仮面的世界【29】
【29】仮面の記号論(狭義)─『夢みる権利』『イェイツと仮面』から
ガストン・バシュラールは『夢みる権利』に収録された「仮面」において、「仮面とは定着された夢」であり「夢は束の間の動く仮面」であるという、ジョルジュ・ビュロー(『仮面』)の議論を引いたうえで、それゆえ、仮面の解釈は夢の解釈とそれほど遠いものではない、と書いています(渋沢孝輔訳,ちくま学芸文庫270頁)。
このバシュラールの“詩的エッセイ”から別の一文──「死は生きた顔のうえにひとつの仮面をかぶせる。死とは絶対的仮面なのである。」(280頁)──を引き、ウィリアム・バトラー・イェイツの「真の生命は死せる人々によってのみ完全に保持されている」という「逆説の視点」(2頁)──もしくは「生を認識する〈死のパラドック〉としての仮面」(28頁)、「死による生の逆説表現」(342頁)──に関連づけたのが、木原謙一著『イェイツと仮面──死のパラドックス』です。(この書物は同年(2001年)刊行の木原誠著『イェイツと夢──死のパラドックス』とあわせて、「夢と仮面という二つの視点を通してイェイツの想像力の問題を考察」(10頁)したもの。)
木原氏は、同書第五章「仮面の思考と仮面の詩法」の冒頭で、レヴィ=ストロースが『仮面の道』で考察した文明化されていない部族の仮面と異なり、文明社会の演劇において見られる仮面は「何かをアレゴリカルに表している」ことが多いが、それは仮面にある特定の「役割」を演じさせようとし、そのために仮面が作られるからだと書いています。
同書によると、イェイツにとっての「仮面」は(レヴィ=ストロースが考察した古代的・原初的な仮面と同様に)、「生と死の狭間、物質と精神の境界、他者と自己の意識の〈敷居〉」にかかわるものであって、「ある概念を表わすためにアレゴリカルに意味づけされた表象」ではありません。著者はこのことを、坂口ふみ著『〈個〉の誕生』の議論を踏まえて次のように述べています。
《アレゴリー的表象は、いわば神としての作者が、その創作の設計図の上に配置する計算し尽くされた部品であり、ジクソーパズルのピースである。アレゴリーが成り立つためにはすでに完成された世界、あるいはその設計図がなければならない。従って教訓は必然的にアレゴリーと結びつく。教えられる教義はすでに完成されたものでなければならないからだ。ラテン語のペルソナに相当するギリシア語のヒューポスタシスという語は本来液体の中から表出してくるどろどろした中間的な存在の様式、〈凝固〉という意味を有していた。近代的な〈素顔〉に対峙する役割としての〈仮面〉がジグソーパズルの各々のピースのように、すでに与えられた意味と役割を演ずるのに対し、原初的な仮面は、ちょうど大地から吹き出したマグマのように、周囲の環境と接触し激しくぶつかり、自ら変貌し他を溶解し、異様な形を形成しながら凝固していくのである。ギリシア的なヒューポスタシスはローマ的な役割としてのペルソナへと翻訳され、やがてかつてギリシアにおいて存在の受肉の概念であったものは、ローマにおいて失われていく。(略)仮面的象徴は、意味づけされた世界を、もう一度未分化の存在の原初的な様式へと連れ戻す。仮面の領域はすでに成っているもの(being)」ではなく、成りつつあるもの、生成するもの(becoming)の領域であり、イェイツの生哲学の重心はこの領域にある。》(『イェイツと仮面』229頁)
木原氏が言う「成りつつあるもの領域」にあるイェイツの仮面の源泉には、仮面劇の復活という(フェノロサからエズラ・パウンドを経て届いた能のテキストに触発された)実践的試みやニーチェの生哲学の影響とともに古代ケルト的な世界観が、すなわち『ケルズの書』を初めとする古代アイルランドの装飾芸術──マンデルブロー集合と類似した「(無限)螺旋紋様の自己相似構造」──が象徴するケルト的思考様式が潜んでいます。
ケルト装飾紋様には(石器時代の洞窟に刻まれたミュトグラムともども)強烈に惹かれるのですが、ここでは先を急ぐことにします[*]。
引用文中の「ローマ」を、ローマ文化を基礎とし発展した西洋(近代)文化と読み換え、これに対して「ギリシア的」と言われるものを古代的・原初的な「はじまり」の位相において捉えるならば、ここで、狭義の仮面記号「マスク」をめぐる二つの相貌が示されていることになります。
すなわち、①.「ギリシア的なヒューポスタシス」すなわち「存在の受肉の概念」を孕んだ「未分化の存在の原初的な様式」につながる「仮面的象徴」(パースの記号類型における「象徴記号」のことではなく、端的に「生きた仮面記号」と呼んでおいていい)ものと、②「ローマ的なペルソナ」すなわち「与えられた意味と役割を演ずる」「近代的な素顔」につながる「アレゴリー」(死んだ仮面記号)。
