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持ち主がピロウズと歩んだ半生

こんばんは。持ち主です。

僕はピロウズ結成年の1989年に生まれた35歳で、ピロウズを聴き始めたのは17歳の時です。そろそろ人生の半分、バスターズ(=ピロウズのファン)だったことになります。
今回の記事のテーマはそんな僕自身の、「ピロウズと歩んだ半生」です。

半分以上は自分語りになりますし、どうしても暗い話が多くなります。

が、どういう人間がピロウズに惹かれて、ピロウズの曲やライブをどう受け取って人生を歩んできたのか、バスターズの人生の一つのサンプルをご覧になりたい方は是非読んでください。


ピロウズを聴く前の持ち主

ピロウズを聴く前の僕は……一言で云うと変な子供でした。
それも不安と陰を抱えた、我ながら哀れで変な子供です。

ピロウズに全く関係のない長文を皆さんに読ませるのも忍びないと思ったので、この部分については別の記事に起こしました。
以降の章はこれを読まなくても分かるように書いていますので、飛ばしてもOKです。

とりとめもない文章ですが、ピロウズに惹かれる精神性が作られていった過程や環境、さらに30周年以降にやってきたことに繋がる話も書いていますので、もしご興味があれば後ででも読んで下さい。

ピロウズとの出会い(17歳)

2006年、僕が17歳の高校生だった頃。
歳相応の成熟ができずに、周りの同級生について行けてないという劣等感を抱えていました。

当時、自分を客観視して「最低限このくらいはカッコ良くあろう」とできる程の自我や知識がなく、家庭内が冷え切っていて大人同士のコミュニケーションを学ぶことも出来ず、周囲に高校生としてお手本となる存在もいなかった僕は、入学から卒業にいたるまで、服装も髪型も立ち居振る舞いも、全てが幼稚でダサかったのです。

運動神経が劣り身体にガチガチに力が入っていた僕は、所属していたバスケ部で、同級生や後輩が出来て当たり前の事もできません。
コミュニケーションを取ってもどこかズレてしまったり、白けさせてしまったりする。何かやろうとしても鈍臭さを露にするだけで、いちいち失敗する。
中学校まで得意だった勉強も、この進学校では、必死に努力して「まあまあ良い方」がやっとでした。
常に、周りに置いて行かれている焦りと惨めさの感覚を持っていました。

中学生の頃からBUMP OF CHICKENの音楽を聴き続けて、それを心の支えにしていました。バンプを通じて同学年のバスケ部員と仲良くなったりもしていて、このとき数少ない楽しいことの一つでした。

そんな僕が最初にピロウズと出会えたのも、やはりバンプがきっかけでした。中学校の同級生と再会してカラオケに行ったとき、デンモクのバンプの曲一覧に「ハイブリッドレインボウ」を見つけます。トリビュート盤 "SYNCRONIZED ROCKERS" に収録されたカバーのアレンジのものです。

友人に「こんな曲あったっけ?」と聴いたら、フリクリを観ていた友達が「ピロウズの曲だよ。ピロウズ、お勧めだよ」と教えてくれました。
その時、友人がハイブリッドレインボウを歌ってくれたと思うのですが、「へえ、いい曲だな」という感想で終わりました。

ただ、「ピロウズ」という名前は自分の記憶に残り続けていました。
少し時が経ったある日、"Blues Drive Monster"の音源を入手し、「おお、あの『ピロウズ』の曲だ」とiPod Shuffleに入れて通学中に聴きます。

それまでバンプの曲しかまともに聴いてなかった僕は藤原基央さんのハスキーボイスに慣れきっていたため、最初は「いい歌詞だけど、声が高くて耳に馴染まないな」と思っていました。
それでも何か心に引っかかってくるものがあって、何度も何度も繰り返し聴いているうちに、「これ、何かが違うぞ……めちゃくちゃカッコいいぞ!」と気付きます。

ピロウズの他の曲も聴きたい!とTSUTAYAでFool on the planetを借りて聴くと、それも大名盤。
中でも運命的な出会いだったのが、お馴染み"Funny Bunny"の原曲です。
この曲はサビの歌詞がフィーチャーされることが多いですが、僕に深く刺さったのはそこではありませんでした。

世界は今日も簡単そうにまわる
そのスピードで涙も乾くけど

the pillows "Funny Bunny"

