自らを振り返る 〜 出生から18歳まで
令和を迎えるにあたり、自分自身がどういう人生を過ごしてきたかを、こここに書き記そうと思い、(筆を取るように)noteへ書き記す。
私は北海道の田舎で生まれた。父、母、祖父、祖母との5人暮らし。のちに兄弟を含め6人家族で、18年間を過ごした。
幼少期の頃、父はタイプライターを所有しており、実家の仏間に設置して、仕事で利用していた。設置したのが仏間だったのは、たまたま置く場所が無かったからだと思われる。その後、父はワープロを購入したり、電話機もオフィスフォンを導入して、1階と2階が内線電話できるなど、80年代の早いうちに、いわゆるIT化が進んでいた。
田舎ではありながら、少しIT化が進んだ家庭で、私の礎が築かれた。
一方、元農家であった祖父・祖母は、ITとは無縁の世界。家庭菜園を優に超える畑で野菜を作り、自宅だけでなく近所に配って歩く程だった。祖父は私が長男として生まれた事を嬉しく思い、とても可愛がってくれた。時に反抗する事もあったが、祖父はいつでも自分を気にかけてくれた。
話を父に戻す。当時、ワープロは数十万する高価な機器である。普通なら子供に触らせるなど論外な時代に、父は自分が仕事で使わない時、制限なくワープロを使わせてくれた。初めて触るキーボードで、ゆっくりと、平仮名を打ち込む。プログラムの初歩である「Hello world!」的に「こんにちは」と打ち込み、印刷する。こんな簡単な事でも、嬉しかった。
父は平日、職場でワープロを使用するが、休日には自宅へ持ち帰ってくれた。当時、ノートパソコンではなく、ラップトップではない、据え置きの筐体なので、持ち出すのにも一苦労なのだが、父は何ら困るとは言わなかった。むしろ、基本的な操作を色々と教えてくれた。楽しんでいる私を見て、安堵していたようにも思える。
「師匠である父を超えたい。」という小さな野望が、生まれたのもこの頃だった。
のちに、私は、図形機能、表計算機能を使い出し、父が通常業務で利用する範囲を超えて使い出す。昔、線画でCGを描画し、印刷する、今現代ならPhotoshopを使うかのように、ワープロを使い倒した。当時、ワープロでRPGの物語を書き上げ、プッシュフォンを利用して、電話越しにトークRPGなるゲームを友人に提供していた。プッシュフォンの1が攻撃、2が魔法といったように、プッシュフォンでRPGを遊ぶという、子供の中にある空想の力だけが全てのゲームだった。電話代が掛かって母親に怒られたが、何か新しい事をしたい気持ちは抑えきれなかった。
小学校高学年になると、叔父からお下がりとなったラップトップのワープロをもらい、小学校の課外事業で使った。父のワープロがフルスクリーンであったが、お下がりのワープロは、2行しか液晶が映らない。だが、頭の中で、A4の紙のどの辺りを編集しているのか、想像しながら文字を打ち込んだ。大変嬉しかった。今の時代は黒板を写真に取る事もあるだろうが、当時は手軽なデジタルカメラがある訳なく、ワープロの利用は論外。ワープロを授業では利用する事はなく、ノートはきちんと手書きしていた。授業が終わると、小学校の多目的教室にワープロを持ち込み、当日の事業を打ち直して、オリジナルのノートをまとめたりしていた。
その経験はすぐに、中学校の弁論大会に提出する論文の書き直しに役立つ事となる。弁論大会では、原稿用紙5枚以内にまとめる必要があるのだが、皆、推敲する度に原稿用紙を書き直しが必要となる。皆は推敲するのが億劫だったと思うが、ワープロであれば一瞬で書き直しができ、いつでも推敲できる。当時の担任・副担任の先生は、ワープロの利用を認め、推敲に付き合ってくれた。なんども文章を練り上げた結果、中学1年生で、地域の論文大会で優勝する作品が生まれた。家族は皆、喜んでくれた。祖父は、曽祖父の代から物書きだったのが、隔世遺伝したのだと言って聞かせてくれた。曽祖父もそうだったように、文書を書く事が好きなのは、生まれて持ち合わせたものかもしれないと思った。
