「ハンケチ」と読むことで、丹念かつ繊細に描写された様々なシーンでの趣がぐっと増すのだが、この作品の初句の「ハンケチ」も後に続く短詩の味わいを深める役割を十分に担っているようだ。上下の句の初めに置かれた二つの力強いワードに翻弄されながらも、熟読を余儀なくされてしまう奇妙な魅力にまんまと惹かれた。

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