当時、強烈に「周りについて行けない」を感じていた自分にとって、こんなに自分の心に寄り添ってくれる言葉はありませんでした。

そうなんだよ。畜生。ふざけんなよ、簡単そうにまわりやがって。

この歌詞だけでなく、原曲の持つあの優しい雰囲気が大好きで。
夜の通学路、これを聴いて、泣きながら帰っていました。

「にわか」と言われようと、さわおさん自身にそこまでの思い入れはない曲であろうと、関係ありません。
ピロウズの曲を全部聴いた後も、僕にとっては長年この曲が1番でした。

(※30歳の時に"チェルシーホテル"に抜かれて2番目になりましたが、最近はまた1、2位を争っています。)

ピロウズと歩んだ青年期(17歳~30歳)

高校卒業まで(17歳〜18歳)

そして僕は、ピロウズのCDを集め始めるのです。

当時、アルバムで言うと"MY FOOT"まで出ていました。そこまででも結構な枚数です。サブスクの無い時代、学生にはすぐに音源を揃えるお金がありません。
誕生日とクリスマスに親から支給してもらった六千円 (なぜか毎回必ずこの額でした) で、"Please Mr. Lostman" , "LITTLE BUSTERS", "Thank you, my Twilight"を地元の書店で取り寄せて購入しました。あとは中古CD屋を沢山廻ったりして、宝探し感覚で集めていきました。これ楽しかったな。一人でもずっと楽しんでいました。

ほどなく新譜として"スケアクロウ"、" Wake up! Wake up! Wake up!"がリリースされます。

当時、公式HP以外で唯一の情報入手先だった2ちゃんねる ( 現在「5ちゃんねる」と改名された大規模匿名掲示板 ) で初オンエアの情報を収集し、新聞でラジオの番組表をチェックし、ドキドキしながらオンエアを待って、MDに録音したのです。ミスったらやり直しの効かない真剣勝負。

特に鮮明に覚えているのが、GLAYのJIROさんの番組「バギークラッシュナイト」で流れた、"プレジャーソング"と"Century Creeper"の2曲の初オンエアです。脳汁をドパドパ出しながら録音に成功し、大興奮してその二曲をMDコンポで繰り返し再生していました。
バンプもまだ聴いてはいましたが、この頃には完全にピロウズに心を奪われていたと思います。

ライブに足を運ぶのは当時の自分にとってはまだ怖く、高校受験もあって行けないものの、勉強の傍ら音源をとにかく聴き込みます。
受験勉強に打ち込むため自らパソコンを親に預かってもらっていたのに、どうしても我慢できず父親のパソコンを勝手に使って"Tokyo Bambi"のMVを観たりもしました。

受験では、大学は自分の成績に見合った国公立大学を、学部は「小さい頃からパソコン触ってたから多少有利だし、IT関係なら潰しも効くであろう」と情報科学科を選択します。
まだこの頃、自分のしたいことが何も見えてなかったので、これは次の選択肢を減らさないための「逃げの選択」でした。
この歳には既に音楽の道を見据えていたさわおさんとは、比べるのも烏滸がましいほど違います。

見つからなかったんです、したいこと。
自信や自己肯定感を失い切っていたその時の僕には、大人になった自分の未来を全然想像できなくて、周りの同世代と同じように生きられるイメージも湧かなくて、何となく30歳までには死ぬと思ってました。
これは多くのバスターズに理解出来てしまう感覚のような気がします。

それでもピロウズの曲を聴きながら勉強に打ち込んで、無事に志望通りの大学に現役で合格します。
よく覚えてるのが、センター試験の当日に"夜明けがやってきた"や"I think I can"等からなる「自分を勇気づけるプレイリスト」を聴きながら会場に向かったこと。不思議と、あがり症の自分がその日は全く緊張せず、普段解いてた過去問よりも高スコアを叩き出します。
楽曲に励まされた事でその状態になれたのか、はたまた「これ以上緊張したらヤバい」と脳が判断して感情のスイッチを切ったのかは分かりませんが、間違いなくこの時もピロウズの音楽が側にいてくれていました。

大学時代(18歳〜20歳)