中学生になり、ワープロの環境はパソコンに移行した。中学校に導入された数十台のパソコンとLAN環境。皆んな、ワープロやお絵かきソフトを楽しむ中、自分はLAN環境に興味を持ち、Netwareを勉強した。当時、パソコン導入した販売店が、各PCの定期メンテナンスに来ると、先生に了解を得て同席させてもらい、LANの配線や施工業務などを学んだ。カリキュラムなどない、ただ物好きが勉強になる時代。課外事業の時間も自分の好きな事が学べた。
時を同じくして、パソコン雑誌に、Photoshopで画像をレタッチする特集に見入る。インドの砂漠で撮影された像の写真を、海辺に配置する内容であったが、フォトレタッチの基礎が書かれた内容で、当時のMacintoshに憧れを抱いた。子供心に「こんなことをしてみたい。」と心が高ぶらせた。秋葉原の中古パソコンの雑誌を読み漁り、40〜50万円もするパソコンを見て、心を躍らせた。
高校生となった頃、1995年にWindows 95が発売される。
私は秋葉原の家電量販店でWindows 95を購入し熱狂する人々をニュース越しに見て、Windows 95の事、ITの仕事に熱狂し、ワクワクした思いは忘れられない。父は私の気持ちを汲んで、Windows 95を購入してくれた。当時愛用していたPC-9801BX2に、グラフィックアクセラレーターを乗せ、ディスプレイを買い換え、800x600の画面に映し出されたWindows 95は、今のPCと比較しても相当遅かったが、私はOSの機能を知り尽くそうと躍起になった。
当時、パソコン雑誌を買い、TCP/IPとは何かを勉強したり、ローカルのWebサイトやメールサーバーを立ち上げたりして楽しんでいた。モデムレベルの遅さだったが、LAN環境を作ったりもした。キーコマンドを打ち込んでから実行されるまで数十分待つのも当たり前の環境だった。今でこそ高速インターネット、音楽配信、Eコマースが当たり前の時代だが、当時は28,800bpsのモデムとWindows 3.1のブラウザに、Proxyサーバを噛ませてスピードアップさせ、MIDIデータを買ったり、サービス開始直後のYahoo! Japanや楽天を見たりしていた。
その後、HTMLを覚え、Webサイトを開設した。自分自身のパソコンスキルを、ネットを通じて他の人に伝えたいと思い、パソコンに関する悩み相談を受けるWebサイトを公開した。Yahoo! Japanのディレクトリに登録されると、毎週数件の問い合わせが届いた。私も高校生ながら、大人とのやりとりができる事を嬉しく思い励みにした。当時、GeoCitiesの日本語版が出来たので、Windows 95にあやかり、シリコンバレーの1995というURLを設定して、ミラーサイトを作ったのもこの頃だ。このサイトは当時IBMのWebサイトコンテストで入賞し、IBMグッズを沢山貰った。そして、パソコン雑誌にも取り上げてもらい、利用者数が増加していった。ITがあれば、沢山の人達と繋がれる、色々な仕事になる、そう感じた時代だ。
高校生となり1年が経った頃、祖父の体力が落ち始めた。特に大きい病気もせず、農家として汗を流していた祖父だったが、当時はトイレに立つのも大変であった。ある日、深夜2時を回った頃、祖父が「おーい、おーい。」と祖母を起こし、トイレへ行こうとしていた。その声に気がついた私は祖父の元へ駆けつけた。「すまないね。」祖父はそう言いながら、トイレまで介助する。トイレから出て寝床へ戻った時「ありがとう。」と言ってくれた言葉が忘れられない。
そして数日後、祖父はソファの上で昼寝したまま、息を引き取った。中学生の弁論大会の事を、一番喜んでくれ、いつでも誇りだと話してくれた祖父。葬儀には式場から溢れる程の参列者を目にして、祖父の偉大さを感じた。そして、高校を卒業する頃、「衰退していく実家を見過ごさず、この地にもう一度、活気を取り戻すにはどうすべきかを考えよう。」と心に近い、自らの最終目的地を設定した。これからの人生を過ごす時、祖父のように、その土地に愛される人になろうと心した。
(続く)
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