韻律的世界【20】
【20】メトリカル・ライン─身分け・気分け・言分け(その2)
前回、自己引用した文章中に規定した「気分け=リズム的・倍音的次元」に関連して、引用元の「哥とクオリア/ペルソナと哥」第52章では、「註」として、中井正一「リズムの構造」、坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』、佐々木健一『日本的感性──触覚とずらしの構造』、中村明一『倍音──音・ことば・身体の文化誌』、樋口桂子『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』、真木悠介『時間の比較社会学』といった文献に言及しています。
これらのうち、ここでは「リズムの構造」と『倍音』を取りあげた箇所を、再び自己引用し、次の議論につなげたいと思います。(中村氏の議論は、「気分け」のメトリカル・ライン②が、集団的かつ個別的な身体のラインであり、世界と異界が通底する(能)舞台のラインでもあることを示唆している。)
〇中井正一は「リズムの構造」で、自然的肉体的な反復現象(潮、波、風、呼吸、脈拍、歩行)を原始形態とするリズムをめぐって、三つの解釈のしかたを示している。第一、反復現象を数的構造に射影する「数学的解釈」。第二、反復現象を生命的構造に射影する「存在論的解釈」。第三、反復現象を歴史的構造に射影する「歴史的解釈」。
本文で「リズム的・倍音的次元」と名づけたのは、これらのうち「和歌、俳句のリズム」に通じるとされた第二の解釈にもとづく(東洋的な)リズムを念頭においてのことなのだが、残念ながら、私には中井正一のこの刺激的かつ蠱惑的な論稿を、たとえば次の引用文に出てくる「偶然性」や「邂逅」や「永遠(回帰)」という(九鬼周造の押韻論につながる)語や「パラエクジステンツ」という(オスカー・ベッカーひいては再び九鬼周造につながる)語の概念的倍音の豊穣さを、存分に咀嚼し嚥下することができない。
《かかる‘瞬間性’と‘個人性’と‘偶然性’は、その最もよき組みあわせを恋愛の姿においてもっている。愛のたわむれ、心中のもつ気紛れ、そこにブルジョワジーの美しい夢と華がある。リズムもそのコンビネーションの一つの姿としてあらわれる。存在論的リズムの解釈はその様式と共にかかる一点に凝集する。その美しさはその様式の美しさであり、その醜さはその様式の醜さである。リズムならびに韻律はかかる文化形態においては、かかる様式のもとに構造をもつ。そこでは自然と肉体現象の反復を‘邂逅のもつ美しさ’として理解する。宇宙的さまよいの、永遠の虚無の中に、二つのものが同一であることのもつ欣び、その‘偶然’のもつ輝かしさ、‘瞬間’のもつおごそかさ、他のものでなくそれが‘自分’であることの尊さ、そこに韻律とリズムのもつ美しさがあるのである。自分で自分を求めてさまようそのさまよいの中にようやくみずからにめぐりあうことのできた悦び。そこに、時の再びの邂逅としてのリズムの本質を見いだそうとする。かくて永劫回帰こそ、真のいっとう大きな韻律となる。かかる存在への戯れをこそ、仮象存在[パラエクジステンツ]としてのリズムの現象として私たちはもつといえよう。念々に発見されゆく発見的存在としてリズムはその意味をもつのである。》(岩波文庫『中井正一評論集』112頁)
〇中村明一著『倍音──音・ことば・身体の文化誌』(第5章「日本文化の構造」)によると、日本の言語、音楽、音響に境目はなく、化学における「共鳴構造」の関係を結んでいる。そして、それぞれの境界を越えて総合的にコミュニケートする力を持っている。能における地謡、能管、鼓がそうであるように。
《元々、倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。倍音が強くなると、脳はさまざまな反応をし、脳の状態が通常とは異なった段階に上ります。時間・空間の感覚は、倍音によって歪みます。能舞台は、その歪みが遥か彼方にまで至る、歪みの極みを演出していると言えます。この世界(目の前の舞台)と異界(能の中で語られる異界)との懸け橋を、地謡[じうたい]、能管、鼓などから繰り出される倍音が務めているわけです。能においては、倍音による歪みが極まり、ひとつの舞台の上に、まったく異なった次元の場面を呼び出すことができるのです。
居ながらにして、倍音によって異界にまで意識を飛翔させることを、日本人は感じ、味わってきたのです。》(『倍音』144頁)