そして僕は大学生になります。家庭の状況を鑑みると一人暮らしは選択できず、自宅から2時間半かけて電車通学することにしました。

この時期が一番、周囲の同年代と自分とのギャップがあったと思います。
やはり未成熟なままの僕は、ここでも馴染めずにすぐ孤立します。

通学時間の長さで及び腰になっていたこともありますが、当時、自分の好きなことを見失っており、また一人でドアを叩く勇気もなく、そもそも大学生の集団のノリが何よりも嫌いだった僕は、部活やサークルに入らない選択をしてしまいます。これが孤独に拍車をかけました。
授業こそ真面目に出ていたものの、大学では友達は一人も出来ず、学校に行っても一言も話さずに帰るのが日常です。

アルバイトは、入学後すぐに高校生の塾講師を始めました。給料の割が良いらしいから……とあまり考えずに決めました。
ただ、受験勉強を"センスと丸暗記に任せた力ずくの解法"で乗り切っていた自分は、正しい解き方を上手く言語化することが出来ず、生徒にろくな説明もしてあげられませんでした。すぐに保護者からクレームが付き、心が折れます。一か月で逃げるように辞めてしまいました。
それからいくつかバイトの面接を受けますが、上手くコミュニケーションが取れなかったせいか、自分が興味のあるものは全敗。どうしようもなく惨めな気分が続きます。
なんとか家電量販店の品出しのバイトは決まり、何とか数年間やっていくことが出来ました。(体力を活かして、バックヤードで黙々と力作業していました)ただ、ここでも同僚とは大してコミュニケーションがとれず、同年代の友達が出来ることはありませんでした。

この時期に特に沁みていたピロウズの曲が"Subhuman"です。
曲自体もカッコ良くて好きだったのですが、何よりも「人間未満の存在」を意味するタイトルが自分に重なりました。自尊心が著しく傷ついていた自分は「人間以下の存在(=Subhuman)の自分が、背伸びして人間に混じろうとしている」ような感覚を持っていたからです。この曲を聴いて、自分の無能への怒りと、惨めな気持ちを慰めていました。

唯一、小中学校時代の幼馴染3人とはよく遊んでおり、ギリギリの所で何とか、友情と呼べるものを完全に失わずに済みました。生産的なことはしなかったし、真面目にぶつかり合ったりすることも無かったけど、心からリラックスして遊ぶことが出来ました。
長年、僕の数少ない大切な居場所になってくれたのが、この友人達です。

バイトが無く幼馴染たちもつかまらない休日は気力が湧かず、特に何をするでもなく、ボーッとネットサーフィンしたり"カイブツライフ"というmixiのしょうもないゲームをしたりしていました。
「将来の為になるものを始めて時間を有効に活用しなきゃいけない」とは認識していて、しかし何をやっていいかもわからず、直観的に気になるものがあっても「皆が出来て当たり前の事が自分にはできない」経験から中々飛び込む勇気も出ず、時間を無駄にする自分を責めながら、それでも動けない。自分を責め疲れて、さらに無気力になっていく……の悪循環でした。
長年この悪循環には悩まされていて、未だにこの類の苦しみから完全には抜け切れていない気がします。

ただ、大学一回生の夏休み、たまたまインターネット大喜利のサイトと出会います。(Webサイトでお題を出題⇒参加者がボケを投稿⇒参加者が面白いボケに投票して一位のボケを決める……を繰り返す遊び)
これに何気なく参加してみたら成績が良くて、しかも楽しい。
自分に自信が無くなってからすっかり冗談を言わなくなっていたけど、そういえば子供の頃から、ユーモアを発揮して人を笑わせるのは好きだったことを思い出しました。
笑ってしまうくらいささやかな事ですが、この時期の自分が唯一外界に向けて交流し、肯定されていた場所でした。
大学の勉強は単位を落とさない程度にはやっていましたが、その他の有り余る時間とエネルギーは結構な割合でこの遊びにつぎ込みます。馬鹿馬鹿しく思われるでしょうが、冗談抜きで、当時一番真剣にやってたことでした。
ハンドルネームには、ピロウズの曲名をよく使っていました。特に字面が一番気に入っていた"RUNNERS HIGH"を愛用します。
調子の浮き沈みは激しかったものの、この時期のインターネット大喜利に参加していた人間になら全員に覚えてもらえるくらいの結果を残すことができました。
1000人程のコミュニティの中でのことだったとはいえ、当時その場でしのぎを削っていたライバル達が今は何人も芸人や作家として大活躍しているので、これは今でもほんの少しだけ自信として自分の中に残ってくれています。

