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情報と戦う──『読んでいない本について堂々と語る方法』

次はこの本について書いてみよう〜と思っていた矢先、先輩編集者が見事にバトンを渡してくれた(と思っている)。

彼の紹介にある通り、タイトルから感じるような薄っぺらいノウハウ本だと侮るなかれ、実は読書論からはじまり教育論や思考術、さらには哲学へまで広がるような深〜い根を持つ本である。

ピエール・バイヤール著/大浦康介訳
『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房、2008)

著者は、「本を読む」とは一体どう定義できるのか、という問題提起から物語を始める。
つまり、この本は読んだ/こっちの本は読んでいない、という線引きは、なにを基準としているのか。そもそも本当に「読んだ」本など存在するのか、と著者は問う。
本を読んだ、ということは定義しきれないアンビバレンスなもので、本を読む人々はいつも「読んだ」と「読んでない」の間に漂っている。
それは中学生の頃手に取ったあの本が、今読み返すとひっくり返ったように違う読み方になる、という体験からもわかるだろう。本は読み手によって、その時々の価値だけでなく内容すらも変えられてしまうのである。

誰しも思考や偏見や自らの尺度を持たずして、本は読めない。普段本を読む人々は、むしろ読書という行為をうまく利用して、切れぎれに存在する各々の思考や偏見や尺度をオーバードライブさせたり、調整したり、さらにはより頑強なものにしたりする。
そうやってある意味で一回開き直ってみれば、なんだか堅苦しく神聖化されているような読書という行為が、幽霊のようなものへと溶けていく。
そうしてもう一度フラットな実体として本と向き合えば、なにも恐ることはなく、しかし誠実に対話ができるはずの存在なのである。
さらに言えば、神聖化された読書という行為と同じように、社会すらもたくさんの「適当」の総体で成り立っている。そうやって目を凝らしてみると、社会にはいわゆる常識というような偽の正義がいかに染みついているかがだんだんと見えてくる。

また本に限らずなにかを堂々と語るには、自分の立ち位置をじっくり理解できているか、ということも肝心で、そんな話はソクラテス哲学の「無知の知」へと派生するかもしれない。
そして世界や物事に対する態度、という見方ならば國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』とかティムインゴルドの『メイキング』なんかへ展開しうるが、それについてはまたの機会に。(あわ〜い期待)

と、結局、いつも通りこの本もとりとめもなく断片的に読んだ感覚があるが、それも一興と思うことにしつつ、この本の凄いところは本を映画や漫画や、あとはネットにも置き換えられるところだろう。
特に日々情報で膨張し続けるネットにおいては、手当たり次第記事を読んでいくなんてことは気の遠くなるようなことで、どうやってある情報・ない情報を料理するかという技量が試される。
でもなんとなく、「旅」だけは置き換えられないような気もして、実際にその地で空気を吸い、ご飯を食べ、人と会話することの代替のなさをぼんやり思うのであった。

ちなみに、本書の原語はフランス語でさっぱりわからないのだが、大浦さんの翻訳する文章が質素ながらもそのなかに品があって、とても好感をもった。
今回は長くなるので実際の「読んでない方法について堂々と語る方法」については詳細を書かないが、本書を精読するのが億劫な場合は、巻末に付された翻訳者・大浦さんによる15ページほどの「訳者あとがき」がこの本の魅力をたんまりと語っているので、おすすめしたい。

と、ピエールが言うように「読む」こと自体不可能であるにも関わらず、案の定この本すらも身を構えて大真面目に読んでしまったことに少し恥ずかしさを覚えるのであった。

(※ヘッダー写真は、それっぽい写真が手元になかったため、好きな建築の1つをご紹介。写真左手に写り込む丹下健三設計の「墨会館」(愛知)の近くの住宅。鋭角敷地で2つの顔を持った佇まいに惚れ惚れします。)

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