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韻律的世界【14】

【14】九鬼周造─「永遠の今」の相の下に

 引き続き、宮野真生子著『言葉に出会う現在』の議論を参照します。今回は、第十一章「言語に出会う現在──永遠の本質を解放する」から。
 宮野氏はここで、「永遠の今」というアイデアが、九鬼哲学の三大テーマである押韻論・偶然論・時間論を結びつけているという見通しを立てます。そして、次の二つの「永遠の今」の関係を詩的言語、とくに押韻の問題から明らかにすることを予告しているのです。

 ①偶然性の根柢で開示される「永遠の今」
  ・日常の時間の流れの根底にあるもの
  ・現実を可能にするもの
 ②回帰的時間における「永遠の今」
  ・ある事柄が同一性をもって無限に繰り返される瞬間
  ・形而上学的・神秘的体験として語られるもの

 以下、前回に続いて宮野氏の議論を「縮約」し、‘論評’は次回にまわします。

1.生命力─偶然性の根柢で開示される「永遠の今」

◎今ある現実は様々な可能性のうちの一つが現れたものであり、つねに「他でもあり得た」という不確定性や虚無に晒されつつ「このようになった」。九鬼は「偶然は現実性に於いて創造される」とし、それは「瞬間としての永遠の現在の鼓動」である述べた(『偶然性の問題』)。では、どのようにして偶然の運動は引き起こされるか。放恣と遊戯の生命の力によってである。

《…流動する生命の力を彼は「永遠」および「究極的なもの」と考えていた。同時に、この生命の力は、「個性と自由」の根源、つまり、「このような」形をもつ現実の個別的存在を可能にするものである。生命の力が働き、無が有へと生成し、可能が「ひょっこり」と「このような」形で現実化すること、その動性を様相的に捉えたのが偶然性であった。このような偶然性と私たちは現在という「直態」において出会う。したがって、現在における直接性とは、偶然の根底にある人間の力ではコントロールできない生命の力による触発と言えるだろう。私たちは偶然において、「このような」現実を可能にする生命の力、すなわち永遠との遭遇でもあり、私たちはこうした偶然の動性において「瞬間としての永遠の現在の鼓動」を聴き取るのである。》(『言葉に出会う現在』280-281頁)

2.潜勢力─回帰的時間における「永遠の今」

◎九鬼は「文学の形而上学」で四つの時間現象を論じた。過去・現在・未来のいずれかの契機が中心となり、時間の流れのなかを過ぎ去ってゆく三つの時(水平のエクスタシス)と、繰り返し回帰する円形の時間としての第四の時間(垂直のエクスタシス)。この水平・垂直の「二面の交わりが時間の構造にほかならない」。では、回帰的時間における「永遠」とは何を指すのか。無限の繰り返しの運動を担う潜勢力がそれである。

《九鬼は回帰する時間において「新たに生を開始し、新たに生を終結する」「万物再生」を語るが、こうした再生を可能にするものが、繰り返しの運動を起こす潜勢力としての無限であり、永遠とはその運動のあり方を指す言葉だったと考えられる。その繰り返しが、現在における同一事の回帰として経験されるとき「永遠の現在」が成立する。
 ただし、同一事の回帰とは、現在生じたことと同じことが過去にもあったし未来にも繰り返し起こるという事象レベルの同一性を経験するだけではない。(略)回帰的時間の「永遠の現在」とは、…花の香のなかでホトトギスの声を聞く瞬間、その事象を含む世界に流れる時間全体が凝縮され、その時間全体が繰り返し回帰する。(略)その事態が「無限の深み」をもつ「永遠の現在」が指すところのものである。》(『言葉に出会う現在』283-284頁)

◎二つの永遠(「生命力」と「潜勢力」)は通底している。しかし、偶然性における「永遠の今」は虚無に接する尖端的刹那であるのに対して、回帰的時間の「永遠の今」は時間全体を凝縮し厚みを増した瞬間である。「虚無性」と「厚み」という異なる「今」の様相はどのような関係にあるのだろうか。(284-285頁)

3.向こうから到来する言葉─押韻と偶然性

◎回帰的時間及び偶然性における「永遠の今」にアクセスする方法として注目されるのが詩、とくに押韻を用いた律格詩である。文学の時間性は「重層性を有った質的な現在」を本質とするが、なかでも詩はきわだった形で「現在的現在」が表れている。この詩における現在への時間の凝集を可能にするものとして、そして「永遠の今」を体験する方途として、九鬼はリズムや行分け、韻といった形式性を捉えていた(「文学の形而上学」)。(285-286頁)

◎九鬼は、韻が言葉の韻、あるいは形としての「文字上の韻」(全集第四巻287頁)の偶然の一致にすぎないことを認めたうえで、その「偶然」こそが「哲学的驚異」を呼び起こし、押韻の美の「味得」につながると述べている。では、韻がもたらす「この言葉」の「しっくりくる」感覚はいかに成立するのか。(288-289頁)