そして、これも大学一回生の夏休みですが、いよいよ人生初のピロウズのライブに行きます。

僕の初めてのピロウズは、おっ……お台場冒険王の、めざましLIVEです。

テレビ局主催の公演が初ライブというのは何だかミーハーのようで恥ずかしく、今、下唇を噛んでいます

ライブハウスに行くのはまだ怖かったのですが、お台場のフジテレビには子供の頃に何度か行っていて、おまけに無料だったので当時の自分にとってはハードルが低かったのです。

当日はMonobrightが先行で、ピロウズは二番目。
真夏のお台場、猛暑の開演待ちの間、スクリーンに"New Annimal"と"PIED PIPER"のMVが交互にエンドレス再生されていたのが強く印象に残っています。そんなに待機時間が長かったわけはないのですが、暑くて意識が朦朧としていたせいか本当の永遠のように感じられました。

そしていよいよピロウズのメンバーが登場します。

初めてさわおさんを観た時の正直な感想は、失礼ながら「あれっ!?意外と小さいぞ!」でした。

それまで雑誌等で姿は目にしていたものの実物大のさわおさんを観たことがなく、とにかくスターとして神聖視していたので、無意識に身長185cmくらいの姿を想像していたのです。
身長185cmの山中さわお、実在したらあまりにも怖いな

ライブが始まり、いつもiPodで聴いている曲が僕の目の前で演奏されます。

瞬間、それまでの疲れが吹き飛び、高揚した気分になりました。
開演までの待ち時間も、関西の自宅からお台場まで来た道中も、全て報われたような感覚です。

ライブってこういうものなんだ。めちゃくちゃカッコいいじゃないか。
世界が少し広がった気がしました。

翌年、武道館でのアニバーサリーライブも参加します。

当時のガラケーで撮影したガビガビの武道館

一曲目の"Thank you, my twilight"のイントロがかかって幕が落ちた瞬間の感動は、やはり忘れられないです。
さわおさんも何度も涙していた、素晴らしいライブでした。
アリーナはまだ怖かったから二階席で観たけど、会場の一体感も強く感じられたのでかえって良かったです。

これは全国からバスターズが集まる一大イベントだったのですが、15年前はバスターズの知合いが一人もいなかった頃です。
物販やライブ前後に周りのお客さんがお連れの方と喋ったりしているのは羨ましく感じてましたが、今よりずっと暗かった僕には「バスターズの知り合いを作る」や「オフ会に参加する」という発想すらなく、終始一人で行動していました。

寂しさを抱えつつも、大事なライブを観たという想いを胸に幸せな気持ちで帰ります。

その後は、Movementツアーからコンスタントにツアーのライブも地元の会場で観るようになりました。ライブ中には声を出さないし前の方にも行かないものの、この辺りから腕を上げたり飛び跳ねるような楽しみ方もするようになり、不器用ながら少しずつライブ中の振る舞いに慣れていきます。

新譜も"OOPARTS"、"HORN, AGAIN"とリリースされ、発売日を楽しみに日々を過ごします。ピロウズの活動を追いかけることが、間違いなく生きる原動力の一つになってくれました。

帰り道、よく"Primer Beat"を聴いて脳内麻薬を出しながら大喜利のボケを考えたりしたのも覚えてます。
ピロウズの曲のオリジナルプレイリストを長時間かけて作り始めたのも、通学時間が長かったこの時期です。

初めて本格的に作ったプレイリストの曲目。通学時間、iPod nanoで延々試行錯誤して作っていた


大学院時代(21歳〜22歳)

僕は学部3年次に院試に合格し、修士課程に飛び級で入学します。

飛び級と言うとまるで凄い事のように聞こえますが、僕のいた学部では授業で単位さえ真面目に取っていれば難しくはなく、毎年80人の中の5~10人くらいが飛び級で進学していたのでした。
これは特に強い志を持ってやったわけでもなく、むしろ三回生の時に勉強に対するモチベーションが地を這っていて、「このままでは際限なく堕落してしまう」と焦り、自分が再び頑張るためのカンフル剤として院試を決意したのです。
また、両親の不仲による地獄のような実家の空気に耐えられなくて、自立を一年早めたかったのも理由の一つです。

