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「4時ですよ~だ」始まる  吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(20)

ブレイクの兆し

2丁目劇場のオープンの少し前に、上方漫才大賞新人奨励賞も受賞した。新人賞は松竹芸能のパート2だった。舞台に登場して「今日のお越しを、ありがとう(あ、よいしょ)〜 岩おこし(あ、そりゃ)〜 粟おこし(あ、どっこい)〜 ようお越し(何のこっちゃ) パート2、4コマ漫才!」という歌と踊りで始まり、オクラホマ・ミキサーを口ずさんでブリッジにしてショートコントを次々展開していくコンビだった。
このときのダウンタウン二人の反応も、僕自身がどう思ったかも全く覚えていない。この頃には、もう既存の賞はもらったところでどうやねんと思っていたような気がする。全く悔しがった記憶がないのだから。
ちなみにこの3年後の1989(平成元)年大賞を、25歳という最年少で受賞する。

その頃、社会人同期の、当時まだアミューズの社員だったチロリンこと浜田尊弘(現MBSラジオ会長)から連絡があり、「(嘉門)タツオのマンスリーライブいうのやってんねんけど、ダウンタウン、ゲストに出てくれへんか」「ええで」ということで、会社の隣のホテルで打合せすることになった。嘉門タツオ浜田尊弘ダウンタウンと僕、そして作家の倉本美津留の6人で会った。その席上で嘉門タツオがダウンタウンに「自分ら天下取るんちゃうか」と言ったので、本人ではなく僕が「ええ、取らせますよ」と返した。このころはダウンタウンがお笑い業界を変えるという予感から、確信に変わっていた。
倉本美津留は、少し間が空くが、前出の高須光聖とともにダウンタウンを支える作家になっていく。

毎月の「心斎橋2丁目物語」公演の観客動員数が倍々に増えていったように、ダウンタウンはメディア関係者の注目も集め業界内での話題にもなり、それに比例して露出も増えていった。

お世話になったラジオ大阪おっと!モモンガ」は残念ながら2丁目劇場が始まって間もなく終わってしまったが、1986(昭和61)年8月から、MBSラジオ真夜中のなか(木曜)」が始まった。これは、25時20分〜26時30分と深い時間帯だったが、その上の時間帯の人気番組「ヤングタウン」への登竜門的な番組だと思われた。ヤングタウンは、桂文枝(当時 三枝)笑福亭鶴瓶明石家さんまなどのスターを生み出したMBSラジオの看板番組だ。担当ディレクターの増谷勝己は、明石家さんまのヤングタウン月曜日も担当しているディレクターだったので、我々も気合が入った。
とはいえ、二人のトークは深夜にふさわしい肩の力が抜けた少々下ネタも含めたもので、期待通りの結果を残し、翌年にはヤングタウン木曜のパーソナリティの座を獲得した。
その頃、花月の出番をトチる(しかも二人共来ないことはなく、どちらかは来ている)ことが多くなり、僕は再三花月の支配人から「吉本の芸人やねんから花月出番トチってどないすんねん。ちゃんと教育しとけ」と叱責を受けた。こちらとしては、2丁目劇場がホームグラウンドで「アンチ花月」を謳っている以上、花月出番がそう重要ではないと思っていた。もちろん、今は反省しているが。
そんな状況も、この番組の中で、
松本「今度からトチったら1回二千円払うことにしよう」
浜田「誰に払うねん?」
松本「中井さんに渡そうや。俺等のせいで田中さん*に謝らなアカンし」
浜田「そういうことか。分かった」
という適当な会話で語っていた。
もちろん、この後も彼らは何回も出番をトチったが、1回も二千円はもらったことはない。
*当時のなんば花月支配人

そして、東京でのテレビ初レギュラーも決まった。フジテレビの「欽ドン!ハッケヨーイ笑った!」という、伝説の番組欽ドンの最新シリーズである。本来であれば大喜びしなければならない番組だったはずだが、正直僕はあまり良い予感はしていなかった。いくら天下の萩本欽一といえどダウンタウンとは芸風が違いすぎて番組に合うとは思えなかったのだ。だから、等身大の人間紙相撲という企画がメインだったこの番組が1クール(約3ヶ月)で終了してしまったときも、番組関係者には申し訳ないが、あまり残念には思わなかった。
失礼ながら、その頃、ダウンタウンと2丁目劇場には、もっと大きなチャンスが待っていたのだ。