「ある言葉と言葉が実際に韻を踏み、それが豊かな意味の広がりをもたらす創造的な効果を発揮したならば、両者は韻を踏むのに‘はじめからふさわしかった’もの──‘必然的’な結合であったとして──立ち上がってくる」(古田徹也『言葉の魂の哲学』189-190頁)。

「言葉と言葉との交わす微笑みとか色目とか云うべきものを生かし、‘言葉のもっている潜在的な素質を押韻という現勢的なものとして存在せしめる’というところに詩の力のゆたかさがあらわれて来る。」(九鬼周造「文学概論」、全集第十一巻121-122頁)

◎「創造的必然性」(古田前掲書197頁)をもった言葉(韻)は自力で選びとられるというより「到来」するものである。「しっくりくる」感覚、「ああ、この言葉だ」という感覚は「向こう」から訪れる。律格という詩の形式は、創造的必然性を宿す言葉を客観的に呼び込む場を開く装置であり、押韻とは「言葉の有っている被投的素質を一つの新しい投企の機能」(全集第四巻233頁)とするものである。

《つまり、押韻は言葉の存在そのものに関わる。そこで提示される言葉[たとえば「ほととぎす」]は、長く多くの人によって使われ、意味やニュアンスを深めながら、代替不可能な一つの言葉として使われてきたものだ。(略)私たちは言葉の被投性の無数の網目のなかにあり、その網目のなかから偶然に響き合う言葉がふと到来し韻が踏まれるとき、その偶然的な結びつきを通してある事柄が「これしかないもの」として浮かび上がってくる。それは詠み人の手が届かないところで言葉の自律性をもったものとして立ち現れる瞬間でもある。九鬼は、そこに押韻という形式の客観性を観たのではなかったか。さらにこのとき大切なことがある。それは、このようにして到来する言葉をそもそも「私の言葉」と言えるのかという問いである。九鬼が自由詩に対して厳しい立場を取るとき見据えていたのは、偶然に到来する言葉の存在を「私」に閉じ込め、単なる主観的現実に貶めてしまうことの問題点であった。(略)むしろ、形式は「言葉の潜勢的素質」と九鬼が言う、存在そのものを開示する言葉のもつ潜勢力、その根柢にある生命の力に触れることを可能にする通路なのである。さらに、形式のもつ客観性は、「私の言葉」を今ここの現実から解き放ち、言葉が宿す長い時間と多くの人とつながることを可能にする。それは「私」だけの言葉ではない。いつか誰かが詠った/詠うであろうコトバなのだ。》(『言葉に出会う現在』293-294頁)

4.言葉と出会う今─二つの「永遠の今」と押韻論

◎詩という形式は流れる時間を現在へと集注する。問題は、こうした現在が「偶然」および「回帰する無限」といかに関わるのか、また「潜勢力」にどのようにして触れるのかということであった。

《押韻は、偶然に音や形が一致する瞬間であり、到来する言葉と邂逅する刹那でもある。そのとき私たちは、言葉の存在そのものに触れると同時に、その言葉が創造的必然性をもって当該の事柄を「これしかないもの」と立ち現させることに「哲学的驚異」を覚える。それは言葉がもつ潜勢力、言葉と事柄の根柢にある生命の力に触れる瞬間である。さらに、韻が踏まれるたび、言葉は「私」から解放され、その言葉を受け取る者は流れる時間から自由になって、過去現在未来を含む時間全体を繰り返し体験することができる。それはまさに、偶然に言葉と出会う今が、回帰的時間の無限へと開かれていく姿だったのではないだろうか。》(『言葉に出会う現在』294頁)

◎まとめ。九鬼の「永遠の今」における「永遠」とは「存在を可能にする生命の根源的な潜勢力」であった。その永遠をなぜ「今」という時間性で限定せねばならないのか。

《現実が生成する偶然の消えゆく一瞬と、時間全体が繰り返すことで凝縮された現在という二つの「永遠の今」、この二つの時間経験が交わる位置にあるのが押韻論であった。時は流れる時間を現在へと折りたたむことを可能にする。そして、押韻の偶然において言葉と出会うとき、「このようにある」事柄がいきいきと立ちあがると同時に、私は「私」から解放される。それは事柄が一回性を持ちつつも、時間の限定から自由になって無限に開かれるということである。もちろん、押韻の「永遠の今」は回帰的時間で示される同一の現在の繰り返しとまったく同じ現象とは言えない。しかし、言葉と出会う偶然の現在を、ただはかないだけの刹那ではなく、時間を超えた永遠へと接続する方法であったことは間違いない。》(『言葉に出会う現在』295頁)

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