ヤングおー!おー!で急成長 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(10)
テレビ番組制作開始
前出の(8)でも述べたように、大阪の民放である毎日放送がテレビ局をオープンするタイミングで、吉本の演芸復活が時を合わせてスタートしたのは象徴的な出来事だ。
昭和初期に、ラジオというマスメディアを使って芸人、劇場のプロモーションを行い大成功した吉本が、このテレビという、人々の娯楽のみならず消費行動などライフスタイル全般までも大きく変えていくメディアに乗らないわけがない。それが証拠に、うめだ花月劇場の興行のメインの演物である吉本ヴァラエティは最初から放送する為に制作されている。初代春団治の落語や、エンタツ・アチャコの漫才のように劇場で上演していたネタを放送時間に合わせて調整して演じるのではなく、最初からテレビの放送時間に合わせて制作されたテレビ・オリエンテッドな舞台だった。だから、吉本新喜劇の上演時間は約45分なのである。松竹新喜劇のように舞台で上演するお芝居として制作されたものを劇場中継として収録、編集して放送するのとは大きく違う。当時の人気番組の「番頭はんと丁稚どん」もテレビのために作られた喜劇だったが、有料入場者を呼ぶお笑い興行ではなく、スタジオ代わりに劇場を使っていた公開録画に過ぎない。
テレビ中継をメインに考えて制作された喜劇を興行のメインとして据え、1週間から10日の間、毎日2回から3回上演されていたのがうめだ花月劇場だった。ここには、少し待てばテレビで観られるのだから、わざわざお金を払って劇場に来る人はいなくなるのではないかという危惧を、当時の吉本の経営陣が全く抱いていなかったことが見て取れる。その根底には、昭和5年の桂春団治ラジオ出演によって、劇場に新たなお客様を呼ぶことに繋がったという経験が大きく影響している。
五社協定などで、劇映画のテレビ放送に対する提供や専属俳優のテレビ出演禁止という対応を行った映画業界とは大きく違う対応である。しかもこれが、結果的にテレビ局の制作力強化に繋がり、映画会社の衰退に拍車をかけたのであるから皮肉である。
毎日放送は、開業当時はスタジオが2つしかなく、コメディの収録に関しては、うめだ花月や東宝系の南街シネマなどの劇場を使っていた。これが、吉本のテレビ・メディアとの関わり方に大きく影響を与えることになる。
うめだ花月は大阪屈指の繁華街にあり、その周りはほとんど駐車禁止だ。そのため、収録の間、中継車を止めておく場所に苦労した。遠くに停めて、百メートル以上も商店街にケーブルを這わせたりと工夫を重ねたが、劇場裏の曽根崎小学校の改築のため、それもどうしても難しいということになり、中古の中継用放送設備を買い取り劇場内に設置し、うめだ花月は正に毎日放送の第三のスタジオとなった。
冒頭で述べた通り、吉本新喜劇は、放送のために制作された舞台コメディだが、うめだ花月の演芸興行のメインの演物だったので、企画演出、制作も吉本が担当し、番組制作のほとんどを吉本側で担当した。これが、吉本のテレビ番組制作開始になり、現在まで続く長寿番組になった。ここで獲得したテレビ番組制作のノウハウと中継用の放送設備は、その後のテレビ番組制作会社としての吉本の基盤となる。
ヤングおー!おー!放送開始
うめだ花月開場、毎日放送のテレビ放送開始から10年後の1969(昭和44)年、「歌え!MBSヤングタウン」のテレビ版として「ヤングおー!おー!」が始まった。司会進行は、ヤンタンと同じ斎藤努アナウンサーと桂三枝、それに加えて、大阪で人気ナンバー1となっていた笑福亭仁鶴が加わった。
この番組は、この後の吉本興業にとって、大きな飛躍の原動力となる。
本格的なコンテンツ制作会社としての吉本のスタート
「ヤングおー!おー!」は、うめだ花月劇場の舞台から中継されたが、吉本興業にとって、興行とは関わらず初めて純粋に放送のためだけに制作したテレビ番組だった。
東京では、「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」など歌を中心とし、トーク、コントなどが織り交ぜられたヴァラエティー・ショーが早くから制作され、全国で人気になっていた。僕は、富山に住んでおり、フジテレビ系の富山テレビが開局したのが1969年開局なので、ザ・ヒットパレードは殆ど観ていない。しかし日本テレビ系北日本放送でシャボン玉ホリデーは毎週楽しみに観ていた。