4時ですよ~だ

「毎日(放送)の田中(文夫)さんから、ダウンタウンで2丁目から帯やれへんか?って言う話、来てんねん。」
大﨑からそう聞いたとき、ようやく来るべきものが来たなという気がした。それは喜びより安堵に近い感情だった。
「月ー金の夕方4時から1時間番組やから、予算がないねんけどな」
確かに、夕方4時は水戸黄門の再々々々放送をやっている枠なので番組制作費予算は知れているだろうが、その時の僕には全国ネットのゴールデンタイムより光輝いて見えた。
しかし、予算は1本あたり70万円程度だったと記憶している。うろ覚えなのは、僕は日々現場の仕事に追われており、予算繰りスタッフ繰りは全て大﨑が担当していたからだ。月ー金の帯番組なので、1週5本で350万。当時の関西ローカル枠1時間番組1本の制作費だ。タレントの出演料、構成演出費、大道具小道具の美術費、衣裳代、照明音響費、放送技術スタッフの人件費、メイク費等々、どう考えても70万では収まりそうにない。

「テレビの帯が決まったで」と松本に言ったら、「仕事、もうそれだけで良いですやん」と随分ギャラをもらえると思っているような返事をするので、「そこまでの収入にはならんから、他の仕事もせなアカンで」と慌てて釘を差した。

ダウンタウン以外は毎日違うメンバーで、違うコーナー企画なので、新番組が5本一度に始まるようなものである。ディレクターは毎日放送の社員ディレクターと制作会社のディレクターの混成チームで各曜日1人なので5人いるが、AP(アシスタント・プロデューサー)は僕一人しかいない。毎日の企画会議、ゲストの出演交渉、2丁目劇場の毎日のイベント、仁鶴、文珍、ダウンタウンのマネージャー業務などなど、比喩ではなく文字通り目が回るほどの忙しさだった。幸い、毎日放送田中文夫、吉本興業大﨑洋の両プロデューサーのおかげで、大阪のお笑い系の売れっ子放送作家がほとんど参加してくれることになり、内容としては文句なく面白いものができつつあった。
ただ、テレビ番組は、出演者と作家と演出家だけで作り上げることはできない。美術(大道具、小道具)、衣裳、照明、音響は舞台にもいるが、中継技術のカメラマン、スイッチャー、音声、ビデオエンジニアなど沢山のスタッフが必要だ。2丁目劇場の舞台スタッフは、ダウンタウンや2丁目メンバーのためにギリギリというかむしろ利益度外視でやってくれていたが、放送の技術スタッフは新たに集めなければいけない。生放送なので編集費用はかからないが、それでも大阪東通などの技術会社に発注すれば人件費だけで制作費の3分の1から2分の1かかってしまう。
これはどう解決したものかと思っていたら、大﨑が「技術スタッフ、決まったで」とメンバーを紹介された。それは、関西テレビの「今夜はねむれナイト」で一緒に働いていたテレビの制作・技術のエキスプレスのメンバーだった。会社から独立したのだという。今に至るまで詳しい経緯は大﨑から聞いていないが、当時の業界の状況を考えれば、相当な軋轢があったに違いないと思う。エキスプレスには、柔剣道空手全て合わせて10数段という田中常務が居たので、僕は大﨑が殴られはしないかと心配だけしていた。
ともあれ、キャスト、スタッフが揃い、番組をスタートする体制は整った。

4時ですよ~だ」というタイトルを発案したのは、このタイミングでラジオ制作からテレビ制作に異動になり、この番組の担当チーフ・ディレクターになった毎日放送の増谷勝己である。

伝説の始まり

それぞれの曜日の企画会議が進むうち、ダウンタウンから「全曜日、全コーナーに出たい」と申し出があった。彼らなりに生放送の帯番組を引き受ける責任を重く感じていたようだ。
とはいっても、最初からスタッフの側も自信満々だったわけではない。何しろ平日の夕方4時という、水戸黄門の再放送を流していた枠だから、若者が一切テレビを見ていない時間帯だ。やっぱり老若男女誰でも知っている顔も入れておいたほうが良いのではないかという意見が誰からともなくでて、月曜レギュラーとして西川のりおの「のりおのこいつはいただきだ!!」というコーナーを作ったり、番組開始当日は明石家さんまにゲストで出てもらったり、ベテラン芸人に手伝ってもらった。

それでも、最初のうち番組視聴率は3%あたりをウロウロし、たまに5%とか6%取ると、毎分視聴率を見ながら何が原因を探ってテコ入れしようと必死だった。
しかし、公開放送に集まってくる観客の熱気は凄まじく、入場整理券目当ての中高生が殺到した。現場の空気も、画面から伝わる放送されている番組のボルテージも、やがてくる大爆発に向けて沸々と高まっていたことは実感できていた。