進学先の研究室は、当時の自分が「ちょっと面白そうだな」と感じた研究分野の所を選びました。
ここでは、学部の頃と比べ物にならないくらい忙しかったです。学生の身分にして所謂ブラック企業のような働き方をしていました。ただ、研究で行うこと自体はそれなりに面白く感じていたのと、兄貴肌の担当教官の方とコミュニケーションを密に取って進めていたことで、学部生の頃ほど虚無感や孤独感に襲われることはありませんでした。科学館での展示など、面白い経験も積めたので、この研究室を選んだのは正解でした。
(それでも一方で、ハードワークで無理をしていた事による強い疲労や、研究が進まない時の焦燥感・周りと比べた自分の不出来による劣等感で、よく鬱々とした気持ちで通学路を歩いていた事も思い出します。)

僕は昼夜問わず研究とそれに必要な作業に打ち込みます。恩師達からは「真面目な働き者」とみなされ、それなりに重宝してもらえました。
ただし、この時ひたすらに研究に打ち込んでいた理由を振り返ると、過去の「周囲について行けない経験」がトラウマになり、ここで落ちこぼれたら居場所が無いという不安に捉われ、「研究を頑張る」こと以外に行動の選択肢が見えていなかったためだったと思います。
理由はともかく一生懸命に行動はしていたので、学部時代は全く話さなかった同級生とも、普通に喋って協力し合う仲間くらいの仲にはなれました。

この時期も勿論ピロウズの活動は追っていて、ライブもチャンスがあらば行っています。また、ライブの無い日もキャンパスではピロウズTシャツばかり着てました。
誰かに気付いて貰えるとは思っていませんでしたが、それでもお気に入りのバンドの服を着ているだけで、ちょっとだけ気分が上がったのです。

そして"トライアル"がリリースされたばかりの頃、僕は就職活動を始めます。時勢としては漸くリーマンショックからの回復が見えてきた頃です。
この時もまだ自分のやりたい事はハッキリしていませんでしたが、自分の研究していた分野はそこそこ面白いと感じていたので、その分野の研究開発が出来る会社をターゲットに志望しました。
選択肢としては大学に残って研究する道もあったのですが、経済的に不安だったのと、何となく大学の先生方は、優秀であっても"研究の世界"で意識が閉じているように感じたので、一度会社員として社会を出る方を選んだのです。

ところが、本来成功率の高い大学推薦でのエントリーにも拘らず、二連続で志望企業の面接に落ちてしまいます。一つ目の会社はライバルに勝てなかっただけですが、二つ目の会社はコミュニケーション能力の低さが不採用の理由だとハッキリ告げられました。
同じ時期に実家の愛犬が亡くなったのも重なって、僕は抑うつ状態に陥ってしまいます。推薦以外の企業も受け始めていたのですが、元々苦手だった自己アピールが更に出来なくなり、履歴書を一枚書くのにも途方もない時間がかかってしまう始末です。

この時、今思い返すと少し不思議だったことがあります。
"トライアル"はリリース当初からとても好きなアルバムで、当時よく聴いていたはずなのですが……実は、この就活の時期に関しては何故か明確に励まされた記憶がありません。自己肯定感が底をつき、将来を絶望するあまり、このシリアスなアルバムを深く心の中に入れる余裕がなかったのでしょうか。表題曲をはじめ、この状況で力づけてくれるような曲はあのアルバムに沢山あったのですが、残念ながらそれを受け取るだけの物が当時の自分に備わっていなかったのかもしれません。

それでも何とか必死で第三希望の企業の内々定を得て、6月くらいになんとか就職活動を終えます。

トライアルツアーの大阪公演にもギリギリ間に合って楽しむことが出来ました。ピロウズは、ここから短い休止に入ります。
(ただ、僕はさわおさんのソロ活動やプレデターズも楽しんでいたし、この頃にカミナリグモを聴き始めてライブにもよく通っていたので、この時あまり休止期間だった感覚はありませんでした。)

その後もハードワークで心身に無理をかけながらも、なんとか修士論文を完成させて卒業します。

僕の大学在学中の5年間を総括すると、志を持てず、コミュニケーション面での欠点を抱えて孤独でいながらも、
両親が、長時間のバイトや奨学金に頼らなくてもいいように経済的に支えてくれて、
地元の幼馴染(と母親)が、安心できる人間関係を与えてくれて、
インターネット大喜利が、楽しみと少しだけの自信をくれて、
ピロウズの音楽が、少し先まで生き延びたいと思える活力をくれていました。
これらが命綱になってくれたお陰で、劣等感やハードワークにも心が潰れずに就職まで繋げられたといえます。

