見出し画像

推論的世界【2】

【2】二相性─“論理”をめぐって(1)

 このところ同時並行的に、同じ姓の著者による哲学書(かたや現象学系、かたや分析哲学系の──こういう分類や言い方はあまり好みではないが)を読み進めていて、それぞれの“論理”という語の用法に関して気になる点がありました。

 その1.永井晋『〈精神的〉東洋哲学──顕現しないものの現象学』

 第三章「潜在性の現象学」の冒頭において、著者は、「潜在性」を「まだ顕在化しておらず、潜勢的な(en puissance)単なる可能性(simple possibilité)の状態にあるもの」と定義したうえで、次のように分析している。
 すなわち、①「単なる」可能性が、実在性を欠いた、“論理”的で概念的なものに過ぎないのに対して、②「潜勢的な」状態としての潜在性は、単なる“論理”的で形式的な可能性とは逆に、「顕在化しつつある」現実的な(effectif)ものである。「それは生産的・創造的な動きであって、“論理”的で凝固し、停止した形式の外部で、あるいはそれをかわして、新たなもの、世界にかつて存在したことのないものを‘生み出す’ことにある。」(51頁、「論理」の強調は引用者による)
 ここで対比されている(単なる可能性がもつ)「論理性」と(潜勢的な潜在性が孕む)「創造性」は、たとえば「ロゴス」対「ピュシス」のそれになぞらえて考えることができるだろう。概念的で形式的なロゴスと、力動的で生命的なピュシスとの対比といったかたちで。しかし、そこで言われる“ロゴス”は、あくまで自然や生命の生産性との対比のもとで捉えられた、いわば狭義の(実在性を欠いた=死んだ)“論理”でしかないだろう(同じことは「概念」や「形式」についても言える)。

 西田幾多郎に「論理と生命」という作品がある。ここで西田が想定しているのは、アリストテレス流の形式論理のことではなく、ヘラクレイトス流のパンタ・レイの論理、いわば広義の(生きた)論理である。「相反するものがかえって相合するのである、異なるものから最も美しき調和が生れる、すべてのものが戦によって成立するという。流れ去るものが相対立するというには、時が同時存在的でなければならない。バーネットはヘラクレイトスが見出した真理は、一即多、多即一ということであるといっている。斯くして彼は弁証法の祖となった。歴史的実在の世界のロゴスは、此処に求められなければならない。」(『西田幾多郎哲学論集Ⅱ』(岩波文庫)196頁)

 念のために付記すると、以上に述べたことは永井氏の議論の中身と直接の関係はない。あくまで「論理」という語のひとつの用例として、たまたま目にとまった文章を取りあげただけのこと。実際、永井氏には、単なる概念・形式としての論理ではない、それとは真逆の意義における、すなわち生産的・創造的で実在的な論理としての「イマジナルの論理」を──同時に、実在性を欠いた「単なる」可能性ではない、創造性をもった可能性(創造的想像力)を──語った論考がある[*]。

 ──以上の総括。“論理”には二つの相がある。第一のそれは、表に顕れた、概念的かつ形式的で実在性を欠いた「単なる」可能性にかかわる論理で、第二のそれは、潜在的かつ現実的で、新たなものを生み出す“動き”としての論理である。

[*]「イマジナルの論理」をめぐる永井晋氏の議論を、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第40章第3節からの自己引用(加除修正のうえ抜萃)のかたちで、以下に記す。

 ……「イマジナル」とは、アンリ・コルバンの言う「創造的想像力」(約めて‘創像力’とでも?)がもたらす「虚なるもの」(経験的事実性の裏打ちはないが架空のものでもない、存在論的根拠をもった内的実在、たとえば「元型」イマージュ群が織りなす領域)を指し示す言葉。

◎イスラームの神秘家スフラワルディーは、シャーマン的イマージュ空間を指して「アーラム・アル・ミサール」と呼んだ。「ミサール」とは神話的・深層意識的な「元型、アーキタイプ」もしくは元型から生起する「根源的イマージュ」のこと。すなわち「アーラム・アル・ミサール」とは「根源的イマージュの世界」(井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』119頁)あるいは「形象的相似の世界」(同『意識と本質』(201頁)。
 これをアンリ・コルバンがラテン語訳して「mundus imaginalis」(ムンドゥス・イマジナリス)とし、この「imaginalis」をそのままフランス語にして「imaginal」という形容詞を造語した(『意識と本質』201頁)。「架空の」という否定的な意味傾向の強い「イマジネール」(imaginaire)ではなく、「特別な意味でのイマージュ」にかかわる「イマジナル」(imaginal)。

◎永井晋氏は「イマジナルの現象学」(『現象学の転回──「顕現しないもの」に向けて』第七章)で、「無限の現象性としてのイマジナルの構造」と井筒俊彦による「分節化」のモデル(『意識と本質』144頁)とを重ねあわせて論じている。そして、「分節Ⅰ(表層の現象性)⇒絶対無分節⇒分節Ⅱ(深層の現象性)」の三段階を経て意識と世界が変容するプロセスの最終段階である「分節Ⅱ」を「イマジナル」な次元に位置づけている。つまり「元型」イマージュ=「分節Ⅱ」。

◎永井氏はまた、「深層のイマジナル次元」にあっては「AはAであってBではない、という同一律と矛盾律というアリストテレス的論理の基本原理」は通用せず、「AはBにもCにもなりうることが可能である」と論じている(『現象学の転回.174-175頁』)。この「イマジナルの論理」は「分節Ⅱ」の論理であり、また「生きたるもの」の論理、すなわち「あいだ」の論理でもある。……

 以下、余談。私が物事を考える際の基軸に据えている“世界の構図”──実存と本質、あるいは【空】/【現】の現実性(actuality)の軸と、これお直交する【虚】-【実】の実在性(reality)の軸とで成るもの──は、永井均氏や入不二基義氏、ベルクソン、ドゥルーズ、ガタリといった先達の議論を下敷きにしたものだが、この“構図”を構成する四つの要素のうちの「虚」に“imaginal”の語をあてている。
 下図は、「仮面的世界」第30節に掲げた図に加筆したもの。なお、図中の「現實的存在」「可能的存在」「消極的無」「積極的無」は、九鬼周造の「文學概論」講義が出典。

        【現】
        actual
         ┃
   可能的存在 ┃ 現實的存在
         ┃
 【虚】━━━━━╋━━━━━【実】
imaginal     ┃      real
    消極的無 ┃ 積極的無
         ┃
        【空】
        virtual

いいなと思ったら応援しよう!