ダウンタウンの劇場ライブのタイトルであった「かかってきなさい!」という名前を付けた火曜日の素人参加コーナーに出て、後に吉本新喜劇の人気者になったのが島田珠代である。高校生の時に出場して、なるほど・ザ・ワールドの問題VTRに出てくる外国人のおばあさんの吹き替えのモノマネという芸で大爆笑をさらい、最初からコメディエンヌの才能を見せつけられた。もちろん、「よかったら2丁目に遊びにけえへんか?」と楽屋ですぐに声をかけてスカウトし、12月から始まった2丁目Jrたんけんたいの舞台に立ち始めた。

人気が爆発したのは、やはり夏休みだった。
午後4時といえば、中高生にとって生放送に間に合うかどうか微妙な時間だ。授業が終わって部活もせずに学校を飛び出しても、学校から家が近ければいいが電車通学の高校生などにはかなり厳しい。家庭用ビデオデッキが既に普及していたので観られてはいたのだろうが、それでは当時の視聴率には反映されない。
ただ、夏休みの始め頃に大阪の天神祭りに乗っかって、7月25日に特番の「天神祭ですよ~だ」を大川沿いの特設会場から2時間半の生放送したのだが、3,000人のキャパに何倍もの応募があり、会場は恐ろしいくらいの盛り上がりだった。
どうでもいい話だが、このセットの建込みに立ち会っていたら、夜中に怖いお兄さんが三人でやってきて、「何やってんの?」「明日の生放送の準備です」「ふーん、どこの放送局や?」「毎日放送です」「にいちゃん毎日放送の人?」「いや、僕は吉本興業です」「そうか、頑張りや。わしら向うで店だしてるから、また寄って」ということがあった。この時ばかりは、吉本興業の社員で良かったと思った。

夏休みには子供たちが家にいる。視聴率もどんどん上がっていった。
そして、入場整理券を求めて朝早くから心斎橋商店街に女子中高生が集まるようになっていった。吉本ビル1階のテナント「東京 ますいわ屋」という呉服屋や、向かいのシュークリームのヒロタからも苦情が寄せられた。ただ、楽屋から外に出るにはビルの正面の出入り口しかなく、当然のことながら出待ちで商店街の通行が妨げられてしまう。いつしか、放送終了後ダウンタウンを逃がすのが一番の悩みのタネになっていった。
それに比例するように番組の人気はうなぎ登りで、2丁目劇場は社会現象化していく。


松本の左がMBSの浮田ディレクター、その隣が同期の竹中功

初コンサート

この年、9月25日に僕の娘が生まれた。その翌々日の27日、ダウンタウンは初めてのコンサート「DOWNTOWN SCANDALS」を開いた。場所は大阪厚生年金会館中ホール。キャパは1,200席程度だったと記憶している。前売りはあっという間に売り切れたので、同じ日に追加公演をすることになり、本人たちには負担だが1日で2回公演となった。
「だから大ホールでも大丈夫やって言ったでしょ」という松本の声を、僕は当然のように聞こえないふりをした。
オリジナル曲もないので、浜田省吾や近藤真彦の曲などを歌ったが、お客様の異常なくらいの盛り上がりで素晴らしいライブになった。
アンコールが終わって舞台中央でダウンタウンの二人が抱き合って泣いて(いるように見えた)いるなか緞帳が下りた。その緞帳が下りきったとき、浜田が「中井さ〜ん」と言いながら舞台袖に居た僕に抱きついてきた。すぐその後から松本も駆け寄ってきて、三人で抱き合って泣いた。僕のマネージャー人生の中で一番忘れられない瞬間だ。


出待ちを避けるため、舞台を下りてそのまま車に乗り込んで、ひとまず松本の家に向かった。三人で、「今日のライブは最高やったなあ。またやりたいなあ」と余韻をかみしめていた。いつも舞台の幕があがるときは、もうこんなしんどいことやめとこう、予算の心配や、準備段階でいろいろなトラブルが必ず起こることで胃は痛くなるしと思うのだが、お客様の歓声や拍手や笑い声を聞くと、その苦労が吹き飛んで、またやりたくなるのだ。舞台に関わる人間は皆そうだと思う。中毒といっていいかもしれない。でも、本当に興行会社に入って劇場で仕事できて、本当に幸せだと思った。
そんな思いを噛み締めながら、松本と話していると、トイレに行った浜田がなかなか帰ってこない。「トイレでまた泣いてんちゃうか」「まさか、そんなやつちゃいますよ」と言ってたら帰ってきた。松本が「おまえ、まさかうんこか?」と聞くと、「うん、そうや」と浜田が答え、僕ら二人は「えーっ、このタイミングでうんこって」とツッコみながら笑った。

舞台から離れた今でも、僕は劇場に行くだけでも気分が高揚するし、劇場のオペレーションの良し悪しが気になるのだ。興行師根性が全く抜けない。でもそれは僕の誇りだ。


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