社会人時代 バスターズとの交流を始めるまで(23歳〜30歳)

いよいよ僕は実家を出て、内定を得ていたメーカーに入社します。
(同時に両親は離婚し、この時の実家は引き払います)

面接時に「恐らく希望の部署に配属できない」と説明されていたので仕方ありませんが、学生時代の研究の延長線上ではなく、別の分野の部署への配属でした。また、居住地は東京近郊を志望していたのですが、縁もゆかりもない土地に決まりました。
ベストな環境ではありませんが、分野も居住地も強いこだわりは持てておらず、自分の性質も理解できていなかったので、とにかくやってみることにしました。

最初の一年はほぼ研修のようなもので、講義を受けたり、職場で自由課題発表のようなものに取り組みます。
この年「だけ」、僕は絶好調でした。自由課題では普通は上司に与えられたテーマをこなしていくのですが、必死でアイディアを考え、自ら提案した新しい技術の案がテーマとして採用されます。体力的には結構ムリをしていましたが、当時は無限に湧いてきた意欲のままに、技術の実現をスピーディーに成し遂げ、発表も(ストーリー立てに苦労したものの)大成功を収めます。大学院時代に培ってきた実装や発表のスキルが生かされて、少し報われた気分でした。
しかし次の年以降は一転、全く上手くいきません。まずは自由課題の技術を製品に実装することに向けて動くも、特許(出願や先行回避)の面であまり関係者の支援を受けられずに躓きます。
モタついているうちに、上司に別の仕事を振られたのですが、これはざっくり言うと過去の開発で生じた負の遺産を解消するような仕事でした。なんとかやってみるも、心の奥底で過去の開発者の尻拭いをするのに納得できなかったのか、どうしてもモチベーションが湧かず、もともと不器用で不注意な自分は作業効率がよくないこともあり、手が進みません。(元より激務の部署だったので、作業が遅い分は長時間労働でカバーしてました。)
いつの間にか、自分が提案した技術の実現を手伝ってくれる人はいなくなり、上記の他にも色々作業が滞っている中で自分も強く押し通すことが出来ず、この話は立ち消えになってしまいました。
自分のしたい仕事を周囲にも納得させて進められるような我と優秀さがあれば、あるいは多くの同僚のように仕事は仕事として割り切って冷静に作業に徹することが出来れば、あんなに中途半端な苦しみを抱える事も無かったのかもしれません。
その後も、グレードが上がっていき、関わる人間が増え、海外出張などの貴重な経験も積ませてはもらったのですが、基本的に仕事がうまくいった感覚は一度もありません。評価上は平均的な基準には達していましたが、苦手な作業を補うために、プライベートを犠牲にして体力任せのハードワークでカバーしていたし、仕事中は常に焦りと不安、モチベーション切れとの戦いでした。年々、抑うつの症状が出てきて精神科に通い始めます。

そんな感じで、部署に関しては良かったのか悪かったのか分からないのですが、居住地に関しては(田舎で面白い場所ではなかったものの)最初にここに配属されたのは幸運だったと言えました。
理由のひとつは、運よく地元の幼馴染三人のうち二人が、就職を機に同じ県内に引っ越してきたこと。月一くらいの頻度でキャンプや家飲み等の遊びが出来ましたし、彼らが近くに住んでいるというだけで心強かったです。
もう一つは、若手社員のコミュニティに加われたこと。東京に配属されていた場合、人数が多すぎるために気の合う人間同士固まってグループが出来てしまうので、自分が入れる輪があったかは怪しかったでしょう。僕が配属された場所では毎年三人だけ新人が加わるため、一つのまとまった若手コミュニティができていました。そして共に激務を乗り越える仲間として、自分も受け入れて貰えたのです。ここで自分とタイプの違う同世代の方とも仲良くなり、プライベートでも偶に遊ぶようになります。
飲み会の幹事など、社会人じみたイベントも経験できました。

しんどい事はこの時も沢山ありつつも、仕事や職場の同僚との関わりなどを通じて、"Subhuman"だった自分が、遅ればせながら自分のペースで「人間としての社会性」を獲得してこられたのです。
(余談ですが、この職場から異動するとき、「皆さん、僕を人間にしてくれてありがとうございます」という妖怪のスピーチをしました。本音だったので仕方ありません。)

