推論的世界【18】
【18】実在の運動─“伝導体”をめぐって(3)
推論的世界をめぐる考察を、このあたりでいったん終息させます。もとより、それは議論の“収束”ではなく、かぎりなく中断に近いものでしかありません。息が切れたからではなく、いったん仕切り直しをする、というか気分転換をして、次のテーマ(文法的世界)のなかで、別のかたちで継続して考えていきたいと思ったからにほかなりません[*]。
■推論と意識変容
ここまで、論理や推論についてあれこれ考えをめぐらせてきて、私の脳髄にひとつの仮説が、しだいに明瞭な“かたち”となって立ちあがってきた。
それは、推論的世界のいわば“根本命題”とも言えるもので、論理の存在様態やその動態(推論様式)と意識の容態とのあいだには、密接な対応関係があるのではないかということだ。乱暴に括ると、論理のあり様が意識の状態を決定する、あるいは論理のあり様が変わると意識の状態が変容するということ。そしてもちろん、その逆も言えると思う(たとえば、変性意識状態がパラロジックやパレオロジックを産み出すといったような)。
本稿第9節以降で、夢の世界(夢世界の論理)と現実世界(現実世界の論理)の関係をめぐって、『夢の現象学・入門』(渡辺恒夫)を参照しながら、考えをめぐらせた。
そこで述べたこと──夢世界の原理は現実世界の原理が「四つの体験フェーズ」において変容して生まれ出てきたものではなくて、夢世界の原理が変容して「四つの文法カテゴリー」の成立と同時に出来あがってきたのが現実世界の原理なのではないか──を、夢の推論(伝導)の起点にして終点であると規定した「四つのパラドックス(もしくはアナロジー)」と関連づけると、次の組み合わせが得られる。
①演繹 時間の変容/相(aspect)・時制(tense)/裏と表の縫合
②帰納 虚構の現実化/様相(modality)/内と外の往還
③洞察 自己の分裂/人称(person)/一と多の連結
④生産 他者への変身/態 (voice)・法(mood)/無と有の反転
ここに無時制・無様相・無人称・無態の第五の類型「伝導」が加わる。
■実在の運動─推論から文法へ
「哥とクオリア/ペルソナと哥」第80章第5・6節から。
《時枝の考えでは、「品詞」という西洋文法の発想は、固定された語に備わる「属性」、つまり意味内容に基づいている。ものを表わす「名詞」を修飾するのは「形容詞」、というようなものである。実際には、そのような品詞を日本語のなかに固定させることは、いたって難しい。「美しい」は形容詞で、「綺麗な」は形容動詞の連体形、「咲く花」の「咲く」は動詞の連体形ということになる。これは、理屈が複雑なのではない、分類法が私たちの生きる母語についての【感情】にまるでそぐわないのである。
江戸期国学者たちの分類では、無論そのようなことはなかった。「詞」、「辞」の別を始めとし、「体」と「用」との類別や、「係[かかり]」と「結[むすび]」との呼応は、母語の連続する働きそのものに即し、あたかも【言霊】から強いられた分類法であるかのように、それらの性質の差異が慎重な手ぶりで語られた。(略)
西洋流の「品詞」は、語を孤立させ、【繋がりの運動】を止めさせた時にのみ考えられる「属性」に依っている。「詞」、「辞」や「体」、「用」の分類は、【繋がりの運動】それ自体を支えている活きた性質の差異に依っている。前者は抽象された静止に基づくが、後者は【実在の運動】に基づく。ここにこそ、時枝が『日本文法』で述べようとした思想の核心がある。》(前田英樹「時枝文法が創造したもの」、時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』文庫解説、【 】は引用者による強調)
直立二足歩行が人類に与えた「第三の眼」によって「地平線」が発明され、これを俯瞰する「空間的パースペクティヴ」がもたらされる(三浦雅士 『スタジオジブリの想像力』)。あるいは「韻律・撰択・転換・喩」につづく第五の表現段階である「パラ・イメージ」がもたらされる(『吉本隆明〈未収録〉講演集5』)。
