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推論的世界【14】

【14】アブダクション─“推論”をめぐって(6・補遺)

 アブダクションをめぐる個人的な書き付けを自己引用する。「哥とクオリア/ペルソナと哥」第17章第4節から。

 ……佐々木健一氏(『日本的感性──触覚とずらしの構造』)は、プルーストのテクスト(井上究一郎訳『スワン家のほうへ』第一部「コンブレー」Ⅰ)のあらましを記し、さらに、「過去の情報は、過去の何物をも保存していない」、「過去は理知の領域のそと……何か思いがけない物質のなかに……かくされている」、「古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ。回想の巨大な建築を」と、その文章を引用したうえで、そこから「実在」と「匂い」という二つのことをとりだします。

《ここで語られているのは、確かに回想であり、視覚的な回想である。しかし、その回想を構成している「映像」を実質をもたない単なるイメージと思うのは間違いだ。過去が「解体」し「崩壊」している、と言うとき、問題になっているのはその実在である。回想され、呼び戻されるのが「巨大な建築」であるのは、それがこの実在の体系的な全体であるからである。事実、この回想は、注意の視線をそこに向けるだけで、そこにあるものが細部に至るまでありありと知覚できるような一種の視覚体験である。ケルト人の信仰を引き合いに出し、右の引用文でも「魂」を語っているのは、これが物体ではなく魂のような実在性に関わっていることを示唆しているように思われる。よく言われるように(ただし、それは「意識の流れ」についてであるようだが)、ベルクソンの思想との親近性をみとめることができる。実在をイメージと呼び、心像としてのそれを言わば劣化したイメージと看做した『物質と記憶』は、このプルーストのテクストの注釈であるかのようにさえ思われる。》(『日本的感性』183-184)

(引用中断。同書の別の箇所から、ベルクソンに関連する話題をひとつ抜きだし、挿入します。貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」を評して、俊恵が、「この歌ばかりおもかげある類はなし」、「限なく推し量らるゝ面影は、ほとほと定かに見んにも優れたるべし」(ありありと思い浮かべることのできる面影は、殆ど実景の描写にも勝っている)と述べたことばに照らして、著者は、「「おもかげ」はそのまま「イマージュ」と言い換えることができよう。歌論においては、この語によって歌意としての「心」とは区別された像の喚起力が考えられている」と論じていました。引用再開。)

《しかし、このイメージ=実在は物質のなかに受肉して存在している(それが「ケルト人の信仰」である)。この物質を捉えて、そこに閉じ込められた実在を解放するための接点を構成するのが、(紅茶に浸したマドレーヌの)「匂と味」である。それはこの物質のなかに隠れた実在が、いわば地表に発芽させた小さな目印の如くだ。ここに、実在に関するダブル・スタンダードをみとめることができる。一方で、実在はあくまで鮮烈な視覚的イメージとしてある。しかし、他方において、われわれの経験のうえでは、「匂と味」が実在そのものではないにもせよ、少なくともその触手のような性格のものとして考えられている。確かに、実在とは叔母の部屋、町の鐘楼、水中花等々、目に見えるかたちをもった物体だ。しかし、それがわたしの経験に触れるのは、「匂と味」を介してであり、言い換えれば物体というよりも物質としてなのである。物質は下級感覚に固有の官能性を刺激して、生きた現実感を与える(マドレーヌの「豊満な肉感」)。他所ではただ「味」を語っているプルーストが、ここでは「匂と味」と言っているのは示唆的だ。官能的実在として味と匂いは不可分のものであろうし、また、匂いには、霊的なものへと通じる香気があるからに相違ない。
 このプルースト的時間体験を参照項として、日本的感性の想起体験とその時間感覚とを考えよう。うたの世界に味覚は無縁である。うたに食べ物の味を詠み込むことを想像してみると、それはほとんど俳諧である。花の香がエーテル的であるのに引き換え、食べ物の味には生存に連なる動物性が感じられる。マドレーヌに「私」のみとめた「肉感」は、この菓子がたっぷり含むバターを介して、獣の匂いを漂わせる。梅や花橘のエーテル的な香は、衣服に染みつき、心に粘着して残るが、残るがゆえに、ときの移ろいを思わせずにはいない。》(『日本的感性』184-185頁

 以下、「ときの変化を映しだすものとしての梅の香」をめぐる歌の作例、とどまるものとしての香とすぎゆく時の連想を詠んだ「むめがか[梅が香]を袖にうつしてとどめてば春はすぐともかたみならまし」(古今集・よみ人しらず)から、俊成女の「橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞする」(新古今集)までを概観し、最後に、俊成女の歌と同趣でありながら発想を転倒させた、式子[しょくし]内親王の「帰りこぬ昔をいまと思ひねの夢の枕ににほふたち花」(同)をとりあげます。