対人間の経験値の低さで劣等感を味わう事もまだ有りましたが、少しずつその割合は減っていきました。

このときも変わらずピロウズは追っていて、忙しい中でも生きる楽しみにしていました。
居住地の近くの会場に来てくれた時は(急な出張が入ったムーンダストツアーを除いて)欠かさず行きましたし、日本青年館の二期再現ツアーや、25周年記念ライブ、レア曲ツアーの豊洲ピット公演にも遠征して行きました。
幼馴染の一人がピロウズのライブに興味を持ってくれて、初めて人と一緒にライブを観れたのもこの頃です。


そんな中、2016年に祖父が亡くなり、埼玉の母親一人きりで高齢の祖母の面倒を見ることになりました。僕が近くに住んでいないと不安な状況です。その時所属していた部署の仕事に対してのモチベーションが尽きていた事もあって、東京の新規事業を担当する部署に異動希望を出し、2018年に上京します。

東京に引っ越すと、母親と祖母のフォローをしながらも、驚くほど楽しい生活が待っていました。まず平日にライブに参加できるのが革命的で、仕事の後にライブが観られるようになりました。Rebroadcastツアーで初めて同じツアーに二か所参加したり、「王様になれ」のエキストラに参加したりもできました。
ライブ以外にも、仕事の勉強になるようなワークショップだったり、単純に興味のある面白そうなイベントだったり、毎週のように開催されていて、よく足を運んでいました。インターネット大喜利の時に仲良くなった方たちと会ったりもします。その頃は幼馴染たちや仲のいい同僚と地理的に離れて、人との関わりに飢えていた時期だったこともあって、かなり活発に動きました。とにかくイベントの密度が半端じゃない東京は、自分とすごく相性がよかったのです。

異動先での仕事に関しては、自分の不器用さ故にいくつも壁にぶつかりながらも、自ら能動的に選んだ道でもあるので、それなりのやり甲斐を持って懸命にやれていたと思います。優秀な上司の下で、製品化の最後のフェーズを推進していく仕事をやりました。
しかし、無事製品をリリースして、ここから色んな方面に応用して展開していくぞという矢先に、上位方針で事業ごと撤退することになり、僕は別の部署にまわされます。そこでまた糸が切れたようにモチベーションが絶えて、ただ求められた仕事を低空飛行でやるだけの屍と化してしまいました。
社内の業務時間外のスキルアップの活動にも必要性を感じて参加していましたが、これもいざ手を動かすとなると気分がどうしても乗らず、まともに進められません。

そして間もなく、ピロウズは横浜アリーナ公演を迎え、僕はTwitterでバスターズとの交流をし始める時期に入っていくのです。
この時期のことについては下記の記事に記載しています。


バスターズと交流してからの持ち主と、ピロウズへの関わり方の変化


振り返ると、30歳までの僕にとって、ピロウズは、ボロボロの自分に寄り添ってくれて何とか歩かせてくれる杖、あるいは少し先まで生きる理由になってくれる灯し火のような存在でした。

一方で、「ピロウズの曲やさわおさんの生き方から学んで自分のものにする」事までは出来ていませんでした。これは、これまで僕が「譲れないもの」をちゃんと持たず、"ロックンロール"とは程遠い生き方をしていたことからも分かると思います。

あくまで生きる理由としてピロウズのリリースやライブを楽しみにしていただけであり、ちゃんとメッセージを受け取って自分の糧にはして来れてなかったのです。(今、正しくこれが出来ているバスターズの方も見かけますが、そういう方たちを僕はとても尊敬しています)

2019年の横浜アリーナ公演から現在の35歳に至るまでの期間は、Twitterで出会ったバスターズとの交流のお陰で、自分の内面が大きく変わりました。
仕事では限界のどん詰まりを感じるようになった時期ですが、この期間にバスターズとの交流と、ピロウズの活動によって僕が受けたプラスの変化は計り知れません。

①人間関係の在り方についての理解が深まった
二十代の僕が持っていた友人や元恋人との関係は、たまたま環境を同じくして出会った気の合う人とつるんで、集まって楽しい時間を過ごすことに限られていました。これはこれで楽しくて救われていたのですが、ぶつかり合いが起きたり、人間関係について深く考えるような事はありませんでした。
対して、この5年間では"ピロウズが好き"という内面の共通点を通じて、妻と出会い、全国に大切な友人ができ、これまでの人生とは比にならないほど多種のバックボーンを持つ人々と関われるようになりました。
単純に楽しい場を共有するだけでなく、共に目的に向けて動いたり、問題が起きて助け合ったり、それぞれ違う意見をぶつけ合ったり、必要があれば自分の付き合い方を変化させることもありました。自分の経験が積み上がると、他人の態度や行動の背後にある可能性を察することもできるようになります。
まだまだ未熟を感じることは多々ありますが、それでも5年前とは別人レベルで、他人との人間関係の在り方に対する理解が深まったと思います。