これに対して「認知的流動性」(スティーヴン・ミズン『心の先史時代』)が現生人類の心にもたらしたものは、「無と有」の反転、「裏と表」の縫合、「内と外」の往還、「一と多」の連結といったアイロニカルな「繋がり」もしくは「実在の運動」(伝導)であり、これら異質なものの絡まりを俯瞰する(メビウスの帯、クラインの壺、ボロメオの輪のごとき?)「時間的パースペクティヴ」であった。
これら空間、時間における二つの(マテリアルな次元での)パースペクティブの働きが合流し、そのプロセスがベルクソンの「凝縮」のメカニズムを通じて「かたち」づくられることによって、「語クオリア=言霊」がもたらされる。
空間・時間のパースペクティヴのはたらきが「辞」に、それが志向する対象が「詞」に通じる。「詞=語クオリア」ではない。「繋がりの運動」「実在の運動」すなわち「辞」のはたらきを介してクオリアが「詞」に憑く(もしくは受肉する)のである。
はじまりの言葉はクオリア憑きの詞すなわち「詩語」(折口信夫、吉本隆明)である。それは内側からのクオリア体験をなんどでもはじめてのこととして「反復」する。
クオリアすなわち言葉の生命が「言霊」である。そのような意味での言霊が何度でもはじめてのごとく反復する、そのはじまりの言語の記憶を「かたち」(フィギュール)として保存し伝達する、すなわち反復するのが“やまとことば”である。
[*]最後に取りあげておきたい書物がある。渡邉雅子著『論理的思考とは何か』。前著『「論理的思考」の文化的基盤──4つの思考表現スタイル』を“利用”できないまま「推論的世界」の草稿を書き終えた頃、岩波新書からそのエッセンス(私の関心領域)をコンパクトにまとめた本書が刊行された。以下、“忘備録”として。
いわく、論理的思考は世界共通で不変ではない。論理的思考は目的に応じて形を変えて存在する。たとえば西洋由来の四つの専門領域における「論理/手段(推論)/目的」は異なっている。
○論理学:形式の論理/演繹的推論/真理の証明
○レトリック:日常の論理/蓋然的推論/一般大衆の説得
○科学:法則探求の論理/アブダクション(遡及的推論)/物理的真理の探究
○哲学:本質探求の論理/弁証法/形而上学的真理の探究
また、何が論理的であるかは文化(価値判断)に基づく社会の領域選択──「経済」(アメリカ)か「政治」(フランス)か「法技術」(イラン)か「社会」(日本)か──によって異なる。
《では論理も論理的に思考する方法もひとつではないということから、何が学べるのだろうか。それは、私たちは状況に応じて論理的な思考の方法を「選ぶことができる」ということである。
たとえば、複雑な状況で判断を下すには、論理学の手続きが有効である。(略)
日常生活では論理的に考え人を説得するには、常には正しくはないが、たいていの場合正しいレトリックの推論(蓋然的推論)が役に立つ。レトリックは根拠を定式化して蓄積した「トポス」と呼ばれる常識の貯蔵庫を持っており、人を説得する時にはその貯蔵庫から自由に取りだして使うことができる。
さらにレトリックは人を説得するにも三つの方法があることを教えてくれる。データや経験的な事実を使って理性的に説得するのがよいのか(ロゴス)、それとも道徳心や共感など感情に訴えて説得するのがよいのか(パトス)、または謙虚さや思慮深さを示して自分が信頼に足る人間であることをアピールして倫理的に説得するのがよいのか(エトス)、状況に応じた説得のレパートリーを提示するのもレトリックである。
そして、いかなる情報をどのような順番と長さで構成すれば、それぞれの説得のタイプの理にかないつつ、効果的に伝えられるのかを教わるのもレトリックである。
科学の仮説検証の方法であるアブダクション(遡及的推論)は、常識では理解し難い原因の究明に役に立つ。(略)
哲学の対話法と弁証法は、私たちが正しいと考えている「前提」そのものを問い直し、吟味にかける方法であり思考法である。(略)
これらの専門領域固有の論理の違いをまず知ること、そして思考の「技術」として使いこなせるようになることは、多様な場面で何が効果的あるいは合理的な思考法なのかを特定し、実践することを可能にする。》(『論理的思考とは何か』164-166頁)
──本文で、レトリック(蓋然的推論)という“高度”な推論様式(引用文の最後に述べられた「多元的思考」は“最高”のレトリックだと思う)を取りあげることができなかった。この話題はいずれ「修辞学的世界」あたりで取り組んでみたい。