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令和ロマン、デザイナー説
これはお笑いや漫才に関してはズブの素人であるデザイナーが、「デザイン視点で行き過ぎた仮説を立てる」というふざけた書き物だ。
是非とも軽い気持ち・穏やか心・8割ぐらい空見で読んでもらえれば幸いである。
令和ロマンのネタ「名字」とデザイン思考
令和ロマンのボケ・高比良くるま氏の著書「漫才過剰考察」を拝読した。
その内容を一部を大雑把に抜粋すると、彼は漫才の分類を「しゃべくり漫才」「コント漫才」「システム漫才」という三種類に整理し、さらに「あるある(共感できる話題)」と「ないない(共感できない話題)」という軸を提唱している。
この「あるある」と「ないない」。デザインの世界で言えば、「デザイン思考」と「アート思考」に相当するのではないだろうか。
例えば、令和ロマンの代表的なネタ「名字」は、ラジオリスナーの投稿から生まれたものだ。(めちゃくちゃ面白いのでぜひ聴いてほしい。僕は面白すぎて2億回ぐらいヘビロテした。令和ロマンのご様子 シーズン15-9「ごっと印」、シーズン15-10「ごたなべ」)
日本人なら誰もが「名字」にまつわる経験、あるある、誰にも言ってなかったけどずっと思ってたことを有している。こうした共感の断片を集め、それを整理し、言語化し、最も効果的な形で笑いへと昇華する。その一連の流れは、デザイン思考のプロセスに近似しているように見える。
共感(リスナーのあるあるを収集)
定義(共感の本質を見極める)
発想(笑いにつながるアイデアを広げる)
プロトタイピング(ネタとして構築)
テスト(劇場やM-1予選で磨き上げる)
また、漫才というのは「お笑いのプロダクト」であり、観客が笑って初めて成立する。令和ロマンはデザインと同じく、観客(ユーザー)の感情を設計(エモーショナルデザイン)し、彼らにとって「理解しやすい」「楽しみやすい」フォーマットを提供している。まるでデザイナーのようだ。いや、広義にはデザイナーなのかもしれない。そんな妄想に駆られ、血迷いがてらここに「令和ロマン、デザイナー説」を提唱させていただく。異論は認める。
笑い飯のネタ「鳥人」とアート思考
一方、「ないない」の代表格として挙げられるのが、2009年のM-1グランプリで笑い飯が披露した伝説のネタ「鳥人」だ。
「頭が鳥で、首から下が人間」
この設定、初手から観る人の理解を超えている。日常では絶対に起こりえないシチュエーションを持ち出し、しかもボケとツッコミの役割を意図的に崩壊させ、ダブルボケ・ダブルツッコミという漫才の形式そのものを破壊する。共感など考慮せず、ただ新しい「お笑いのかたち」を創造することに全振りしたこのネタは、まるで前衛芸術のようだ。
これは、アート思考のプロセスとよく似ている。
問いを立てる(「漫才の形とは何か?」)
既存のルールを壊す(ボケとツッコミの構造を解体)
新しい形を作る(ダブルボケという構造)
観客に問いかける(「これは漫才なのか?」)
デザイン思考が「共感から出発し、問題を解決する」のに対し、アート思考は「問いを立て、概念を再定義する」。笑い飯の漫才は、まさに後者の典型だったように思える。
まとまりもオチもない文章ですみません
2024年のM-1グランプリで令和ロマンのネタ「名字」を見て、その面白さにハマり、書籍を読んだりラジオを聴いたりしてみた。その結果、彼らの方法論に形容し難い親近感を覚えたところからこの仮説を思いついた。厳密に言えば、「デザイナー説」ではなく、「デザイナーと同じ思考プロセスで漫才のネタを作っている説」のような気がする。でもキャッチーなタイトルを狙ってしまった自分の浅ましさが嫌いではない。