一方、大阪といえば、「ダイラケのびっくり捕物帖」「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」「スチャラカ社員」「ごろんぼ波止場」そして日本中で大人気を博し驚異的な視聴率を記録した「てなもんや三度笠」と、その殆どがコメディか、ラジオの人気番組をテレビ仕様にした「蝶々・雄二の夫婦善哉」や西条凡児の「おやじバンザイ」、「素人名人会」などのトークメインの素人参加番組が殆どで、東京のような作り込みのヴァラエティーは無かった。
そんな状況の中で、ラジオの人気番組をベースに制作されたとはいえ、「ヤングおー!おー!」は、大阪初のテレビ・ヴァラエティーとなった。その内容は、吉本の若手芸人によるコント、漫才、ゲーム、東京からアイドルを呼んでの歌とトークなどでブロック分けした構成であった。例えば、沢田研二の歌の後にオール阪神巨人が漫才を披露するというような、なかなかアナーキーな番組であった。
この大阪初のヴァラエティーを吉本が制作したということが、その後の吉本のテレビ戦略に大きな影響をもたらすとともに、それまで松竹芸能に集客でもテレビのキャスティングでも差を開けられていた吉本の反転攻勢のきっかけとなった。やがて人気番組になり、仁鶴、三枝、やすし・きよし等の若手の人気が爆発すると、松竹芸能一色の上方演芸界を吉本が塗り替えていくことになる。
大阪から全国へ
この番組は、NET(現テレビ朝日)系列で全国ネットされたが、僅か1クール(3ヶ月)でNETは放送を終了し、当時ネット局を持たない東京12チャンネル(現テレビ東京)に移った。それに伴い、地方局もNET系列から他系列に移動した県もあった。
このネット放送局移行にはかなりの違和感を感じられるのではないだろうか。
実は、これには、毎日放送のキー局構想という目的が絡んでいる。
当時の東京12チャンネルの放送免許を持っていたのは、日本科学技術振興財団という財団法人であり、当初の免許条件は科学技術教育番組60%、一般教養番組15%、教養・報道番組25%を放送するというものであったため、経営が成り立たず、他の在京局からの協力を受けていた。その後、1968年7月には、財団の番組制作を目的とした株式会社東京十二チャンネルプロダクションが設立された。放送免許は財団が持っているので、この会社は放送番組の制作会社であった。毎日放送はこの会社に出資し、当時の社長の高橋信三は取締役に就任し経営に参画していた。
高橋は、この会社を買収し、財団から放送免許を東京12チャンネルに譲り受け、東京12チャンネルを東京毎日放送にし毎日放送の準キー局とし、毎日放送は在阪局唯一のキー局として新たな全国ネットワークを作ろうとしていた。そうなれば、当然、テレビ朝日(当時NET)系列は離脱しなければならない。
と、このような事情が裏にあったのだ。
だが、この構想も郵政省、郵政族議員、毎日新聞、TBSなどの猛反対にあい潰えてしまい、1969年11月に日経新聞が東京十二チャンネルプロダクションの経営を引き受け、大手新聞5社による民放ネットワークが形作られたのである。
歴史にタラレバはないが、1局ぐらい大阪にキー局を作るという発想ができなかったのだろうか、当時の政治家や官僚は。
いずれにせよ、ネット問題のゴタゴタはあったにせよ、ヤングおー!おー!は全国に放送され、深夜放送などでローカル的な人気を誇っていた吉本の若手スター芸人の知名度、人気を全国区に押し上げたのは間違いない。
若年層のお笑いファンの開拓
それまでのお笑いファンといえば、やはり大人が中心であった。テレビの普及により寄席に行かなくても演芸が観られるようになり、老若男女を問わずお笑いに触れる機会が飛躍的に増大した。しかし、何より大きな変化は、深夜のラジオ番組で若者の心を掴んだ仁鶴、三枝が、そのファンの若者ををテレビに連れてきて、尚且つテレビというメディアを使ってその知名度と人気を爆発させたことにある。東京では、若手の歌手たちがアイドルだったが、大阪では若手芸人がアイドルになった。
1972年には、当時の若手落語家の月亭八方、桂文珍、桂きん枝(現:四代桂小文枝)、四代目林家小染によるザ・パンダというユニットが結成され、瞬く間に若者に大人気となった。後に、このメンバーに明石家さんまが加入し、サニーズ大阪スペシャル(略称SOS)が誕生する。サニーとは、三枝が自分に付けた愛称である。
だが、アイドル的人気を誇り、漫才を一気に若い女性も惹きつける芸能にしたのは何と言っても中田カウス・ボタンだった。「追っかけ」が出た最初の漫才師だと言われている。
それは、中学生だった僕に鮮烈な印象を与えた。少し先輩のやすし・きよしは、漫才は革新的であったものの、髪はオールバックと七三分け、きっちりお揃いのスーツで高座に上がっていたが、カウス・ボタンは、長髪でジーパンにTシャツというような、その時代の若者が着ているような格好で舞台に上がって漫才をしていた。ファッションで言うと、歌謡曲の歌手とフォーク・ソングのミュージシャンとの対比が分かり易いかもしれない。