この対比は、「純粋なイコン」としての「マスク=クオリア」と「死んだイコン」としての「マスク」との対比とパラレルです。そして、相反するもの、対立するものが、(第零次性と第四次性のように異なるレベルに属するものとして区別されることはあっても、その本性においては)同じ一つの記号類型のうちに共在するという、「仮面記号」に特有の存在様態がここでもまたいかんなく実現されていると見ることができるでしょう。
ただ一点、付け加えておきたいことがあります。いま述べた「マスク」に特有の記号特性(「A=¬A」もしくは「¬A⇒A」)は、「ローマ」的概念である「ペルソナ」や「アレゴリー」──精確には、「ギリシア」的概念である「ヒューポスタシス」や「仮面的象徴」との対比において、限定的な位置づけが与えられた「ペルソナ」や「アレゴリー」の概念──そのものに対しても適用されるということです。
マスクの記号作用の自乗化によって「再生」される「ペルソ」ナや「アレゴリー」は、もはや狭義の仮面記号の圏域にとどまることなく、「第五次性」とでも言うべきレイヤー、つまり「広義の仮面記号」の世界を切り拓ことになるでしょう。
[*]ただ一点、東方のイコンをめぐる議論だけは記憶に留めておきたい。──木原氏は、三位一体の教義におけるペルソナの解釈をめぐる東方教会と西方教会の対立(フィリオ・クエ論争)とその分裂について言及したあとで、次のように述べている。
《こうした東方と西方の三位一体の捉え方は、ヒューポスタシスとペルソナの意味の違いにも関わっているのである。ヒューポスタシスからペルソナへの翻訳は、ヨーロッパがギリシア的な世界観からローマ的な世界観へと移行するための中核的な意味の転換であったのだ。
東方の美術、なかでもビザンティン美術のイコンと向き合うとき、われわれはそこに通常「西洋的」として認識されているものとは全く異質な、通常のイメージと呼ばれているようなものとも異なる、半ば物質的で半ば霊的な独特の神秘的な雰囲気と出会う。》(『イェイツと仮面』252-253頁)
ここで「半ば物質的で半ば霊的な独特の神秘的な雰囲気」と表現されているものこそ、「存在の受肉の概念」がもたらすものだ。
《イコンとイメージという言葉はいずれも「形象」を意味し、しばしばキリスト教文化の中で同義的に扱われるけれども、イコンはイメージではない。ある意味で、キリストのイコンはキリストを表象している。しかし、それは単にキリストを表象するだけの似像、イメージあるいは記号ではない。キリストはイコンの中に自らを映し出し現実に現われるとされる。キリストのイコンはキリストを「秘蹟」として含んでいる。
物質そのものを聖化するイコンという考え方は当然のことながらその反発を生んだ。九世紀に起こった偶像破壊運動はその反発のもっとも大規模なものである。東方のイコンはこうした激しい反発との戦いと対話のうちにその強固な足場を築いていった。イコンは神的な世界を自ら分有することで、天上界を反映するだけのイメージに対して「否」をつきつける。イメージがイコンの破壊者であるように、イコンはイメージの破壊者である。イコンはキリスト教における受肉のパラドックスをまったく日常的、大衆的レベルにおいて再現しているのである。西方においては、ペルソナの第一の位格と第二の位格は明確に捉えられた。ロゴスとしての神とその目に見える顕れであるキリストという西方の明確な枠組みが、デカルト的な二元論を生み出す土壌となったということは想像に難くない。その一方で、聖霊という捉えがたい第三の位格が抜け落ちていったのである。東方においては。このもっとも捉えがたい霊、形なき存在者にして直接的な働きかけである中間的な第三の位格が重視された。これは同じく中間的表象であるイコンを発達させた文化にして可能なことであったと言えるだろう。》(『イェイツと仮面』254頁)
東方のイコンはパースの記号類型における「類似記号」のことではない。それは「受肉」──もしくは「憑依」、あるいは(後に導入する語彙で言えば、推論の一つの類型としての)「生産」──の器・場所としての「広義の仮面記号」につながっている。
《東方的イコンがケルト的な生命螺旋の幾何学と出会ったとき、『ケルズの書』に見られるような異様にして神秘的な装飾芸術を生み出した。その美学はイェイツ風に言えば、まさに「髪の毛の逆立つような」戦慄を与えるものである。生命潮流のうねりである螺旋の中から一結節として〈凝固〉し、ヒューポスタシスとして顕れ出てくるイコンたちよりも正確にイェイツの仮面の概念を視覚化するものはない。》(『イェイツと仮面』255頁)
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