韻律的世界【17】
【17】川原繁人─音象徴、声色を使って意味を伝えること
リズムはマテリアルで共感覚的な生命世界に根差している。むしろリズムは生命力そのものであり、生命現象がそこから生まれ出る根柢である。
これが、前回の‘結論’でした。前々回の註で導入した‘語彙体系’に引き寄せて言い換えれば、リズムは物質界と生命界の境界線上に発する力であり現象である、となります。それはまた、言語が生まれ出る前の世界を律する力であり現象でもある、と言えるでしょう。
今回は、音声学者・川原繁人氏が、『談』(no.124/2022年7月1日)誌上のインタビュー「声に出すことば……言語と意味を超えて」で語った事柄にそくして、言語以前の世界のあり様を垣間見たいと思います。
その議論は、次の問いから始まります。「なぜ「形」という概念が「音」に結び付くのでしょうか。」(40頁)──これは、「音[おん]象徴」の一例として挙げられるヴォルフガング・ケーラーの実験において、丸っこい図形が「maluma(マルマ)」、角張った図形が「takete(タケテ)」と名付けられたように、「形」と「音」が相関する現象を踏まえたものです。
以下、川原氏の発言を適宜抜き書きします。その発言のどこがどうリズムにかかわってくるのか、この点については次回考察します。
<声色、音象徴の根源>
「これはまだ仮説なのですが、サルがヒトに進化する過程のどこかの段階で言語というツールが発明されたわけですが、ことばを使って意思疎通をするようになる前に、何かしらの「声色」を使って意味を伝えていたのではないか[例:外敵が空を飛んでいるか地を這っているかによって鳴き声が変わる、敵の大きさや形に関する情報を音色を使って表現する]。「音象徴」の根源というのは、その声色だったのではないか…。」(41頁)
<音響、音と形を結び付けるもの>
「「形」に結び付いているのは、「発声」ではなく「音響」だと思っています。(略)音を「音響」的に分析してみると、圧力変化という「形」になって表れるので、「音」は「形」[「音響的な形」]をもっていると言っていいでしょう。」(41-42頁)
「私の観点では、「音象徴」というのは、「われわれがどうやって発音するか」とか「音がどのような圧力変化をもっているか」といったところと関連していますから、それは生理現象であり、かつ、物理現象です。だとすれば、言語の違いにかかわらず成り立つ現象であるという予測は成り立ちます。」(42頁)
<音と意味のつながり>
「「音と意味につながりがあるのか」という問題は古代ギリシャの時代から議論されています[プラトン『クラチュロス』]。(略)「音象徴」の研究が忌避されたのは、近代言語学をつくったといわれるフェルディナン・ド・ソシュールの影響がやはり大きかったと思います。ソシュールが「音と意味のつながりは恣意的(arbitrary)である」と言ったわけです。(略)しかし、実際に観察される音象徴の例を考えると、「音と意味のつながりは恣意的であり得る」ということであって、「恣意的でなければならない」ということではないと受け止めるのが正しいと思います。」(43-44頁)
<多感覚知覚としての音象徴、感覚としての意味>
「「音象徴」を「音声学」の枠を超えて、認知科学の立場から捉え直すと、「意味」を感覚の一つとして考えると、まさに「感覚間のつながり=多感覚知覚」の一例と解釈することができます。…ここで「意味」を感覚の一つとして考えると、「音象徴」は「音(=聴覚)」と「意味」という「感覚間のつながり」」として解釈できます。…[ケーラーの]実験で見られた「音象徴」では、「音(=聴覚)」とつながっているのは「モノの外見(形)」でしたから、「音(聴覚)」と「視覚」がつながっているということが言えるかもしれません。」(45頁)
<オノマトペ、言語化され慣習化した音象徴>
「オノマトペというのは、もちろん「音象徴」的な側面もあるんですけど、それが言語化されて「慣習化」されたものがオノマトペなので、「音象徴」的な意味をはっきりもっている[日本語がわからない人にも通じる]ものもある一方で、「慣習化」されたオノマトペというのもあるんです。」(47頁)
「私が「音象徴」と言う時には、それは「発音」であり、「身体」感覚です。「調音」や「音響」的なものから湧き出るものを「音象徴」と呼ぶとして、そういう「音象徴」的な意味というのは、日本人がオノマトペで発しても日本語がわからない人にも通じるんです。(略)たとえば、喜びや動作にかかわるオノマトペは日本語を知らない英語母国語話者も意味を推測できるが、心地よさや美しさに関する表現は推測が難しい、という報告もあります。」(47頁)
<声色、論理的でない意味(感情)を伝えるもの>
「言語には「論理的な意味」と「それ以外の意味」があるんですよね。…われわれが実際にことばを発する時には、「論理的な意味」に加えて、話者が誰であるとか、どんな感情であるとかという──それをパラ言語情報というんですけど──ものが足されているわけですよね、そこを一般的に「声色」と言うのかな。」(47頁)
「先ほどの、生存のために必要な意味を伝えるための「声色」[外敵が空を飛んでいるか地を這っているかによって鳴き声が変わる]の例は、「論理的な意味」でしょう。言語が成立する前には、「声色」をそういうふうに使っていたと考えられます。けれども、われわれが現代において「声色」と言う時には、たぶん「論理的じゃない部分」の情報を伝えるためにそれを使っている[例:萌え声]。」(47頁)
<ラップ[*]、慣習を打ち破るもの(異化するもの)>
「…いま「慣習化」というキーワードが出てきましたが、その慣習を打ち破るのが[異化作用を及ぼすものが]ラップかなというふうに思っています。(略)日本語ラップは、母音を合わせて単語を組み合わせます。韻という「制約」があるおかげで、普段の会話では絶対に同じコンテキストに出てこないような「この単語」と「この単語」が出会うわけですね。」(49-50頁)
<言語活動は身体運動である>
「伝統的な言語学は、言語能力と身体運動を切り離して考えていたんですよね[例:ノーム・チョムスキー]。(略)
けれども、言語というのはやっぱり身体運動なんですよ。私がそれを強く感じた一つのきっかけは、声優さんのアフレコの現場に立ち会ったことでした。彼ら・彼女らは声を変えるだけじゃないんですよね。表情も変えているし、身体も動かして演技しているんですよ。声を出すことって身体運動なんだなと強く感じました。」(53頁)
「…「文字で音を考える」という呪縛がすごく強くて。(略)実際に発話する現場で何が起こっているかというのを考えれば、音を出すことは身体運動なのですから、それを書かれたものとしての音だけから考えると何か大事なものを見失うのではないか、というのはすごく強く思いますね。」(54頁)
[*]川原氏の次の文章を読んでいて、九鬼周造が「日本詩の押韻」の冒頭で同趣旨のことを書いていたのを想起した。
「ラップの言語学的な分析というものに火が付いたのは、「日本語はラップに向いていない」という主張を耳にした時です。英語は、単語が「母音+子音」で終われますし、母音の数も非常に多いので、小節の最後にくる音の組合せは星の数ほどある。だから、それを組み合わせるのは技巧的であり、スキルフルである。それに対して日本語は、母音でしか終われないし、その母音も五種類しかないのだから、小節末の母音が一つ合っていたとしても二〇パーセントの確率で一緒になるのだからそれは技巧でも何でもない。ネット上の論争でそういう主張があって、ちょっと反論したくなったんですね。」(50頁)