②さわおさんの発信や歌詞を、深く読むようになった
二十代までの僕も、さわおさんのインタビューなどは目を通していたし歌詞カードも見ていたのですが、振り返るとあまり深い部分まで読めていませんでした。また、Podcastのようなさわおさんの個人的な意見が聴けるコンテンツまで熱心には追えていなかったです。ピロウズの曲はめちゃくちゃ好きでしたが、さわおさんに対する関心は他のバスターズと比べると大きくなく、あまり理解もできていなかったのです。
他のバスターズと親しくなって、皆が僕よりもちゃんとさわおさんについて理解しようとしていると感じて、そのことを自覚しました。
今はブログも毎日読んで、自分にできる限りは理解したいなと思っています。

色んなトピックに対して自分の考え方やスタイルが固まっていった
人間関係以外にも、多種のバスターズの友達と話して意見を交わし合ったり、さわおさんの書いたものを読むことで、色んなトピックについて自分自身の考えが固まっていったと感じています。
そうなった事はいくつもあるのですが、一例として、ライブの楽しみ方が変わりました。
汗かきでガタイの良い自分は、自分が前の方に行ったら邪魔だろうと思ってそれまで遠慮していたのですが、他のバスターズの意見を聞くと意外とライブ中にそんなこと気にしている人がいないことに気が付きます。また、ここ数年さわおさんが発信していた、ライブ中の演者と観客の相互のコミュニケーションの大事さは、コロナ禍後のライブで理解できるようになりました。
コロナの期間を経て、昔よりもずっとアクティブに前の方で楽しむこともするようになりましたし、適度にリアクションも取るようになりました。

また、昔はライブでは「いかに珍しい曲を聴く経験ができるか」ということを一番重視していて、すでにセトリが分かっているライブに行く事もあまりなかったのですが、何度も同じツアーのライブに行くことの魅力に気づきました。
今や1ツアーで5〜7箇所通うようになり、「セトリが分かってからが本番」とまで思うようになりました。

④自分に対する理解が深まった
ここ5年間は、沢山の人と関わって、また企画や創作活動をすることを通じて、これまでの人生ではできなかった種類の経験を多く積めました。
それを通じて、自分の好きなことを思い出したり、自分に必要だったものを知ったり、自分が特別に苦しむ弱点を知ったり。仕事の中だけでは見出せなかった新たな自分の一面を見ることができました。
確実にこの経験は、これからの人生を拓くのに役立つと思います。

ざっと思い付いただけでもこれだけあります。

自分自身が変化したことで、自分の中でのピロウズが、より強く人生に彩りを与えてくれている存在に変わりました。

さて、下記の記事にも書いたのですが、来年からの5年間は自分のライフスタイルを転換していこうと思っています。

これからも僕はピロウズの活動を人生の大きな楽しみにはしていくと思うのですが、これからはその一歩先として、さわおさんから学んだことを自分の人生に活かしたいと思っています。

さわおさんから自分が学べる一番大事なこと、人によって答えは違うと思いますが、僕は「自分が大事にすることを自分の意志で決めて、大事だと決めたことに対しては誰に何を言われても自分の心に誠実である」事だと考えています。

人生まだまだどうなるか分からないですが、これだけは忘れずに自分の中に持って生きたいです。

最後に


Funny Bunnyについて。

高校生の僕の心を強く打った「世界は今日も簡単そうにまわる」の歌詞を聴いても、内面の変化を経て焦燥感や劣等感を前ほど感じなくなった今となっては、かつての感動はなくなりました。

今は代わりに、この曲の別の歌詞が気に入ってます。
2023年のBooty callツアーの弾き語りで演奏された時、もう何度聞いた曲かもわからないのに、この部分を聴いて改めて涙しました。

飛べなくても不安じゃない
地面は続いているんだ

好きな場所へ行こう
僕らはそれができる

the pillows "Funny Bunny" (ライブ版)

行こう。行くしかない。

行きたいんだ。

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