仁鶴、三枝が深夜ラジオで獲得した大学生、高校生よりも更に下の中学生、しかも女子に支持されていた。その当時は生で観たことはないが、テレビで観た限り、ゲストの男性アイドル歌手と声援の量は変わらなかった。漫才が始まってもワー、キャーの連続で、まるでアイドル歌手のライブのようで、どうみても漫才は聴いてないようなのだが、ちゃんといいタイミングで爆笑しているのが不思議だった。後に本人から聞いた話によると、何を言っても笑ってくれたらしい。「舞台出てな、取り敢えず『いんぐりもんぐりささぐりもんぐり(筆者注:当時のカウス・ボタンのギャグ)』言うてたら大爆笑やった」とのことだったが、カウスはそのアイドル的人気と笑いのハードルが低すぎること、ネタをちゃんと聴こうとしてくれない状況に強い危機感を持っていた。
ほどなく、カウスが結婚したことによって、その懸念は現実となる。ファンの女子中高生達が潮が引くように去っていったのだ。
そこからが漫才師中田カウス・ボタンの本格的スタートだったと言えるだろう。そして、それがようやく軌道に乗り始めたときに、ボタンが賭博容疑で逮捕されたことによって中断を余儀なくされる。
ところが、マイナスをプラスに変える大阪芸人のしたたかさを発揮して、ボタンの逮捕や借金をネタに、爆笑を取り始めた。本来はツッコミのボタンが、しれっと何気なく言うカウスの虚実入り混じりのセリフに悲鳴を上げるという、同じ逮捕ネタを入れるやすし・きよしとは全く異なるアプローチに観客は湧いた。他にも、師匠の中田ダイマル・ラケットのネタを甦らせたり、漫才への情熱は際立ったものがあった。
意外に知られていないが、漫才の冒頭で「〇〇と申します、〇〇です」と自分の名前を名乗るという、今は標準になっている形も始めたのはカウス・ボタンだった。
吉本芸人のアイドル化はその後もとどまることなく続く。
明石家さんまは、前述のサニーズ大阪スペシャルに加入し、ヤングおー!おー!で阪神タイガースの掛布や小林の形態模写を披露し、その爽やかなルックスと卓越した話術、何よりその優れたお笑いセンスで忽ち人気者に駆け上がっていった。さんまに関してはこの後も度々登場するので、ここではこのくらいにとどめておく。
次に、ヤングおー!おー!に登場するユニットが、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちの三組が「チンチラチン」である。詳しくは次章に譲るが、1980年からの漫才ブームの中核を成す三組である。
但し、このチンチラチン結成にもあまり知られていない事情がある。
吉本では、1977年10月に、B&B、のりお・よしお、ザ・ぼんちの三組に明石家さんまを加えたユニット「ビールス7」が結成されていた。学生時代、わざわざ大阪まで花月に行った際に、僕もこのユニットの出番を観ている。ポケットミュージカルではなく、ショートショートのコーナーだったと記憶している。ところが、このメンバーがヤングおー!おー!のレギュラーに決まった時、そこにB&Bの名前はなく、島田洋七の弟弟子にあたる島田紳助とその相方の松本竜介が抜擢されたのだ。そのこともあってか、B&Bは吉本を去り、東京の事務所に移籍することになった。しかし、そのB&Bが、その後の漫才ブームを牽引していくことになる。
この若手をユニットにして売り出していくというのが、吉本興業の定石となる。
ダウンタウンを中心とする心斎橋筋2丁目劇場に出演していた、ハイヒール、130R、今田耕司、東野幸治、岡けんた・ゆうた、非常階段、ピンクダック、清水圭・和泉修、リットン調査団、まるむし商店、ボブキャッツ等が、毎日放送「4時ですよ~だ」の中核メンバーとなり売れっ子になっていった。
その後も、雨上がり決死隊(宮迫博之・蛍原徹)、バッファロー吾郎(竹若元博・木村明浩)、FUJIWARA(藤本敏史・原西孝幸)、ナインティナイン(岡村隆史・矢部浩之)、 チュパチャップス(星田英利・宮川大輔)、へびいちご(島川学・高橋智)の吉本印天然素材など、次々にユニットで売れっ子になっていった。その後も、形を変えながらこの方式が連綿と続いているのはご存知の通り。
これは、テレビ番組に芸人を貸し出しているだけでは、その番組がヒットしても売れるのは1組あるいは1人だけだということに比べ、番組制作もユニットで受注し、出演者もユニットを組んで売り出すことによって番組から生まれる利益を総取りする事ができるという強みがある。普通ならお金をかけて売り込むところが、お金を儲けながら芸人を売り出すことができるのである。