《普通は、花の香に誘われて往時を連想するのだが、昔を思いつつ寝たところ、枕辺に花橘の香[男の香]が立った、というのである。香りが連想を誘うという関係は、プルーストにおける過去を蘇生させる糸口としての味=匂という考えにも見られたことで、自然なものである。しかし、ここに至って花の香と昔は第二次の連合を形成し、等価なものとなる。香そのものが過去の実体であるかのごとくだ。その「春の夢」には、過去の情景の視覚的な想起が含まれているかもしれない。しかし、うたから読みとることのできるのは、官能性の雰囲気だけである。それが過去の経験の実体だ、と考えてみることもできよう。香りそのものと同様に、ひとの生きた時間もエーテル化している。実在に至るプルーストの想起とは著しく異なるものがそこにある。》(『日本的感性』187-188頁)

 文中の「ここに至って花の香と昔は第二次の連合を形成し、等価なものとなる」は、第一次の連合である「香⇒昔」(橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞする)に、この関係式の「香」と「昔」の位置を転倒させた第二次の連合「昔⇒香」(帰りこぬ昔をいまと思ひねの夢の枕ににほふたち花)が加わり、この二つの関係式が合成されて「香=昔」(香そのものが過去の実体である)が成り立つ、と定式化することができるでしょう。
 この「日本的感性の想起体験とその時間感覚」と対をなすプルースト的感性のもとでのそれは、とりあえず、「匂・味⇒過去の視覚的蘇生」の関係式で示すことができます。しかし、ここで、においや香を介して視覚的に蘇生されるのは、(夢のなかにあらわれるイメージのような)「実質をもたない単なるイメージ」ではなく、ベルクソンがいう意味での「イマージュ」(=実在)だというのですから、この関係式は、正しくは「匂・香⇒(過去の)実在の回復」となるでしょう。
 ちなみに、先の、「香⇒昔」かつ「昔⇒香」すなわち「香=昔」の図式は、正しくは、「(今の)香⇒昔(の香)」かつ「(実在としての)昔⇒(昔の)香の蘇生」から「(今の)香=(実在としての)昔」を導く夢の推論(「A⇒B」かつ「C⇒B」ゆえに「A=C」という誤謬推論、あるいは、「誰かが私のことを想うとき、その誰かは私の夢にあらわれる。ところで、今、私の夢のなかに誰かがあらわれた。そうすると、その誰かは私のことを想っているに違いない。」といったアブダクションの推論)にもとづくものなのであって、ここから、過去と現在、はては未来までもがエーテル状の「香」のうちに溶けあい、そうして、「実在」もろとも移ろっていくことになるわけですから、これは、プルースト的な「実在の回復」とは決定的に異なる体験をもたらします。
(実在は、物質のなかに受肉し、閉じ込められている鮮烈な視覚的イメージと、そのような、物質のなかに隠された物体(としての実在)の目印・触手として、私たちの経験に触れ、官能性を刺激して、生きた現実感を与える「匂と味」とに二重化されている。この佐々木氏の叙述を、ベルクソン的語彙を使って強引に単純化すると、実在には「記憶」と「物質」の二つのものがある、となるかもしれません。さらに、プルースト的な「実在の回復」体験は「記憶の物質化」もしくは「想起体験の知覚体験化」と、また、日本的感性における「過去のエーテル化」もしくはエーテル化した時間体験は「物質の記憶化」もしくは「知覚体験の想起体験化」と、それぞれ単純化できるのかもしれません。ただし、このあたりのことは、まさに夢の推論のなせる議論でしかありません。)
 
 日本的感性の世界にあっては、「香」という、官能性の雰囲気だけをもったエーテル的なものと「昔」が等価物となる。つまり、「過去の経験の実体」が、また「ひとの生きた時間」が、あるいは「生きた現実感」が、(そして、もしそういってよければ、現在や未来を含めた「時間」や「クオリア」や「実在」をめぐる体験もまた)、質量零のエーテル状のものと化し、自在に移動し、ずらされ、重ね合わされていく。
 ここで私の脳裏をよぎるのが、貫之の辞世の歌「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」に詠まれた「あるかなきか」の詩句であり、また、かの「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき」の歌が醸し出す透明な寂寥感であり、さらには、「千代経たる松にはあれど古の声の寒さはかはらざりけり 」のうちに聴き取られる「いにしへの声」の「寒さ」です。……

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